岡部憲章

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岡部 憲章
ZENKO BEAMS 総監督
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都武蔵村山市
生年月日 (1958-04-11) 1958年4月11日(66歳)
身長
体重
183 cm
84 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1976年 ドラフト外
初出場 1978年4月2日
最終出場 1989年10月15日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

岡部 憲章(おかべ のりあき、1958年4月11日 - )は、東京都武蔵村山市出身の元プロ野球選手投手)。

来歴・人物[編集]

東海大相模高在学中は控え投手として甲子園に3度出場するが、後に同校や東海大甲府高の監督として名を馳せる左腕エース村中秀人の陰に隠れ、2年次の1975年春の選抜の準決勝で、堀越高を相手に9回裏1イニングを投げたのみに終わる。

卒業後の進路は「野球で悩んで、勉強で悩むのはイヤ。野球に集中したい」と[1]1976年オフにドラフト外日本ハムファイターズへ入団[2]

1978年まではイースタン・リーグでこそ好投したが[1]、一軍では4月2日ロッテ戦(川崎)で初登板を果たすも通用しなかった。宮田征典二軍投手コーチには「お前は走ってなんぼ」と言われて、陸上部のように毎日、走っていた[1]。岡部はグラウンドに行くのが嫌になり、吐きそうになるほど走らされた[3]。走り込みによる下半身強化に加え、炊く前の米粒茶碗半分ほどテーブルの上に用意し、先で一粒一粒つまんで茶碗に入れるトレーニングも課題として与えた[3]。宮田は「指先の感覚が良くないから」という理由でトレーニングを命じたが、岡部は走り込みを重ねて疲れ切った練習後、寝る前に寮の自室などで、地道に米粒をつまむ作業を繰り返した[4]。この作業は元々、麻痺を抱えた人たちのリハビリとして行われていたものであった[4]。岡部は1年間の「米粒トレ」と下半身強化で捕手が構えたところに投げられるようになり、確かな効果を生んだ[4]

1979年にはスライダーシュートを習得したことで投球の幅も広がり、ゆっくりではあったが、着実に実力をつけていく[1]

1980年5月24日近鉄戦(後楽園)で初勝利を挙げると、1981年には大宮龍男の好リードも光り、先発投手の一人として13勝を記録。開幕前に掲げた目標はシーズン5勝であり、シーズン当初はセットアッパーとしてスタートしたが、5月18日阪急戦(後楽園)で先発の宇田東植が一死も取れないまま打球を受けて降板すると、緊急登板[1]。そこから5イニングを抑えてシーズン初勝利を挙げるとじわじわと頭角を現していき、快進撃が始まったのは後期に入ってからであった[1]7月14日南海戦(後楽園)では、5試合連続本塁打と絶好調の門田博光を2三振、1併殺に抑え込んで5勝目、同19日西武戦(平和台)ではプロ初完封で連勝[1]9月3日近鉄戦(後楽園)ではキャリア唯一の2桁勝利となるシーズン10勝に到達し、試合後には「信じられない。うれしいです」と涙を見せた[1]。この試合を締め括ったのがクローザーの江夏豊で、江夏には打者との駆け引き、間の取り方を教わった[1]。日本ハムが後期優勝を決めた後の同26日の近鉄戦(藤井寺)で救援登板すると、江夏から「消化試合やから相手は打ち気にはやっとる。ストライクはいらん。全部ボールでええ」とアドバイスを受けて三者凡退に抑え、シーズン規定投球回に到達した[1]。防御率2.70と最優秀防御率を獲得し、19年ぶりのリーグ優勝に貢献[2]。同年の巨人との日本シリーズでも2試合に登板し、第3戦では先発に起用され、原とは2打席の対戦で、捕邪飛、空振り三振と完璧に打ち取っている[1]

1982年からは故障もあって登板機会を減らし[1]、成績が低迷。

1987年オフに藤原仁とのトレードで阪神タイガースに移籍[2]し、1988年は5年振りの完投を記録するなど先発・中継ぎで活躍。1989年5月31日ヤクルト対阪神(神宮)で本塁ベースカバーの際にラリー・パリッシュのスライディングで足首を負傷して離脱し、同年に引退[2][5]

引退後は原の勧めもあり、1990年打撃投手として巨人に入団。巨人入団当時、高校の同期であった原はまだ現役で、同じく津末英明も前年に日本ハムから巨人に移籍していたため、それぞれの役割は違えど、プロで初めて同じチームに揃った。巨人時代は落合博満に信頼されてミニキャンプで連日500球投げ込むなど、48歳まで打撃投手としてチームを支えた[1]2006年退団。

退団後は東京都中野区に飲食店「You’s・cafebar」を開店したが、現在は閉店している[6]

2007年からはクラブチーム「浦和ディアーズ」のコーチへ就任し、2009年からは監督を務めた。

2015年には日本ウェルネススポーツ大学コーチ[7]2017年7月からは女子硬式野球チーム「ZENKO BEAMS」ヘッドコーチに就任し[8]2019年からは監督を務める[9]2021年12月からは新体制として同チーム監督に中島梨紗を迎え、自身は総監督に就任[10]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1978 日本ハム 11 2 0 0 0 0 1 0 -- .000 82 17.1 23 4 9 0 1 15 0 0 16 15 7.94 1.85
1979 4 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 37 7.0 11 1 6 0 0 6 0 0 4 4 5.14 2.43
1980 25 5 1 0 0 2 4 0 -- .333 268 61.2 66 15 17 0 2 46 0 0 40 38 5.52 1.35
1981 27 13 5 1 2 13 2 0 -- .867 524 130.0 103 8 46 0 2 88 4 0 42 39 2.70 1.15
1982 25 18 1 0 0 4 5 0 -- .444 474 102.2 115 12 55 4 0 60 5 0 59 51 4.46 1.66
1983 24 18 2 1 0 5 6 0 -- .455 510 117.2 121 14 54 2 3 61 2 0 53 49 3.75 1.49
1984 22 8 0 0 0 1 4 0 -- .200 288 63.1 68 9 30 1 0 28 0 0 45 43 6.11 1.55
1985 25 3 0 0 0 0 3 0 -- .000 247 57.1 53 10 27 2 0 37 3 1 33 31 4.87 1.40
1986 34 0 0 0 0 2 0 1 -- 1.000 211 52.0 49 5 13 0 2 32 1 0 18 17 2.94 1.19
1987 26 0 0 0 0 2 1 0 -- .667 137 31.0 36 4 6 0 3 24 1 0 19 16 4.65 1.35
1988 阪神 44 3 1 0 0 3 2 0 -- .600 280 68.1 67 7 17 1 2 52 1 0 31 31 4.08 1.23
1989 6 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 25 5.1 7 0 1 0 1 4 0 0 6 3 5.06 1.50
通算:12年 273 70 10 2 2 32 29 1 -- .525 3083 713.2 719 89 281 10 16 453 17 1 366 337 4.25 1.40
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

記録[編集]

背番号[編集]

  • 34 (1977年 - 1987年)
  • 13 (1988年 - 1989年)
  • 114 (1990年 - 2006年)

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]