津軽 (小説)
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津軽 | ||
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著者 | 太宰治 | |
発行日 | 1944年11月15日 | |
発行元 | 小山書店 | |
ジャンル | 小説 | |
国 | 日本 | |
言語 | 日本語 | |
形態 | B6判 | |
ページ数 | 273 | |
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第二次世界大戦末期、死を意識した太宰は故郷をすみずみまで見ておこうと思って旅に出る。行く先々で津軽の人々の温かい人情に触れ、故郷のありがたさを再認識し、自己存在を確認した。最後に昔の子守りのたけの横に坐って「平和とは、こんな気持の事を言ふのであらうか」と思う。人の心の真実を写し切った紀行文風小説の傑作。
1944年(昭和19年)11月15日、小山書店より刊行された。初版発行部数は3,000部、定価は3円だった[1]。本文中に著者直筆の津軽略図および挿絵4点を収める。
津軽の地理や人々を描いた紀行文のようにとれるが、研究者の多くはこの作品を自伝的小説とみなしている。
執筆の時期・背景[編集]
本書は小山書店の依頼を受け、「新風土記叢書」[2] の第7編として書かれたものである。
1944年5月12日から6月5日にかけて取材のため津軽地方を旅行する[3]。本書が完成したのは1944年7月末である[4]。
「十五年間」(『文化展望』1946年4月号)という文章で太宰は次のように書いている。「私は或る出版社から旅費をもらひ、津輕旅行を企てた。その頃日本では、南方へ南方へと、皆の関心がもつぱらその方面にばかり集中せられていたのであるが、私はその正反對の本州の北端に向つて旅立つた。自分の身も、いつどのやうな事になるかわからぬ。いまのうちに自分の生れて育つた津輕を、よく見て置かうと思ひ立つたのである」
あらすじ[編集]
私(津島修治)は、久しぶりに故郷・金木町(旧・金木村)に帰ることになった。そのついでに、津軽各地を見て回ることにして、懐かしい人々と再会する。そして小泊村を訪ね、かつて自らの子守りをしてもらった、越野タケ(実在した人物、作中では「たけ」と平仮名表記)を探し当てる。
行程[編集]
東京発 - 青森経由、蟹田泊(中村貞次郎宅) - 三厩泊 - 竜飛泊 - 蟹田泊帰(中村宅) - 金木泊(生家) - 五所川原、木造経由、深浦泊 - 鯵ヶ沢経由、五所川原泊 - 小泊泊 - 蟹田泊(中村宅) - 東京帰着
備考[編集]
- 相馬正一の研究によれば、作中の竜神様の場面において、越野タケとは一言も言葉を交わしていなかったとしている[5]。また、運動会の場面において、太宰は一人離れて周りの景色を見ていた。このようにフィクションを練りこんで書いてあるので、一般に小説とされている。
- 小説家の長部日出雄は、昭和40年代の半ばに小泊に越野タケを訪ね、話を聞いたことがあるという。長部も自著(太宰の評伝)の中で、太宰とタケとの間に会話はなかったと述べている[6]。
- 青森県では5月末~6月上旬に小学校中学校の運動会が行われるのは一般的なことである。小泊小学校の近くに資料展示施設「小説『津軽』の像記念館」が設置されている。
- 一部の文庫本には「小泊 たけの顔」と記入された挿絵が掲載されている。作品中で「私が三つで、たけが十四の時」という記述があり、当時太宰は34歳である。上記記念館では後年のたけの声の録音が試聴可能。
脚注[編集]
関連項目[編集]
- 志賀直哉 - 津軽の青年との文学談義で、“神様と呼ばれる五十年配の作家”として否定的に言及。太宰と志賀の確執のもととなった。
- 津軽要塞 - 津軽半島北部については「国防上」の理由で詳細な描写を避ける旨が記されている。軍機保護法参照。
- 津軽恋女 - 久仁京介が作詞を担当し、演歌歌手の新沼謙治が歌唱したシングル曲。「七つの雪」は、本書冒頭にある『東奥年鑑』からの「津軽の雪」の引用がモチーフ。さらに当曲で新沼は1987年末「第38回NHK紅白歌合戦」に出場した。
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