大量虐殺

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大量虐殺(たいりょうぎゃくさつ)とは、人間を意図的に大量に虐殺すること。「虐殺」は国際法で規定されているが、一般報道ではきわめて曖昧に使われている。

大量虐殺とされる例[編集]

米比戦争時のニューヨークジャーナルの風刺画。フィリピン人を銃殺しようとするアメリカ兵の背後には「10歳以上の者は皆殺し」と書かれている。

一般的に、1つの人種民族国家宗教などの構成員に対する計画的大量虐殺等の行為は、ジェノサイドと言い、その一部はジェノサイド条約において集団殺害罪(国際法違反)として規定されている。

1936年8月-9月、スペイン内戦初期、フランシスコ・フランコ率いる反乱軍(ナショナリスト軍)のファシストによる共和主義者の虐殺。この24人の集団墓地は、スペイン北部エステパルという小さな町にある。2014年7月-8月に発掘。

古来、戦争・征服においては大量虐殺は付き物である。ここでは歴史上注目されているものを列挙する。なお、ジェノサイドの項目と一部重複するが、同項目の分類方法とは別に、いわゆる「大量虐殺」と呼ばれている事件の中でも歴史的な大量虐殺と見られるものを列挙する。

斜体は犠牲者100万人以上、太字は犠牲者1000万人以上のもの。史料の解釈や実在性・数字の正確性の疑われるものも含まれる。

脚注[編集]

  1. ^ ...その際の混乱にあたり燕京におった胡人が大虐殺に遭った..., 前嶋信次『東西文化交流の諸相』, 東西文化交流の諸相刊行会, 1971年, 110頁
  2. ^ ...盧竜にソグド系武人の史料がほとんど残っていないのは,安史の乱末期に安史軍を構成していたソグド人が大量に虐殺されたことと関係しているという指摘がある...(栄新江「安史之乱後粟特胡人的動向」『曁南史学』 2 2003,115頁) 森部豊「ソグド系突厥の東遷と河朔三鎮の動静 -特に魏博を中心として-」『関西大学 東西学術研究所紀要』第41輯, 平成20年(2008年)4月, 145頁
  3. ^ ソ連のロシア人と、チェコスロヴァキアの民族主義者によるズデーテン地方にいたドイツ民間人の大虐殺(アルフレッド・デ・ザヤス (en:Alfred-Maurice de Zayas著 "A Terrible Revenge")。また、ナチス・ドイツの強制収容所が、ドイツ民間人を収容するために一時的に転用もされた。
  4. ^ 宮崎正弘『出身地でわかる中国人』PHP研究所、2006年、185頁。ISBN 4569646204 
  5. ^ “Ghosts Of Cheju A Korean Island's Bloody Rebellion Sheds New Light On The Origin Of The War” (英語). ニューズウィーク. (2000年6月19日). http://www.newsweek.com/2000/06/18/ghosts-of-cheju.html 2011年2月18日閲覧。 

関連項目[編集]