迦旃延

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迦旃延

Kātyāyana(梵)

Kaccāna(巴)
タイの伝統的な像
尊称 論議第一
生地 アヴァンティ国ウッジャイニー?
宗派 声聞初期仏教
釈迦
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迦旃延(かせんねん、カッチャーナ、Katyayana)は、釈迦十大弟子の一人であり、論議第一と称せられる。

摩訶(まか、Mahā=「偉大なる」の意)を冠して摩訶迦旃延:Mahākātyāyana マハーカーティヤーヤナ、:Mahākaccāna マハーカッチャーナ)、大迦旃延などとも呼ばれる。彼の名前は、経典などにより表記が著しく異なるが、主なものとしては音訳としては摩訶迦多衍那、婆帝梨迦、大迦旃延、大迦多衍那、大迦多演那などが、意訳としては好肩、文飾、大剪剔種男、大浄志などがあげられる。なお、「迦旃延」とは、婆羅門種の十姓の一つであり、姓を以って名としている。

パーリ仏典には、彼の名を記したカッチャーナゴッタ経(Kaccānagotta Sutta)が存在する[1]

出身[編集]

彼の出身などにはいくつかの説がある。

  1. 西インドのアヴァンティ国の首都ウッジャイニー婆羅門出身(クシャトリヤ説あり)で、チャンダパッジョータ王の帝師の子で、王の命により釈迦仏を招くために、7名の王臣と共に仏所に赴き出家した。
  2. 南インドの婆羅門出身で、かつて釈迦誕生時に相せし阿私陀仙(アシタ仙人。釈迦が将来、仏となると予言した)の弟子で、師の娘を娶り、また師の遺命により仏弟子となった。[要出典]

経歴[編集]

彼がいつ仏教教団に入ったかはわからないが、初期の仏教伝道において重要な働きをした。

なお、彼の出身説1では、その地域はいまだ布教圏外だったので、仏や舎利弗、目連の滅後、教団の中心となってよく活躍したという。

子供の頃より聡明で、一度聞いた内容は忘れず良く理解したと言われる。それでも難解で理解できないことがあり、釈迦に教えを請うことになり、これがきっかけで弟子となったとされる。

『Udāna』V.6によると、アヴァンティ国のクララガァーラ・パパータ山に住み、ソーナ・コーリヴィーサ(億耳)を出家させたという。

仏の教えを広く解りやすく、義を分別して広説し、釈迦仏から讃嘆された。幾人かの王に四姓祭司武士平民隷民カースト制度)の平等を説いて回ったといい、南方所伝の仏教でも釈迦滅後も弘教に努めたといわれる。

脚注[編集]

関連項目[編集]