相馬尊胤
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相馬尊胤 | |
時代 | 江戸時代中期-後期 |
生誕 | 元禄10年閏2月19日(1697年4月10日) |
死没 | 明和9年4月6日(1772年5月6日) |
改名 | 千代松→清胤→宗胤→尊胤 |
別名 | 民部 |
官位 | 従五位下、弾正少弼 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗→家重→家治 |
藩 | 相馬中村藩 |
氏族 | 相馬氏 |
父母 | 父:相馬昌胤、養父:相馬叙胤 |
兄弟 | 品(相馬叙胤正室)、尊胤、福胤、辰(板倉勝里正室) |
妻 | 正室:本多康慶の娘 |
子 | 養子:恕胤 |
相馬 尊胤(そうま たかたね)は、江戸時代中期から後期の大名。相馬氏第23代当主。陸奥相馬中村藩第7代藩主。第5代藩主・相馬昌胤の次男。正室は本多康慶の娘。幼名は千代松。通称は民部。初名は清胤(きよたね)、宗胤(むねたね)。官位は従五位下、弾正少弼。
経歴
[編集]相馬昌胤の次男(庶子)として生まれた。しかし、元禄9年(1696年)7月5日、実父昌胤は正室松平氏の生んだ姉・品姫に婿養子叙胤(佐竹義処の次男)を迎えていた。宝永5年(1708年)12月3日、義兄であった叙胤の養子となる。同年12月15日、将軍徳川綱吉に御目見する。宝永6年(1709年)6月5日、養父叙胤の隠居により、家督を相続した。宝永7年(1719年)閏8月23日、従五位下讃岐守に叙任する。藩主在任中、幕府から利根川・荒川普請助役などを命じられた。
宝永5年(1708年)12月3日、養父叙胤の三男・徳胤を養子にした。享保13年(1728年)11月28日、弾正少弼に転任。しかし宝暦2年(1752年)5月15日、家督を相続する前に徳胤は死去した。明和2年(1765年)5月21日、隠居し、徳胤の次男・恕胤に家督を譲った。明和9年(1772年)4月9日、死去した。
系譜
[編集]父母
正室
- 本多康慶の娘
養子