楚 (十国)

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唐 907年 - 951年 南唐
楚の位置
917年の楚(水色)
公用語 漢語(中国語
首都 長沙
907年 - 930年 武穆王
930年 - 932年衡陽王
932年 - 947年文昭王
947年 - 950年廃王
950年 - 951年恭孝王
951年 - 951年廃王
変遷
後梁より封ぜられる 907年
南唐によって滅亡951年
後唐代の楚(青紫
後晋後漢代の楚(青紫)

(そ、907年 - 951年)は、中国五代十国時代湖南省広西チワン族自治区を支配した国。の交易で栄えた。

歴史[編集]

建国者の馬殷(ばいん)は木工から身を起こして、河南の群雄の秦宗権(しんそうけん)の武将の孫儒(そんじゅ)に従って淮河の周辺を転戦し、孫儒の死後に長沙(潭州、現在の湖南省長沙市)に入って湖南一帯に勢力を獲得し、896年に湖南節度使となる。その後、広西方面にも勢力を伸ばし、907年朱全忠により、後梁が建てられるとこれに入朝し、楚王に封ぜられた。その後、後梁が後唐に滅ぼされるとこれにも入朝し、歴代の王は全て中原の五代王朝に称臣した。

これは軍事的には東のに対抗するためであり、経済的には特産品の茶の交易路を閉ざさないためでもあった。当時、茶は全国で需要があり、北方の契丹なども貴重なビタミン源として茶を求めていた。また茶以外にも木綿などの産業を興し、湖南・広西の経済を大きく育てた。

930年に馬殷が死去すると、彼の20人に上る息子の間で継承争いが起きる。まず次男の馬希声(ばきせい)が即位するが、元から暗愚と言われており、その評判どおりに内政を省みず、奢侈にふけり、他国の策に乗って家臣を殺すなどの悪政が目立った。

932年に馬希声が死ぬと、馬殷の四男の馬希範(ばきはん)が後を継いだ。馬希範は馬殷に倣って後唐に対して入朝し、楚王に封ぜられる。しかしその奢侈は兄を上回り、宴会を好んで、財政を悪化させた。

947年に馬希範が死ぬと、馬殷の三十五男の馬希広(ばきこう)が後を継ぐ。しかしこれに不満を持った異母兄の馬希萼(ばきがく)は自立して自ら王を名乗り、南唐の支援を受けて、潭州の馬希広を攻撃してきた。950年に馬希萼の軍は潭州を陥落させて、馬希広を殺し、馬希萼が楚王となる。しかし馬希萼も弟の馬希崇(ばきすう)に背かれて幽閉され、馬希崇が権力を握る。馬希崇は領内の慰撫に失敗し、一連の混乱を好機と見た南唐は楚に侵攻し、951年に潭州を落とされて楚は滅びた。馬希萼は南唐の首都の江寧に移されてそこで死去した。馬希崇は南唐に仕えて節度使となり、南唐が後周の攻撃を受けると、後周に保護され、後周に将軍位を授けられた。

その後、馬希萼の武将であった周行逢(しゅうこうほう)が南唐の支配を退けて、956年に再び湖南を制圧するが、962年に子の周保権が後を継いでまもなく部下が反乱を起こし、翌年に北のに併合された。

経済[編集]

前述のように楚は茶を中心とした交易で栄えた商業国家であった。茶の売買は国家によって奨励され、絹織物の生産を奨励するために納税を絹で納めさせたりしていた。また独自に国内でのみ通用する製の貨幣である鉛銭を作り、国外への貨幣持ち出しを禁止して、資産の集中を図った。

楚の統治者[編集]

  1. 武穆王 馬殷(字は覇図、852年 - 930年、在位907年 - 930年)
  2. 衡陽王 馬希声(字は若訥、899年 - 932年、在位930年 - 932年)
  3. 文昭王 馬希範(字は宝規、899年 - 947年、在位932年 - 947年)
  4. 廃王 馬希広(字は徳丕、生年不詳 - 950年、在位947年 - 950年)
  5. 恭孝王 馬希萼(生没年不詳、在位950年 - 951年
  6. 廃王 馬希崇(生没年不詳、在位951年)

脚注[編集]