稚足姫皇女

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稚足姫皇女(『前賢故実』より)

稚足姫 皇女(わかたらしひめ の ひめみこ、生年不詳 - 雄略天皇3年(推定459年))は、『記紀』に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。雄略天皇葛城円(かずらき の つぶら)大臣の娘、葛城韓媛との間の子。同母兄に白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこ の すめらみこと、(清寧天皇)。別名は栲幡姫皇女(たくはたひめ の ひめみこ)。『古事記』では「若帯比売命」。

経歴[編集]

『日本書紀』巻第十四によると、伊勢神宮の斎宮となったが、雄略天皇3年(推定459年)、阿閉臣国見(あえ の くにみ)が流した譖詐(しんさ)の言葉により、死に追いやられた。それによると、

「武彦、皇女(ひめみこ)をけがしまつりて任身(はら)ましめたり」

武彦とは、廬城部連武彦(いおきべ の むらじ たけひこ)のことで、湯人(ゆえ)と言って、皇族の身の廻りの世話をする人であった。天皇は使者を派遣して、娘を取り調べたが、

「妾(やっこ)は識(し)らず」

という返事であった。そして、皇女は神鏡(あやしきかがみ、(『釈日本紀』は八咫鏡とする)を持ち出して詠んだ。

五十鈴川(いすずのかは)の上(ほとり)に詣(い)でまして、人の行(あり)かぬところを伺ひて、鏡を埋(うづ)みて経(わな)き死ぬ。

皇女は行方不明となった。 雄略天皇は皇女が不在であることを怪しみ、あちこち捜しさせた。すると皇女が鏡を埋めたあたりから蛇のようにが立ち上っており、皇女の遺体も無事発見された。皇女の遺体の腹を割いてみると、水が入っていて、石が中にあった、という。

これにより、皇女と武彦の無罪は証明されたのだが、既に我が手で息子を殺してしまった廬城部枳莒喩(いおきべのきこゆ)は国見のことを恨み、殺そうとしたという[1]

解剖[編集]

前述の、「皇女の腹を割いてみると」と記された記録、雄略天皇の命によって行われたこれが、日本史上に残る最初の人体解剖である、とされている。ただしこれは一種の法医解剖であり、学術研究のための解剖ではない。その後、701年に成立した大宝律令において解剖の禁止が明文化され、江戸時代に入るまで人体の解剖は行われなかったとされているが、大宝律令の原文は残存していないため詳細は不明である。

脚注[編集]

  1. ^ 『日本書紀』雄略天皇3年4月条

参考文献[編集]

関連項目[編集]