毛利政苗

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毛利政苗
時代 江戸時代中期
生誕 享保3年2月21日1718年3月22日
死没 天明元年7月23日1781年9月11日
改名 竹之助(幼名)、匡平(初名)、政苗
別名 刑部少輔(通称)、覚翁(号)
戒名 大原院覚翁了照
墓所 山口県下関市清末の高林寺
官位 従五位下讃岐守
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重家治
長門清末藩
氏族 毛利氏
父母 毛利匡広(元平)、性善院
兄弟 平姫、演暢院、師就政苗広定重就増山正贇平野長喜養女ら
松平忠雅娘光相院
松井氏、妙心院、尾坂氏、中川氏、今井氏
元貞匡邦毛利広圓正室、冷泉為栄室、織田輔宜継室、戸川逵恒正室、桂厳院ら
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毛利 政苗(もうり まさなり)は、長門国清末藩3代藩主。ははじめ父・毛利元平(匡広)の名前より字を取って匡平(まさひら)、のち政苗に改めた。

経歴[編集]

享保3年(1718年)2月21日、第2代藩主・毛利元平の七男として生まれる。同年のうちに父は長府藩毛利家を継ぎ、匡広と諱を改めた。享保14年(1729年)、父の死去により、長府藩主を継いだ兄の師就から1万石を分与され、前述の通り生まれた頃(享保4年(1719年))から断絶していた清末藩を再興させ、その第3代藩主となった。享保15年(1730年)12月に叙任する。しかし度重なる風水害により、藩財政は悪化した。安永4年(1775年)7月29日、七男・匡邦に家督を譲って隠居し、覚翁と号した。天明元年(1781年)7月23日、清末にて死去した。享年64。

系譜[編集]