大隅国

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大隅国

-大隅国
-西海道
別称 隅州(ぐうしゅう)
所属 西海道
相当領域 鹿児島県東部・奄美群島
諸元
国力 中国
距離 遠国
8郡37郷
国内主要施設
大隅国府 鹿児島県霧島市
大隅国分寺 鹿児島県霧島市(大隅国分寺跡
大隅国分尼寺 (未詳)
一宮 鹿児島神宮(鹿児島県霧島市)
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大隅国(おおすみのくに、旧字体大隅國)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、現在の鹿児島県の東部に属する。

概要[編集]

令制国が成立する以前は襲国(そのくに)とも呼ばれた熊襲(球磨囎唹と訓が当てられ、そのまま囎唹郡と繋がる)の本拠地であり、後にも薩摩と並んで隼人の抵抗が最後まで根強く続いた地で、日向からの分立及び隼人の根拠地であった囎唹郡の分割は、隼人勢力の弱体化を意図して行われた[1]。薩摩国衙のある高城郡に肥前から移民が行われたのと同様に、大隅国衙の置かれた桑原郡には豊前から移民が行われるなど対隼人政策が取られている。

当時はそのような隼人首長の大隅直(あたい)、曾君(そのきみ)、加士伎県主(かしきあがたぬし)、肝衝(きもつき)といった豪族が割拠した[2][3]

養老4年(720年)に隼人は大隅守陽侯史麻呂を殺害し律令国家の支配に対して反乱を起こした。大和朝廷は大伴旅人を征隼人持節大将軍に任命し、この抵抗を鎮圧する。この反乱を受けて囎唹郡はさらに分割され隼人の管理は徹底された。その結果、奈良時代中期から後期には大隅の支配は安定し、延暦19年(800年)には他地域同様に班田制も導入され、律令制による支配が定着した。

しかし、隼人の同化が進んだ一方で平安中期には南島人が侵入してきたり、一方で寛弘4年(1007年)大隅守菅野重忠が太宰府府官大蔵満高に射殺され、長元2年(1029年)にはこれも太宰府大監で島津荘の開墾者であった平季基が大隅国衙を焼討し、国衙支配が壊滅的打撃を受けるなど管轄内の諸国に対する介入の度合いを強める太宰府との激しい対立があり、その背景には南島との交易利権の管掌が絡んでいた[4][注 1]

こうした情勢の中で、それまで国の中心となる神社であった鹿児島神宮八幡神を勧請して、九州五所別宮となる正八幡宮が成立している[1][5]

平季基は賄賂を駆使し、また藤原頼通に島津荘を寄進することで身の安泰を図り特段処罰を受けることもなく現地に住み着いたので、さらなる領域拡張を続け国衙領を削り取る島津荘とそれに対抗して正八幡宮の権威を活用する大隅国衙との対立関係は続き、国土は実質的に島津荘と正八幡宮領に二分されていった。

領域[編集]

明治維新直前の領域は、現在の鹿児島県の下記の区域に相当する。※の区域はいずれも1897年薩摩国へ移管された。

下記の区域は明治時代に日向国琉球国より大隅国へ編入された。

下記の区域は1897年に薩摩国より大隅国へ編入されたが、1973年に薩摩国へ移管された。

沿革[編集]

古事記』の国産み神話においては、筑紫島(九州)の4面に筑紫国豊国肥国熊曽国が見える[6]

古代の南九州は『古事記』『日本書紀』の「日向神話」と呼ばれる神話の舞台となった[7]。この中で、アマテラスの孫のニニギが高千穂に降臨し(天孫降臨)、子のホオリが兄・ホデリを懲らしめた旨とともに兄の子孫の隼人が今も天皇に仕える由来だと述べ(山幸彦と海幸彦)、ホオリの子・ウガヤフキアエズは初代天皇・カムヤマトイワレビコ(神武天皇)の父である旨を記している。のち、神武天皇は日向から東征に赴くこととなる(神武東征)。

現在、これらの日向神話は歴史的事実そのままとは考えられておらず、その由来には諸説がある。特に『古事記』『日本書紀』が成立するまで、すなわち7世紀後半から8世紀前半の南九州における対隼人の政治情勢との密接な関係が指摘される[7]。隼人が名を表すのは天武天皇の時代からで、7世紀末から8世紀前期に4回の反乱を起こしている[7]。そして天皇家による南九州における統治を正当化し、隼人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明するものと考えられている[8]

7世紀中期以降に律令制の成立に伴って、現在の鹿児島県の本土部分と宮崎県を含む広域に、日向国が成立した[9]

大宝2年(702年)8月1日に起こった薩摩・多褹の叛乱を契機に[10]、同年、日向国を割いて唱更国多褹国が分立した。

その流れの中で和銅6年(713年)4月3日、日向国肝杯郡囎唹郡大隅郡姶羅郡の四郡、現在の鹿児島県本土の東部が大隅国として分立したのが、大隅国の始まりとされる。

数年の内に、囎唹郡を割いて桑原郡(姶良郡湧水町周辺)が、天平勝宝7歳(755年)にさらに囎唹郡を割いて菱苅郡(現在の伊佐市周辺)が設けられ、六郡となる。

天長元年(824年)10月1日に、現在の屋久島種子島にあたる多禰国をあわせた。この際、四郡あった多禰国の郡は二郡に統合され、結果大隅国は八郡となる。

平安時代には荘園の進展で姶羅郡(現在の鹿屋市周辺。現在の姶良郡は別)がその実を失い、肝属郡に編入されたとみられる。

明治12年(1879年)、奄美群島大島郡)を編入した[11]。明治30年(1897年)には、現在の三島村十島村地域が薩摩国川辺郡から大島郡に編入された[12]。ただし、現在の三島村・十島村地域は昭和48年(1973年)に鹿児島郡へ転属しており、旧国名が廃れて久しいものの、薩摩国へ戻っている。

近世以降の沿革[編集]

国内の施設[編集]

国府[編集]

大隅国府跡碑
鹿児島県霧島市の推定地)

国府は『色葉字類抄』によると、桑原郡。『拾芥抄』および易林本の『節用集』では、贈於郡とある。

現在の霧島市国分府中にあったと推測されているが、遺跡はまだ見つかっていない。

国分寺・国分尼寺[編集]

大隅国分寺跡
(鹿児島県霧島市)
大隅国分寺跡
鹿児島県霧島市国分中央。

神社[編集]

延喜式内社
延喜式神名帳』には、以下に示す大社1座1社・小社4座4社の計5座5社が記載されている(「大隅国の式内社一覧」参照)。大社1社は名神大社ではない。
総社一宮以下

安国寺利生塔[編集]

  • 安国寺 - 鹿児島県姶良市加治木町反土。

地域[編集]

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江戸時代の藩[編集]

人物[編集]

国司[編集]

守護[編集]

鎌倉幕府[編集]

室町幕府[編集]

戦国大名[編集]

武家官位としての大隅守[編集]

江戸期以前[編集]

江戸時代[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 大蔵氏は加治木郷を開発して勢力を扶植しており、重忠の殺害も満高の父種材の指示によるものであった。重忠殺害事件は藤原道長の裁定で犯人不明とされ、満高は大宰大弐藤原高遠の庇護により事件後特に処分されることもなかったが、二十四年後に皇族僭称と重忠殺害の科でようやく罰された。(日隈正守 2017)

出典[編集]

  1. ^ a b c 日隈正守「大隅国における建久図田帳体制の成立過程」『鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編』第60巻、鹿児島大学、2008年、75-97頁、CRID 1050845763811292928hdl:10232/8781ISSN 0389-6684 
    日隈正守「大隅国における建久図田帳体制の成立過程 -禰寝院の事例を中心に-」『鹿児島大学稲盛アカデミー研究紀要』第1巻、鹿児島大学、2009年12月、51-64頁、CRID 1050001202537561856hdl:10232/8679ISSN 1884-6009 
  2. ^ 鹿児島県「第二編 國造時代 第四章 國造縣主の設置と諸豪族」『鹿児島縣史 第1巻』鹿児島縣、1967年、65頁。doi:10.11501/3039676NDLJP:3039676。"国立国会図書館デジタルコレクション"。 
  3. ^ 竹森友子「南島と隼人 : 文武4年覓国使剽劫事件の歴史的背景」『人間文化研究科年報』第22巻、奈良女子大学大学院人間文化研究科、2007年3月、69-84頁、CRID 1050001338390950272hdl:10935/863ISSN 0913-2201 
  4. ^ 日隈正守「島津荘に関する一考察 : 成立期を中心に」『鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編』第66巻、鹿児島大学、2015年3月11日、1-13頁、hdl:10232/23160ISSN 0389-6684NAID 120005600960 
  5. ^ 鹿児島県歴史資料センター 黎明館 『黎明だより』 『黎明 vol.34 No.2』 2016年8月1日
  6. ^ 『古事記』神代記。
  7. ^ a b c 『日本歴史地名大系』46 宮崎県, p. 27
  8. ^ 『日本歴史地名大系』46 宮崎県, p. 28.
  9. ^ 『続日本紀』巻第2、大宝2年8月丙申(1日)条、10月丁酉(3日)条。新日本古典文学大系『続日本紀』一の58-61頁。
  10. ^ 『続日本紀』巻二 大寶二年八月丙申条。「薩摩多褹。隔化逆命。於是發兵征討。遂校戸置吏焉」。
  11. ^ 明治12年4月8日太政大臣三条実美通達
  12. ^ 鹿兒島縣下國界竝郡界變更及郡廢置法律

参考文献[編集]

関連文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]