浦和レッドダイヤモンズ

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浦和レッズ
原語表記 浦和レッドダイヤモンズ
呼称 浦和レッズ
愛称 レッズ
赤い悪魔
クラブカラー  [1]
創設年 1950年
所属リーグ Jリーグ
所属ディビジョン J1リーグ
クラブライセンス J1
ホームタウン 埼玉県さいたま市[1]
ホームスタジアム
埼玉スタジアム2002[1]
浦和駒場スタジアム[1]
収容人数 埼玉:62,010[1]
駒場:21,500[1]
運営法人 浦和レッドダイヤモンズ株式会社[1]
代表者 日本の旗 田口誠[1]
監督 ノルウェーの旗 ペア=マティアス・ヘグモ
公式サイト 公式サイト
ホームカラー
アウェイカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

浦和レッドダイヤモンズ(うらわレッドダイヤモンズ、: Urawa Red Diamonds)は、日本埼玉県さいたま市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10の1つ。呼称は浦和レッズ(うらわレッズ)。

概要[編集]

三菱自動車工業サッカー部1950年創部)を前身とする。ホームタウン埼玉県さいたま市(旧:浦和市)。ホームスタジアムは埼玉スタジアム2002浦和駒場スタジアム[1]、練習グラウンドは大原サッカー場[1]。チーム名は「ダイヤモンド」(最高の輝き、固い結束力)に由来し[1]、それをクラブカラーである「レッド」と組み合わせたもの[1]

国内三大タイトルJ1リーグJリーグカップ天皇杯)を全て獲得しているクラブの一つで、Jリーグクラブで初めてAFCチャンピオンズリーグで優勝を成し遂げたクラブでもある。観客動員と営業収入においては、長年Jリーグ加盟クラブ中最高の成績を維持し続けている(当項目を参照のこと)。

運営会社[編集]

浦和レッドダイヤモンズ株式会社
URAWA Red Diamonds Co., Ltd.
種類 株式会社
市場情報 非上場
本社所在地 日本の旗 日本
336-8505
埼玉県さいたま市緑区美園2-1[1]
設立 1992年7月17日
業種 サービス業
法人番号 9030001008072 ウィキデータを編集
事業内容 サッカークラブの運営他
代表者 立花洋一
資本金 2億7,300万円(2018年1月現在[2]
発行済株式総数 4,000株[3]
売上高 79億7,100万円
(2018年1月期)[2]
営業利益 5億5,600万円
(2018年1月期)[2]
経常利益 5億3,600万円
(2018年1月期)[2]
純利益 4億1200万円
(2023年01月31日時点)[4]
純資産 13億0500万円
(2023年01月31日時点)[4]
総資産 30億7600万円
(2023年01月31日時点)[4]
決算期 1月期
主要株主 ダイヤモンドF.C.パートナーズ 50.75%
さいたま市 4.00%
埼玉県 4.00%他[3]
外部リンク http://www.urawa-reds.co.jp
特記事項:1992年から2012年5月までの社名は、「株式会社三菱自動車フットボールクラブ」。
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運営会社は「浦和レッドダイヤモンズ株式会社」。埼玉県さいたま市緑区の埼玉スタジアム2002内に本社を置く。

三菱自動車工業(三菱自工)の全額出資により設立された(設立当初の商号は「株式会社三菱自動車フットボールクラブ」)。1996年の増資時に埼玉県と浦和市の出資を受けた。更に2000年に埼玉県内の複数の企業および三菱グループ他社など計27社[注 1]から出資を受け、三菱自工は引き続き株式の過半数(50.625%)を保有する筆頭株主であった。

しかし2016年、三菱自工が燃費試験の不正問題に起因する経営難から再建を図る際に日産自動車(日産)が株式を34%保有する単独筆頭株主となったため、日産が株式の約75%を保有する横浜F・マリノスとの間で、Jリーグクラブの親会社が他クラブの親会社の株式の保有を禁じるJリーグ規約第25条(5)の規定[注 2]に抵触する可能性が生じた[7]。これについて、Jリーグチェアマン村井満が2016年6月の臨時理事会後に「クラブライセンス交付第1審機関 が(レッズが日産及び三菱自の子会社・関連会社に該当するかを)認定するためJリーグ側では認定できない」とした上で「現状ではJリーグの規約に抵触する可能性が高い」との見解を表明した[8]

三菱自工およびクラブ側で株式の委譲などを検討した結果、2016年10月31日に、三菱自工が三菱重工業と共同出資して持株会社ダイヤモンドF.C.パートナーズ株式会社」を設立し、同社にクラブの全株式を譲渡することを発表[9]。これにより三菱自工の間接出資比率が19.8%となったことで問題を解消した[10]

2017年1月に1億1280万円の第三者割当増資を実施し、新たに15社[注 3]が株主に加わり、株主数は43社・2団体となった[3]。なお、ダイヤモンドF.C.パートナーズも増資を引き受け(410株)、同社が過半の株式を保有する状況に変わりは無い。

クラブの経営状況[編集]

Jリーグトップの営業収益を上げる背景には以下の点が挙げられる。

  • 1996年-1999年、2001年-2002年、2006年以降と過去に18シーズンでJリーグ観客動員1位を記録。2007年はナビスコ杯4試合、ACL6試合とカップ戦を含めた年間観客動員数がJリーグクラブでは初めて100万人を突破し、2008年はリーグ戦でJリーグ史上最高となる809,353人を動員した。2012年8月4日FC東京との試合で1000万人を動員した。
  • 1人当たり動員単価が約2,900円(新潟:約1,700円)と比較的高水準である。これは、招待券による入場者が極めて少なく(同年度0.5%[12])、割引率10%未満にもかかわらずシーズンチケット(埼玉スタジアムの約2万2000枚を含む)が軒並み完売していることから、それらが入場料収入の確保に高い安定性をもたらしていることが挙げられる。
  • ユニフォームサプライヤーは、1993年から1996年のリーグ戦[注 4] でのミズノ、並びに1997年のリーグ戦でのUMBROを除き、過去は一貫してプーマであったが、2004年からナイキが独占供給契約を結んでおり、2007年からは4年間で16億円の契約に更新することが報じられている。

地域への貢献[編集]

浦和区にあったオフィシャルショップ(現在は同区内で移転)「RED VOLTAGE」(2015年)
  • 営業収入はチーム強化の他に事業運営の財源にも割り振られ、設備投資をはじめとした高度な地域貢献を可能にしている(参考:同年度事業運営費33億200万円)。2004年には4億5000万をかけてクラブハウスを新築。2階にサポーターズカフェを設け、1階前面には197席の練習見学スタンドを設けた。クラブはこれを地元のファンを中心にした交流拠点としてさいたま市に寄贈している。また、少年サッカーの普及事業として、各種サッカー教室の開講をはじめ、クラブトップチームの優勝賞金の一部を用具などのかたちで地元の幼稚園・小中学校・特別支援学校に寄贈するなど、独特の地域還元の手法を展開している。女子サッカーに関しては2005年2月、日本女子サッカーリーグさいたまレイナスFCを統合し、浦和レッズ・レディースを設立。アマチュアチームに練習場を提供し、優れた選手にはプロ契約の道を開くなど、女子サッカーの普及と充実に貢献している。
  • 埼玉県内における浦和レッズがもたらす経済波及効果 [1] は、年間127億円(2006年度ベース)[13]。そのうち、直接効果はクラブの支出68億55百万円とサポーターの交通費・飲食代21億25百万円の合計89億80百万円となり、一次波及効果は16億74百万円、二次波及効果が20億65百万円で、経済波及効果の合計は127億19百万円と算出されている [2]。これにはスカパー!スカパー!プレミアムサービス含む)や、ケーブルテレビ等のJリーグ有料放送の視聴増加分や大画面テレビ等の購入促進効果、地元でのサッカー人気の盛り上がりに伴う消費拡大などは含まれていない。
  • 特色ある事業のひとつに、主に幼稚園児、小学生を対象にした「ハートフルクラブ」の運営がある。2003年にスタートした同クラブは、元日本代表の落合弘がキャプテンを務め、コーチはOBの杉山弘一土橋正樹宮沢克行ら計8人を数える。毎週開催されるサッカースクールのほか、地域の幼稚園(レッズキッズサッカー)、小学校授業サポート、中学校サッカー部活動サポートなどを巡回実施し、また障害者にサッカーの場の提供を行うなど地域貢献にも力を入れている。2006年には約36000人の児童を集め、累計で10万人に達している。中学生未満の児童に対してはテクニック向上を重視せず、サッカーの楽しさやコミュニケーション育成を方針としているため、浦和レッズは競技力を重視する小学生チームを保有していない。
  • Jリーグ百年構想の一環として、さいたま市桜区の14万平方メートルの敷地(元東京農業大学グラウンド)にサッカー場(天然芝2面・人工芝1面)、フットサル場(人工芝8面)、テニス場(全天候型など9面)、野球場(天然芝1面)、ラグビー場(天然芝1面)、サイクリングコース、キャンプ場を整備しており、上述のクラブハウスと併せて、これらの施設をレッズランドとして一般に開放している。現役を引退した浦和レッズの選手が指導するフットサル教室や少年サッカー教室、伊達公子がプロデュースするテニス教室なども開講し、生涯スポーツの普及に取り組んでいる。整備・建設にあたって、批判の多い公的資金の投入を極力回避していることで、このような利用者ニーズに応えた自由な設計が実現している。室内スポーツに関しても、2006年4月に隣接する浦和西体育館指定管理者となった。クラブでは、地域に根ざしたヨーロッパ型の総合スポーツクラブを目標としている。
  • そのほか、2011年3月11日の東日本大震災の復興を支援するために「東日本大震災等支援プロジェクト」に取り組み、サッカーを通じて子どもたちの心のケアに努めている。

国際交流[編集]

  • アジアサッカー連盟が主催する2007年のAFCチャンピオンズリーグ2007(ACL)に日本代表クラブとして出場が決定して以来、「アジアを征して世界と互角に戦う強いクラブを目指す」という目標を掲げている。ACLのホームゲームには、通常予選リーグを開催する水曜は集客率が鈍いため小規模のスタジアムで開催する傾向にあるが、あえて2万人収容の駒場スタジアムではなく6万人収容の埼玉スタジアムで開催[14]。予選通過後の全ての試合を埼玉スタジアムで開催した。また、ACLの海外遠征時には、「ハートフルクラブ」の活動を遠征地でも実施し、草の根レベルでの国際交流・サッカーの普及をはかった。2008年には、前年のACL決勝の際にUAEのドバイで事前合宿をした縁で、中東では初となる「ハートフルクラブ」の活動を同地で実施した。
  • 定期的にさいたまシティカップを開催し、海外のクラブチームと対戦している。
  • 2006年にイギリスのテレビ番組制作会社IMGロンドンによる、世界を代表する10クラブを題材にした番組「キングス・オブ・クラブス」の対象としてノミネートされた。同番組では、他にレアル・マドリードスペイン)、チェルシーFCイングランド)、ACミランイタリア)、ボカ・ジュニアーズアルゼンチン)など世界的な12クラブがノミネートされ、そのうち10クラブが「トップ10」として紹介される。IMGロンドンのプロデューサー、ゲイル・ファーマーは「浦和の知名度は欧州でも高い」と話している。番組は2007年3月から、日本を含めた世界130カ国で放送された。
  • 2023年、第14回グローブ・サッカー・アワード2023における『最優秀男子クラブ』の受賞候補20クラブが発表され、浦和レッズがノミネートされた。アジアからは浦和の他、アル・ヒラルサウジアラビア)、アル・イテハド(サウジアラビア)らがノミネートされ、その他地域ではマンチェスター・シティFC(イングランド)、FCバルセロナ(スペイン)やFCバイエルン・ミュンヘンドイツ)などもノミネートされた。

歴史[編集]

浦和レッドダイヤモンズ発足まで[編集]

浦和市(当時)は当初、日本サッカーリーグ(JSL)1部所属の本田技研工業サッカー部を誘致し[15]本田技研工業狭山サッカー部と統合した新たなサッカークラブ作りを構想していた。しかし本田技研工業本社がJリーグ不参加を表明したために、JSL2部所属のNTT関東サッカー部(現大宮アルディージャ)の誘致を試みたがJリーグ不参加を理由に断られた。埼玉県にはJSLに所属し大きな資金協力の見込める大企業のサッカー部が他になかったため、当時プロリーグ検討委員会委員長だった川淵三郎に相談したところ、三菱自工森孝慈を紹介された。森は当時、三菱自工内でサッカー部のプロ化に奔走していた[16][17][18]

三菱自工はサッカー部の活動の中心であり、本社と三菱養和SCが所在する東京都を本拠とする予定であったが、Jリーグが国立霞ヶ丘競技場陸上競技場をホームスタジアムとして認定しない方針を打ち出していたことや、江戸川区陸上競技場の客席増設や同競技場近辺の練習場確保が困難であったことからJリーグ加盟の要件を満たせず、代替候補地の選定を急いでいた。フジタ(現湘南ベルマーレ)が大神練習場を使用し活動していた神奈川県平塚市や、三菱重工サッカー部の初期の活動中心地だった兵庫県神戸市とも交渉したが、いずれも自治体から満足な協力を引き出すまでに至らなかった。

こうした浦和と三菱自工両者の経緯から生じた縁談は、堅実なチームを作っていこうという両者ビジョンの一致を軸に折り合い良く話が進み、時間を待たずに浦和レッズ誕生へと結実した[17][18]。1991年、浦和レッズはJリーグ参加10団体(オリジナル10)の一つに選出された。

1990年代[編集]

1992年 - 1994年[編集]

浦和駒場スタジアム(メインスタンド)
  • 1992年 - Jリーグ開幕前に開催されたナビスコ杯に参加し、予選リーグを5勝4敗と勝ち越したが、予選5位で上位4クラブによる決勝トーナメントに進めなかった。また、同年の天皇杯はベスト4へ進出した。
  • 1993年の両ステージ、1994年の第1ステージ(サントリーシリーズ)と3期連続最下位、年間順位でも2年連続最下位となり、1993年シーズンは両ステージともに対戦チーム(サントリーシリーズ:鹿島アントラーズ、ニコスシリーズ:V川崎)の優勝を目の前で決められた。なお、1993年シーズン終了後に当時監督の森孝慈は「3年間分負けた」と発言したほか、1993年・1994年のリーグ戦用のセカンドユニフォームのカラーは水色であったが、このユニフォームを使用した試合では2年間で1勝もすることができなかった。
  • 当時の補強方針にも疑問符がついた。センターフォワードのヴィクトール・ウーゴ・フェレイラが出場4試合で解雇され、さらには攻撃の要として期待されたウーベ・ラーンが結果を残せずセンターバックにコンバートされた事はクラブの迷走を象徴するものであった。また、守備強化のためGKのミロを獲得し、ミロ自体はGKとしては活躍したものの肝心のDFは補強されなかったため、出場3試合目の名古屋グランパス戦に大敗し3連敗を喫した後に報道陣に対し「次が(自分が出場する)最後(の試合)になるかも」「もう帰りたい」とコメントするほどで、結果的にこの時期に外国人選手で活躍したのはミヒャエル・ルンメニゲだけであった。しかし、1994年のセカンドステージからギド・ブッフバルトウーベ・バインが加入すると徐々に改善の兆しを見せていった。
  • 1994年6月の第1ステージ・サントリーシリーズ後、駒場陸上競技場がJリーグ規格の15000人を下回るキャパシティ(当時約1万人収容)であり、Jリーグの勧告を受けるかたちで増築・改修を行うことを決め一時閉鎖。第2ステージ・NICOSシリーズ以後は大宮サッカー場(こちらも当時は約1万人収容でJリーグ規格外)でホームゲームを開催。
  • 1994年11月19日第2ステージ・NICOSシリーズ最終節の横浜マリノス戦は、駒場陸上競技場が改修工事中だったことや、収容15,000人以上の関東のスタジアムに全て断られたことにより富山県総合運動公園陸上競技場で開催。

1995年 - 1998年[編集]

ギド・ブッフバルト。レッズOBで後にレッズの監督も務めた。
  • 1995年に就任したドイツ人監督ホルガー・オジェックの下で躍進を遂げる。前年に加入した元ドイツ代表のDFブッフバルトの活躍によって守備が安定し、1995年の1stステージ(サントリーシリーズ)では3位になった。この年には創設時からの中心メンバーで、「ミスターレッズ」の愛称を持つ福田正博が日本人初のJリーグ得点王となった。
    • 同年サントリーシリーズは引き続いて大宮で主催試合を行ったが、NICOSシリーズが開幕する8月に駒場スタジアムの増築が完了し本拠地に復帰。
  • その後は中位にとどまることが多くなる。背景には、三菱自工の経営不振で補強資金が減少したこともある。
  • 通年シーズンであった1996年は第22節で首位に立ったが、優勝の期待が高まる中終盤戦に勝ち星を伸ばせず最終的に6位で終了。
  • 1997年、攻撃的サッカーへの転換を図り新監督にホルスト・ケッペルを招聘するも、全く内容が伴わずわずか1年で退団。シーズン終了後にはブッフバルトが退団、移籍。
  • 1998年は三菱OBの原博実監督の下、新加入の小野伸二ゼリコ・ペトロヴィッチを擁して2ndステージで3位となった。

1999年[編集]

2000年代[編集]

2000年[編集]

2001年[編集]

レッズのメインホームスタジアム・埼玉スタジアム2002
  • それまでのヨーロッパ流サッカーからブラジル流サッカーへ路線変更を図ったが、ブラジルに強力なコネクションはなく、監督のチッタの意向で獲得したアドリアーノは全く機能しなかった。1stステージ終了後に小野伸二がオランダフェイエノールトへ移籍、9月には岡野雅行神戸へ期限付き移籍。川崎からエメルソンを獲得した。2ndステージも成績は振るわず、終盤2勝3分と5試合連続無敗により何とかJ1残留を果たした。
  • 10月13日埼玉スタジアム2002での杮落し横浜FM戦が行なわれ、観客動員は当時のJリーグ記録となる60,553人とリーグ戦初の6万人試合となった。なお、埼玉スタジアムは2002年まではW杯開催に備えた芝生管理のため試合数は制限されていたが、2003年から駒場スタジアムと共にホームスタジアムとして登録された。

2002年[編集]

  • 森孝慈がGMとして復帰し積極的な補強を行う[19][20][21]。元日本代表監督のハンス・オフトが監督、元広島監督のビム・ヤンセンがコーチに就任し再度ヨーロッパ路線へ戻る。2ndステージは第9節まで8勝1分と無敗で首位に立っていたが、その後6連敗で8位に沈んだ。また、ナビスコ杯では決勝で鹿島に敗れ準優勝に終わったものの、クラブ創設後初の決勝進出を果たした。また、苦難の時代を長年支えてきた福田正博と、元日本代表主将の井原正巳が引退。
  • 森孝慈GMの主導で、これまで教育の観点から運営してきたユース、ジュニアユース改革に着手。プロを育成するための下部組織として再出発し、翌2003年にサッカーの楽しさや心を育むことを目的とするハートフルクラブを発足させた。

2003年[編集]

チームスローガン:GO ON SAILING
  • 11月に再びナビスコカップ決勝で鹿島と対戦。試合は大雨の中で行われたが、4-0の快勝で前年の雪辱を果たすと同時に初タイトルを獲得した。
  • J1リーグでは第2ステージの第12節で首位に立ち、2つ目のタイトルを獲得するチャンスがあったが、FWエメルソンの出場停止が響いて2連敗し、またもステージ優勝を逃した。なお、この年をもってオフトが監督を退任した。
  • 前年に社長就任した犬飼基昭が、強力な選手補強やクラブハウス改築、親会社依存経営からの脱皮に手掛けた初年度でもあった。魅力あるチームづくりを背景に、埼玉スタジアム2002の利用拡大もこの年から始まった。
  • 3年かけてチームを強くしようとしたオフトの方針と早期にチームを結果を求める犬飼の要求に関して大きく揉めた。その結果、オフトは、シーズン終了後に解任された。

2004年[編集]

チームスローガン:速く、激しく、外連味(けれんみ)なく REDS GO MARCHING ON
2004年のJリーグカップ決勝(浦和vsFC東京
  • 清水から三都主アレサンドロを獲得、岡野雅行神戸より復帰。
  • 浦和OBのギド・ブッフバルトが監督に就任し、ヘッドコーチにゲルト・エンゲルスを迎える。ナビスコ杯は決勝でFC東京に敗れたが、第2ステージでは首位を快走。11月20日の試合では名古屋に1-2で敗れたものの、G大阪が0-2で横浜F・マリノスに敗れたため2試合を残して地元・駒場で悲願のステージ優勝を決め、翌年より1シーズン制となるためこの年が最後となるサントリーチャンピオンシップ出場権を獲得した。ステージ勝点37は15試合制ステージにおけるJリーグ最多勝点記録であった。
  • 駒場で行なわれたこの試合では、新聞紙290年相当分(約20トン)の紙吹雪を試合開始前に散らすという「史上最大の紙吹雪作戦」が展開された。
  • 12月5日・12日に開かれたサントリーチャンピオンシップでは、第1戦は横浜に0-1で敗れるも第2戦にアレックスのFKにより1-0で勝利し延長戦に突入。延長でも決着がつかずPK戦までもつれた末惜敗。初の年間優勝を逃したが、1st・2ndステージを合わせたリーグ戦年間総合成績では初めて1位となった。
  • 入場料収入が19億5800万円と20億円に迫る拡大を見せる中で、クラブはグッズの開発に取り組み始めた。 グッズの売り上げは、初のステージ優勝効果もあって2002年の4億4100万円が、10億8600万円と2.5倍まで急増した。

2005年[編集]

チームスローガン:速く、激しく、外連味なく 〜TAKE OFF TOGETHER NOW !〜
Vodafone CUP 対マンチェスター・ユナイテッド
2005年7月30日
  • 開幕直前に山瀬功治が横浜FMへ移籍、シーズンの前半でエメルソンがカタールリーグのアル・サッドへ完全移籍し、リーグ戦は最初の8試合でわずか1勝(4分3敗)しかできず最下位も味わい、スタートダッシュに失敗。それでも途中からMFロブソン・ポンテや元クロアチア代表FWマリッチを補強して最終節まで優勝争いに加わり、優勝したG大阪と勝点差1の勝点59で2年連続の年間2位となった。得点は82得点のG大阪に次ぐ65得点。更にリハビリから復帰した坪井慶介や2年連続Jリーグベストイレブンに選ばれた闘莉王とシーズン絶好調だった内舘秀樹、急成長した堀之内聖らの活躍でリーグ最少失点の37失点と、前半戦の苦しい戦いから見れば上々といえる内容であった。天皇杯はマリッチが5試合6得点と全試合で得点をあげる活躍などにより、Jリーグ発足後初(前身の三菱重工時代を含めると25年ぶり5回目)の優勝を飾り、2007年AFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。なおこの年には香港で行われたフィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会で優勝した。
  • 2005年2月にさいたまレイナスFCを母体として女子チーム「浦和レッドダイヤモンズ・レディース」が発足。7月、レッズランドが仮オープンした。
  • 2005年度より損失の補填を補償する三菱自工との契約を解消。地域との結びつきを強めるための増資計画が公表されたが、2009年4月の時点で増資の予定は無いとリリースした[22]

2006年[編集]

2006年Jリーグ基本フォーメーション
チームスローガン:RAISE YOUR SPIRITS! 〜速く、激しく、外連味なく〜
  • 東京Vを契約満了となったFWワシントンとMF相馬崇人を完全移籍で、C大阪からFW黒部光昭2007年1月1日までの期限付き移籍(レンタル元は京都)で獲得、更にフェイエノールトから小野伸二が2001年以来約5年ぶりに復帰した。
  • FUJI XEROX SUPER CUPG大阪に3-1で勝利し、初めて同タイトルを獲得(前身の三菱重工時代にスーパーカップで3度優勝)。また、ホーム開幕戦の磐田戦に勝利したことによりクラブ史上初めてリーグ戦の通算成績が勝ち越しとなった。5月にはフィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会に全勝で優勝、前年に続く2連覇を達成した。
  • ホーム開幕戦で初期のJリーグを含めJ1主催試合観客動員数が500万人を突破した。これはJリーグ加盟クラブ初。
  • 前年はスタートダッシュの失敗が結果的にリーグ優勝を逃す要因となったが、この年は開幕から好調を維持して着実に勝点を積み上げ、第3節以降は常に3位以内をキープすると、更に第22節から6連勝して第25節に首位に立ってからは1度も明け渡す事はなかった。最終節は2位のG大阪とリーグ優勝をかけた直接対決で、3点差以上で敗北しない限り優勝という絶対的優位な条件の中で、先制されながらもポンテの同点ゴールとワシントンの2ゴールの活躍で3-2で制し初のJリーグ優勝を果たす[注 5]。J2降格経験チームのJリーグ年間王者は史上初である。
  • リーグ戦でのホームゲームでは15勝2分とJリーグ史上初のシーズンホームゲーム無敗を達成。また、優勝を決めた最終節の観客動員は62,241人と当時のJ1リーグ戦最多記録となった[注 6][23]
  • 天皇杯では決勝でG大阪を1-0で下してJリーグ開幕後初の天皇杯連覇を達成。同時にJリーグ優勝と天皇杯優勝の2冠を達成し、2008年度のAFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。なお、選手・監督としてチームの発展に貢献したブッフバルトがこの試合を最後に監督を退任した。
  • クラブとファンが一緒になって優勝を目指す「ALL COME TOGETHER! 共に闘い、共に頂点へ」の活動が10月にスタート。社長は藤口光紀に交代した。
  • シーズン終了後、三都主アレサンドロオーストリア・ブンデスリーガレッドブル・ザルツブルクへ期限付き移籍。

2007年[編集]

チームスローガン:Sing out Together Heartily
AFCチャンピオンズリーグ2007でクラブ史上初のアジア制覇を達成。
2006年にJ1リーグ得点王を獲得したワシントン

2008年[編集]

チームスローガン:GO FORWARD HAND IN HAND
  • 2008年シーズンに向けて、オフにはブンデスリーガフランクフルトから高原直泰大分から梅崎司新潟からエジミウソンレッドブル・ザルツブルクから三都主アレサンドロが復帰と大型補強を敢行し、さらに福田正博がコーチとしてチームに復帰することになった。
  • 万全を期して臨んだシーズンであったが、開幕早々に連敗したことを受けてオジェックを解任し、コーチだったゲルト・エンゲルスが監督に昇格することとなった。監督交代後はセンターバックが本職の闘莉王をトップ下に起用するという奇策などで上位へと駆け上がり前半戦を首位で折り返すも徐々に失速、J1第33節のG大阪戦で黒星を喫してリーグ優勝の可能性が消滅。翌日には名古屋札幌に勝利したためシーズン4位以下が確定して3年連続のACLの出場権も逃し、最終節で横浜に1-6と大敗して最終順位は7位となった。
  • ACLは準々決勝から登場し[注 10]アル・カーディシーヤクウェート)には2試合合計4-3で競り勝ち準決勝進出するも、準決勝でG大阪に2試合合計2-4で敗れACL連覇はならなかった。また、ナビスコカップや天皇杯でも上位進出できずに5年ぶりに無冠でシーズンを終えることが確定し、エンゲルスはシーズン終了後に監督を退任した。

2009年[編集]

チームスローガン:Devotion to URAWA
フォルカー・フィンケ
  • 監督にフォルカー・フィンケが就任。ディフェンスラインを3バックから4バックへと移行し、リアクションサッカーからポゼッションサッカーへの移行を図った。また、新しいチーム統括責任者として元横浜FC監督の信藤健仁のチームダイレクター(TD)就任が発表された。
  • 内舘秀樹が引退、岡野雅行相馬崇人が退団(その後、岡野はTSWペガサスへ、相馬はCSマリティモへ加入)、永井雄一郎が清水に完全移籍した一方、レンタル移籍から復帰した赤星貴文、大卒新人の野田紘史、ユースから昇格の原口元気(飛び級昇格)、山田直輝高橋峻希濱田水輝永田拓也と若手選手を獲得した(赤星は山形に、野田は岡山にシーズン途中でレンタル移籍)。
  • 4月に行われた定例取締役会において、2006年シーズン途中から社長を務めていた藤口光紀が2008年のホルガー・オジェックの監督解任に端を発したクラブの成績不振の責任を取り、任期を残しながらも社長を退任した。後任に三菱自動車工業元常務取締役の橋本光夫が就任した。
  • ユースから昇格した若手選手を積極的に起用し、序盤は一時首位に躍り出るなど好調を維持し前半戦を鹿島に次ぐ2位で折り返した。しかし、7月にリーグ戦14連敗を喫していた大分に0-1で敗戦したのをきっかけに、9月の山形戦に勝利するまで公式戦8連敗を喫するなど大失速し、その後は持ち直したものの最終的にリーグ戦は6位に終わった。
  • 天皇杯は2回戦で、長野県代表の松本山雅FCに敗戦した。

2010年代[編集]

2010年[編集]

チームスローガン:KEEP REDS ON!

2011年[編集]

チームスローガン:TOGETHER FOR THE GOAL

2012年[編集]

チームスローガン:REDS 020th We stand beside you forever always
2012年から5年半チームを率いたミハイロ・ペトロヴィッチ
  • 監督に広島元監督のミハイロ・ペトロヴィッチが就任。堀はトップチームのコーチに就任。広島時代にペトロヴィッチの通訳を務めた杉浦大輔がコーチに就任[38]。昨シーズンにコーチを務めた広瀬治がトップチームのコーチを退任し、ユースチームのコーチに就任。
  • マゾーラがレンタル移籍期間満了、栃木SCにレンタル移籍していた堤俊輔福岡へ、高崎寛之甲府へ、堀之内聖横浜FCへ完全移籍し、原一樹京都へ、青山隼徳島へレンタル移籍。草津にレンタル移籍している永田拓也の移籍期間も延長された。さらにシーズン途中にスピラノビッチカタールアル・アラビ・ドーハへ完全移籍し、高橋峻希千葉エスクデロ・セルヒオ[注 12]KリーグFCソウルへそれぞれレンタル移籍した。
  • 新加入選手としてブンデスリーガ1.FCケルンから広島時代にペトロヴィッチ監督のもとでプレーしていた槙野智章をレンタル移籍で、神戸からポポを、レスター・シティFCから元浦和の阿部勇樹を完全移籍で獲得。
  • 5月15日、運営会社の名称を「株式会社三菱自動車フットボールクラブ」から「浦和レッドダイヤモンズ株式会社」へ改称[39]
  • 6月1日、さいたま市駒場スタジアム命名権を取得(スタジアム名称は「浦和駒場スタジアム」に。ただし補助競技場<球技専用>については「浦和レッズハートフルフィールド駒場」に改める)。なお、Jリーグクラブがスタジアムの命名権を取得したのは初めて。
  • 開幕戦こそ広島に敗れるも、前半戦は前年とは対照的に順調に勝点を積み上げて8勝6分3敗で勝点30の3位で折り返した。その後はJ2降格が決まった直後の札幌や、下位に低迷していたG大阪に敗れるなど取りこぼしも目立ったが、最終戦で名古屋に勝利して3位でシーズンを終え、2008年シーズン以来5年ぶりにACL出場権を獲得した。なお、最終節での勝利はリーグ優勝を決めた2006年シーズンのG大阪戦以来6年ぶりとなった。
  • 8月4日に開催されたFC東京戦で、Jリーグ史上初となるリーグ戦におけるホームゲーム累計観客動員数が1000万人を突破。また、最終戦での勝利によって7チーム目となるJ1リーグ戦通算300勝を達成した。

2013年[編集]

チームスローガン:REDS TAKE A STEP FORWARD
  • ペトロヴィッチ体制2年目。
  • 田中達也新潟へ、ポポ神戸へ完全移籍。また、期限付き移籍中の原一樹エスクデロ・セルヒオ[注 12]青山隼がそのまま完全移籍。また、濱田水輝新潟へ期限付き移籍(2014年1月31日まで)し、千葉に期限付き移籍している高橋峻希の移籍期間が2014年1月31日まで延長された。
  • 前年に1.FCケルンからレンタルで加入した槙野智章が完全移籍となり、広島から森脇良太仙台から関口訓充鹿島から興梠慎三から那須大亮をそれぞれ完全移籍で獲得。明治大学から阪野豊史が加入した。また、草津へ期限付き移籍していた永田拓也が復帰した。
  • 開幕戦で前年王者の広島に勝利し、2008年から続いていた開幕戦の連敗を止めてクラブ史上初のアウェイゲームでの開幕戦勝利を達成。その後は開幕6試合負けなしと序盤から好調を維持し、コンフェデレーションズカップによるリーグ戦中断までの時点では、横浜FMと勝点27で並び得失点差で上回る2位で、首位を独走していた大宮と勝点差5の状態だった。前半戦最終2戦でリーグ戦2度目の連敗を喫し9勝4分4敗で勝点31の4位で折り返す。第19節終了時に3位に再浮上して以降、終盤まで3位と2位を行き来するかたちで、第22節広島、第24、31各節横浜FM首位に3度までも勝点差1まで迫り優勝争いに絡んだものの、いずれもその次の試合で敗れ再び差を広げられるなど勝負弱さを露呈。33節で鳥栖に敗れた時点で優勝の可能性が消滅し、最終節でもC大阪に2-5で大敗し同シーズンリーグ戦初の3連敗、かつ最終4節未勝利で6位に後退、ACL出場権を逃した。興梠慎三柏木陽介原口元気の1トップ2シャドーを中心とした攻撃陣は、リーグ1位の66得点をマークする等力を発揮した一方、可変フォーメーションの3バックのうちサイドバックに位置する森脇と槙野が積極的に攻撃参加する為、カウンターの対策が脆弱だった事もあり守備陣は終盤5試合で16失点を喫する等でリーグ12位タイの56失点と脆さを露見させ、この攻守のバランスの悪さが勝ちきれない試合を多く生み出し失速した要因になった。
  • リーグ戦同様カップ戦でも勝負弱さを露呈し、5年ぶりの出場となったACL2013では3勝1分2敗の勝点10という成績であったが、同勝点の全北現代(韓国)との直接対決の成績で1分1敗と下回ったためグループリーグ敗退。天皇杯では主力を温存した結果3回戦で山形に敗退し、ナビスコカップは2年ぶり5回目の決勝進出を果たしながらに0-1で敗れ準優勝と、国内三冠も射程圏内でありながら結局無冠でシーズンを終えることとなった。
  • 5月11日に開催されたホームの鹿島戦は、目前に控えていたJリーグ開幕20周年を記念して「Jリーグ20thアニバーサリーマッチ」として開催された[注 13]
  • 3月30日のアルビレックス新潟戦で、マルシオ・リシャルデスがチームのJ1通算1000ゴールを決めた。また、10月27日の戦で山田暢久Jリーグ通算500試合出場を達成した。

2014年[編集]

チームスローガン:REDS-FULL of LIFE!
  • 序盤は前述のトラブルによる混乱もあり、5試合を消化した時点で2敗を喫する等やや躓いたものの、その後はクラブ新記録となる4試合連続完封を記録するなど強固な守備を武器に一気に調子を上げ、ペトロヴィッチ体制となって初めて首位で2014 FIFAワールドカップによる中断期間を迎えた。中断期間明け後も記録は続き、7月23日にはJ1新記録となる7試合連続完封を達成した。
  • 5月25日、原口元気がドイツ・ブンデスリーガのヘルタ・ベルリンへ完全移籍。6月16日には山岸範宏山形への期限付き移籍と、岩舘直水戸から期限付き移籍での加入が発表された。
  • 10月6日、ペトロヴィッチ監督との契約を更新した。浦和レッズの監督としては、クラブ史上最長となる4シーズン目を迎える事になる。
  • 10月22日、第29節甲府戦でJリーグ初となる公式戦通算1000試合を達成するも、観客動員数は1万9977人で、埼玉スタジアム2002が2001年に開業して以来初めて、1試合の観客動員数が2万人を下回った。
  • リーグ戦は、中断後も好調を維持し、一時は2位と勝点差7をつけて首位に立つものの、前年同様終盤に失速。当時12ゴールと得点源だった興梠が第30節の鹿島戦で負傷し、第32節の勝てば優勝決定という大一番となった、勝点差5の2位G大阪との直接対決は引き分けても優勝に大きく近づく状況だったにも関わらず勝って優勝を決めようとして終盤の2失点で敗れた。そればかりか、ペトロヴィッチが鹿島戦で負傷したにも関わらず興梠を3枚目の交代に使用した事で右腓骨骨折を更に悪化させてしまう。続く第33節鳥栖戦では後半アディショナルタイムのラストプレーで途中出場の小林久晃に同点ゴールを決められて痛恨の引き分け、G大阪に首位を明け渡す。最終節名古屋戦では、試合開始早々に槙野のゴールで先制するも、後半にセットプレーで牟田雄祐に押し込まれ同点に追いつかれる。そして3枚目の交代枠に不整脈から復帰したばかりの鈴木を投入すると、自陣でその鈴木のパスミスによるカウンターから永井謙佑に決勝弾を決められて逆転負け。G大阪が既に最下位でのJ2降格が決まっている徳島に引き分けたにも関わらず西川がGKのJ1年間完封試合数の記録を16に更新した(それまでの記録は93年V川崎菊池新吉、09年FC東京権田修一が記録した15)甲斐も空しくACLを制した2007年に続き逆転で優勝を攫われた。
  • ヤマザキナビスコカップは、グループリーグを首位通過したものの、準々決勝で広島と2引き分け、アウェイゴールルールにより敗れた。天皇杯は、3回戦で群馬に1-2で敗れ、前年の山形に続きJ2相手に敗戦を喫した。
  • 12月13日、天皇杯でG大阪が優勝したことにより、FUJI XEROX SUPER CUP2015へ繰り上げで出場が決定。

2015年[編集]

チームスローガン:WE BELIEVE in REDS
  • ペトロヴィッチ体制4年目。
  • 坪井慶介湘南に、加藤順大大宮にそれぞれ完全移籍、山田直輝湘南に、阪野豊史栃木にそれぞれ期限付き移籍山形に期限付き移籍していた山岸範宏は完全移籍した。また、関口訓充(その後C大阪へ移籍)、マルシオ・リシャルデス、福岡に期限付き移籍していた野崎雅也がそれぞれ契約満了により退団した。
  • から橋本和仙台から武藤雄樹清水から高木俊幸、大宮からズラタン広島から石原直樹FC東京から加賀健一が完全移籍で加入、小島秀仁徳島から岡本拓也長崎から復帰水戸から期限付き移籍中の岩舘直は移籍期間を延長した。
  • 指宿キャンプ中、この年から新設されたJリーグ・スカパー! ニューイヤーカップ鹿児島ラウンドに出場し初優勝を飾った。
  • リーグ戦1stステージでは、開幕戦で湘南に3-1で勝利し、その後も一度も負けることなく順調に勝点を伸ばすと、6月3日の柏戦でJ1新記録となる開幕14試合連続無敗を達成。そして、第16節で神戸に引き分け史上初の無敗優勝を決めた。無敗記録は最終的に、7月19日に2ndステージ第3節の広島とのホーム戦で敗れるまで続き、開幕19試合連続無敗となった。
  • その一方で、4度目の出場となったAFCチャンピオンズリーグ2015では、初戦で水原三星に1-2で逆転負けを喫すると、その後3連敗と全く結果を残せず、5戦目も敗れて最下位でのグループリーグ敗退となった。
  • 2ndステージは最終的に9勝4敗4引き分けとなり、年間成績ではサンフレッチェ広島に勝点2及ばず勝点2位となったため、チャンピオンシップには準決勝から挑むこととなった。準決勝のガンバ大阪戦は1-1の同点で延長に突入したが、延長後半に2点を奪われ3-1で敗戦、年間順位3位でシーズンを終えることとなった。
  • ナビスコカップでは、準々決勝で、新潟と対戦し、1回戦は0-5と大敗し、2回戦は3-0で勝利したものの、トータルスコアでは3-5で敗れ、2年連続ベスト8で敗退となった。
  • その一方で、天皇杯は順調に相手を撃破し、9年ぶりの決勝進出を果たすものの、決勝のガンバ大阪との対戦では先制を許した後、興梠のゴールで追いつき1-1で前半を折り返す。しかし、後半に勝ち越しを許し1-2で敗れ、9年ぶりの優勝を果たせなかった。

2016年[編集]

チームスローガン:Beating Heart Together!
  • ペトロヴィッチ体制5年目。
  • 鈴木啓太が引退、阪野豊史、茂木力也が愛媛、斎藤翔太が水戸、岡本拓也が湘南に期限付き移籍、山田直輝、矢島慎也の期限付き移籍期間が延長した。
  • 湘南から遠藤航FCアスタナからブランコ・イリッチ、京都から駒井善成、高卒の伊藤涼太郎を獲得。また1.FCケルンから長澤和輝を完全移籍で獲得すると同時に千葉への期限付き移籍が発表された。期限付き移籍だった岩舘直が完全移籍に移行した。
  • 6月27日福島春樹鳥取、7月6日橋本和神戸への期限付き移籍が発表された。
  • AFCチャンピオンズリーグ2016ではグループHに入り、前年の王者広州恒大と1勝1分けとするなど2勝3分け1敗のグループ2位で決勝トーナメントに進出。決勝トーナメント1回戦ではペトロヴィッチの広島時代に所属した高萩が所属していたFCソウルと対戦し、さいたま市での1stレグでは宇賀神友弥のゴールで1-0で先勝、ソウルワールドカップ競技場での2ndレグではキャプテンとしてAFC U-23選手権2016優勝に貢献した遠藤が自陣ペナルティーエリア付近でアドリアーノに奪われるミスを犯しデヤン・ダミヤノヴィッチにゴールを奪われ90分終了時0-1となり延長戦に突入。延長戦では李の2ゴールで一旦は勝ち越すもアディショナルタイム突入後に高余韓のゴールで追いつかれて2試合合計3-3となりPK戦に突入する。PK戦では4人目までに4-3としていたが、決めれば9年ぶりのベスト8進出が決まる5番手の西川が失敗してサドンデスに突入、8番手の駒井も止められて6-7で敗戦した。
  • Jリーグの1stステージでは序盤戦から首位を走っていたが6月11日の鹿島戦で敗れ、6月15日のG大阪戦で連敗し首位から転落した。また、第17節の広島戦で3連敗をしてしまい1stステージ優勝を逃した。
  • 8月6日Jリーグ2ndステージ第7節湘南戦でホーム通算試合500試合を達成した。
  • 9月25日のJ1 2ndステージ第13節広島戦で年間順位3位以内が確定、2年連続チャンピオンシップへの出場が決まった。
  • ACL組としてシードされたJリーグYBCルヴァンカップではここ2年鬼門だった準々決勝で4日前のリーグ戦では1-2で敗れている神戸に敵地で1-2で競り勝つと第2戦は4-0の圧勝。準決勝でも第1戦で得意の味スタで12年間公式戦では負けておらずお得意様のFC東京に2-1で逆転勝ちを収めると10月9日に行われた第2戦は3-1で勝利し、3年ぶりの決勝をガンバ大阪と迎える事になった。決勝戦では前半17分に槙野が敵陣で引っ掛けられるとアデミウソンにドリブルで切り裂かれた末に先制点を奪われるが、後半30分に高木との交代で入った李忠成が入ったばかりのコーナーキックに合わせて1-1の同点に追いついた。その後、延長戦でも決着がつかずにPK戦に突入、3人目までは全員決めてG大阪の4番手で当時ルーキーだった呉屋が真ん中目掛けて蹴ったシュートを西川が足で止めて、5番手の遠藤航まで全員決めて勝負あり。5-4で13年ぶりとなるJリーグYBCルヴァンカップ優勝。ペトロヴィッチにとっては2006年6月から日本で指揮を執って以来初の国内三大タイトル優勝を果たした。なおこれが2023年現在ペトロヴィッチが獲得した唯一の国内三大タイトルである。
  • 11月3日のJ1 2ndステージ第17節横浜FM戦で引き分けて年間勝点順位1位(勝点74)とし、Jリーグチャンピオンシップ決勝からの出場を決めた。チャンピオンシップでは鹿島と対戦、アウェイでの1stレグは興梠がPKを誘い阿部が沈めた1点を守り切って1-0で先勝、ホームの2ndレグでは興梠のゴールで先制し2戦合計2-0とリードするものの、ロングボールへの宇賀神の稚拙な対応[40] もあって金崎夢生にダイビングヘッドで1点を返され、後半35分にはカウンターで攻める鈴木優磨を槙野がペナルティエリア内で倒してPKを献上、またも金崎に決められて1-2とされ、アウェイゴールの数により年間王者を逃した。

2017年[編集]

チームスローガン:すべてにおいてバージョンアップ
  • ペトロヴィッチ体制6年目。
  • 大谷幸輝新潟永田充東京V加賀健一山形へ完全移籍、石原直樹仙台に期限付き移籍、茂木力也は期限付き移籍先が愛媛から山形へ変更、期限付き移籍していた橋本和神戸阪野豊史が山形に完全移籍、斎藤翔太の期限付き移籍期間が延長、9月には伊藤涼太郎水戸へ期限付き移籍した。
  • 千葉からオナイウ阿道新潟からラファエル・シルバ湘南から菊池大介横浜FMから榎本哲也を完全移籍で、福岡から田村友を期限付き移籍で獲得。さらに福島春樹長澤和輝矢島慎也が期限付き移籍から復帰した。8月には守備立て直しのためCSマリティモからマウリシオを獲得した。
  • J1リーグ戦第6節仙台戦ではクラブ最多得点記録タイとなる7得点を挙げ7-0で勝利した。
  • チームは第8節終了時点で6勝1分1敗と首位を走っていたが、第9節の当時リーグ最下位の大宮とのさいたまダービーで敗戦したところから低迷、さらに第13節川崎[注 14] での敗戦後ペトロヴィッチ監督が次に行われる第18節新潟戦から連勝出来なければチームを去るとサポーターに告げる事態にまで発展した。新潟、天皇杯3回戦の熊本には勝利したが、続く第22節C大阪[注 15] で敗戦、そして第19節の札幌戦も敗れ第9節以降の成績が3勝1分8敗となり順位も8位まで低迷、そして7月30日、ペトロヴィッチとコーチ兼通訳の杉浦大輔を解任[41]、後任にコーチの堀孝史が2011年10月以来約5年半ぶりに監督に就任した[42]
  • AFCチャンピオンズリーグ2017ではグループリーグ上海上港FCソウルと同組になるも4勝2敗の成績で首位通過。ラウンド16では済州ユナイテッドと対戦。アウェイの第1戦を0-2で落とし第2戦で勝ち抜けに最低でも3点が必要な状況[注 16] に追い込まれたが、延長戦の末3-0で勝利し勝ち抜けた。堀が就任した準々決勝は川崎と対戦。第1戦を1-3で落とし、迎えた第2戦では先制点を献上するも、興梠の得点後に車屋紳太郎が退場しバランスを取る為中村憲剛を下げた後、防戦一方になった川崎を攻め立てズラタン、ラファエルシルバ、高木俊幸のゴールで4-1で試合終了。2戦合計5-4となり、歴史的大逆転勝利を飾った。準決勝ではグループリーグでも対戦した上海上港を2戦合計2-1で破り、10年ぶりの決勝進出を決めた[43]。決勝はサウジアラビアのアル・ヒラルと対戦。2戦合計2-1で勝利し、日本勢では2008年のG大阪 以来9年振り、クラブとしては2007年以来10年振りとなる優勝を飾った。また、ホーム7戦全勝という大会史上初の快挙も達成した。また、堀はこのシーズンのAFC年間最優秀監督賞に選ばれた。なおクラブは国内外で7つ目のタイトルを獲得したが、日本人監督の下で獲得したのはクラブ史上初である[44]
  • だが、2007年の優勝とは違い、2年連続で出場する為には最低でも4位に入らなければならないJリーグでは、監督交代後は守備に重きを置き競争力を取り戻したものの、8月は3連勝を含む勝ち点10を稼いだが、その後はACLでの闘いもあって連勝が叶わず、ラスト3試合も全て0-1と黒星を重ね、結局リーグ戦は7位で終了した。沖縄での2次キャンプで「相手のコートで戦う」(ペトロヴィッチ)[45] というコンセプトの下で、前年以上にチーム全体が前掛かりになったこともあり、昨年は28だった失点が54とほぼ倍増し、スコアレスドローも含めた完封数は降格した3チームよりも少ない4[注 17](リーグ最少)と、足を引っ張った守備が上位進出を阻む結果となった。
  • FIFAクラブワールドカップ2017では準々決勝でアル・ジャジーラと対戦、後半に失点をしてしまい0-1で敗れ5位決定戦へ回った。5位決定戦ではウィダード・カサブランカと対戦、マウリシオの2ゴール、柏木陽介の1ゴールを守りきり3-2で勝利し5位となった。
  • 前年王者として迎えた、ルヴァンカップは、準々決勝で、C大阪に、アウェイでの第1戦は0-0、第2戦はホームで、2-2アウェイゴールの差で、敗退。

2018年[編集]

埼玉スタジアム2002で開催された、ベガルタ仙台との2018年天皇杯の決勝戦。バックスタンド側から試合会場を臨む。
チームスローガン: ステップアップのための足元固め

2019年[編集]

チームスローガン:浦和のために 最後まで走り、闘い、貫く
  • 平川忠亮が前年限りで引退、ズラタンが契約満了で退団、菊池大介が柏、李忠成が横浜FM、榎本哲也が富山へ完全移籍。駒井善成岡本拓也もそれぞれレンタル先への完全移籍に切り替わった。また伊藤涼太郎オナイウ阿道は大分、武富孝介が湘南へ期限付き移籍。
  • C大阪から杉本健勇、柏から鈴木大輔、横浜FMから山中亮輔、山形から汰木康也を完全移籍で獲得。FCポルトからエヴェルトンを期限付き移籍で獲得した。夏には関根貴大が2年ぶりに復帰、武富孝介は湘南のパワハラ問題もあり期限を早めて復帰した一方、アンドリュー・ナバウトが退団。武富は復帰後、疲労骨折を負った。
  • 各ポジションに実力者を獲得し、目標とする「リーグとACLの2冠」も達成しうる陣容を揃えた[50]。プレシーズンに練習試合を1試合も行わなかったからかリーグは開幕から低調。10節から10年ぶりとなる4連敗を喫するとオズワルド・オリヴェイラ監督を解任。後任に昨季暫定監督を務めた大槻毅が正式監督として就任した[51]。しかしその後も過密日程の中、21節から4ヶ月14試合で1勝(6分け7敗)で最終節になって1部残留が決まった。結果は9勝10分15敗の勝ち点37で14位、2部との入れ替え戦に回る16位との勝ち点差は1であった。
  • 前年王者として迎えた天皇杯は4回戦でJFLのHonda FCに0-2で完敗。試合後には不満を募らせたサポーターが選手バスを取り囲んで抗議する事態に至った[52]。ルヴァンカップは準々決勝で鹿島と対戦し、2戦1分1敗、合計4-5で敗退した。なお、チームは8月14日の天皇杯3回戦・水戸ホーリーホック戦を最後に全コンペティションで10戦連続未勝利(5分け5敗)に陥っており、上記の3試合は全てこの時期に行われたものである。
  • ACLは、グループリーグでブリーラム・ユナイテッド、北京国安、全北現代と同居。勝利した方が決勝トーナメント進出となる最終節・北京国安戦に3-0で完勝し、ベスト16進出。ラウンド16は蔚山現代にホームで1-2と敗れるもアウェイで3-0と勝利し逆転でベスト8進出。準々決勝は上海上港に2分けながらアウェイゴール差で勝ち上がり、準決勝は広州恒大に連勝し、2年ぶり3度目の決勝進出を決めた。決勝は2年前と同じくアル・ヒラルと対戦したが、アンドレ・カリージョセバスティアン・ジョヴィンコバフェティンミ・ゴミスといった強力な助っ人を擁したチームに2戦合計0-3で完敗。リーグ戦で3点を奪った試合が2試合しかない程の得点力不足がACLの決勝で出てしまい3度目の優勝はならなかった。

2020年代[編集]

2020年[編集]

  • 強化体制が一新され、中村修三GM・北野大助GM補佐が退任。新たにスポーツダイレクター(SD)、テクニカルダイレクター(TD)が置かれるようになった。初代SDに土田尚史、TDに西野努が就任した。また、大槻毅監督の続投が発表された。土田SDは11月に病気療養に入った。
  • 森脇良太が退団、オナイウ阿道は期限付き移籍から復帰したがすぐ横浜FMに移籍。茂木力也山田直輝はそれぞれレンタル先への完全移籍に切り替わった。井澤春輝鹿児島大城蛍鳥取池高暢希富山へ期限付き移籍。シーズン途中にマウリシオ・ファブリシオが揃ってポルティモネンセへレンタル移籍となった。
  • 新潟から昨季J2得点王のレオナルドを獲得。伊藤涼太郎が期限付き移籍から復帰。また青森山田高校から武田英寿が加入。チーム始動後にメルボルン・ビクトリーからU-23豪州代表主将のトーマス・デンを獲得した。
  • 目先の勝利に囚われることなくチームを変革させるため2022年度のリーグ優勝を目標とする『3年計画』を掲げ、2020年はその1年目という位置付けでチームコンセプトの浸透を図りつつ、「ACL出場権獲得・得失点差プラス2桁以上」を目標に掲げた[53]。その1つとして、基本フォーメーションを慣れ親しんだ3バックから4バックに変更し、4-4-2の布陣を採用。公式戦5戦無敗(4勝1分)と好スタートを切ったかに見えたが、過密日程の中で中々戦術が浸透せず、徐々に順位を下げ、13勝7分け14敗と負け越して10位に終わった。試合内容も悪いことが多く、勝利時はなんとか逃げ切り辛勝、敗戦時は徹底的に攻め込まれ大敗という状況が続き、得失点差は-13とマイナス2桁に乗ってしまった[注 18]。9月にホーム3連戦で3連続完封負け、2008年以降なかった1試合6失点を1年で2度喫するなど、攻守両面で内容の伴わないシーズンとなった。
  • ルヴァンカップは2年ぶりにグループステージからの出場。開幕節で仙台に5-2で勝ったが、C大阪に0-1で敗戦。新型コロナウイルス感染症の拡大に伴う中断&レギュレーション変更の結果、1回戦総当たり・同グループの松本山雅FCが不参加となったためこれでグループ2位となったが、プレーオフステージが取りやめとなったためグループ2位内での成績最上位クラブしかプライムステージに進出できず、結果名古屋グランパスに及ばずグループステージ敗退となった。天皇杯もレギュレーション変更の結果リーグ戦上位2位までしか出場権がなく、リーグ10位のため不参加となった。

2021年[編集]

2021年シーズンに監督就任したリカルド・ロドリゲス

チームスローガン:発表されず

2022年[編集]

2023年[編集]

マチェイ・スコルジャ

2024年[編集]

2024年シーズンからチームを率いるペア=マティアス・ヘグモ

ダービーマッチ[編集]

成績[編集]

タイトル・表彰[編集]

国内タイトル[編集]

国際タイトル[編集]

その他タイトル[編集]

  • 2015

表彰[編集]

Jリーグ/J1リーグ
Jリーグカップ
FIFAクラブワールドカップ
AFCチャンピオンズリーグ
A3チャンピオンズカップ
  • 得点王
    • 2007 - ブラジルの旗 ワシントン
さいたまシティカップ
フィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会

その他表彰[編集]

クラブ

日本プロスポーツ大賞
  • 2007
彩の国功労賞
  • 2023
彩の国スポーツ功労賞
  • 2006
彩の国特別功労賞
  • 2017
埼玉県民栄誉賞
  • 2007
さいたま市長特別賞
  • 2017, 2023
公益財団法人埼玉県サッカー協会 功労賞
  • 2018, 2019
HEROs AWARD
  • 2018
AFC年間最優秀クラブ賞
  • 2007

監督・選手

日本年間最優秀選手賞
  • 2006 - 日本の旗 田中マルクス闘莉王
  • 2007 - 日本の旗 鈴木啓太
報知プロスポーツ大賞
  • 2004 - ブラジルの旗 エメルソン
  • 2006 - ブラジルの旗 ワシントン
  • 2007 - 日本の旗 田中マルクス闘莉王
  • 2016 - 日本の旗 西川周作
彩の国功労賞
  • 2019 - 日本の旗 槙野智章
  • 2023 - 日本の旗 酒井宏樹
彩の国スポーツ功労賞
  • 2006 - ドイツの旗 ギド・ブッフバルト
  • 2010 - 日本の旗 阿部勇樹
彩の国特別功労賞
  • 1997 - 日本の旗 岡野雅行
さいたま市スポーツ特別功労賞
  • 2018 - 日本の旗 槙野智章, 日本の旗 遠藤航
  • 2021 - 日本の旗 酒井宏樹, 日本の旗 鈴木彩艶
  • 2022 - 日本の旗 酒井宏樹
AFC年間最優秀監督賞
AFC年間最優秀ユース選手賞
  • 1998 - 日本の旗 小野伸二

クラブ記録[編集]

最多得点試合[編集]

J1

  • ホーム
    • 7-2 (2004年2nd第2節(8月21日)・対東京V、埼玉スタジアム2002)
    • 7-0 (2005年第27節(10月15日)・対柏、駒場スタジアム)
    • 7-0 (2017年第6節(4月7日)・対仙台、埼玉スタジアム2002)
  • アウェイ

J2

(参考:リーグ戦以外の記録)

最多失点試合[編集]

J1

J2

最多失点勝利試合[編集]

  • 4-3 (1994年2nd第3節(8月17日)・対市原、市原緑地運動公園臨海競技場)
  • 4-3 (2005年J1第24節(9月18日)・対広島、広島ビッグアーチ)
  • 4-3 (2012年J1第17節(7月7日) ・対鳥栖、埼玉スタジアム2002)
  • 4-3 (2013年J1第21節(8月17日)・対大分、埼玉スタジアム2002)
  • 4-3 (2015年2nd第15節(10月24日)・対FC東京、味の素スタジアム)
  • 4-3 (2017年J1第17節(7月1日) ・対広島、埼玉スタジアム2002) 
  • 4-3 (2020年J1第16節(9月13日)・対札幌、札幌ドーム)

最多得点敗戦試合[編集]

最多得点(失点)引分試合[編集]

  • 4-4 (2003年1st第9節(5月17日)・対G大阪、駒場スタジアム)
  • 4-4 (2014年第21節(8月23日)・対FC東京、味の素スタジアム)
  • 4-4 (2015年1st第11節(5月10日)・対仙台、ユアテックスタジアム仙台)

最多連続無敗試合[編集]

  • 19試合 (2015年1st第1節(3月7日)から2nd第2節(7月15日) - 13勝6分)
(参考:他の公式戦込み)
  • 17試合 (リーグ戦2005年J1第33節(11月26日)から2006年J1第8節(4月15日)10試合、天皇杯2005年5回戦(12月10日)から決勝(1月1日)4試合、スーパー杯2006年(2月25日)1試合、ナビスコ杯2006年予選第1日(3月29日)から予選第2日(4月12日)2試合 - 15勝2分)

ホーム無敗記録

  • 25試合 (2005年J1第25節(9月24日)から2007年J1第5節(4月7日) - 22勝3分)
    ※J1史上最多記録タイ
(参考:他の公式戦込み) ※埼玉スタジアム、駒場スタジアムでの試合
  • 37試合 (リーグ戦2005年J1第25節(9月24日)から2007年J1第5節(4月7日)25試合、大宮アルディージャのホームゲーム1試合、2006年ナビスコ杯予選3試合、準々決勝1試合(3月29日、4月12日、5月21日、6月3日)、2005年天皇杯2試合(11月3日、12月24日)、2006年天皇杯3試合(11月4日、12月16日、12月23日)、2007年ACL2試合(3月7日、4月11日)- 34勝3分)

アウェイ無敗記録

  • 17試合 (2006年第33節(11月26日)から2007年第31節(11月11日) - 12勝5分)

最多連勝[編集]

  • 8連勝 (1998年1st第16節(8月5日)から2nd第6節(9月18日)) - PK勝ち1試合含む
    • 7連勝 (1998年1st第17節(8月8日)から2nd第6節(9月18日)) - 90分勝ちのみ

ホーム連勝記録

  • 10連勝 (2006年第8節(4月15日)から第27節(10月15日))

アウェイ連勝記録

  • 10連勝 (2007年第12節(5月19日)から第29節(10月20日))

最多連敗[編集]

  • 9連敗 (1993年2nd第4節(8月7日)から第12節(11月13日)) - Vゴール負け1試合含む
    • 7連敗 (2009年第18節(7月18日)から第24節(8月29日)) - 90分負けのみ

ホーム連敗記録

  • 6連敗 (1993年2nd第5節(8月14日)から第15節(11月27日))

アウェイ連敗記録

  • 10連敗 (1993年1st第1節(5月16日)から2nd第1節(7月24日)) - PK負け1試合含む
  • 10連敗 (1993年2nd第14節(11月20日)から1994年1st第14節(5月4日)) - Vゴール負け3試合含む
  • 10連敗 (1994年2nd第8節(9月7日)から1995年1st第5節(4月1日)) - Vゴール負け1試合含む
    • 8連敗 (1993年1st第1節(5月16日)から第14節(6月30日)) - 90分負けのみ

同一カード最多連勝[編集]

  • 8連勝 (2004年2nd第15節(11月28日)から2009年第17節(7月11日)-対広島)
  • 8連勝 (2007年第15節(6月17日)から2010年第22節(9月12日)-対FC東京)
    • 9連勝 (1997年2nd第17節(10月4日)から2000年J2第42節(11月20日)-対平塚) -J2リーグ戦4試合含む。Vゴール勝ち2試合含む。 2003年に天皇杯で敗れた。

同一カード最多連敗[編集]

  • 7連敗 (1993年1st第2節(5月19日)から1994年2nd第5節(8月27日)-対名古屋) - 90分負けのみ
    • 7連敗 (1993年1st第13節(6月26日)から1994年2nd第21節(11月16日)-対V川崎) - Vゴール負け1試合含む
    • 7連敗 (1993年2nd第1節(7月24日)から1995年1st第10節(4月22日)-対広島) - PK負け1試合含む

個人記録[編集]

最多試合出場[編集]

  • 501試合 - 日本の旗 山田暢久 (初出場1994年1st第12節(4月27日)・清水戦)

最多連続試合出場[編集]

  • 152試合 - 日本の旗 阿部勇樹 (2013年J1第11節(5月11日)から2017年J1第25節(9月9日))

最年少試合出場[編集]

(参考:リーグ戦以外の記録)
  • 16歳8日 - 日本の旗 邦本宜裕 (2013年天皇杯3回戦(10月16日)・山形戦)

最年長試合出場[編集]

  • 40歳2カ月19日 - 日本の旗 阿部勇樹 (2021年第38節(12月4日)・名古屋戦)

シーズンフルタイム出場[編集]

最多得点[編集]

最多連続得点試合[編集]

  • 7試合 - ブラジルの旗 エメルソン (2002年1st第3節(3月16日)から第9節(7月20日))

シーズン最多得点[編集]

1試合最多得点[編集]

  • 4得点 - 日本の旗 福田正博 (1994年1st第9節(4月13日)・平塚戦)
(参考:リーグ戦以外の記録)

GK通算最多得点[編集]

  • 1得点 - 日本の旗 田北雄気 (1996年第30節(11月9日)・横浜F戦で得点) ※J1記録

最年少得点[編集]

  • 17歳11か月3日 - 日本の旗 原口元気 (2009年第5節(4月12日)・名古屋戦)
(参考:リーグ戦以外の記録)
  • 16歳8日 - 日本の旗 邦本宜裕 (2013年天皇杯3回戦(10月16日)・山形戦)

最年長得点[編集]

  • 39歳8カ月3日 - 日本の旗 阿部勇樹 (2021年第13節(5月9日)・仙台戦)

ハットトリック[編集]

J1
  • 4得点
    • 日本の旗 福田正博 (1994年1st第9節(4月13日)・平塚戦)
  • 3得点
    • スロバキアの旗 ルル (1994年2nd第12節(9月21日)・清水戦)
    • 日本の旗 大柴健二 (1998年1st第9節(4月29日)・柏戦)
    • 日本の旗 岡野雅行 (1998年1st第17節(8月8日)・神戸戦)
    • ブラジルの旗 エメルソン (2002年1st第5節(4月20日)・広島戦、2004年1st第6節(4月18日)・大分戦、2004年1st第9節(5月9日)・新潟戦、2004年2nd第14節(11月23日)・柏戦)
    • 日本の旗 永井雄一郎 (2004年2nd第2節(8月21日)・東京V戦)
    • 日本の旗 山瀬功治 (2004年2nd第2節(8月21日)・東京V戦)
    • クロアチアの旗 マリッチ (2005年J1第27節(10月15日)・柏戦)
    • ブラジルの旗 ワシントン (2006年第19節(8月23日)・新潟戦)
    • 日本の旗 田中マルクス闘莉王 (2008年第17節(7月17日)・東京V戦)
    • ブラジルの旗 エジミウソン (2009年第32節(11月21日)・磐田戦)
    • 日本の旗 興梠慎三 (2017年第6節(4月7日)・仙台戦、2017年第12節(5月20日)・清水戦)
    • ブラジルの旗 ファブリシオ (2018年第22節(8月15日)・磐田戦)
    • デンマークの旗 キャスパー・ユンカー (2022年第11節(5月18日)・横浜FM戦)
J2
  • 3得点
    • 日本の旗 阿部敏之(2000年2nd第15節(5月27日)・鳥栖戦)
(参考:リーグ戦以外の記録)
Jリーグカップ
  • 4得点
    • ブラジルの旗 ワシントン (2006年準々決勝第1戦(6月3日)・川崎戦)
  • 3得点
    • ブラジルの旗 トゥット (2002年予選リーグ第5戦(5月9日)・鹿島戦)
    • ブラジルの旗 エメルソン (2002年準決勝(10月2日)・G大阪戦、2003年準決勝第2戦(10月8日)・清水戦)
    • 日本の旗 田中達也 (2004年準決勝(10月11日)・名古屋戦)
    • ブラジルの旗 ワシントン (2006年予選リーグ第6戦(5月21日)・横浜FM戦)
    • ブラジルの旗 エジミウソン (2008年予選リーグ第2戦(3月23日)・京都戦)
    • 日本の旗 興梠慎三 (2016年準決勝第2戦(10月9日)・FC東京戦)
天皇杯

その他記録[編集]

ゴールキーパー初の得点
1996年のJリーグ第30節(11月9日)の横浜F戦で、79分にペナルティーキックを田北雄気が決め、ゴールキーパーによる初の得点を記録した([注 19])。
1試合2名のハットトリック
2004年8月21日の東京V戦で永井雄一郎と山瀬功治の2名がハットトリックを達成。これは1998年9月26日に磐田の奥大介高原直泰が達成して以来2例目。

スタジアム[編集]

ホームスタジアム[編集]

ホームスタジアムは埼玉スタジアムと、Jリーグ加盟当初からのホームスタジアムであった浦和駒場スタジアムの2か所である。駒場はJリーグ公式サイト上ではホームスタジアムとして記述が残されている[1] ものの、レッズ主管試合の開催は2010年を最後に行われていない(天皇杯で使用した実績はあるが、天皇杯はレッズ主催ではない)。なお、Jリーグ発行のファンズガイドでは2011年より駒場はホームスタジアムの紹介から外れている。過去のホームゲーム開催スタジアムは「当項目」を参照のこと。

なお、2020年のJ1リーグでは、埼玉スタジアムが2020年東京オリンピックの男子サッカーの会場となっていることから、7月5日北海道コンサドーレ札幌戦をリーグ戦としては2009年以来となる駒場での開催が本来は予定されていたが、全世界的な新型コロナウイルス感染拡大の影響によりJリーグ主催大会の日程が長期中断したことや、東京五輪自体も2021年に1年順延されたことから、日程の空きが生じたことを受け、駒場での開催はなくなり、改めて再編された日程で組み込まれたその前日・7月4日横浜F・マリノス戦は駒場ではなく埼玉スタジアムでリモートマッチ(無観客試合)として行われた。

2021年は、同様の理由で8月14日サガン鳥栖戦と8月25日サンフレッチェ広島戦とリーグ戦2試合が駒場スタジアムで行われた。

2023年は埼玉スタジアムの芝生の張替え・養生工事のため、ホーム開幕戦の3月4日セレッソ大阪3月18日アルビレックス新潟とのリーグ戦2試合と、3月26日のルヴァンカップ主管開幕戦・清水エスパルス戦の3試合に使用された[92]。同年10月、イギリスの月刊フットボール誌FourFourTwoにて掲載された「世界最高のフットボールスタジアムランキング」にて、埼玉スタジアムが32位にランクインした[93]

年度別観客動員記録[編集]

年度 所属 合計
動員数
最多動員数 最少動員数 平均
動員数
試合数 ホームゲーム開催スタジアム
(太字は本拠地登録されたスタジアム)
備考
動員数 相手 会場 動員数 相手 会場
1993 J 206,265 50,348 清水 国立 8,258 広島 駒場 11,459 18 駒場17、国立1
1994 406,457 55,125 V川崎 7,854 18,475 22 駒場8、大宮7
国立4、博多陸1
神戸ユ1、富山1
[注 20]
1995 508,554 56,652 9,168 大宮 19,560 26 駒場12、大宮10
国立3、新潟陸1
[注 20][注 21]
1996 364,936 50,974 京都 5,611 福岡 札幌厚別 24,329 15 駒場11、国立3
札幌厚別1
1997 328,060 38,707 広島 14,937 横浜F 駒場 20,504 16 駒場14、国立2
1998 385,994 46,547 16,971 V川崎 22,706 17 駒場14、国立3
1999 J1 319,146 46,401 鹿島 13,329 21,276 15 駒場12、国立3 [注 22]
2000 J2 338,457 20,207 鳥栖 駒場 13,408 新潟 16,923 20 駒場20 [注 23]
2001 J1 400,799 60,553 横浜FM 埼玉 16,808 清水 26,720 15 駒場11、埼玉2
国立2
[注 24]
2002 394,445 57,902 磐田 14,499 26,296 駒場9、埼玉5
国立1
2003 432,825 51,195 鹿島 18,335 京都 28,855 駒場8、埼玉7 [注 25][注 26]
2004 549,903 58,334 横浜FM 18,029 36,660 埼玉9、駒場6 [注 27][注 28]
2005 669,066 55,476 名古屋 15,760 清水 39,357 17 埼玉13、駒場4
2006 774,749 62,241 G大阪 16,040 大分 45,573 埼玉15、駒場2 [注 29]
2007 793,347 62,123 鹿島 16,709 神戸 46,667 [注 30]
2008 809,353 57,050 G大阪 16,225 京都 47,609 埼玉16、駒場1
2009 751,565 53,783 鹿島 18,777 神戸 44,210
2010 678,994 55,410 名古屋 21,625 山形 埼玉 39,941 埼玉17 [注 31]
2011 576,477 54,441 20,240 福岡 33,910 [注 32]
2012 622,772 51,879 名古屋 25,743 川崎 36,634
2013 630,701 54,905 C大阪 23,295 磐田 37,100 [注 33]
2014 603,770 56,758 G大阪 19,777 甲府 37,736 [注 34][注 35]
2015 658,668 53,148 22,363 38,746 [注 36][注 37]
2016 627,898 56,841 横浜FM 22,766 36,935 [注 28][注 38]
2017 570,215 57,447 鹿島 21,603 G大阪 33,542
2018 603,534 55,689 神戸 21,250 名古屋 35,502
2019 581,135 54,599 19,698 G大阪 34,184
2020             [注 39]

カップ戦(Jリーグ杯・ACL)での主催試合使用スタジアム[94][編集]

GS=グループステージ(予選リーグ)、PO=プレーオフステージ、PS=プライムステージ(決勝T=決勝トーナメントと同義)
年度 Jリーグ杯 ACL 備考
1992 大宮3
川越1
不参加
1993 大宮3
1994 (主催なし) Jリーグ杯=完全トーナメント制
1995 (非開催)
1996 駒場7
1997 駒場4 Jリーグ杯=駒場・決勝T1を含む
1998 駒場2
1999 Jリーグ杯=完全トーナメント制
2000 駒場1
2001 駒場3
2002 駒場4 Jリーグ杯=駒場・決勝T1を含む
2003 駒場5 Jリーグ杯=駒場・決勝T2を含む
2004 埼玉1
駒場2
Jリーグ杯=埼玉・決勝T1のみ
2005 埼玉3
駒場3
Jリーグ杯=埼玉・駒場とも決勝T1ずつ含む
2006 埼玉1
駒場3
Jリーグ杯=駒場・決勝T1含む
2007 埼玉1 埼玉6 ACL=埼玉・決勝T3を含む
2008 埼玉2
駒場1
埼玉2 ACL=埼玉・決勝T2のみ
(前回優勝につき準々決勝からシード)
2009 埼玉3
駒場1
不参加 Jリーグ杯=埼玉・決勝T1含む
2010 埼玉2
駒場1
2011 埼玉3 Jリーグ杯=完全トーナメント制[注 40]
2012
2013 埼玉2 埼玉3 Jリーグ杯=埼玉・決勝T2のみ
(ACL出場につき準々決勝からシード)
2014 埼玉4 不参加 Jリーグ杯=埼玉・決勝T1含む
2015 埼玉1 埼玉3
2016 埼玉3 Jリーグ杯=埼玉・決勝T3のみ
(ACL出場につき準々決勝からシード)
2017 埼玉1 埼玉7 Jリーグ杯=埼玉・決勝T1のみ
(ACL出場につき準々決勝からシード)
2018 埼玉4 不参加 Jリーグ杯=埼玉・PO1含む
2019 埼玉1 埼玉7 Jリーグ杯=埼玉・PS1のみ
(ACL出場につき準々決勝からシード)
ACL=埼玉・決勝T4含む
2020 不参加 Jリーグ杯=当初のGSは埼玉3の予定だったが、
新型コロナウィルスによる日程変更で1試合のみとなった

最多観客動員試合[編集]

J1[編集]

ホーム
  • 62,241人(2006年第34節・G大阪戦、埼玉スタジアム2002)
    ※J1リーグ戦観客動員史上2位
    • 9,822人(1994年1st第22節・横浜M戦、駒場競技場 - 改修前)
    • 22,150人(1995年2nd第8節・磐田戦、駒場スタジアム - 改修後)
    • 10,354人(1995年1st第26節・横浜F戦、大宮公園サッカー場)
    • 56,652人(1995年1st第13節・V川崎戦、国立競技場)
アウェイ
  • 61,246人(2008年第1節・横浜FM戦、日産スタジアム)
参考(リーグ戦以外の最高)

J2[編集]

ホーム
  • 20,207人(2000年第44節・鳥栖戦、駒場スタジアム)
アウェイ

最少観客動員試合[編集]

J1[編集]

ホーム
  • 5,611人(1996年第21節・福岡戦、札幌厚別公園競技場)
    • 7,854人(1994年1st第4節・広島戦、駒場競技場 - 改修前)
    • 13,329人(1999年2nd第2節・柏戦、駒場スタジアム - 改修後)
    • 9,168人(1995年1st第22節・広島戦、大宮公園サッカー場)
    • 28,054人(2002年1st第9節・札幌戦、国立霞ヶ丘競技場)
    • 19,977人(2014年第29節・甲府戦、埼玉スタジアム2002)
  • ※2014年の無観客試合を除く
アウェイ
  • 3,610人(1997年2nd第1節・市原戦、市原臨海競技場)

J2[編集]

ホーム
  • 13,408人(2000年第26節・新潟戦、駒場スタジアム)
アウェイ

ユニフォーム[編集]

チームカラー[編集]

ユニフォームスポンサー[編集]

掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
ポラス POLUS 2013年 - 2019年
2021年 -
2020年は背中
鎖骨 堀川産業 EneCle 2019年 - 両側に掲出
背中上部 三菱重工業 MITSUBISHI
HEAVY INDUSTRIES
2017年 - 2019年
2021年 -
2020年は胸
背中下部 なし - -
三菱自動車工業 MITSUBISHI
MOTORS
2017年 - 創設 - 2004年は胸
2006年はパンツ
2005年、2007年 - 2016年は背中上部
2013年、2015年 - 2016年はACL用の胸
パンツ前面 ディー・エイチ・エル・ジャパン DHL 2009年 - 2007年 - 2008年は国際試合用の胸
パンツ背面 三菱自動車工業 DELICA
D:5
2024年 -

練習着(プラクティスウェア)スポンサー[編集]

ユニフォームサプライヤーの遍歴[編集]

  • 1992年:プーマ
  • 1993年 - 1996年:リーグ戦はミズノ(93年、94年のリーグ戦モデル(2nd・FP用)の組み合わせは、シャツ=水色、パンツ=黒、ストッキング=水色)、カップ戦はプーマ
  • 1997年:リーグ戦はアンブロ、カップ戦はプーマ
  • 1998年 - 2003年:プーマ
  • 2004年 - 現在:ナイキ

歴代ユニフォーム[編集]

FP 1st
1992

Kopīraito 2020 WikiZero