藤枝昭英
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藤枝 昭英(ふじえだ しょうえい[1]/あきひで[注釈 1]、1909年12月7日[4] - 1993年5月15日[1])は、日本の陸上競技(中距離走)選手・政治家。昭和戦前期、関西大学在学中に選手として活躍し、800m走の日本記録を保持していた[5]。日本陸上競技連盟名誉副会長・奈良県議会議長[1]。
生涯
[編集]陸上選手として
[編集]奈良県出身[6]。磯城農学校[6](現在の奈良県立磯城野高等学校)在学中の1929年、第1回関西中等学校陸上競技大会において800m走・1500m走の2種目で優勝[7]。1930年に関西大学専門部経済学科に入学[8]。当時の関西大学陸上競技部では岸源左衛門が指導に当たって多くの名選手を輩出しており、藤枝と同時期の出身者には大島鎌吉らがいる[9]。
関西学生陸上競技対校選手権(関西インカレ)では第10回大会から第15回大会まで800m走5連覇を達成[10]。日本学生陸上競技対校選手権大会(インカレ)では1931年の第3回大会から1933年の第5回大会まで800m走を3連覇し[11]、1933年大会では1500m走でも優勝した[12][5]。また、東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)には1931年の第12回大会と1932年の第13回大会に出場している[13]。
1932年5月29日[14]、第19回日本陸上競技選手権大会(ロサンゼルスオリンピック予選会を兼ねる[15])の800m走において日本記録(1分58秒0)で優勝[16][14]。しかし藤枝は代表には選ばれず[注釈 2]、関西大学学友会が追加派遣嘆願運動を起こすなど、物議をかもす選考となった[8]。
1933年には日本移民二十五周年を記念して行われた陸上競技選手の南米遠征に加わった[5][17][注釈 3]。南米遠征中の[15]8月27日、ブエノスアイレスのヒムナシア競技場[注釈 4]で行われた[8]アルゼンチンとの対抗戦で日本記録を更新(1分56秒8)[14]。ブラジルでは、9月20日にリオデジャネイロのバスコダガマ競技場 (pt:Estádio Vasco da Gama) で行われた競技会において、400m障害でシルビオ・デ・マガリャンエス・パジリア (pt:Sylvio de Magalhães Padilha) [注釈 5]に力闘のすえ僅差で敗れたが、観客を大いに沸かせた[20]。
1935年の第22回日本陸上競技選手権大会800m走で、2度目の優勝を遂げている[16]。
1935年、関西大学卒業[9]。1936年ベルリンオリンピック出場を期し、前回選考の経験から選考予選会では(1600mリレーに出場可能性のある)400m走に出場したが、選考委員会はベルリンオリンピックでは400mに不出場・800mに2名派遣という判断を行ったために、オリンピック参加を逃した[8]。下手な小細工をせずに本来の800m走で出場していればというのが痛恨事となったという[8]。
第二次世界大戦後
[編集]1946年、奈良陸上競技協会会長に就任[8]。陸上競技の振興に尽力し、1949年には日本陸上選手権大会、1951年には全日本学生陸上選手権、1952年には全国勤労者陸上競技大会といった全国競技会の奈良県での開催にあたった[8]。1964年11月には、東京オリンピックに参加した選手を招聘し、橿原陸上競技場で「アフターオリンピック」を開催した[8]。
1993年5月15日没、83歳[1]。
備考
[編集]- 奈良県陸上競技会では「藤枝昭英杯」を開催している。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 改造社調査部編『最新世界人名辞典』(1932年)には「ふじえだ あきひで」で立項されており[2]、第9回極東選手権競技大会(1930年)のプログラムには A. Fujieda と記されている[3]。
- ^ 関西大学校友会機関紙『関大』記事によれば、「世界水準に及ばない」ことが理由として挙げられたが、選考委員の構成が関東勢中心であったことに問題があったという[8]。
- ^ 代表選手団は福井行雄(団長、障害走)、住吉耕作(やり投、走高跳)、大島鎌吉(100m)、藤枝昭英(800m、1500m)、大江季雄(棒高跳)、朝隈善郎(走高跳)の6人[17]。
- ^ 日本学生陸上競技連合は、場所を「ヒムナシヤイエスクリ」としている[14]。曾根によれば「ヒムナシアクラブ競技場」 (Estadio GEBA) [18]。曾根によれば「ヒムナシアクラブ」はブエノスアイレスのスポーツクラブで[18]、所有する競技場はラグビーや競馬にも用いられた[19]。クラブ・デ・ヒムナシア・イ・エスグリマ (es:Club de Gimnasia y Esgrima (Buenos Aires)) 参照。
- ^ 400m障害で32年ロス・36年ベルリン五輪代表、戦後にブラジル国際オリンピック委員長・IOC委員[19]。
出典
[編集]- ^ a b c d 「お悔み申し上げます 藤枝昭英氏(ふじえだ・しょうえい)」『関大』関西大学校友会、1993年6月15日、4面。2024年3月1日閲覧。
- ^ 改造社調査部 1932, p. 299.
- ^ 極東体育協会 1930, p. 65.
- ^ 『奈良県年鑑 1975』(大和タイムス社、1974年)p.483
- ^ a b c 日本スポーツ協会 1933, p. フの部4.
- ^ a b 曾根幹子 2015, p. 137.
- ^ 『日本学生陸上競技年鑑 昭和4年版』.
- ^ a b c d e f g h i 「燃える"800メートルの藤枝" わかくさ国体に優勝の夢」『関大』関西大学校友会、1984年9月15日、3面。2024年3月1日閲覧。
- ^ a b “陸上競技部の黄金期を築いた名監督 故岸源左衛門先生を偲ぶ会を開催”. 関西大学 (2014年5月9日). 2024年3月1日閲覧。
- ^ “関西学生陸上競技対校選手権第100回大会記念事業特別功労賞表彰・4連覇達成者表彰式について(ご案内)”. 関西学生陸上競技連盟 (2023年5月). 2024年3月1日閲覧。
- ^ “日本インカレ男子800m優勝者”. 月陸Online. 2024年3月1日閲覧。
- ^ “日本インカレ男子1500m優勝者”. 月陸Online. 2024年3月1日閲覧。
- ^ “過去の記録 藤枝昭英”. 東京箱根間往復大学駅伝競走公式サイト. 関東学生陸上競技連盟・読売新聞社. 2024年3月1日閲覧。
- ^ a b c d “日本学生記録の変遷 男子800m”. 日本学生陸上競技連合. 2024年3月1日閲覧。
- ^ a b “スポーツ史 大正~昭和前期”. 関西大学 年史編纂室 (2014年5月9日). 2024年3月1日閲覧。
- ^ a b “過去の優勝者・記録 男子800m”. 第100回日本陸上競技選手権大会. 日本陸上競技連盟. 2024年3月1日閲覧。
- ^ a b “70年昔のこと、記憶は?=曽根さんら近く「来伯陸上選手団」を調査に”. ニッケイ新聞 (2003年8月23日). 2024年3月1日閲覧。
- ^ a b 曾根幹子 2015, p. 128.
- ^ a b 曾根幹子 2015, p. 138.
- ^ 曾根幹子 2015, p. 129.
参考文献
[編集]- 日本学生陸上競技聯合 編『日本学生陸上競技年鑑 昭和4年版』日本学生陸上競技聯合、1929年 。
- 極東体育協会 編『極東体育協会第九回極東選手権競技大会番組 : 昭和五年自五月廿四日至五月丗一日』極東体育協会、1930年 。
- 改造社調査部 編『最新世界人名辞典』改造社、1932年 。
- 日本スポーツ協会 編『日本スポーツ人名辞典 昭和8年版』日本スポーツ協会、1933年 。
- 曾根幹子「南米派遣日本陸上選手団(1933年)の足跡と遠征の成果」『広島国際研究』第21号、広島市立大学国際学部、2015年11月、117-140頁、2024年3月1日閲覧。