紀元前322年

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紀元前322年(きげんぜんさんびゃくにじゅうにねん)は、ローマ暦である。

当時は、「ルリアヌスとクルウスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元432年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前322年と表記されるのが一般的となった。

他の紀年法[編集]

できごと[編集]

マケドニア王国[編集]

ギリシア[編集]

  • アテナイ人とその仲間がマケドニア王国のアンティパトロスに対してラミアで起こした戦争は、2万の歩兵隊と1500の騎兵隊を率いたレオンナトスによって鎮圧された。レオンナトスはこの戦争で死亡した。
  • 9月5日 - クラテロスは、クランノンの戦いでアテナイ人を破るための艦隊に到着した。この戦いは、ラミア戦争において、アンティパトロスの完勝となった。
  • アテナイの雄弁家で外交官のデマデスは市民権を取り戻し、彼とポキオンはアンティパトロスと和平を交渉し、ラミア戦争を終結させることができた。交渉に出発する前、彼はデモステネスとその仲間のヒュペレイデスらに死刑を宣告し、アテナイ市民を説得した。交渉の結果、和平は達成されたが、アテナイはピレウスの港をマケドニア王国に占領されることになった。
  • デモステネスはマケドニア王国から逃亡し、投降を求めた。彼は逮捕される際に、服毒自殺した。
  • ヒュペレイデスは、アイギナ島に逃げたが、ポセイドン神殿でマケドニア兵に捕まり、処刑された。

エジプト[編集]

  • 慣習的に、マケドニア王国の王は、前任者を埋葬することで王位の継承権を主張した。ペルディッカスと対立していたプトレマイオス1世はアレクサンドロス3世をエジプトのメンフィスに運び、金のサルコファガスに埋葬した。プトレマイオス1世はその後、アレクサンドロス3世の未亡人と結婚し、エジプト及び隣接したリビアアラビア半島の統治を開始した。
  • 国内の争乱で優位に立ったプトレマイオス1世は、ペルディッカスの承認なくキレナイカを入手した。
  • プトレマイオス1世は、ペルディッカスに通じていたとの疑いをかけ、自身の補佐であるナウクラティスのクレオメネスを処刑した。これによって、プトレマイオス1世はクレオメネスが蓄えていたかなりの財産を手に入れた。

インド[編集]

中国[編集]

  • 張儀の宰相となり、密かに秦の軍を招いて魏を攻撃し、曲沃平周を取る。

誕生[編集]

死去[編集]

脚注[編集]

注釈

出典

関連項目[編集]