第3回全日本フォークジャンボリー

ウィキペディアから無料の百科事典

第3回全日本フォークジャンボリーとは1971年8月7日から9日にかけて岐阜県恵那郡坂下町(現在の中津川市)にある椛の湖(はなのこ)の湖畔で開催された第3回の全日本フォークジャンボリー(中津川フォークジャンボリー)である。

概説[編集]

メインステージとサブステージがあり、サブステージはフォークとロックの二つに分かれ、さらに黒テントや、野外映画館などもあり、面倒な構成となっていた[1]。またロックのサブステージに高田渡なぎら健壱が出演するなど非常に曖昧で、メインとサブステージの分け方にも出演者の間で不満が募り、出演順を巡ってトラブルが繰り返された[2]。この年初参加した吉田拓郎は、「URCの連中より、自分の方が売れている。なぜ俺がサブステージなんだ」と関西系のURCのシンガーとぶつかり、東京対大阪の様相を呈した[3]。このコンサートの模様は2つのレコード会社によってレコーディングされ、会場内にテレビが持ち込まれていたが、これに一部の客が"主催者側の姿勢に疑問あり"と騒ぎ始めた。

2日目の夕方、数百人にも満たないサブステージで演奏をはじめた吉田拓郎は、商業主義の乱入に反発し盛んに観客を煽った[4][5]。歌い始めた吉田のPAにトラブルが発生したが小室等六文銭をステージに呼びマイク無しで演奏を続行。何かに憑かれたように「人間なんて」を延々と歌う吉田のもとに客が次第に集まり始め、その観客を巻き込んでの歌声が広がっていき、その数はどんどん膨らんでいった[6][7]。「人間なんて」の単純な歌詞の繰り返しには呪詛的な要素もあるため、酒の酔いも手伝い、一種のトランス状態が現出[6][7]、「人間なんて」の演奏を2時間近く続けるうち熱狂した観客がさらに増え1,000人以上になった[8]。PAもなく吉田の声も出なくなってきたころ、観客は聴こえづらいとばかり前に行きたがり、前方にいた人が押されいつ事故が起こってもおかしくない状況に至ったため、小室の「ここでやることは終わった。俺たちは倒れる。みんなメインステージに行こう!」の言葉が引き金となり観客がメインステージへとなだれ込んだ[2][6][9][8]

幸いその時点で大きな騒ぎにはならなかったものの、トイレも少なく、食事も不足している中、前日の雨で会場の環境が悪かった(会場は屋根もなく全面赤土で雨が降ったためベタベタしていた)こともあり、場の雰囲気は荒れていた[8]。20時過ぎに岡林信康三上寛が出演することで観客に大受けして、一旦は騒ぎも落ち着いていたが、その後、日野皓正安田南鈴木勲トリオというジャズの流れの中で、「どうしてフォークジャンボリーなのに、フォークじゃない連中が出てるんだ」という不満の声が勃発。1曲目が終わってざわついている会場に向かって、安田南が「文句あるんなら上がってらっしゃいよ」と言ったのをきっかけに、ステージにベ平連系の若者を中心とした観客数十人が上がり込んで占拠した[8]。トマトを投げつけられた安田南の演奏は中止され、若者はマイクの奪い合いで混乱、スピーカーからほとばしる叫びは、湖面から山肌をも震わせる程であったといわれる。さらに安田に対して「(演奏)やめろ!!」「帰れ!!」といったブーイングの声はおろか、コカ・コーラのガラスの空き瓶などが飛び交ったり[10]、舞台を目がけて花火が打ち込まれ会場は騒然、主催者との討論会となりそのままコンサートも自然流会してしまった[11]

暴徒化した観客が岡林信康を目がけて殺到したが、岡林は会場に残るつもりでいた。しかしスタッフが説得し岡林を帰したため、吉田との主役交代をより印象付ける結果となった[2][12][13]

北山修(きたやま おさむ)は「拓郎と岡林の両陣営に観客がわかれて、会場は殺気だった雰囲気となり、『帰れ』『帰れ』の怒号が飛び交う…。僕は観客としての参加でしたが、恐怖を感じましたね」などと述べている[14]

なお、安田の後にステージに立つ予定だったのははっぴいえんど[15][16]山下洋輔トリオやザ・ディランII遠藤賢司もプログラムには掲載されていなかったが隠し玉でスタンバイしていたという話もあるが[8]、フォークリポートに掲載されている出演表によると、プログラムにはいずれの掲載もなく、現場の混乱から生まれた流言の可能性もある[16]

岡林信康から吉田拓郎へ選手交代したという伝説を作るためか、後年は吉田の部分だけが取り上げられる傾向だが、実際の顛末がいくぶん省略されているようである。

なぎら健壱は、「拓郎は受けてなく、殺してやると言っていた奴の方が多かった」などと話している[17][18]。他にサブステージの運営を10万円で請け負っていた後藤由多加が客に酒を飲ませ回って煽動していたという話もある[19]はしだのりひこによると暴動を扇動したのはジャンボリーの数日前、広島被爆者慰霊碑に当時の首相・佐藤栄作が献花に訪れた際、火炎瓶を投げつけて機動隊から逃れ中津川まで流れてきた人たちだという[20]

また、吉田拓郎は、自身がパーソナリティーを務めたオールナイトニッポンGOLDで「人間なんて」を2時間演奏したことを否定した。また、小室等の「メインステージに行こう」発言についても、単に演奏する曲目がなくなったための発言であり、客を扇動するものではなかったと語り、中津川に限らず当時の話は脚色されてしまったものが多いと述べた。メインステージの雰囲気が悪かったことは認めており、その後拓郎達は帰宅したため、その後の騒動に関しては知らなかったと証言している。

牧村憲一は、「サブステージで起こったことは夕方、メインステージ占拠は夜中ですから、サブステージからメインステージまでは何と数時間以上かかる距離ですね」と指摘している。[21]

また、このコンサートの主催者を代表していた笠木透なる人物は、「元々はこの第3回公演を最後に終了する予定にしていた」が、上記の押し問答により、途中打ち切りというあっけない結末になったとされている[10]

コンサートの模様は、テレビマンユニオンが45分のフィルムに収め保管しているといわれる[1]

エピソード[編集]

  • サブステージでの高田渡の「自転車にのって」歌唱の際、サイドギター担当の加川良に向かって、客席にいた吉田拓郎ウイスキーをラッパ飲みしながら「加川良、しっかりギター弾けよ、お前」などとしつこく野次るので、高田がステージの上から「よしだたくろう、少しうるせーぞ!」「よしだたくろう、いつか殺してやる」と言い返す[2][22]。拓郎の出番はこのすぐ後で、ふらつく足でステージに立ち、前述のパフォーマンスを行う[2]
  • 当時なぎら健壱は、列車で新宿から中津川に向かったが、列車の移動だけで9時間もかかった。そこから会場までは、さらにバスで30分。国鉄(現JR)は、観客の多さに臨時列車まで出して対応した[23]
  • 三上寛は当時無名で、1971年のお正月明けくらいに、『週刊明星』の方が1枚のレコード(『三上寛の世界』)を持って「とにかくすごいのがいるんだけど、唄う場所がない」と音楽舎を訪ねてきて、そのアルバムを聴いてびっくりした。前年の1970年フォークジャンボリーに加川良が飛び入りしたり、遠藤賢司も出て大受けした経験から、三上寛についての情報は伏せておこうとなり、実際にメインステージでの1曲目「夢は夜ひらく」がすごくウケたので、これはいけるとなった[8]

出演表[編集]

『「風に吹かれた神々」鈴木勝生著、1987年、シンコー・ミュージック』内の「フォークリポート1971年秋の号」より[16]

※ この出演表には、2日目の安田南の欄に、「ステージ占拠事件が起きる」とある。

日付 時間 メインステージ ロック・サブ フォーク・サブ
8月7日 14 乱魔堂

野沢享司

アマチュア
15 (リハーサル)

長野隆

斉藤哲夫

ガロ

六文銭

はちみつぱいなど

なぎらけんいち

岡林信康・黒田征太郎

16 トン・フー子 加川良

岩井宏

17 DEW


小野和子

金延幸子

友部正人

アマチュア

18 クライマックス

五輪真弓

(友川かずき)

遠藤賢司

19 ガロ

武蔵野タンポポ団

はっぴいえんど
20 ミッキー・カーチス

加川良

21 長谷川きよし

浅川マキ

22 ブルース・クリエイション

カルメン・マキ

DEW
23 かまやつひろし

シティ・ライツ

三上寛


ブルース・クリエイション

24 小林啓子

御陣乗太鼓

デキシーキングス

25 吉田拓郎

六文銭

岡林信康

カルメン・マキ


ザ・サード

8月8日 12 山本コウタロー

長野隆

のこいのこ

13 斉藤哲夫

あがた森魚

小野和子

14 ディランⅡ

村上律

ぼく

野沢享司

山本コウタロー

長野隆

山平和彦

15 中川イサト アマチュア

シュリークス

万華鏡

16 ホームタナーズ

はしだのりひこと

中村洋子

友部正人

品川寿男

シバ

都会の村人

シティ・ライツ

本田路津子

麻田浩

17 本田路津子

麻田浩


高田渡


五輪真弓

岩井宏

岩井宏・高田渡・加川良

18 斉藤哲夫

シティ・ライツ

シュリークス

トン・フー子

岩井宏

友部正人

武蔵野タンポポ団

六文銭・吉田拓郎



19 加川良

中川五郎

都会の村人

クライマックス

20 岡林信康

三上寛

万華鏡

なぎらけんいち

21 日野皓正クインテット あがた森魚
22 安田南 斉藤哲夫
23 はちみつぱい
24 ミッキー・カーチス

乱魔堂

出演者[編集]

参加ミュージシャン[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 黒沢進『日本フォーク紀』シンコー・ミュージック、1992年、p41-42
  2. ^ a b c d e 吉田拓郎 挽歌を撃て、石原信一、八曜社、p22-32
  3. ^ 『日本フォーク紀』、p176
  4. ^ はっぴいえんど伝説、1983年萩原健太、八曜社、p72-73、松本隆対談集 KAZEMACHI CAFE、ぴあ、p114
  5. ^ “斜面(7月1日)吉田拓郎の後ろ姿 【あとがき帳あり】”. 信濃毎日新聞 (信濃毎日新聞). (2022年7月1日). オリジナルの2022年7月5日時点におけるアーカイブ。. https://archive.ph/C6EeS 2022年7月5日閲覧。 
  6. ^ a b c エレックレコードの時代、2006年、アクセス・パブリッシング、71-75
  7. ^ a b 第86回 少年少女にも役立つ、中高年のための夏フェス入門~その2
  8. ^ a b c d e f #1【後半】『第3回全日本フォークジャンボリーの真実 〜現場からの報告〜』 - コラム _ Rooftop2020年3月15日閲覧。
  9. ^ 佐藤龍一の流星オーバードライブ - livedoor Blog(ブログ)2013年06月07日
  10. ^ a b 安田南のステージが占拠されて幕を閉じた第3回フォーク・ジャンボリー~「日本の音楽シーンがフォークからロックに変わった瞬間だった(TAP the Top)
  11. ^ その押し問答を収録した音源
  12. ^ 青春よ再び 中津川フォークジャンボリー38年ぶり復活 - asahi.comナタリー - 日本初フェス「フォークジャンボリー」映画40年ぶりDVD化あの なぎら健壱さんも熱唱 リメンバー 中津川フォークジャンボリー中津川の観光・旅行情報 - MAPPLE 観光ガイド
  13. ^ 佐野史郎の音楽的生活フォークソングの時代プロフィール : 吉田拓郎 : avex networknikkansports.com > 芸能TOP > インタビュー > 吉田拓郎ミュージアムセレクト | Museum of Modern Music 、別冊宝島『音楽誌が書かないJポップ批評44 拓郎&陽水と「フォーク黄金時代」』、宝島社、p8、46、47、52-54、AERA in FOLK あれは、ロックな春だった!、2006年朝日新聞社p8-16、43-44、60年代フォークの時代、1993年シンコーミュージック、p181、 197-201、『エレックレコードの時代』2006年9月、アクセス・パブリッシング、p71-75、『1970音楽人大百科日本のフォーク/ニューミュージック/ロック』、1994年学習研究社、p52-53、読むJ- POP 1945-1999私的全史、1999年、田家秀樹著、徳間書店、p136、『ラヴ・ジェネレーション1966-1979 新版 日本ロック&フォークアルバム大全』、音楽之友社、p26、『地球音楽ライブラリー 吉田拓郎』、TOKYO FM出版、p7、『夢のあがり―ニューミュージックの仕掛人たち―』、p52-59、『俺達が愛した拓郎』、1985年8月、石原信一他著、八曜社、p22-23、『にほんのうた 戦後歌謡曲史』、北中正和、p165-166、産経新聞1996年9月24日夕刊、 p10、『わが青春の流行歌』、池田憲一、白馬出版、p107、108、吉田拓郎20th Anniversary 元気てす!(FM NACK5、1990年10月10日)、ニッポンPOPの黄金時代、恩蔵茂、KKベストセラーズ、 p218-221、『風のようにうたが流れていた』、小田和正、宝島社、p104-105、『さすらいびとの子守唄』1972年北山修角川書店、p238-246、『ビートルズ』、1987年、きたやまおさむ、講談社、p124-127、『メディア時代の音楽と社会』、1993年小川博司音楽之友社、p144
  14. ^ 喜多由浩 (2023年10月11日). “話の肖像画 精神科医・エッセイスト きたやまおさむ<10> 僕らはだんだん倦んでいった”. 産経ニュース. 2023年10月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年11月18日閲覧。
  15. ^ 定本はっぴいえんど、1986年、白夜書房、p56-57、70
  16. ^ a b c [ 1971 _ すりいこおど-1970年代周辺の日本のフォーク&ロック - 楽天ブログ]2020年3月15日閲覧。
  17. ^ ジェネレーションF―熱狂の70年代×フォーク、桜桃書房、p60
  18. ^ 吉田拓郎は青春の反抗者だったのか - 旅行人編集長のーと
  19. ^ ムッシュ!、2002年ムッシュかまやつ日経BP社、p140-141、頭脳警察、2004年8月・須田諭一著・河出書房新社、 p231-232
  20. ^ この人に聞きたい青春時代2、p202-216
  21. ^ Facebookへの投稿(2017年7月9日)”. 2017年7月12日閲覧。
  22. ^ 『新譜ジャーナル・ベストセレクション'70s』、自由国民社、2003年、p251
  23. ^ 『日本フォーク私的大全』なぎら健壱著、筑摩書房、1995年9月25日、P137-138
  24. ^ 『日本フォーク私的大全』なぎら健壱著、筑摩書房、1995年9月25日、P70

外部リンク[編集]