成務天皇

ウィキペディアから無料の百科事典

成務天皇
『御歴代百廿一天皇御尊影』より「成務天皇」

在位期間
成務天皇元年1月5日 - 同60年6月11日
時代 伝承の時代古墳時代
先代 景行天皇
次代 仲哀天皇

誕生 景行天皇14年
崩御 成務天皇60年 107歳
陵所 狭城盾列池後陵
漢風諡号 成務天皇
和風諡号 稚足彦天皇
別称 稚足彦尊
若帯日子天皇
父親 景行天皇
母親 八坂入媛命崇神天皇皇孫)
子女 和謌奴気王
皇居 志賀高穴穂宮
テンプレートを表示

成務天皇(せいむてんのう、景行天皇14年 - 成務天皇60年6月11日)は、日本の第13代天皇(在位:成務天皇元年1月5日 - 同60年6月11日)。『日本書紀』での名は稚足彦天皇。日本で初めて行政区画を定めたとされている。考古学上、実在したとすれば4世紀中ごろに在位した大王と推定されるが、定かではない[1]#実在性)。

略歴[編集]

大足彦天皇(景行天皇)の第四皇子、母は美濃出身の八坂入媛命(やさかいりひめのみこと。崇神天皇の皇孫)[1]。景行天皇46年に24歳で立太子[注 1]。父帝が崩御した翌年に即位。即位5年、諸国に国造稲城を置き山河で国境を定めた。即位60年、崩御。

[編集]

  • 稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと) - 『日本書紀』、和風諡号
  • 稚足彦尊(わかたらしひこのみこと) - 『日本書紀』
  • 若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらみこと) - 『古事記

漢風諡号である「成務天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。

事績[編集]

日本書紀』によれば景行天皇51年8月4日に立太子、成務天皇元年正月に即位。

即位3年、武内宿禰大臣とした[1]

即位5年9月、諸国に令して、行政区画として国郡(くにこおり)・県邑(あがた むら)を定め、それぞれに造長(くにのみやつこ)・稲置(いなぎ)等を任命して、山河を隔にして国県を分かち、阡陌(南北東西の道)に随って邑里(むら)を定め、地方行政機構の整備を図った[1]。ここにおいて人民は安住し、天下太平であったという。

これらは『古事記』にも大同小異で、「建内宿禰を大臣として、大国・小国の国造を定めたまひ、また国々の堺、また大県小県の県主を定めたまひき」とある。序文には御間城天皇(崇神天皇)の祭祀、大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の善政、雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇)の氏姓改革に並ぶ偉業として扱われている。『先代旧事本紀』の「国造本紀」に載せる国造の半数がその設置時期を成務朝と伝えていることも注目される。

即位48年、3月1日に兄・日本武尊の第二子である甥の足仲彦尊(後の仲哀天皇)を皇太子に立てた。

即位60年6月、崩御。

系譜[編集]

系図[編集]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
10 崇神天皇
 
彦坐王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊城入彦命
 
11 垂仁天皇
 
丹波道主命
 
山代之大筒木真若王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
上毛野氏
下毛野氏
 
12 景行天皇
 
倭姫命
 
迦邇米雷王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本武尊
 
13 成務天皇
 
息長宿禰王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
14 仲哀天皇
 
 
 
 
 
神功皇后
(仲哀天皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
15 応神天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16 仁徳天皇
 
菟道稚郎子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
稚野毛二派皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17 履中天皇
 
18 反正天皇
 
19 允恭天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
意富富杼王
 
忍坂大中姫
(允恭天皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
市辺押磐皇子
 
木梨軽皇子
 
20 安康天皇
 
21 雄略天皇
 
 
 
 
 
乎非王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
飯豊青皇女
 
24 仁賢天皇
 
23 顕宗天皇
 
22 清寧天皇
 
春日大娘皇女
(仁賢天皇后)
 
彦主人王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
手白香皇女
(継体天皇后)
 
25 武烈天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26 継体天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


后妃・皇子女[編集]

日本書紀』に后妃・皇子女の記載は無い。

年譜[編集]

『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである[2]。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

  • 景行天皇14年
    • 誕生
  • 景行天皇51年
    • 8月4日、皇太子に立てられる
  • 景行天皇58年
    • 2月、景行天皇が近江国に行幸。志賀高穴穂宮に滞在すること3年
  • 景行天皇60年
    • 11月、景行天皇崩御
  • 成務天皇元年
    • 1月、志賀高穴穂宮で即位
  • 成務天皇3年
  • 成務天皇4年
    • 2月、国郡に首長を任ずる詔を出す
  • 成務天皇5年
    • 9月、前年の詔を実施。国郡・県邑それぞれに国造稲置を置き、山河をもって国境とする
  • 成務天皇48年
  • 成務天皇60年
    • 6月、崩御、宝算は107歳(『古事記』では95歳で乙卯年3月15日に崩じたとされる)
  • 成務天皇60年の翌年(空位年)
    • 9月、狭城盾列池後陵に斂葬

[編集]

高穴穂宮趾碑
滋賀県大津市

都は志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや、現在の滋賀県大津市穴太)。『日本書紀』には都の記載は無いが、先代の景行天皇の行宮がそのまま宮となったと推定される。『古事記』に「若帯日子天皇、近つ淡海の志賀の高穴穂宮に坐しまして、天の下治らしめしき」とある。「若帯部」が美濃国にあったことが、大宝2年(702年)の戸籍にみえる。[3]。成務天皇を架空と見る立場からは、天智天皇近江宮のモデルを過去に投影した創作とする。

陵・霊廟[編集]

(みささぎ)の名は狭城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)。宮内庁により奈良県奈良市山陵町にある遺跡名「佐紀石塚山古墳」に治定されている(北緯34度42分0.74秒 東経135度47分14.89秒 / 北緯34.7002056度 東経135.7874694度 / 34.7002056; 135.7874694 (狭城盾列池後陵(成務天皇陵))[4][5][6]。墳丘長218メートルの前方後円墳である。宮内庁上の形式は前方後円

日本書紀』には「狭城盾列陵」、『古事記』には「沙紀之多他那美(たたなみ)」、『扶桑略記』には「池後山陵」、『百練抄』には「盾列山陵」とある。『延喜式諸陵寮には「兆域東西一町、南北三町、守戸五烟」と見える。成務天皇の古墳は畿内ではないという有力学説も過去にはあった。成務天皇の宮が畿内に無いためであり、非実在説も宮が畿内に無いことを根拠のひとつとしている。

『扶桑略記』によれば、康平6年(1063年)3月興福寺の僧静範らが山陵を発掘して宝器を領得し、5月山陵使が遣わされて宝器は返納され、事件に座した17人は伊豆国その他に配流された。他にも勾玉などが盗掘される被害を受けている。

平安初期の承和のころには、すでに神功皇后陵とされていた。これは陵号のうち後の文字をシリと読むことを忌み、カミといって、神功皇后陵陵号とまぎれたものかという(和田英松)。のちに陵の所在を失ったが、元禄以後、多くの説が成務陵に現在の地を推し、幕末の修陵のときおおいに修治が加えられ、竣工に際しては慶応元年、広橋右衛門督が遣わされ、奉幣が行なわれた。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

伝承[編集]

※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』に拠る[2]

立太子[編集]

先帝の大足彦天皇(景行天皇)が1月7日に宴会を開いたとき、稚足彦尊(後の成務天皇)と武内宿禰の姿が見当たらなかった。後日、なぜ宴会に来なかったかを聞かれた稚足彦尊らは「皆が国のことを忘れて楽しむときだからこそ、反逆の機会を伺う輩に備えて門を守っていたのだ」と答えた。大いに納得した先帝は稚足彦尊を太子とした。

考証[編集]

実在性[編集]

実在説、非実在説が分かれる天皇であり、通説では実在性の低い天皇の一人に挙げられる[7]。また、考古学的に見ても実在した証拠はない[8]

非実在説の概要[編集]

  • 成務天皇の在位60年の内即位6年から60年までの事績は、崩御を除けば仲哀天皇を皇太子に任命したことと、地方行政区画を国造県主の2段階に整理したことの僅か2項目のみしかなく、事績が少なすぎる。
  • 甥の仲哀天皇の立太子は、仲哀天皇ならびにその父の日本武尊と、その妻の神功皇后を史実及び実在人物として伝えるために記されたものであり、景行天皇から応神天皇以降の皇室系譜を位置づけるため、後次的に歴史に加えられた存在である可能性が強い[7][9]
  • 成務天皇の在位についても、実在性には疑いが持たれている。『日本書紀』に在位60年と伝わるが、成務天皇の事績は即位6年から先は48年に31歳の仲哀天皇を皇太子に任命した記事しか無いが、これだと日本武尊の死が成務天皇即位より20年前にあたるため、日本武尊の子である仲哀天皇が日本武尊の死後36年後に産まれたことになり、明らかに矛盾している。
  • 成務の名前は「ワカタラシヒコ」であるが「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇が持ち、ずっと下がって7世紀前半に在位したことの確実な34代舒明・35代皇極(37代斉明)の両天皇も同じ称号を持つことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであって、12代景行・13代成務・14代仲哀も後世に造作された人物である[10]
  • 行政事績が、行政区画を定め国造を組織した記事しかないが、成務天皇が実在したとすれば4世紀頃であるが、その当時に国造の制度は、まだ存在してなかった可能性が非常に高い。[11]
  • 成務天皇が即位したとされる志賀高穴穂宮は、考古学的な遺構は全く発見されてなく、成務自身の実在性にも疑問が持たれる。[注 2][注 3]

実在説の概要[編集]

  • 倭国造葛城国造忌部氏大伴氏中臣氏物部氏三輪氏三上氏土師氏阿蘇氏金刺氏武蔵国造など諸豪族の系図には、成務朝に活動した人物や国造に任命された者の名が見えており、これら諸氏の系譜や世代関係を無視して成務天皇の非実在を唱えるのは困難である[12]
  • 「タラシヒコ」という7世紀の天皇と同じ称号を持っていただけでは、成務天皇らの非実在の根拠には何らなりえず、また「若帯部」などの存在が確認されており、「タラシ」が古い歴史を持っていたことを考慮すると、これら諸天皇の称号が必ずしも後世の造作とはいえない[13]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 成務天皇即位前紀より。景行紀では景行天皇51年。
  2. ^ 高穴穂宮という都がございます。ただし、この都は実在したのかどうかを含めまして、さらにいえば、景行天皇という天皇が実在したのか?どうかも含めまして色々議論があるところです。また、遺跡というかたちでの確認はまったくされておりません 「近江・大津になぜ都は営まれたのか?」 大津市歴史博物館 P53
  3. ^ 志賀の高穴穂宮、これは詳細がまったくわかりません。「古事記」及び「日本書紀」に出てくるだけでございまして、「古事記」には成務天皇、「日本書紀」には景行天皇の宮都として出て参りますが、成務、景行という天皇自身の実在性を含めまして、高穴穂宮が実在したのか?どうかはわかりません。「近江・大津になぜ都は営まれたのか?」 大津市歴史博物館 P59

出典[編集]

  1. ^ a b c d 直木(1979)p.125
  2. ^ a b 『日本書紀(二)』岩波書店 ISBN 9784003000427
  3. ^ 直木(1979)p.125
  4. ^ 天皇陵(宮内庁)。
  5. ^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)9コマ。
  6. ^ 『陵墓地形図集成 縮小版』 宮内庁書陵部陵墓課編、学生社、2014年、p. 402。
  7. ^ a b 『日本の歴史1』中公文庫 1986年 325ページから348ページ
  8. ^ 『近江・大津になぜ都は営まれたのか?』大津市歴史博物館 P53およびP59
  9. ^ 『国史大辞典8』吉川弘文堂 2003年 260ページ
  10. ^ 日本の歴史〈1〉神話から歴史へ (中公文庫) 文庫 p302
  11. ^ 古事記日本書紀を知る事典 武光 誠 東京堂出版(1999/10/1)
  12. ^ 宝賀寿男「第一章 戦後の神武天皇」『「神武東征」の原像』青垣出版、2006年。
  13. ^ 宝賀寿男「第一章 戦後の神武天皇」『「神武東征」の原像』青垣出版、2006年。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]