橋蕤

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橋蕤
後漢仲王朝
大将軍
死去 197年建安2年)
拼音 Qiáo Ruí
主君 袁術
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橋 蕤(きょう ずい、? - 197年)は、中国後漢時代末期の軍人。『三国志書では、「喬蕤」と表記されている。

正史の事跡[編集]

袁術配下。張勲と共に若年の孫策を高く評価していたという。

初平4年(193年)3月、袁術が揚州刺史陳温を殺害し、陳瑀を追放して揚州に拠点を移すと、張勲と共に大将軍に任じられたとされる。建安2年(197年)春、袁術が帝位を僭称したときも、これに従った。

袁術の帝位僭称後まもなく、橋蕤は袁術の命令で張勲と共に呂布を攻撃した。しかし、陳珪の離間策により友軍の楊奉韓暹に裏切られて敗北した。この時、橋蕤は呂布軍に生け捕られてしまったが、なぜか釈放されて袁術の下に帰されている。同年9月、橋蕤は袁術の国進攻に従い、陳王の劉寵を滅ぼした。

しかし、曹操が自ら討伐に出てくると、袁術は橋蕤に加え、李豊梁綱楽就の3将を陳国に残留させ[1]、自分だけ寿春へ逃げ帰ってしまった。橋蕤は曹操軍を迎撃したものの大敗し、于禁に討ち取られた。

物語中の橋蕤[編集]

小説『三国志演義』でも袁術配下の将として登場。徐州の呂布を討伐する際には第二軍の上将に任命される。しかし、陳珪の策にかかった味方の裏切りに遭って全軍は瓦解し、橋蕤自身も呂布配下の高順に敗れている。その後、曹操が寿春に攻め込んでくると橋蕤は城外へ迎撃に赴くが、夏侯惇一騎討ちで討ち取られてしまう。

注釈[編集]

  1. ^ 後漢書』袁術伝によると、張勲も留まったとされる。

参考文献[編集]