蘭学事始

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『蘭学事始』明治2年刊

蘭学事始』(らんがくことはじめ)は、文化12年(1815年)、83歳の杉田玄白蘭学草創の当時を回想して記し、大槻玄沢に送った手記。上下2編。当初は『蘭東事始らんとうことはじめ 』という題名であった。その他にも『和蘭事始わらんことはじめ 』とする記録がある。日本における蘭学導入草創期の経緯が現場にいた者の目で描かれている。

経緯[編集]

高齢になった日本蘭学の先駆者・杉田玄白は、自身の死後に蘭学草創期の史実が後世に誤り伝わることを懸念し、自らの記憶する当時のことを書き残そうと決意した。文化11年(1814年)にいちおう書き終わり、高弟の大槻玄沢に校訂させ、文化12年(1815年)に完成を見る。

本書は玄白自筆の原稿本とその写本の2冊のみ書かれ、原稿本は杉田家に所蔵され、写本は玄沢に贈られた[1]。このとき玄白83歳。2年後の文化14年(1817年)に玄白は85歳で死去した。

その後、杉田家の原稿本は安政2年(1855年)の安政の大地震による杉田家の被災で失われる。また大槻家の写本もいつか散逸し、完全に失われたものとされて関係者から惜しまれていたが、幕末のころ神田孝平が湯島の露店で偶然に大槻家の写本を見つけ[1]明治2年(1869年)、玄白の曽孫の杉田廉卿による校正を経、福沢諭吉はじめ有志一同が『蘭学事始』(上下2巻)の題名で刊行した[1]。その後再発行を重ね、日本における西洋医学導入期の当事者による貴重な一次史料としてひろく一般に読まれるようになる。

内容[編集]

戦国末期の日本と西洋の接触から書きおこし、蘭方医学の発祥、青木昆陽野呂元丈によるオランダ語研究などを記述する。白眉はオランダ医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳する苦心談である。明和8年(1771年3月4日前野良沢、杉田玄白、中川淳庵らは小塚原の刑場で刑死者の腑分け(解剖)を見学し、『ターヘル・アナトミア』の図版が精確なことに一同感銘して翻訳を決意する。辞書すらない当時の環境下で苦心のうち翻訳を進め、安永3年(1774年)に『解体新書』として刊行する。特に良沢の名は『解体新書』には記されていなかったため、本書で初めてその業績が世に知られた。他にも、平賀源内桂川甫周建部清庵大槻玄沢宇田川玄真稲村三伯など、同時代の蘭学者のエピソードが記される[2]

フルヘッヘンド[編集]

『蘭学事始』に描かれた「鼻とは顔の中でフルヘッヘンドするものなり」という文の「フルヘッヘンド」という単語の意味が分からず、用例を集め「庭を掃けば、塵芥集まりてフルヘッヘンドする」などから考えた結果、「うずたかい」という意味だと推測するにいたる逸話は、菊池寛の大正10年(1921年)の小説『蘭学事始』[3]以後、広く知られるようになる。しかし1982年に酒井シヅが『ターヘルアナトミア』を原典から翻訳すると、この単語はその中にないことが判明した[4]

主な刊行書誌(近年)[編集]

『蘭学事始』を題材とした作品[編集]

  • 菊池寛『蘭学事始』(青空文庫)
  • 吉村昭『冬の鷹』(新潮文庫
  • みなもと太郎風雲児たち
  • 水木しげる『東西奇ッ怪紳士録』
  • 木々康子『蒼龍の系譜』(筑摩書房)1976年
    杉田玄白、大槻玄沢、杉田立卿に学んだ長崎浩斎一族の、維新にいたる動乱までを描いた作品だが、晩年まで浩斎が交わした大槻玄沢との書簡の中に、玄沢自身が「蘭東事始」と「蘭学事始」の命名についての説明があり、“あとがき”に玄沢自身の手紙を掲載している。この"あとがき”について、緒方富雄博士は『蘭学越始』岩波書店 1982年版に「いずれも拙者が命名したものだが、蘭学事始の方が抵当である」との玄沢の言葉を引用し説明している。

脚注[編集]

  1. ^ a b c 福沢諭吉. “蘭学事始再版序”. www.aozora.gr.jp. 2023年7月14日閲覧。
  2. ^ 蘭學事始 - Wikisource”. ja.wikisource.org. 2023年7月14日閲覧。
  3. ^ 『蘭学事始』:新字新仮名 - 青空文庫
  4. ^ 片桐一男は、「verhevene」という「盛り上がった」という意味の単語がこれに該当するものだろうと指摘している。片桐『蘭学事始』講談社学術文庫、156p.

外部リンク[編集]