立石岐

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立石 岐(たていし ちまた、1847年6月25日弘化4年5月13日[1])- 1929年昭和4年)4月4日[1][2])は、明治時代の政治家養蚕家自由民権運動家衆議院議員(3期)。旧姓は小野[1][3]

経歴[編集]

亀岡藩の郷士小野某の三男として備中国浅口郡、のちの船穂村(船穂町を経て、現倉敷市船穂町船穂)に生まれる[3]。幼少期に小野春発に学んだのち森田節斎の門に入り、さらに中原某に武術を学んだ[3]。19歳の時、美作津山藩西西条郡二宮村苫田郡二宮村を経て、現津山市二宮)の豪農立石正介の養嗣子となった[3]。父の正介は大橋敬之助(立石孫一郎)とともに尊王攘夷に奔走し、遂には終身禁固に処され獄死した[3]

1878年(明治11年)中島衛らと津山に共之社を結成し養蚕業の育成に取り組む[1]。翌年、県制発布とともに岡山県会議員に当選したが、その翌年辞した[4]。自由民権を唱え、1882年(明治15年)には県内の有志を募り津山にて政談いろは新聞を発刊したが、直ちに発禁処分となった[4]1884年(明治17年)には判事補となり岡山始審裁判所詰を命じられた[4]。その後、1889年(明治22年)2月の大日本帝国憲法公布に際して衆議院議員を志し、加藤平四郎らが組織する美作国友愛会に所属した[4]。さらに同年5月に東京で行われた大同団結大会に臨み、県下の有志を募り備作大同倶楽部を組織した[4]。ほか、勧解吏員、中国鉄道取締役などを務めた[2]

1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では岡山県第1区から自由党所属で出馬し当選[2]第2回総選挙第4回総選挙でも当選し衆議院議員を通算3期務めた[2]

人物[編集]

もと大酒飲みであったが、クリスチャンに改宗し以後断固禁酒した[4]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 上田ほか 2001, 1167頁.
  2. ^ a b c d 衆議院、参議院 編 1962, 304頁.
  3. ^ a b c d e 三松 1890, 66頁.
  4. ^ a b c d e f 三松 1890, 67頁.

参考文献[編集]

  • 三松隠士『帝国議会衆議院議員列伝 第1巻』公同会、1890年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778033 
  • 衆議院、参議院 編『議会制度七十年史 第11』大蔵省印刷局、1962年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3000139 
  • 上田正昭ほか 監修『講談社日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 4062108496