満洲事変

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満洲事変

満洲事変で瀋陽に入る日本軍
戦争:満洲事変
年月日1931年9月18日 - 1932年2月18日
場所中華民国の旗 中華民国満洲
結果:関東軍による中国東北全域支配
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国
満洲国の旗 満洲国(1932年から)
中華民国の旗 中華民国
指導者・指揮官
大日本帝国の旗 本庄繁
大日本帝国の旗 多門二郎
大日本帝国の旗 東條英機
大日本帝国の旗 林銑十郎
大日本帝国の旗 南次郎
大日本帝国の旗 石原莞爾
大日本帝国の旗 板垣征四郎
満洲国の旗 愛新覚羅溥儀
満洲国の旗 張海鵬
中華民国の旗 張学良
中華民国の旗 王鉄漢
中華民国の旗 馬占山
中華民国の旗 丁超
中華民国の旗 馮占海英語版
戦力
3万人 - 6万6千人 16万人
損害
死傷者:24人 死傷者:340人以上

満洲事変(まんしゅうじへん、旧字体滿洲事變)は、1931年(昭和6年、民国20年)9月18日に中華民国遼寧省瀋陽市郊外の柳条湖で、関東軍[注釈 1]ポーツマス条約により日本に譲渡された南満洲鉄道の線路を爆破した事件 (柳条湖事件[注釈 2])に端を発し、関東軍による満洲中国東北部)全土の占領を経て、1933年(昭和8年)5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争(事変)のこと。中国側の呼称は九一八事変[注釈 3]。関東軍は約6か月で満洲全土を占領した。

満洲事変までの経緯[編集]

条約無効問題と国権回復運動[編集]

中国は清朝時代の1902年の英清通商航海条約改正交渉より、領事裁判権の撤廃や関税自主権の回復など国権の回復に着手していた。一方、日本は1907年、満洲地域にあり朝鮮人入植者の多い間島かんとうに治安維持を理由に派出所を設置し、警官(実際は憲兵が主)を常駐させ、ここで清国も対抗して同じく局子街に辺務公署を設置したことから緊張が高まった。

しかし、1909年に間島協約が締結され、日本側は、清側の間島領有権・警察権を認める代わりに、朝鮮人の土地所有権や満洲と朝鮮半島を鉄道で結ぶ権利などを獲得した。これに伴い、1909年11月に在間島日本総領事館が設置されたが、翌年に日韓併合が行われたため、日本と清は間島をもって国境で隣接することとなった。1911年、辛亥革命によって清が倒れ中華民国が成立したが、日清間の諸条約は当時の国際慣習法および学説上、中華民国に引き継がれるとされていたが(国家承継における包括承継理論)、明確な形で新国家(中華民国)と条約の締約・承認は行われない状況が継続していた。

日本は1914年から始まった第一次世界大戦に参戦しドイツに対して膠州湾租借地(現:山東省青島市)の中国への返還を求めたが、この際に袁世凱大統領に対し旧清朝と締約していた過去の満蒙権益に関する条約の延長、および山東省のドイツ権益に関する要求をおこない(1915年(大正4年)のいわゆる対華21ヶ条要求)、その結果山東省に関する条約や満洲における日本人の土地に関する権利を約束した南満東蒙条約など2条約13交換公文が締結された。しかし日本側が南満東蒙条約は当時の国際法で日本人とされていた間島の朝鮮人にも適用されると主張したところ、これを間島協約の合意を無視するものであるとする中国側は反発し、中国は山東条項が設けられたヴェルサイユ条約1919年)への署名も拒絶した。1919年には朝鮮三・一運動が発生しており日韓併合に反対する元義兵などの朝鮮人亡命者が間島を拠点として独立運動を展開しており、1920年には日本政府は間島への出兵を行った。

中華民国蔣介石派は1919年7月のカラハン宣言以降、急速に共産主義勢力に接近し、国家継承における条約継承否定説を採用し、日本との過去の条約(日清間の諸条約)の無効を主張し始めた。特に、北伐に着手中の1928年7月19日に日清通商航海条約の破毀を一方的に宣言し、これに対して日本政府はその宣言の無効を主張した。

また、1915年に対日制裁として発布された懲弁国賊条例は、対華21ヶ条要求交渉で締約した2条約13公文に完全に違背する条例であったが、1929年(昭和4年)に強化され「土地盗売厳禁条例」「商租禁止令」など、およそ59の追加法令となり、日本人に対する土地・家屋の商租禁止と従前に貸借している土地・家屋の回収が図られた[1]間島や満洲各地の朝鮮系を中心とした日本人居住者は立ち退きを強要され、あるいは迫害された。このことは満洲事変の大きな要因となる[2]

南満洲鉄道と関東都督府[編集]

1902年の日英同盟の締結を期に、ロシアは満洲から撤兵を開始するが、日本を軽視し全兵力の撤兵は行わなかった[3]。日本では対露強硬論が噴出し、また韓国、満洲の利益に関する日露外交交渉は決裂、1904年には日露戦争が勃発した[3]。1905年、この戦争に勝利した日本はロシアとの間にポーツマス条約を締結した。これにより、日本は、東清鉄道の内、旅順長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権、関東州の租借権などを獲得した[4]。この規定に基づいて、12月、日清間でロシア権益の継承を定めた満洲善後条約が締結され、1906年6月7日の勅令第142号をもって1906年11月26日に南満洲鉄道が設立された。以降、南満洲鉄道を柱とする満洲経営権益は日本の重大な課題となった[4]。鉄道守備隊はのちに関東軍となった[5]。一方で、日本は、1905年10月、満洲軍総司令官下に関東総督府を設置し軍政を敷いた[5]。これに清が抗議し、日本の門戸閉鎖に英米が反発し[6]、1906年3月に満洲の門戸開放を迫ったため、日本は満洲開放の方針を確認し、同年7月31日の勅令196号をもって、関東総督府関東都督府として改組された[4]

辛亥革命に始まる中国革命と南満洲鉄道にかかわる年譜を下に示す。

  • 第一次革命(1911年(明治44年、宣統2年)10月)
    • 1911年5月、鉄道国有化問題惹起
    • 1912年1月1日、南京に臨時政府確立
  • 第二次革命(1913年(大正2年、民国2年)7月)
  • 対華21ヶ条要求(1915年)
  • 第三次革命(1916年(大正5年、民国5年)1月)
    • 同年6月、袁世凱の死亡により黎元洪が大総統に就任、南方諸省は独立を取り消す
  • 満洲宗社党問題(1916年(大正5年、民国5年))
    • 満洲では、趙爾巽張作霖は革命に反対だったが、袁には抗えず、袁と妥協するに至った。袁世凱の帝政の反動により、清復辟を目的とする宗社党は、吉林将軍孟恩遠と謀り満洲に騒乱を起こすため、張作霖爆殺を試みたが失敗。
    • 蒙古人巴布札布(パブチャブ)は宗社党の首領として蒙古兵を率いて南下。南満線郭家店に出て、満鉄線を挟んで奉天派と対陣するが、日本の抗議で休戦し蒙古へ引き揚げる。その後巴布札布の死により蒙古軍は四散する。
  • 南北政権の対立(1917年(大正6年、民国6年))
    • 袁の死後、段祺瑞は段祺瑞内閣を組織するが、約法旧国会回復を無視したため、広東非常国会及び同軍政府はそれを非難して北京政府に対抗し、南北政府の対立が起こった。
  • 山東出兵(1918年)
  • ヴェルサイユ条約(1919年)
    • 日本政府は同条約の山東条項により、帝国ドイツの鉄道や通信施設を含めた山東の日本への譲渡(中華民国に返還する目的で。これは日本の対独宣戦布告に明記された)を求めたが、中国側に異議が生じ(1898年の独清条約による租借条件に基づきドイツから中国に直接返還されなければならないとした)、排日活動が激しくなるなど、山東問題が発生した。
  • 山東懸案解決に関する条約(1922年)
  • 北伐(1922年(大正11年、民国11年))
    第一次北伐
    北京政府内で直隷派の呉佩孚、安徽派の段祺瑞を圧し、武力統一政策を執った。一方、南方広東政府は内部安定と広西占領の余勢を駆って北伐を決し、同年に孫文を陣頭に立て北伐を行おうとしたが、南軍陳炯明の反旗で失敗。
    第二次北伐
    国民党はソビエト連邦と提携し共産党合流を容認、1923年(民国12年)陳炯明を破り、広東に更生した蔣介石をもって奉直戦争を行い、この機に第二次北伐を行なったが馮玉祥の寝返りで頓挫し、孫文は北京に入り1925年(民国14年)3月に死去した。第二次北伐は失敗に終わる。
  • 張郭戦争(1925年(大正14年、民国14年)11月)
    • 張作霖は第二次奉直戦争後、關内に進出し直隷、山東、安徽、江蘇の中央書証を手中に収め、中央政権の掌握をしようとした。福、浙の孫伝芳討張の兵を挙げ、江蘇の楊宇霆、呉佩孚は漢口で立ち奉天派と提携、国民軍奉天派に呼応し、奉天派の重鎮郭松齢は張作霖と対峙した。
    • この戦いにより満洲は兵乱の巷となり、日本は在留邦人保護のため増兵した。この結果、張作霖に有利な戦いとなり、12月に郭を葬り、辛うじて満洲王国の崩壊を免れた。[要出典]
  • 1928年、以下のような記事が新聞発表された。
電報 昭和3年6月1日

参謀長宛 「ソ」連邦大使館付武官
第47号

5月26日「チコリス」軍事新聞「クラスヌイオイン」は24日上海電として左の記事を掲載せり
張作霖は楊宇廷に次の条件に依り日本と密約の締結すべきを命ぜり

一.北京政府は日本に対し山東半島の99年の租借を許し
二.その代償として日本は張に五千万弗の借款を締結し

三.尚日本は満洲に於ける鉄道の施設権の占有を受く

奉天票問題及び現大洋票[編集]

奉天票中国語版は1918年1月4日以降、不換紙幣であったため[7]、度々暴落を起こしており、この問題が奉天票問題と呼ばれていた。1929年6月に現大洋票への幣制改革が行われた。

山東問題[編集]

1915年の対華21ヶ条要求の結果、第一次世界大戦の講和条約である1919年のヴェルサイユ条約には、(日本から中国に返還する目的でのドイツからの)山東省青島市のドイツ膠州湾租借地の日本への継承を認める山東条項が設けられたが、逆に山東省の還付を求める北京政府が署名を拒絶し、中国で反日機運が高まることになった。内閣総理大臣原敬東方会議ののち暗殺され、大正天皇は健康がすぐれずにおり、11月には昭和天皇が摂政に就任した。また1920年6月には、日本政府がドイツ、オーストリア、ハンガリー及びトルコの個人や法人の財産を管理できるとする大正8年勅令304号を発布したが、これは1920年に議会によって効力を停止された。1922年(大正11年)にはワシントン会議においてアメリカイギリスの仲裁で山東還付問題が協議された結果、同年、日本は膠州湾租借地の継承を断念し、2月4日、日本と中華民国の間で山東懸案解決に関する条約が締結され、同年6月2日に発効した。

四ヶ国共同管理案[編集]

1922年、日英米仏の四国公使が中華民国政府に対し財政整理勧告を出した[8]。1923年、鉄道において臨城事件が起こり、多数の英米人が被害を受けたため、英米を中心に列強による鉄道警備管理共同案が議論された[8]。また、中華民国の内政全ての共同管理案も議論されていた[9]

この列強による共同管理案は、中華民国広東政府をソ連へと近づけさせ第一次国共合作を始めさせたり、直隷派の北京政府に王・カラハン協定及び中蘇解決懸案大綱協定中国語版を結ばさせる原動力となってしまった[9][10]

中ソ紛争敗北後、真偽不明ではあるが、白系ロシア人である奉天キリル派代表のペトゥホーフが「支那側に交渉中なるが、最近南京政府に於ては赤露勢力を北満より一掃し併て今後東鉄に関する紛擾を除去する為め日英米仏四ヶ国の国際共同管理を認めんとの意向を有する向ある」と話していたとされる[11]

東三省政府の財政・国軍の中央への統合問題[編集]

張作霖爆殺事件と張学良の易幟[編集]

張作霖爆殺事件の現場

関東軍は、地元の親日派軍閥長である張作霖に軍事顧問団を送り、取り込みを図った。しかし、張作霖が排日運動の高まりや欧米からの支援をとりつけようと日本との距離を置き、海外資本の提供を受けて、いわゆる満鉄の並行線を建設し始めると、両者の関係は悪化した。1928年(昭和3年)6月4日、関東軍は張作霖が乗る列車を秘密裏に爆破し、殺害した(張作霖爆殺事件)。事件を首謀した河本大作大佐は、予備役に回される軽い処分とされた。田中義一内閣はこの事件処理をめぐり昭和天皇から不興を買ったことにより、翌年7月になって総辞職に追い込まれた。

張作霖の後を継いだ息子の張学良は、蔣介石国民政府への合流を決行(易幟)し、満洲の外交権と外交事務は国民政府外交部の管轄となった。また、東北政務委員会中国語版東北交通委員会国民外交協会中国語版が設置されて、日本に敵対的な行動を取るようになった。ソ連追い出しに失敗した張学良は、失権失地回復の矛先を南満の日本権益と日本人に向けてきた。満鉄を経営的に自滅枯渇させるために、新しい鉄道路線などを建設し、安価な輸送単価で南満洲鉄道と経営競争をしかけた。満鉄は昭和5年11月以降毎日赤字続きに陥り、社員3000人の解雇、全社員昇給一カ年停止、家族手当、社宅料の半減、新規事業の中止、枕木補修一カ年中止、破損貨車3000輌の補修中止、民間事業の補助、助成中止など支出削減を実施した[12]

また、張学良は、満鉄の付属地に柵をめぐらし、通行口には監視所を設けて、大連から入ってきた商品には輸入税を支払っているにもかかわらず、付属地から持ち出す物品には税金をとった[12]。さらに「盗売国土懲罰令」を制定し、日本人や朝鮮人に土地を貸したり売ったりした者を、国土盗売者として処罰した。多数の朝鮮人農民が土地を奪われ、抵抗した者は監獄に入れられた。満洲事変直後、奉天監獄には530人の朝鮮人が入れられていたという[12]。そのうえ、林業、鉱業、商業などの日本人の企業は、日露戦争後の日清善後条約で、正当な許可を得たものは、南満洲鉄道附属地外でも営業できることになっていたが、昭和5、6年には、一方的な許可取り消しや警察による事業妨害のために、経営不振が続出した。奉天総領事から遼寧省政府に交渉しても、外交権はないので南京政府の外交部に直接交渉するようにと相手にされなかった。外務省を通じて南京総領事が南京政府に交渉しても、いつまでたっても音沙汰なしであった[12]。満洲事変前には、このような日中懸案が370件余りあった。危機感を抱いた関東軍は、再三に渡り交渉するが聞き入れられなかった。これにより関東軍の幹部は、本国に諮ることなく、満洲民族民族自決権を利用した分離独立を計画した。

白系ロシア人と中ソ紛争[編集]

満洲に侵攻するソビエト軍戦車

中東鉄道付属地に住んでいた白系ロシア人オロス族)は、1924年の奉ソ協定後も中華民国東三省政府側によって擁護されていた。しかし、ソ連側は共産党員イワノフを中東鉄道管理局長として送り込み、1925年には奉ソ協定で決められていた理事会の規定を無視して第九十四号命令など行い、白系ロシア人に圧力をかけていた[13]

南京政府と合流した張学良は、南京政府の第一の外交方針である失権失地回復の矛先を、まず北満のソ連権益に向けた。1929年(昭和4年)5月27日、張学良軍は共産党狩りと称して、ソ連領事館中国語版の一斉手入れを実施し、ハルピン総領事と館員30人余りを逮捕した。7月10日には、中東鉄道全線に軍隊を配置して、ソ連人の管理局長と高級職員全員を追い出して、中国国籍の人を任命した。ソ連は国交断絶を宣告して、ソ連軍が満洲に侵攻し(中東路事件)、中華民国軍を撃破して中東鉄道全部を占領した。12月22日にハバロフスク議定書が締結され、12月25日にはソ連軍は撤収を完了した。中東鉄道の経営と特別区の行政におけるソ連権益は回復され、北満洲における影響力を強めた。また、ソ連は鉄道警備隊まで撤退しており、満洲善後条約第2条に「若シ露國ニ於テ其ノ鐵道守備兵ノ撤退ヲ承諾スルカ或ハ淸露兩國間ニ別ニ適當ノ方法ヲ協定シタル時ハ日本國政府モ同樣ニ照辦スヘキコトヲ承諾ス」とあるので、関東軍の鉄道警備駐屯権の根拠が揺らいだ状態になった。ソ連はハバロフスク議定書に基づき、中国に対し白系ロシア人の追放を求めて圧力をかけていたため、それを恐れハルピンから上海へと移住する白系ロシア人が途絶えなかった。

共産党暴動及び満洲ソビエト化の陰謀[編集]

コミンテルンには一国一党の原則があり、1929年ごろには更に重視されたとされる(日本でも朝鮮共産党日本総局が解散して日本共産党に吸収されている)。朝鮮共産党満洲総局は、中国共産党へ加わるために中国共産党の許可の下で、1930年5月に間島で武装蜂起を行った(間島共産党暴動)。また、1930年8月1日には中国共産党満洲省委員会直属の撫順特別支部の朝鮮人によって満洲で八一吉敦暴動が発生した。奉天省政府は取り締まりを強化したが、それに伴い兵匪や警匪による良民への横暴も増えてしまうこととなった[14]。また、満洲における朝鮮人には共産思想に被れた者が多く居たため、中ソ紛争における捕虜の中にも多数の朝鮮人が存在していた[14]。張学良が日本人や朝鮮人に土地を貸した者を処罰する法律を制定したため、各地で朝鮮人農民が迫害された[12]

1930年11月9日、関東州の撫順警察署が撫順炭坑において挙動不審な中国人の取調べを行ったところ、共産党に関する書類を多数所持しており、李得禄外二名を始めその他中国共産党員21名を検挙した[15]。彼らによれば、12月11日の全国ソビエト代表大会前後に満洲省委員会は中央党部と呼応して大暴動を起こし、紅軍を組織して発電所や工場を破壊し、満洲に地方ソビエト政府を樹立することを計画していた[15][16]1931年6月15日には、上海租界共同租界工部局警察英語版がソ連スパイのイレール・ヌーラン(本名ヤコブ・ルドニック)を逮捕し(牛蘭事件、ヌーラン事件)、極東における赤化機関の全容や、政府要人の暗殺・湾港の破壊計画が明るみに出た[17][18]。また、押収された文書には、「国民政府の軍隊内に、共産党の細胞を植付け、其戦闘力を弱めることが最も必要」だと記されていた[17]。22日には、中国共産党中央委員会総書記向忠発が逮捕される。

間島問題[編集]

1931年(昭和6年)2月、「鮮人駆逐令」で朝鮮人は満洲から追放されることになり、行き場を失った朝鮮人農民は、日中韓で間島協約が締結されていた長春西北の間島(かんとう)に移動し、万宝山に入植しようとした[19]。しかし、7月2日には間島において三姓堡万宝山の土地を賃借した朝鮮人農民が、借地外に許可なく用水路を作り河川から水を引き入れようとし、これに反発した中国人農民とのあいだに武力紛争が生じ、さらに日本の領事館警察官とも衝突する万宝山事件が勃発した[注釈 4]。この事件を中国側による不法行為であるとして、朝鮮半島では中国人排斥暴動が発生し(朝鮮排華事件)、多くの死者重軽傷者が出た。この事件により、日華両国関係が著しく悪化した。たまたま長春の近くで発生した事件では満洲青年連盟の長春支部長小沢開作の指導で厳重な抗議行動が展開され問題を重大化させたが、このような事件やさらに残虐な事件はざらにあったという[12]

中村大尉事件[編集]

1931年6月27日、大興安嶺の立入禁止区域を密偵していた陸軍参謀中村震太郎一行が張学良配下の関玉衛の指揮する屯墾軍に拘束され殺害される中村大尉事件が発生した。事件の核心を掴んだ関東軍は調査を開始したが、真相が明らかにならず外交交渉に移されることとなった。その場で中国側は調査を約したが、日本による陰謀であるなどと主張したことにより、関東軍関係者は態度を硬化させ、日本の世論は沸騰し中国の非道を糾弾、日華間は緊迫した空気に包まれた。

8月24日陸軍省は、満洲北西部・洮索地方の保障占領案を外務省に送付したが、両省間で協議の結果、見合わせることになった。しかし中国側が殺害の事実を否定する場合は、関東軍の協力を得ながら林久治郎奉天総領事が強硬に交渉することになった。鈴木貞一の戦後の回想によると、永田鉄山軍事課長と谷正之外務省アジア局長らが「満洲問題解決に関する覚書」を作成し、武力行使を含めあらゆる手段をもってやることが書かれていたという[20]

この二つの偶発的ともいえる事件により、また8月18日に青島にある国粋会の本部が中国人の集団に襲撃される青島国粋会事件も発生し[21]、さらに日本人女学生数十人がピクニック中に強姦される事件も発生し[22]、日本の世論を背景に関東軍は武力行使の機会を窺うようになった。中国側が事の重大性を認識し全面的に事実関係を認め、中村震太郎一行殺害実行犯の関玉衛を取り調べ始めたと日本側に伝達したのが9月18日午後に至ってからであったが、既に手遅れであった。この日の夜半、柳条湖事件が発生したためである。

陸軍内部の動き[編集]

1927年(昭和2年)頃、永田鉄山岡村寧次小畑敏四郎らが二葉会[注釈 5]を結成し、人事刷新、総動員体制の確立、満蒙問題の早期解決などを目指した。同年11月頃、鈴木貞一参謀本部作戦課員らによって木曜会[注釈 6]が組織され、1928年3月には、帝国自存のため満蒙に完全な政治的権力を確立することを決定した。1928年(昭和3年)10月に石原莞爾関東軍作戦主任参謀に、1929年(昭和4年)5月に板垣征四郎が関東軍高級参謀になった。

満蒙問題の解決のための軍事行動と全満洲占領を考えていた石原、板垣らは、1931年(昭和6年)6月頃には、計画準備を本格化し、9月下旬決行を決めていたとされている。1929年5月、二葉会と木曜会が合流して一夕会が結成され、人事刷新、満洲問題の武力解決、非長州系三将官の擁立を取り決めた。同年8月、岡村寧次が陸軍省人事局補任課長になり、1930年(昭和5年)8月、永田鉄山軍務局軍事課長になった。同年11月永田は満洲出張の際に、攻城用の24糎榴弾砲の送付を石原らに約束し、1931年7月に歩兵第29連隊の営庭に据え付けられた[注釈 7]。満洲事変直前の1931年8月には、陸軍中央の主要実務ポストを一夕会会員がほぼ掌握することとなった[23][24]

1931年3月、満蒙問題の根本的解決の必要を主張する「昭和6年度情勢判断」が作成され、同年6月、建川美次参謀本部第二部長を委員長とし、陸軍省の永田鉄山軍務局軍事課長、岡村寧次人事局補任課長、参謀本部の山脇正隆編制課長、渡久雄欧米課長、重藤千秋支那課長からなる、いわゆる五課長会議が発足し、一年後をめどに満蒙で武力行使を行う旨の「満洲問題解決方針の大綱」を決定した。同年8月、五課長会議は山脇に代わり東条英機編制課長が入り、今村均参謀本部作戦課長と磯谷廉介教育総監部第二課長が加わって、七課長会議となった[注釈 8]。今村作戦課長は「満洲問題解決方針の大綱」に基づく作戦上の具体化案を8月末までに作成した。陸軍中央部では永田鉄山、鈴木貞一らが動き、関東軍では石原莞爾、板垣征四郎らが動くことで満洲事変の準備が整えられ、一夕会系幕僚が陸軍中央を引きずり、内閣を引きずって満洲事変を推進していった[20][23]

幣原外交[編集]

外務省は広東政府と何度も話し合いを行うなど国際協調を重視した幣原外交を行った。当時の外務省の見解として幣原喜重郎外相は「支那人は満洲を支那のものと考えているが、あれはロシアのものだった。牛荘の領事を任命するには、ロシアの許諾が必要だった。日本がロシアを追い出さなければ、満洲は清国領土から失われたことは間違いない。しかし、日本は領土権は主張しない。日本人が相互友好協力の上に満洲に居住し、経済開発に参加できればよいのであって、これは少なくとも道義的に当然の要求である。また、中国がかりそめにも日本の鉄道に無理強いするような競争線を建設できないことは、信義上自明の理である」と述べている[25]。幣原外相は英米との国際協調により中国政府に既存条約を尊重することを求めようとし、アメリカのマクマリー駐中国公使も同様の方針を本国政府に訴えていたが、国務省内の親中派のホーンベルク極東部長によって日本との協調路線は退けられた[25]

事変の経過[編集]

柳条湖事件[編集]

事件直後の柳条湖の爆破現場

1931年(昭和6年)9月18日午後10時20分頃、瀋陽郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道線路上で爆発が起きた。現場は、3年前の張作霖爆殺事件の現場から、わずか数キロの地点である。爆発自体は小規模で、爆破直後に現場を急行列車が何事もなく通過している[注釈 9]。関東軍はこれを張学良の東北軍による破壊工作と発表し、直ちに軍事行動に移った。これがいわゆる柳条湖(溝)事件[注釈 10]である。

戦後のGHQの調査などにより、本事件は河本大佐の後任の関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と、関東軍作戦参謀石原莞爾中佐が首謀し、軍事行動の口火とするため自ら行った自作自演の陰謀であったことが判明している[注釈 11]。奉天特務機関補佐官花谷正少佐、張学良軍事顧問補佐官今田新太郎大尉らが爆破工作を指揮し、関東軍の虎石台独立守備隊の河本末守中尉指揮の一小隊が爆破を実行した。

関東軍の軍事行動[編集]

事件現場の柳条湖近くには、国民革命軍(中国軍)の兵営である「北大営」がある。関東軍は、爆音に驚いて出てきた中国兵を射殺し、北大営を占拠した。関東軍は、翌日までに、瀋陽、長春営口の各都市も占領した。瀋陽占領後すぐに、奉天特務機関長土肥原賢二大佐が瀋陽を奉天に改称して臨時市長となった。土肥原の下で民間特務機関である甘粕機関を運営していた甘粕正彦元大尉は、ハルビン出兵の口実作りのため、奉天市内数箇所に爆弾を投げ込む工作を行った。9月22日関東軍は、居留民保護のためハルビン出兵の意向を示したが、陸軍中央は認めず、断念した。

中華民国の対応と日中両国外交交渉[編集]

事変翌日の9月19日張学良顧維鈞と今後の対応を協議し、顧維鈞は以下の2点を提言した。1.国民政府に連絡をとり、国際連盟に本件を提訴するよう依頼すること2.関東軍司令官 本庄繁と早急に会談すること[26]

また9月19日午前、中国(国民政府)(以下ここでは単に「中国」と表記する。)の行政院副院長宋子文と日本の駐華公使・重光葵が会談し、日中直接交渉方針を確認する。重光は幣原喜重郎外務大臣に許可を仰ぐと幣原は同意し訓令を発した。だが後日、中国側は前言を撤回する[27]

9月21日、中国の国際連盟代表 施肇基は、国際連盟 事務総長 ドラモントに対して「国際連盟規約第11条により、事務総長は即時理事会を開いて速やかに明確且つ有効な方法を講ずる」よう要求した[28]。一方日本は自衛のためと主張して国際連盟の介入を批判し、日中両国の直接交渉で解決すべきことと述べた[29]。この時点で国際連盟理事会は日本に宥和的で中華民国に冷淡だったが、10月以降の事態拡大により態度は変化していった[29]連盟理事会は、最終的には制裁に至る可能性もある規約第15条の適用を避け、あくまで規約第11条に基づき、日中両国の和解を促すに留めた。9月30日、日中両国を含む全会一致で、両国に通常の関係回復を促す理事会決議が採択された。中国には責任を持って鉄道付属地外にいる日本人の生命財産を保護することを求め、日本には、保護が確保され次第、軍隊(関東軍)を鉄道附属地に引き揚げることを求めるものであった。後者についてはできる限り速やかにとあるのみで、期限は付されなかった[30]

9月21日に国民政府に急遽設置された特殊外交委員会の会議が開かれ(10月21日)、顧維鈞は、9月30日付の連盟理事会決議を日本に遵守させるのは不可能だろう、との見通しを示し、連盟の監督と協力の下で、「日中間で直接交渉を行うのがベストだ」と主張した。しかし顧の主張は採用されなかった[31]

陸軍中央部の対応[編集]

9月19日午前7時、陸軍省参謀本部合同の省部首脳会議が開かれ、小磯国昭軍務局長が「関東軍今回の行動は全部至当の事なり」と発言し、一同異議なく、閣議に兵力増派を提議することを決めた。出席者は杉山元陸軍次官、小磯国昭軍務局長、二宮治重参謀次長梅津美治郎総務部長今村均作戦課長建川美次第一部長の代理)、橋本虎之助第二部長、および実質的に局長待遇であった永田鉄山軍事課長であった。省部首脳会議の決定を受け、作戦課は朝鮮軍の応急派兵、第10師団姫路)の動員派遣の検討に入り、軍事課は閣議提出案の準備にかかった。同日午前10時の閣議で南次郎陸軍大臣は関東軍増援を提議できず、事態不拡大の方針が決定された。

同日午前、杉山陸軍次官、二宮参謀次長、荒木貞夫教育総監部本部長によって、満蒙問題解決の動機となすという方針が合意され、条約上の既得権益の完全な確保を意味し、全満洲の軍事的占領に及ぶものではないとされた。

同日午後、作戦課は、関東軍の旧態復帰は断じて不可で、内閣が承認しないなら陸相が辞任して政府の瓦解も辞さないという「満洲における時局善後策」を作成し、参謀本部内の首脳会議の承認を得た。作戦課は関東軍の現状維持と満蒙問題の全面解決が認められなければ、陸軍によるクーデターを断行する決意であった。

南陸相は、事態不拡大の政府方針に留意して行動するよう、本庄繁関東軍司令官に訓電した。

20日午前10時、杉山次官、二宮次長、荒木本部長は、関東軍の旧態復帰拒否と、政府が軍部案に同意しない場合は政府の崩壊も気にとめないことを確認した。

軍事課は、事態不拡大という閣議決定には反対しないが、関東軍は任務達成のために機宜の措置を採るべきであり、中央から関東軍の行動を拘束しないという「時局対策」を策定し、南陸相、金谷範三参謀総長武藤信義教育総監陸軍三長官)の承認を得た[20][23]

朝鮮軍の派兵問題[編集]

9月19日午前8時30分林銑十郎朝鮮軍司令官より、飛行隊2個中隊を早朝に派遣し、混成旅団の出動を準備中との報告が入り、また午前10時15分には混成旅団が午前10時頃より逐次出発との報告が入ったが、参謀本部は部隊の行動開始を奉勅命令下達まで見合わせるよう指示した。20日午後陸軍三長官会議で、関東軍への兵力増派は閣議で決定されてから行うが、情勢が変化し状況暇なき場合には閣議に諮らずして適宜善処することを、明日首相に了解させる、と議決した[32]

張学良が指揮する東北辺防軍の総兵力約45万に対して関東軍の兵力は約1万であったため、兵力増援がどうしても必要であった。そこで関東軍は20日、特務機関の謀略によって吉林に不穏状態を作り[注釈 12]、21日、居留民保護を名目に第2師団主力を吉林に派兵し、朝鮮軍の導入を画策した[20]。21日午前10時の閣議で朝鮮軍の満洲派遣問題が討議されたが、南次郎陸相の必要論に同意する者は若槻禮次郎首相のみであった[32]

21日、林朝鮮軍司令官は独断で混成第39旅団に越境を命じ、午後1時20分、部隊は国境を越え関東軍の指揮下に入った。21日午後6時、南陸相に内示のうえ、金谷範三参謀総長は単独帷幄上奏によって天皇から直接朝鮮軍派遣の許可を得ようと参内したが、永田鉄山軍事課長らの強い反対があり、独断越境の事実の報告と陳謝にとどまった。21日夜、杉山元陸軍次官が若槻首相を訪れ、朝鮮軍の独断越境を明日の閣議で承認することを、天皇に今晩中に奏上してほしいと依頼したが、若槻首相は断った。林朝鮮軍司令官の独断越境命令は翌22日の閣議で大権干犯とされる可能性が強くなったため、陸軍内では、陸相・参謀総長の辞職が検討され、陸相が辞任した場合、現役将官から後任は出さず、予備役後備役からの陸相任命も徹底妨害するつもりであった。増派問題は陸相辞任から内閣総辞職に至る可能性があった[20]

22日の閣議開催前に、小磯国昭軍務局長が若槻首相に、朝鮮軍の行動の了解を求めると、若槻はすでに出動した以上は仕方がないと容認し、午前中の閣議では、出兵に異論を唱える閣僚はなく、朝鮮軍の満洲出兵に関する経費の支出が決定。天皇に奏上され、朝鮮軍の独断出兵は事後承認によって正式の派兵となった[20]

関東軍の専行[編集]

喇叭を吹奏しながらチチハルに入城する関東軍(第二師団)
奉天占領直後の城内の様子
錦州の裕民洋服店附近を行く日本軍

日本政府は、事件の翌19日に緊急閣議を開いた。南次郎陸軍大臣はこれを関東軍の自衛行為と強調したが、幣原喜重郎外務大臣男爵)は関東軍の謀略との疑惑を表明、外交活動による解決を図ろうとした。しかし、21日に林中将の朝鮮軍が独断で越境し満洲に侵攻したため、現地における企業爆破事件であった柳条湖事件が国際的な事変に拡大した。21日の閣議では「事変とみなす」ことに決し[注釈 13]、24日の閣議では「此上事変を拡大せしめざることに極力努むるの方針」を決した。林銑十郎は大命(宣戦の詔勅)を待たずに行動したことから「独断越境司令官」などと呼ばれた。

関東軍参謀は、軍司令官本庄繁を押し切り、政府の不拡大方針や、陸軍中央の局地解決方針を無視して、自衛のためと称して戦線を拡大する。独断越境した朝鮮軍の増援を得て、管轄外の北部満洲に進出し、翌1932年(昭和7年)2月のハルビン占領によって、関東軍は中国東北部を制圧した[注釈 14]

これ以降、関東軍は満洲問題について専行して国策を決定し実行するようになった(陸軍戦闘教義における独断専行および文民統制問題)。なお、政府は事件勃発当初から関東軍の公式発表以外の内容の報道を規制したため、「禁止件数は(中略)八月以降急激に飛躍的増加を示すに至りし原因は、九月に於いて満洲事変の突発するあり」 [33]という状況となった。さらに事件の日本人関与の事実を把握すると、12月27日通牒の記事差止命令に「張作霖の爆死と本邦人との間に何等かの関係あるか如く瑞摩せる事項」を入れて情報操作を強化した[34]

スティムソン談話[編集]

アメリカのスティムソン国務長官は幣原外務大臣に戦線不拡大を要求し、これを受けた幣原は、陸軍参謀総長金谷範三に電話で万里の長城北平への侵攻を進めると英米との折衝が生じるため、戦線を奉天で止めるべきことを伝え、金谷陸軍総長はそれを承認した。この電話会談での不拡大路線の意志決定を幣原は駐日大使フォーブスに伝え、錦州までは進出しない旨を伝え、フォーブスはそれを本国にいるスティムソン国務長官に伝え、スティムソンは戦線不拡大を記者会見で伝える(スティムソン談話)。しかし金谷陸軍総長の抑制命令が届く前日に、石原莞爾ら関東軍は錦州攻撃を開始してしまう。スティムソンはこれに激怒する一方、関東軍も、軍事作戦の漏洩に激怒する[注釈 15]

錦州爆撃[編集]

1931年(昭和6年)10月8日、関東軍の爆撃機12機が、石原の作戦指導のもと、奉天を放棄した張学良が拠点を移していた遼寧省錦州空襲した(錦州爆撃)。石原は偵察目的であったとしているが、各機に25kg爆弾を5,6個載せて出撃し計75個投下している。南次郎陸軍大臣は、若槻禮次郎首相に「中国軍の対空砲火を受けたため、止むを得ず取った自衛行為」と報告した。

関東軍は「張学良は錦州に多数の兵力を集結させており、放置すれば日本の権益が侵害される恐れが強い。満蒙問題を速やかに解決するため、錦州政権を駆逐する必要がある」と公式発表した。国際法上は予防措置は自衛権の範囲であるが、のち国際連盟により派遣されたリットン調査団は自衛の範囲とは呼びがたいと結論した。9月24日に日本政府は不拡大声明を出していたが、これによって、幣原の国際協調主義外交は国内外に指導力の欠如を露呈し大きなダメージを受けた。

11月8日、天津で日中両軍が衝突、奉天特務機関長土肥原賢二が、反張学良の馮玉祥と連絡し、廃帝愛新覚羅溥儀を脱出させ、満洲入りさせた。11月19日に日本軍がチチハルを占領し、12月28日に錦州に迫った。犬養毅首相が張学良に錦州からの撤兵を要請し、張学良が了承し、1932年(昭和7年)1月3日、日本軍は錦州を入城した[5]

中国の要請によって連盟理事会が1日早く10月13日から開催され、日本軍の鉄道付属地への撤兵に期限をつけた決議が提出されたが、日本一国の反対で否決された。10月15日の秘密理事会においてアメリカオブザーバー招請が決定した[35]。錦州爆撃で対日感情が悪化したことは確かだが、日本の立場が苦しくなった大きな要因は連盟日本代表の芳沢謙吉駐仏大使の不手際であった。セシル英代表は「もしある国(中国)の代表があれほど雄弁でなく、またもし他の国(日本)の代表がもう少しよく表現できたならば、問題の解決はこんなに紛糾せずにすんだろう」と述懐した[36]

溥儀擁立[編集]

天津時代の溥儀と婉容

関東軍は、国際世論の批判を避けるため、あるいは陸軍中央からの支持を得るために、満洲全土の領土化ではなく、傀儡政権の樹立へと方針を早々に転換した[要検証]。事変勃発から4日目のことである。

9月22日、当時馮玉祥孫岳により紫禁城から強制的に退去させられ、天津の日本租界に避難していた清朝の最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀に決起を促し、代表者を派遣するよう連絡した。

23日、羅振玉が奉天の軍司令部を訪れ、板垣大佐に面会して溥儀の復辟を嘆願し、吉林の煕洽洮南張海鵬蒙古諸王を決起させることを約束した。羅振玉は宗社党の決起を促して回り、鄭孝胥清朝宗社党一派は復辟運動を展開した。同日、蒙古独立を目指して挙兵し失敗したパプチャップの子ガンジュルシャップ石原莞爾中佐を訪れ、蒙古の挙兵援助を嘆願し、軍は武器弾薬の援助を約束した[12]

特務機関長の土肥原賢二大佐は、溥儀に日本軍に協力するよう説得にかかった。満洲民族の国家である清の復興を条件に、溥儀は新国家の皇帝となることに同意した。11月10日に溥儀は天津の自宅を出て、11月13日に営口に到着し、旅順の日本軍の元にとどまった。

一方で関東軍は、煕洽張景恵ら、新国家側の受け皿となる勢力(地主、旧旗人層など)に働きかけ、場合によっては日本軍が彼らの敵対勢力を排除して擁立し、各地で独立政権を作らせた。その上で、これらの政権の自発的統合という体裁をもって、新国家の樹立を図った[注釈 16]

十月事件[編集]

橋本欣五郎参謀本部ロシア班長ら桜会メンバーを中心に、近衛師団第1師団より兵力を動員して、主要閣僚・宮中重臣らを襲撃し、荒木貞夫教育総監部本部長を首相とする軍事政権を樹立しようと企てたが、決行前に発覚し、10月17日、首謀者が憲兵隊に保護検束された。

若槻内閣の崩壊[編集]

若槻内閣は南次郎陸相、金谷範三参謀総長らとの連携によって、関東軍の北満進出と錦州攻略を阻止し、満洲国建国工作にも反対していた。

若槻内閣を見限った安達謙蔵内相は、三井三菱住友財閥が若槻内閣の長くないことを見込んで、円売りドル買いを仕掛けていたが、買い過ぎて窮地に陥っていたことを知り、積極財政政策を採る政友会と連合内閣を作り、財界を救済し、さらに金輸出再禁止によって巨利を得させようと考え、民政党と政友会の連立内閣を画策した[37][要検証]。10月28日、安達内相は政友会との連立、すなわち協力内閣案を若槻禮次郎首相に提起した。民政党党人派富田幸次郎頼母木桂吉山道襄一中野正剛永井柳太郎らが協力内閣に賛同していた。若槻首相は挙国一致の内閣によって関東軍へのコントロールをより強化できるのではないかとの判断から賛成し、井上準之助蔵相や幣原喜重郎外相に相談したが、外交方針、財政方針が異なるとして、強く反対され、断念した。井上蔵相は協力内閣は軍部を掣肘、統制するものではなく、軍部に媚びんとするものと認識していた[20]

政友会は11月4日に政務調査会で金輸出再禁止を決定し、10日には議員総会で金輸出再禁止とともに「連盟の脱退をも辞せず」との決議を行った。倒閣の動きは政友会でも強まっており、12月4日には政友会の山本悌二郎鳩山一郎森恪らが陸軍の今村均作戦課長、永田鉄山軍事課長、東条英機編制動員課長らと懇談するなど、政友会の有力者は陸軍にも直接働きかけていた[20]

11月21日、安達内相は風見章の起草した協力内閣樹立をめざす声明を発表し、安達配下の中野正剛が協力内閣工作を熱心に進め、12月9日、久原房之助政友会幹事長と協力内閣に関する覚書を交わした。12月10日、覚書を見せられた若槻内閣は、安達以外の閣僚と協力内閣反対の方針を確認し、安達に翻意をうながした。しかし安達は拒否し、自邸に帰って、再三の閣議への出席要請に応じなかった。12月11日、若槻首相は閣議に出席しない安達内相に対して辞職を要求したが、安達は単独辞職を拒否したので、結局やむをえず総辞職を決定した[20][注釈 17]

本来は関東軍司令官にある命令権を天皇の名で参謀総長に委任する「委任命令」という手段で、金谷参謀総長が「錦州への進撃は禁止する」と断固たる命令を下したため、11月29日に関東軍は錦州攻略を中止した。この結果、国際連盟とアメリカは、当事者能力を取り戻した日本政府への信頼を寄せた。国際連盟で妥協が図られ、日本の満洲での匪賊討伐権を認める代わりに、調査団の派遣が決定された。12月11日午後の新聞には「日本外交大勝利」の文字が躍り、世論は湧きかえった[38]

犬養内閣の発足[編集]

若槻民政党総裁への大命再降下、犬養政友会総裁の単独内閣、民政党と政友会による連立内閣の3つの可能性があったが、12月13日、犬養内閣が誕生した。犬養毅首相は荒木貞夫陸相の就任条件として、満洲問題は軍部と相協力して積極的に解決することを約束し、森恪内閣書記官長が事変を積極的に推進した。荒木の陸相就任には、軍事課長の永田鉄山・政友会の小川平吉ルート、および軍事課支那班長の鈴木貞一・政友会の森恪ルートから、犬養首相に働きかけがあった[20]また、蔵相には高橋是清が就任し、金輸出再禁止(金解禁停止)を断行して、緊縮財政政策から積極財政政策に転換した。その結果、三井財閥をはじめ各財閥は巨利を得た[37][要検証]

12月23日、満蒙独立国家の建設を目指す「時局処理要綱案」が陸軍によって策定され、1932年(昭和7年)1月6日、独立国家建設を容認する、陸軍省海軍省外務省関係課長による三省協定案「支那問題処理方針要綱」が策定された。12月17日と27日に本土と朝鮮より満洲に兵力が増派され、12月28日より、錦州を攻撃し、翌年1月3日に錦州を占領した。1月28日、関東軍参謀本部の承認の下に、北満ハルビンへの出動を命じ、2月5日、ハルビンを占領し、日本軍は満洲の主要都市をほとんどその支配下に置いた[20]

2月20日の総選挙では与党政友会が圧倒的勝利を収めた。

英米の中国共産党への理解[編集]

中国共産党は満洲事変直前、国民政府の攻勢によって存亡の危機にあったが、蔣介石は事変勃発で、剿共から抗日への転換を余儀なくされ、共産党は息を吹き返した。リットン報告書も、満洲事変によって、共産軍が反撃を開始し、国民軍は戦勝の成果をほとんど失ったとしている[39]

中国在住の米国人で作家のパール・バック安徽省を舞台に描いた『大地』(The Good Earth) が1931年に大ベストセラーとなり、1932年ピューリッツァー賞をとるなど支持を得て、中国共産党への理解と共感が広まった。同作品には続編の『息子たち』、『分裂せる家』も加わった。こうした世論の傾向と日本政府の行動が相まって、のちに日中戦争が始まった1937年には、米国人記者のエドガー・スノーの手による毛沢東の伝記『中国の赤い星』がニューヨークロンドンで出版されている。

親軍的政党の登場[編集]

安達謙蔵中野正剛らと1932年国民同盟を組織し、満洲事変を引き起こした軍部に呼応し、政党内部から親軍的一国一党制を志向した。北一輝に触発された中野正剛は、国家社会主義を鮮明にした東方会を組織、親軍的政治結社として政友会民政党などを批判した。無産政党である社会民衆党もまた従来の植民地朝鮮、満洲の放棄の主張から路線を変更し、満洲事変に賛同した[40]

スティムソン・ドクトリン[編集]

アメリカの国務長官スティムソンは、1932年(昭和7年)1月7日に、日本の満洲全土の軍事制圧を中華民国の領土・行政の侵害とし、パリ不戦条約に違反する一切の取り決めを認めないと道義的勧告(moral suasion)に訴え、日本と中華民国の両国に向けて通告した(いわゆるスティムソン・ドクトリン)。アメリカは不戦条約批准の際、自衛戦争は禁止されていないとの解釈を打ち出し、また国境の外であっても、自国の利益にかかわることで軍事力を行使しても、それは侵略ではないとの留保を行い、さらに自国の勢力圏とみなす中南米に関しては、この条約が適用されないと宣言していた。

イギリスはスティムソン・ドクトリンに対して「この文書にイギリスが連名して日本に共同通牒する必要はない」とアメリカに通告した。スティムソンは、イギリスは極東問題でアメリカと歩調を合わせないというロンドン発の報道にひどいショックを受けた、と日記に残している[41]ロンドン・タイムズ紙は「イギリス政府が中国の管理運営権限を擁護するなどという姿勢を出す必要はないと思われる。中国にしっかりした政府の管理運営の実態はない。1922年にも存在しなかった。現在でもない。中国政府によるしっかりとした管理運営は観念上にしか存在しない」(1月11日付)と同意した。日本政府はイギリスの姿勢を歓迎した[42]

犬養内閣の外務大臣に就任した芳澤謙吉は口先介入ばかりしてくるアメリカに、スティムソン・ドクトリンへの回答として「支那不統一の現状を酌量されたし」としたためた[43]

元駐日大使で満洲事変時に国務次官だったウィリアム・キャッスルの退任直後の1933年4月の講演によると、フーバー政権は日本を不必要に刺激しないよう慎重でなければならず、実際、一貫して対日経済制裁に反対であると国際連盟に伝えており、侵略的行動の成果を承認しないけれども、重大な結果をもたらし得る対日ボイコットには断固反対し、不承認ドクトリン宣言によって、戦争を意味しかねない制裁発動を押しとどめた。そして、日本の権益侵害・無視という中国の挑発があったことを忘れがちであり、満洲事変をめぐっては、日本への配慮に欠けたことを認めた[44]

スティムソン・ドクトリンは、日本の満洲の行動をけん制することに失敗しただけでなく、両国の友好関係の維持を極めて難しいものにした。日本の政治家は満洲における紛争は、これから不可避的に起きる資本主義共産主義の衝突の前哨戦であると理解していた。彼らはなぜアメリカがこの戦いを支援しないのか、どうしても理解できなかった。豊田貞次郎提督はW・キャメロン・フォーブス米駐日大使に宛てた書面の中で、「われわれだけでなくこれからの世代も含めて、中国・ロシア型の共産主義をとるのか、アングロサクソン型の資本主義をとるのかの選択に迫られる。もし中国が共産主義の支配下に入り、日本がこれまでどおりの主張に沿った対処をすれば、日本自身がかつての壱岐や対馬の立場に立つことを意味する。つまり共産主義の攻撃を受けて立つ防衛の最前線に立つということである。日本はその道をとる」と書いた[45]

上海事変[編集]

1932年(昭和7年)1月28日 に日本海軍と中華民国十九路軍が衝突する第一次上海事変が勃発し、3月1日 に、中華民国軍が上海から撤退し、同日、満洲国が中華民国から独立して建国宣言をした[5]。1932年5月5日、上海停戦協定で日中両軍が上海市区から撤退した。

1931年12月10日の国際連盟理事会決議は、日本は巻き返しに成功して、日本に有利なものとなった。日中両国はさらなる事態の悪化を避けることを求められたものの、日本軍の鉄道付属地への撤兵については、9月30日の決議を再確認する形で、できる限り速やかにとされ、期限は設けられなかった。また、事案の特別な状況に鑑み、5名よりなる調査団が派遣されることになった。さらに、日本は匪賊討伐のために、占領継続はもちろん軍事行動を今後も行い得る自由を得た。1932年1月25日に開かれた国際連盟理事会では、中国代表の対日非難にもかかわらず、理事会でそれに応える動きはなく、特別の事態が発生しない限り、満洲問題はこれでひとまず落着したかのように考えられていた[46]

上海事変の勃発は、田中上奏文の影響もあり、日本が満洲を基点に中国侵略を準備し進めている、という中国の主張を裏付けるものと受け取られ、それまで満洲問題では、日本との妥協に努めていたイギリスも態度を一変し、中国寄りの姿勢を鮮明にした。1932年1月29日の理事会は、中国の要求を入れ、日中間の紛争を連盟規約第15条で取り扱うことを決定した。当事国である日本の決議賛成が必要な第11条で処理されていた満洲事変が、上海事変とセットで、採決から当事国が除外され、最悪の場合、第16条によって侵略者と認定され、制裁の対象となり得る案件となってしまった。また2月16日には、日中両国を除く12理事国名義で、連盟規約と不戦条約に反する事情変更は認めないという通告が、日本政府に対してのみ行われた。さらに、中国は規約第15条9項に基づいて、日中紛争の処理を理事会から総会に移すことを要求した。理事会の大国は当初、複雑なる本件の解決に総会における討議は適当でないとの立場から、反対していたが、結局、2月19日の理事会で中国の主張が通った。こうして上海事変だけでなく、満洲事変も理事会から総会に移され、しかも規約第15条で処理されるという日本にとってもっとも不利な手続きを適用されるに至った。3月3日、国際連盟臨時総会がジュネーブで開かれ、3月11日、連盟規約と不戦条約に反する事情変更は認めないという、2月16日の対日通告を確認し、規約第15条3項あるいは必要な場合は第4項に基づいて勧告案を作成するために、十九国委員会を総会内に設置することを決めた[47]

1932年3月3日、中国軍を制圧した日本軍に停戦命令が下ると、聞く耳を持たなかった国際連盟各国代表も、日本の態度を正当に了解しかけた。上海事変の勃発で日本への疑念を深めていたイギリスでも、3月22日の下院審議において、与党保守党の重鎮オースティン・チェンバレンは、労働党議員の対日批判を諌め、日中ともに友好国であり、どちらにも与しないとした上で、中国には国内秩序をきちんと保てる政府が望まれること、日本が重大な挑発を受けたこと、条約の神聖さを声高に唱える中国が少し前には、一方的行動で別の条約を破棄しようとしたことを指摘し、銃剣はボイコットへの適切な対応ではないとしつつ、対日制裁論を退け、国際連盟に慎重な対応を求めた。サイモン外相の答弁も、チェンバレンに同調するものであった。5月5日、日中両国の全権とともに、英米仏伊の駐中公使が署名した停戦協定が成立。協定に撤収期限が明記されなかったにもかかわらず、日本軍は直ちに撤収を開始し、同月中に完了した。日本が中国全土侵略を準備し実行しているという中国のプロパガンダのために、それまで全く顧みられなかった現地邦人保護が目的だという日本の主張の正当性が、事実をもって示された形になり、国際社会における対日世論は大きく改善した。しかし、国際連盟は、満洲事変だけを取り扱っていた段階でのコンセンサスであった、英仏主導の理事会の場で規約第11条に基づく当事者間の話し合いによって解決を図る、という方針に戻ることはできなかった[48]

満洲国の建国[編集]

満洲国皇帝 溥儀

1932年(昭和7年)2月初め頃には、関東軍は満洲全土をほぼ占領した。3月1日、満洲国の建国が宣言された。国家元首に当たる「執政」には、清朝の廃帝愛新覚羅溥儀が就いた。国務総理には鄭孝胥が就き、首都は新京(現在の長春)、元号大同とされた。これらの発表は、東北最高行政委員会委員長張景恵の公館において行われた。3月9日には、溥儀の執政就任式が新京で行われた。1932年3月4日、熱河省都承徳を占領し、4月に長城線を確保し、万里の長城が満洲国と中華民国の境界線になった[49]

同年3月12日犬養毅内閣は「満蒙中国本土から分離独立した政権の統治支配地域であり、逐次、国家としての実質が備わるよう誘導する」と閣議決定した。日本政府は、関東軍の独断行動に引きずられる結果となった。同年5月に五・一五事件が起き、政府の満洲国承認に慎重であった犬養は、反乱部隊の一人に暗殺された。

1932年(昭和7年)6月14日衆議院本会議において、満洲国承認決議案が全会一致で可決された。9月15日には、大日本帝国(斎藤実内閣)と満洲国の間で日満議定書が締結され、在満日本人(おもに朝鮮族日本人)の安全確保を基礎とした条約上の権益の承認と、関東軍の駐留が認められた。

リットン調査団[編集]

1931年(昭和6年)12月、中華民国政府の提訴により、国際連盟では満洲での事態を調査するための調査団の結成が審議されていた。英仏伊独の常任理事国に、当事国の日本と中華民国の代表からなる六ヵ国、事実上四ヵ国の調査団の結成が可決された。日本の主張も認められて、調査団結成の決議の留保で、満洲における匪賊の討伐権が日本に認められた[50]

1932年(昭和7年)3月、国際連盟から第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とする調査団(リットン調査団)が派遣された。調査団は、日本(東京)、上海南京漢口北京などを視察。満洲地域を約1ヶ月間現地調査。6月 視察を終え、10月 国際連盟に報告書(リットン報告書)を提出した[51]。翌1933年(昭和8年)2月24日、リットン報告を基にした勧告案(内容は異なる)が国際連盟特別総会において採択され、日本を除く連盟国の賛成および棄権・不参加により同意確認が行われ、国際連盟規約15条4項[52]および6項[53]についての条件が成立した。

日本の国際連盟脱退[編集]

満洲国の存続を認めない勧告案(「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」)が国際連盟で採択された事を受け、1933年(昭和8年)3月27日、日本は正式に国際連盟に脱退を表明し、同時に脱退に関する詔書が発布された(脱退の正式発効は、2年後の1935年3月27日)。

熱河作戦と塘沽協定の締結[編集]

塘沽協定締結

熱河省主席湯玉麟は、満洲国建国宣言に署名したものの、張学良と内通し、約3万にのぼる反満抗日の軍隊を育成していた。一方、満洲国と中華民国との国境山海関では、昭和7年秋以来小競り合いが散発していたが、1933年1月1日、関東軍は一部をもって山海関を占領し、北支那への出口を抑えた (山海関事件)。

1933年春、関東軍は熱河省を掃討することを決し、満洲国軍主力及び第六師団、第八師団、歩兵第十四旅団、騎兵第四旅団による熱河作戦を計画した。2月下旬、第六師団及び騎兵第四旅団は行動を開始し、3月2日に凌源を、3日に平泉を、4日に承徳を陥落させ、3月中旬までに古北口、喜峰口付近の長城線を占領した。

1933年3月中旬、中華民国は、何応欽の指揮する中央軍約20万を直隷地区に進め、日本軍の南下に対抗させた。中華民国側は、3月下旬にその兵力の一部を長城線の北方に進めた。これに対して、関東軍は、4月11日に第六師団、歩兵第十四旅団、歩兵第三十三旅団をもって「灤東作戦」を開始し、長城を越えて中国軍を灤東以南に駆逐し、19日、長城線に帰った。ところが、中国軍は撤収する日本軍を追尾して灤東地区に進出したので、5月8日、第六師団・第八師団は再び行動を起こし、5月12日に、灤河を渡って北平に迫った。

昭和天皇熱河作戦について万里の長城線(長城線)を超えて南下することを禁じた[49]。しかし、5月3日武藤信義関東軍司令官は南下を命じ、天皇は激怒した[49]関東軍は玉田、密雲などを占領し、北平を指呼の間に望むまで進撃し、北平や天津はパニックに陥った[49]。ただし、関東軍は北平攻略まで行う意図はなかった[49]。蔣介石は、安内攘外、共産党を先に平定してそのあと日本を攘うという方針を変えなかった[49]

1933年5月31日、日中停戦会議の結果、塘沽協定が締結された[49]。この協定で柳条湖事件に始まる満洲事変の軍事的衝突は停止された。中国軍は蘆台〜通州〜延慶のライン以南まで撤退し、このラインに侵入することを禁じられ、また長城以南に非武装地帯が設定され、中国国民党政府は満洲国と長城線の国境を事実上認めた[49]。関東軍は華北工作の主導権を握った[54]

しかし、これは中国側が満洲国を正式に国家承認したものではなく、満洲の帰属は両国間の懸案事項として残されたままであった。中華民国は国際連盟による1932年決議を根拠に満洲の法的帰属と日本による民族自決への干渉を連盟社会で弾劾する外交政策を採用し、国権回復運動における主要な対象を日本人問題に措置することとなる。日本は中華民国蔣介石政府による条約の一方的破棄とそれにもとづく満蒙地域、支那租界地域における中華民国行政官や軍隊組織による在留日本人への攻撃を非難し、中国中央政府の「馬賊」に対する警察力の不足を口実とした日本人への攻撃事件の放置に対抗するため実力組織による自衛行動を執らせることとなる。また満洲国の分離建国問題については、単なる新国家の承認問題として中華民国の外交的主張を無視した。

国際連盟脱退との関係[編集]

中華民国側は日本軍の軍事行動を侵略行為として国際連盟に提訴し、1932年3月、リットン調査団が派遣され、10月2日に日本の主張を認めない報告を発表した[49]

熱河作戦は満洲国領土を確定するための熱河省河北省への進出作戦であった。陸軍中央では万里の長城以北に作戦範囲を限定し、悪化する欧米諸国との関係を局限して国際連盟脱退を防ごうと考えていた。

しかし、1933年(昭和8年)2月20日に閣議決定により日本国の国際連盟脱退が決定され、24日にはジュネーブで松岡全権大使が国際連盟の総会議場より退場した。これはリットン調査団の報告を受けて24日の国際連盟総会で「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」が決議された。

この勧告を受けた後に熱河作戦を継続した場合、国際連盟規約第16条に抵触することとなり、勧告を無視して戦争に出た場合は連盟加盟国に対日宣戦の正当性を付与する可能性があり、あるいは経済制裁の正当性を与え通商・金融の関係が途絶する可能性があったためである。このような制裁を防ぐため、外務省では陸軍中央の脱退尚早論を押し切る形で勧告前の連盟脱退を進め[55]ることとなった。結果的に連盟外の米国が当初から経済制裁に反対の立場であったことや、連盟各国の沈黙と無視により中華民国による連盟規約第16条(経済制裁)の対日適用の要求は黙殺された[56]。1933年2月24日、連盟総会は「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」(リットン報告に基づくが同報告書とは別個のものである)を採択し、3月27日に日本は国際連盟からの脱退を通告した[49]。1934年4月、外務次官重光葵発案の支那政策が広田外相、天羽英二発表 (天羽声明) によってされ、満洲国独立によって日中の面子が保たれ、東亜における平和秩序は諸外国の干渉によるのでなく日中二国間で協議すべきこととし、これに対して中華民国と列国は異議を表明した[57]

その後[編集]

満州領内から河北省察哈爾省にかけての地域で日本軍の占領に対する散発的な反乱が1940年代まで続いた。

白系ロシア人の救済[編集]

中ソ紛争における中華民国の敗北により中華民国はソ連への協力を迫られ、日本の情報源の一つであった白系ロシア人は中国内ロシア租借地である中東鉄道付属地(ハルピン)から締め出されるなど危機に陥っていた。しかし、満洲国が誕生すると、1934年に関東軍特務機関員の秋草俊が監督を務める白系ロシア人の人権尊重や地位向上のための満洲国政府は白系露人事務局を設置した。1935年には満洲国がソ連と北満鉄道讓渡協定を結んでソ連から中東鉄道及びその付属地を買収した。

満洲事変を描いた作品[編集]

瀋陽にある九・一八歴史博物館
映画
ドラマ
テレビ番組
アニメ
漫画
小説
関連本

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 満洲駐留の大日本帝国陸軍
  2. ^ 石原莞爾板垣征四郎は否定したが、極東国際軍事裁判田中隆吉の証言と、当時関東軍司令部付であった花谷正の手記という形の原稿「満洲事変はこうして計画された」(別冊『知性』昭和31年12月号)により関東軍の関与が明らかとなった。ただし、南満洲鉄道の日本爆破説の真偽を確証できないと主張するものもある(中西輝政北村稔『歴史通』2011年3月号『さきに「平和」を破ったのは誰か』)
  3. ^ 現在柳条湖の事件現場には九・一八歴史博物館が建てられている。この博物館には事件の首謀者としてただ2人、板垣と石原のレリーフが掲示されている
  4. ^ このとき、歯科医の小沢開作は青年連盟長春支部を動員して、付属地の日本人に訴えるとともに、日本警察官の派遣を要請した(山口重次『消えた帝国 満洲』[要ページ番号]
  5. ^ 二葉会は、「同人会」ともいい、会員は、(陸軍士官学校14期)小川恒三郎、(15期)河本大作山岡重厚、(16期)永田鉄山・小畑敏四郎・岡村寧次・小笠原数夫磯谷廉介板垣征四郎土肥原賢二黒木親慶小野弘毅、(17期)東条英機渡久雄工藤義雄松村正員飯田貞固、(18期)山下奉文岡部直三郎中野直三
  6. ^ 「無名会」ともいう。会員は、永田鉄山、岡村寧次、東条英機、関亀治、石原莞爾、坂西一良、鈴木貞一、横山勇根本博鈴木宗作村上啓作澄田睞四郎深山亀三郎土橋勇逸本郷義夫高嶋辰彦石井正美山岡道武
  7. ^ 24糎榴弾砲は、大砲の射撃の照準を指導した後藤亨の話によれば、6発撃ったら、味方から敵が逃げ出したので撃つのをやめてくれと電話があったという。石原大佐は満洲事変の功労重砲だったと述べている(山口重次『消えた帝国 満州』[要ページ番号])。
  8. ^ 7人の課長のうち、永田、岡村、渡、東条、磯谷の5人が一夕会の会員であり、重藤は桜会の会員で、今村は永田の意向で8月の人事異動で作戦課長に就任した。
  9. ^ 戦後、現代史家の秦郁彦(元日本大学法学部教授)が花谷中将など関係者のヒアリングを実施し、柳条湖事件の全容を明らかにしたものである。花谷中将の証言は秦が整理し、後に花谷正の名で月刊誌『知性別冊 秘められた昭和史』(河出書房)で発表し大反響が出た。後に、秦が事件に係わった他の軍人の聴取内容からも花谷証言の正確性は確認されている。(詳細は秦郁彦『昭和史の謎を追う』上(文春文庫)参考。)
  10. ^ 関東軍は、9月18日、事件直後、奉天総領事館やマスコミに発生地点名を意図的に「柳条溝」として流し、満鉄の記録でも9月19日から「柳条湖」を「柳条溝」に訂正した。しかし、本来の地名は「柳条湖」であり、しかも独立守備隊の「柳条湖分遣隊」の存在もあったので、関東軍内でもすぐに「柳条湖」に改めている。したがって、戦前にあっては「柳条湖」・「柳条溝」両方の表記が錯綜し、やがて敗戦のためにこの修正の事実が忘れられ、発生時点での報道によって「柳条溝」がいったん定着した。その後、1960年代後半に本来の発生地名は「柳条湖」であることを明示した島田俊彦の研究が現れたが顧みられることなく、その後、1981年の中国人研究者の著作発表などによって「柳条湖事件」の名称が定着していった。この経緯については 山田勝芳「満洲事変発生地名の再検討――『柳條溝』から『柳條湖』へ」 が詳しい。
  11. ^ 石原はヨーロッパ戦争史の研究と日蓮宗の教義解釈から特異な世界最終戦論を構想、日米決戦を前提として満蒙の領有を計画した。第二次世界大戦後に発表された花谷の手記によると、関東軍司令官本庄繁中将、朝鮮軍司令官林銑十郎中将、参謀本部第1部長建川美次少将、参謀本部ロシア班長橋本欣五郎中佐らも、この謀略に賛同していた。
  12. ^ 吉林は、借款による日本の利権鉄道である吉林・長春線の沿線にあり、出兵権上は一種のグレーゾーンと考えられていた(小林道彦『政党内閣の崩壊と満州事変』[要ページ番号]
  13. ^ 「昭和6年9月18日夜生起セル事件ヲ事変ト看做ス」(昭和6年9月21日閣議決定)、国立国会図書館。
  14. ^ 朝鮮軍司令官・林銑十郎の行動を昭和天皇は嘉し(実際には軍隊の移動は天皇の専権事項であり、越権は死刑もあり得る重罪である)、西園寺公望の処罰進言を退けたばかりか、後に総理大臣に任命する。
  15. ^ 坂野潤治はスティムソンによる情報漏洩がなければ当面の戦線拡大は抑えられていたと見ている。坂野潤治・田原総一朗『大日本帝国の民主主義』小学館,2006年,101-109頁
  16. ^ 後に満洲国立法院院長となる趙欣伯は、12月中旬に奉天で「東北人民はまた張学良と彼一党を怨むけれど、ただ日本の軍隊を怨まぬのみならず、日本軍隊が張学良とその他の軍隊を殲滅して、大悪人の手から東北人民を救い出してくれたことに対して、深く感謝しているしだいであります」と演説した(文藝春秋昭和7年3月号、大川周明『満洲新国家の建設』)。
  17. ^ 当時の首相には閣僚の罷免権はなく、閣議は全員一致を原則としており、閣内不一致は政策決定不可能になり、総辞職するほかなかった

出典[編集]

  1. ^ 山室信一、「「満洲国」の法と政治―序説」『人文學報』 1991年 68巻 pp.129-152, doi:10.14989/48355, 京都大学人文科学研究所。P.132、,PDF-P.5およびP.137,PDF-P.10脚注 5
  2. ^ 「世界史のなかの満洲帝国」宮脇淳子(PHP新書387)第八章「満洲帝国の成立」排日運動の激化
  3. ^ a b 猪木正道『軍国日本の興亡 : 日清戦争から日中戦争へ』中央公論社、1995年、pp.26-34
  4. ^ a b c 江口圭一「1910-30年代の日本」、pp.9-13.
  5. ^ a b c d 臼井勝美『日中戦争-和平か戦線拡大か-』中公新書 1532、2000年4月25日、ISBN 4-12-101532-0、3頁。
  6. ^ 猪木正道『軍国日本の興亡 : 日清戦争から日中戦争へ』中央公論社、1995年、pp. 73-84.
  7. ^ 不換紙幣の標本奉天票 金と物どう動く 東京朝日新聞 1926年5月30日
  8. ^ a b ソヴィエト露国の極東進出 斎藤良衛 1931年8月15日
  9. ^ a b 最近支那国際関係 斎藤良衛 1931年11月4日
  10. ^ 同書、PP.188-189
  11. ^ 標題:白系露人ノ策動 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B10074612100、東支鉄道関係一件/支那側ノ東支鉄道強制収用ニ原因スル露、支紛争問題(一九二九年)/白系露人ノ策動(B-F-1-9-2-5_4_5)(外務省外交史料館)」 pp.55-56 1929年
  12. ^ a b c d e f g 山口重次『消えた帝国 満州』[要ページ番号]
  13. ^ 東支鉄道を中心とする露支勢力の消長 下巻 南滿洲鐵道株式會社哈爾濱事務所運輸課 1928年5月
  14. ^ a b 滿蒙事情 南満洲鉄道株式会社 1930年
  15. ^ a b 満洲の主要都市を暴動化の大陰謀 撫順を中心とする中国共産党二十四名検挙さる 京城日報 1931年3月21日
  16. ^ 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B04013014300、各国共産党関係雑件/中国ノ部 /附属物 第一巻(I-4-5-2-011)(外務省外交史料館)」 1.撫順ニ於ケル中国人共産運動者逮捕ニ関スル件 分割1
  17. ^ a b 牛蘭事件の審問 第三国際の東洋攪乱 満洲日報 1931年9月18日
  18. ^ 抗日支那の真相 中国通信社 1937年
  19. ^ 宮脇淳子『歴史通』2010年3月号『中国人に「侵略」だと言われたら」
  20. ^ a b c d e f g h i j k 川田稔『満州事変と政党政治』
  21. ^ 倉山満『満洲事変』、KKベストセラーズ、pp.199-200
  22. ^ 『「反日思想」歴史の真実』拳骨拓史
  23. ^ a b c 川田稔『浜口雄幸と永田鉄山』
  24. ^ 筒井清忠『昭和期日本の構造』
  25. ^ a b 岡崎久彦「百年の遺産-日本近代外交史(41)」”. 産経新聞. 岡崎久彦 (2002年5月20日). 2011年8月19日閲覧。
  26. ^ 加藤陽子 2007, p. 106.
  27. ^ 加藤陽子 2007, p. 107-108.
  28. ^ 加藤陽子 2007, p. 108.
  29. ^ a b 石川禎浩『革命とナショナリズム 1925-1945 シリーズ中国近現代史③ [岩波新書(新赤版)1251]』岩波書店、2010年10月20日 第1刷発行、ISBN 978-4-00-431251-2、77頁。
  30. ^ 福井義高『日本人が知らない最先端の世界史2』PHP研究所2017年、pp.277-278
  31. ^ 加藤陽子 2007, p. 110.
  32. ^ a b 『現代史資料7 満洲事変』みすず書房
  33. ^ 内務省警保局「出版警察概観」1931年度分、107頁
  34. ^ 横島公司「昭和初期における新聞報道の一側面――満州某重大事件と検閲問題――」「地域と経済」3号、札幌大学[要ページ番号]
  35. ^ 臼井勝美『満州事変』講談社学術文庫 2020年 96-97頁
  36. ^ 福井義高『日本人が知らない最先端の世界史2』PHP研究所2017年、pp.278-283
  37. ^ a b 谷田勇『実録・日本陸軍の派閥抗争』
  38. ^ 倉山満『満洲事変』KKベストセラーズ、pp.167-173
  39. ^ 福井義隆『日本人が知らない最先端の世界史2』PHP研究所、2017年、p.312
  40. ^ 森武麿『集英社版日本の歴史 アジア・太平洋戦争』pp.62-64、集英社、1993
  41. ^ 倉山満『満洲事変』KKベストセラーズ、pp.198
  42. ^ チャールズ・カラン・タンシル『裏口からの参戦』上、pp.172
  43. ^ 倉山満『満洲事変』、KKベストセラーズ
  44. ^ 福井義高『日本人が知らない最先端の世界史2』PHP研究所2017年、pp.313-315
  45. ^ チャールズ・カラン・タンシル『裏口からの参戦』上、pp.189
  46. ^ 福井義高『日本人が知らない最先端の世界史2』PHP研究所2017、pp.284-288
  47. ^ 福井義高『日本人が知らない最先端の世界史2』PHP研究所2017年、pp.287-291
  48. ^ 福井義高『日本人が知らない最先端の世界史2』PHP研究所2017年、pp.291-294
  49. ^ a b c d e f g h i j 臼井勝美『新版 日中戦争 [中公新書 1532]』中央公論新社、2000年4月25日発行、ISBN 4-12-101532-0、4~5頁。
  50. ^ 倉山満『満洲事変』KKベストセラーズ、pp.168-169
  51. ^ 加藤陽子『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』朝日出版社、2016年8月、105頁。ISBN 978-4-255-00940-7 
  52. ^ 紛爭解決ニ至ラサルトキハ聯盟理事會ハ全會一致又ハ過半數ノ表決ニ基キ當該紛爭ノ事實ヲ述へ公正且適當ト認ムル勸告ヲ載セタル報告書ヲ作成シ之ヲ公表スヘシ
  53. ^ 聯盟理事會ノ報告書カ【紛爭當事國ノ代表者ヲ除キ】他ノ聯盟理事會員全部ノ同意ヲ得タルモノナルトキハ聯盟國ハ該報告書ノ勸告ニ應スル紛爭當事國ニ對シ戰爭ニ訴ヘサルヘキコトヲ約ス(報告書が当事国を除く理事会全部の同意を得たときは連盟国はその勧告に応じた紛争当事国に対しては戦争に訴えない)
  54. ^ 臼井勝美『新版 日中戦争 [中公新書 1532]』中央公論新社、2000年4月25日発行、ISBN 4-12-101532-0、13頁。
  55. ^ 井上寿一『政友会と民政党』2012年、中公新書、p166
  56. ^ 「経済封鎖からみた太平洋戦争開戦の経緯」高橋文雄(戦史研究年報2011.3)[1][2] 、PDF-P.12
  57. ^ 臼井勝美『新版 日中戦争 [中公新書 1532]』中央公論新社、2000年4月25日発行、ISBN 4-12-101532-0、10~12頁。

参考文献[編集]

関連文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]