田中誠一

ウィキペディアから無料の百科事典

田中 誠一
たなか せいいち
生年月日 1926年4月11日
出生地 日本の旗 日本 愛媛県松山市
没年月日 (2003-04-08) 2003年4月8日(76歳没)
死没地 日本の旗 日本 愛媛県松山市
出身校 旧制愛媛県立松山商業学校
前職 松山市助役
称号 勲四等旭日小綬章
従五位

第25・26代 松山市長
当選回数 2回
在任期間 1991年5月2日[1] - 1999年5月1日
テンプレートを表示

田中 誠一(たなか せいいち、1926年大正15年)4月11日[2] - 2003年平成15年)4月8日)は、日本の政治家、第25・26代松山市長。

人物[編集]

松山市出身[3]。旧制愛媛県立松山商業学校(現 愛媛県立松山商業高等学校)を卒業後、1945年第11師団香川県善通寺市)に入隊。

終戦後の1946年松山市役所職員に採用される。市民課長、企画管理部長を歴任し、助役を3回にわたり(1979年6月25日-1979年7月9日、1983年6月25日-1984年12月25日、1987年6月25日-1989年10月10日[1])務める。

1991年、5選を狙う当時の現職市長中村時雄に対抗して出馬し初当選[4]。「しあわせひろがるまち松山」をスローガンに、その後2期8年間にわたって松山市長を務めた。その間、四国市長会長、全国市長会副会長にも就いた。

「車座行政」の推進と「好きです松山運動」の展開を掲げ、人情味のある行政を目指した。職員や周辺からの人望も厚く、堅実な市政運営は評価が高かった。社会基盤整備や福祉政策に力を注ぎ、全国平均よりも低かった松山市の下水道普及率を高めることに貢献した。

一方で、松山城二の丸庭園[5]松山中央公園や松山市役所前地下駐車場などの大型公共事業は、市民からの批判の的になった。

1999年松山市長選挙中村時広[6]に敗退し引退。晩年は、表舞台との接触を避けるようになり、入退院を繰り返すようになっていた。生前、「多忙が緊張感、向学心を膨らませる。仕事冥利に喜びを感ずる。」と語っていた。

2003年4月8日、呼吸器不全のため松山市内の病院で死去、76歳没[3][7]。死没日をもって勲四等旭日小綬章追贈、従五位に叙される[8]

松山市生涯学習振興財団理事長として

田中が理事長を務める松山市生涯学習振興財団が、平成4年度(1992年4月1日-1993年3月31日)に、松山市立清水小学校分離新設に伴う事前調査として松山市山越3丁目及び姫原1丁目で発掘調査を行った[9]

脚注[編集]

  1. ^ a b 歴代三役 - 松山市
  2. ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、371頁。
  3. ^ a b “田中誠一氏死去/前松山市長”. 四国新聞. (2003年4月8日). https://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20030408000224 2017年10月30日閲覧。 
  4. ^ 市川虎彦「「保守王国」の市長のキャリア形成-愛媛県主要都市の歴代市長より-」『松山大学論集』第23巻第4号、2011年10月、129-151頁、ISSN 0916-3298NAID 1100096254272021年7月1日閲覧 
  5. ^ 松山の歴史 - 松山市
  6. ^ 前市長中村時雄の息子。
  7. ^ “前松山市長の田中誠一さん死去”. 朝日新聞. (2003年4月8日). オリジナルの2003年4月10日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20030410004159/http://www.asahi.com/obituaries/update/0408/003.html 2022年2月7日閲覧。 
  8. ^ 『官報』第3606号11頁 平成15年5月15日号
  9. ^ 栗田茂敏『影浦谷古墳』33号、松山市教育委員会/財団法人松山市生涯学習振興財団埋蔵文化財センター〈松山市文化財調査報告書〉、1993年https://sitereports.nabunken.go.jp/115152021年7月1日閲覧