紀元前543年

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紀元前543年(きげんぜんごひゃくよんじゅうさんねん)は、西暦ローマ暦)による年。

紀元前1世紀共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元211年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前543年と表記されるのが一般的となった。

南伝(上座部仏教)説では、釈迦入滅の翌年とされ、タイカンボジアラオスでは、この年を仏滅紀元仏暦)元年とする[1]

他の紀年法[編集]

できごと[編集]

インド[編集]

ギリシア[編集]

中国[編集]

  • 余昧が、前年に殺された兄王余祭を継いで、の王に即位した。
  • 簡公が大夫たちと盟を結んだ。
  • 景侯が子の姫般に殺害された。
  • で火災があり、伯姫が焼死した。
  • 鄭の良霄が公孫黒の攻撃を受けて許に亡命した。良霄は罕虎(子皮)を頼って帰国したが、駟帯と戦って羊肆で殺害された。
  • の儋括が景王の弟の佞夫の擁立を図った。このため尹言多・劉毅・単蔑・甘過・鞏成らが佞夫を殺害した。儋括・王子瑕らがに亡命した。
  • 公子囲大司馬の蔿掩を殺害した。
  • 晋・・宋・・鄭・・莒・・薛・・小邾が澶淵で会合した。
  • 鄭の罕虎が子産に政務を委譲した。

誕生[編集]

死去[編集]

脚注[編集]

  1. ^ ミャンマースリランカでは、入滅の年である紀元前544年を元年とする。
  2. ^ Peisistratus”. Encyclopædia Britannica, Inc.. 2015年7月5日閲覧。

関連項目[編集]