日本映画

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日本映画(にほんえいが)は、一般的に日本国内の映画館などで公開されることを前提として、日本国籍を持つ者、あるいは日本の国内法に基づく法人出資製作)している映画を指すが、詳細な定義は識者によって異なる。(ほうが)とも呼称される。また、映画のことは時代によって活動写真キネマ・シネマ等とも呼ばれる。

概要[編集]

トーマス・エジソンによって1891年に発明されたキネトスコープが世界的な映画の起源となるが、それを用いて日本で最初に上映がなされたのは1896年11月で、当時の西洋技術の最先端である映画が到来した年にあたる。日本人による映画撮影としては1898年浅野四郎による短編映画『化け地蔵』『死人の蘇生』に始まる。ここから現代に至るまで日本映画は日本文化の影響を強く受けつつ、独自の発展を遂げ、日本を代表する大衆娯楽のひとつとして位置付けられていった。

日本映画をジャンルとして明確に定義することは困難であり、日本人監督によって、日本人の俳優を主に用いて、日本人らで撮影し、日本国内で上映する日本語の映画、という条件のもと、そのいくつかが当てはまるものを一般に日本映画と呼称している[1]。しかし、『ホノカアボーイ』などの総海外ロケの映画や、フランス資本を基に黒澤明大島渚が撮影した映画、在日韓国・朝鮮人監督など非日本国籍の日本語話者による映画など、全ての条件を満たしていなくても、日本語話者が日本での最初の公開向けにつくった映画は邦画と認知される[2]

背景[編集]

山中貞雄『人情紙風船』

日本映画が日本映画たりえた背景には当然日本文化の影響が存在している。映画が日本に到来する時代、日本は比較的高い識字率を誇っており、大衆的な読み物から新聞児童書などあらゆる書物庶民に親しまれていた。また、映画よりはるかに長い歴史を持つ歌舞伎人形浄瑠璃などの伝統演劇が日本映画に与えた影響も計り知れない。これは今日でも映画館を劇場と呼称したりすることからも窺える。

また、初期の無声映画時代、上映にあたり、弁士と呼ばれるフィルムの説明者が存在したが、映像と分離した音声を享受するというシステム、口踊芸と呼ばれる洗練された語りの手法は、既に人形浄瑠璃をはじめとする演劇で確立されており、日本人にすんなりと受け入れられ、独自の発展を遂げたとされる。庶民にとって誰が弁士を務めるかも映画鑑賞の重要な判断基準となり、花形の弁士が演じる映画は総じて人気を博した。無声映画とは声の無い映像のみの映画を指すが、日本映画においては真の意味での無声映画は存在していなかったと言って良い[3]

純粋に日本文化を映画へ昇華し、日本映画らしさを出そうとする一方で、国外の文化や素材を日本風に咀嚼し、混交するという日本映画も多数誕生している。ジャック・フェデーの『ミモザ館』から着想を得た山中貞雄の『人情紙風船』や[4]ウィリアム・シェイクスピアの『リア王』が原作とされる黒澤明の『』などがそれにあたる[5]

歴史[編集]

サイレント時代[編集]

シネマトグラフ
忠臣蔵』(尾上松之助
関東大震災により廃墟と化した神奈川県横浜市
鞍馬天狗嵐寛寿郎

日本における初の映画上映は、鉄砲商人であった高橋信治によって1896年11月、神戸の神港倶楽部に始まった。これはトーマス・エジソンキネトスコープによるものである。リュミエール兄弟シネマトグラフによるスクリーン上映は1897年1月に稲畑勝太郎によって京都電燈株式会社の当時の本社(現在の元・立誠小学校の敷地)の中庭にて初めて行われた。続いて1897年2月に初めての「有料上映」が稲畑勝太郎によって大阪にて行われた。同年3月には東京でキネトスコープを改良したヴァイタスコープが公開され、人気を博した。谷崎潤一郎は自著『幼少時代』において「一巻のフィルムの両端をつなぎ合わせ、同じ場面を何回も繰り返し映せるもの」と評している。

その後浅野四郎によっていくつかの短編映画が撮られ、1898年、日本で初めて映画が撮影された。

1898年には先に挙げた『化け地蔵』『死人の蘇生』が、翌1899年には『芸者の手踊り』(東京歌舞伎座)が公開された。これは小西本店(後の小西六写真工業、現コニカミノルタ)の浅野四郎がゴーモン社製の撮影機にて芝・紅葉館で実写撮影し、駒田好洋が率いる「日本率先活動写真会」によって一般公開された。同年には1巻70フィートの日本最初の劇映画となる『ピストル強盗清水定吉』が駒田好洋によって撮影され、日本初の映画俳優として新派横山運平が起用された。積極的に映画と接触しようとした新派とは異なり歌舞伎などは映画を「泥芝居」と蔑み、原作や役者の提供に躊躇する時代であった[6]。現存する最も古い日本映画としては同年柴田常吉によって撮影された『紅葉狩』がある。

1903年には吉沢商店浅草に日本で最初となる映画専門館「電気館」を設置した[7]。翌1904年日露戦争が勃発すると実写撮影班を現地中国大陸に派遣し、その映像をドキュメンタリー映画として上映し、人気を博した。

1908年に発表された『本能寺合戦』は最初の本格的な劇映画であり、横田商会の依頼で本作品を撮り上げた牧野省三は日本最初の映画監督として名を残している。京都浄瑠璃小屋を所有し、狂言方として活動していた牧野は作品の原作に用いられる浄瑠璃を空で暗記していたことから、脚本を用いる事無く、撮影にあたったと言われている。翌年には歌舞伎俳優の尾上松之助が主演した『碁盤忠信』が大ヒットとなり、「目玉の松ちゃん」として日本最初のスターが誕生した。以降、尾上は14年間の俳優生活において千本を超える映画で主演を果たしている。中でも1910年に撮られた『忠臣蔵』は浄瑠璃、歌舞伎に続き、その後の日本映画においても欠かせない題材として庶民の人気であり続けた。後年、牧野はその功績を称えられ、アメリカの映画監督D・W・グリフィスによりグリフィス・マキノという称号を与えられている[8]

1912年、横田商会・吉沢商店・M・パテー商会福宝堂という4つの映画会社がトラスト合同を行い、日本活動写真株式会社、略称日活を発足させた。日活は従来の家内工業的な小規模な製作から一線を画す、日本初の本格的な映画会社となった。東京向島向島撮影所、京都二条城西櫓下の関西撮影所の2箇所の撮影所を設け、東京では新派(後の現代劇)を、京都では旧劇(後の時代劇)を製作した。

1914年4月3日、日本初のカラー劇映画『義経千本桜』が公開[9]

ここまでの多くのフィルムは演劇的演出の再現に留まり、映画として独自の技法が試みられるようになるのは1910年代後半に入ってからである。井上正夫1917年に製作した『大尉の娘』ではクローズアップ移動技法カットバックといった技法が導入されている。この頃より呼称も「活動写真」から「映画」へと次第に変遷が始まり、1922年ごろまでには映画という言葉が一般庶民にも深く浸透するようになった。

一方映画評論においては、吉沢商店が1909年に発表した初の映画雑誌『活動写真界』などが既にあったが、1917年帰山教正が『活動写真劇の創作と撮影法』と題する理論書を発表したのをきっかけに1918年には日本映画の近代化運動「純映画劇運動」が起こる。映画芸術協会を主宰した帰山は同書で映画は演劇の模倣であってはならないと説き、舞台脚本をシナリオ、女形を女優、弁士を字幕として呼称した。帰山の作品には日本初の女優花柳はるみを使った『生の輝き』、日本初の女性のヌードシーンを撮影した『幻影の女』などがある。

その背景には第一次世界大戦が終結し、ハリウッドの映画会社が徐々に日本へと進出してきた影響は否定できない。こうした動きに合わせるように国活大活といった映画会社が相次いで設立され、1920年には歌舞伎を本業としていた松竹松竹キネマ合名会社を設立し製作に乗り出した。特に松竹が建てた俳優養成所はハリウッドのスター・システムを採用し、『路上の霊魂』の英百合子や『虞美人草』の栗島すみ子など、多数の女優を輩出した。また、松竹が呼んだハリウッドの現役キャメラマン、ヘンリー小谷が果たした影響も大きい。彼がレフ板を華麗に用いて撮影したというエピソードは、日本が映画を単に映すという段階から、一歩進んで商品として、新しい芸術、メディアとしての映画のあり方を象徴するものだった。

この純映画劇運動は1923年関東大震災で、現代劇映画を製作していた東京のあらゆる撮影所が壊滅し、旧劇の中心地・京都での撮影のみが行われる状況が発生したことにより突然の終焉を迎えることとなった。1926年に入ると松竹による現代劇が本格化し、牛原虚彦による『彼と東京』(1928年)、『陸の王者』(1928年)など、ごく普通の庶民を等身大で描く都会風現代劇が出現した。また、五所平之助による『村の花嫁』(1928年)や『伊豆の踊子』(1933年)のように、田舎の田園を舞台とした牧歌的、叙情的な作品も登場している。エルンスト・ルビッチに強い影響を受けた小津安二郎は、『大学は出たけれど』(1929年)、『落第はしたけれど』(1930年)など庶民を主人公とした人生観を詰め込んだ作品を数多く残した。

こうした松竹の動きに遅れを取った日活は、1923年の震災による向島撮影所の閉鎖を受けてようやく女形から女優への移行を果たす。翌年には京都の郊外・太秦村に「日活太秦撮影所」(後の大映京都撮影所)が開設される。日活現代劇の代表ともされる溝口健二はハリウッドで学んだ撮影技法を駆使し、『霧の港』(1923年)、『血と霊』(1923年)、『狂恋の女師匠』(1926年)など、様々なジャンルを試み、後礎を築いた。

他方、内務省警保局による活動写真検閲なども行われ、衣笠貞之助の『日輪』(1925年)などは作品に当局の介入が入り、大幅な編集を余儀なくされ、改作改題の上公開となるなど、検閲の影響により興行的に失敗となった作品も少なくない。しかし、衣笠はその後も精力的に活動を続け、日本最初の前衛映画となる『狂つた一頁』(1926年)や欧州で高い評価を受けた『十字路』(1928年)など、「純映画劇運動」の目的、目標を達成させている。

時代劇に目を移すと、尾上主演一千本記念作品『荒木又右衛門』(1925年)などが取り上げられるが、従来の悠々とした口上を述べ、人を斬るといったスタイルから、よりスピーディで激しい殺陣が求められるようになっていた。こうしたスタイルをいち早く確立した阪東妻三郎は『雄呂血』(1925年)で人気を博す。そのほか大河内傳次郎による『丹下左膳』や、市川右太衛門の『旗本退屈男』、嵐寛寿郎の『鞍馬天狗』など、新しい時代劇が多数登場した。

1927年(昭和2年)、映画実際家連盟「友達の会」が発足。松竹蒲田から牛原虚彦島津保次郎大久保忠素らが、日活からは村田実溝口健二岡田嘉子らが、阪妻プロからは鈴木重吉川浪良太近藤伊与吉らが参加した[10]。目立った活動はなかったが、製作会社を横断する映画業界人の組織であったことは特筆すべきことであり、文壇界から低くみられがちな映画界の地位向上を図る契機にもなった。

音声有り映画・戦前の黄金時代[編集]

トーキー映画の産みの親リー・ド・フォレスト

映像に対し、音声を加えようとする試みは映画の移入とほぼ同時になされており、河浦謙一は1902年にレコードの回転とフィルムの回転を同期させることによるトーキーの実験を行っている。これらの試みが商業的な脚光を浴びるのは1927年の昭和キネマによるミナ・トーキーであった。アメリカのリー・ド・フォレストからトーキー技術の権利を購入した皆川芳造によるものである。

ミナ・トーキーを使用した小山内薫による『黎明』は技術的な問題から公開には至らず、日本最初のトーキー映画は1929年の『大尉の娘』であった。同年、ミナ・トーキーとは別方式、東條政生のイーストフォン・トーキーを採用しようと研究したが、結局、独自のディスク式トーキーマキノ正博が監督した『戻橋』が公開された[11]。イーストフォンは一般には浸透しなかった。その後も溝口健二による『ふるさと』(1930年)などが続いたが、字幕と音声を併用したいわゆるパート・トーキーの形式が一般的で、完全なトーキー映画として最初に登場したのは五所平之助の『マダムと女房』(1931年)であった。

資本力のある大会社はこの時代、積極的に無声映画からトーキー映画へと移行を計り、一部例外として小津安二郎のようにトーキーに懐疑的な目を向ける者もいた[12]。1935年には完全に移行を成し遂げるが、財政的に移行の難しい独立プロは1938年ごろまで無声映画を撮り続けた。この結果小スタジオは続々と大手映画会社へ吸収されていく。

また、無声映画時代が終了しても海外映画の解説訳として存続が計られた弁士も、1931年『モロッコ』ではじめて採用された字幕スーパーの登場により、不要な存在となった。既得権益を守ろうとした弁士はトーキー侵出の妨害活動に出たが、時代の流れに逆らう事はもはや不可能となり、弁士の存在は忘れられていった。

こうしたトーキーの出現は新しい俳優の出現や新ジャンルの確立を齎した。落語や声帯模写など、語り芸を生業とする者がスクリーンへ登場し始め、榎本健一古川緑波などといった喜劇俳優が台頭するようになった。また、『愛染かつら』のように主題歌の流行を通して人気を博す映画も現れるようになった。

トーキー映画の出現は撮影期間の長期化という現象を齎すこととなった。これがきっかけとなり日活は1934年に多摩川へ、松竹は1936年に大船へそれぞれ撮影所を移転・拡充した。それぞれの特徴として日活は重厚で泥臭い作風を、松竹は洗練された都会風の作風を得意としていた。日活を代表する監督としては『人生劇場・青春篇』(1936年)、『』(1939年)の内田吐夢、『蒼氓』(1937年)、『阿部一族』(1938年)の熊谷久虎、松竹を代表する監督としては『隣の八重ちゃん』(1934年)の島津保次郎、『愛染かつら』(1938年)、『一人息子』(1936年)の野村浩将、『有りがたうさん』(1936年)、『花形選手』(1937年)の清水宏などが挙げられる。こうした一連の作風に疑問を投げかけた溝口健二は『浪華悲歌』(1936年)、『祇園の姉妹』(1936年)などで方言を用いた作品を撮り上げ、既存の「映画は東京弁でなければならぬ」という概念を打ち崩していった。

1930年に設立されたPCLは1933年より映画製作業界への参入を表明した。黒澤明本多猪四郎瀧口修造井深大など、多数のスタッフを集め、日本で最初のプロデューサー・システムを採用した会社となった。初期には木村荘十二の『河向ふの青春』(1933年)、『兄いもうと』(1936年)や松竹より移籍してきた成瀬巳喜男の『妻よ薔薇のやうに』(1935年)、石田民三の『花ちりぬ』(1938年)などが人気を博した。特に成瀬の『妻よ薔薇のやうに』は海外進出も実現し、ニューヨークで一般公開された初の日本映画となった。当初、PCLは配給館を所有していなかった事から、興行的な苦戦を強いられたが、1937年小林一三などの働きにより「写真化学研究所」、京都大沢商会の映画スタジオである「J.O.スタヂオ」、阪急資本による配給会社「東宝映画配給」などと合併し、東宝映画として配給上の困難を解消し、日活、松竹に続く大映画会社となった。

1937年、日本と当時のナチス・ドイツとの間で、一本の国策的映画が製作された。山岳映画を得意としたドイツのアーノルド・ファンク伊丹万作の共同監督で製作された『新しき土』である。日本での興行的な成績では失敗に終わったが、主演女優として典型的な日本人女性大和光子を演じた原節子はその容貌と演技が絶賛され、戦時下の日本映画において欠かせない女優となった。

戦時下の映画[編集]

第二次世界大戦太平洋戦争)による国民と国土の疲弊は、映画産業界においても、甚大な影響を与えていた。1941年(昭和16年)当時、日本はアメリカに次いで年間500本近くの本数の映画を制作していた映画大国であったが、1945年(昭和20年)には僅か26本にまで減少していた[13]。また、1939年(昭和14年)に成立した映画法により、製作と配給が許可制に、監督と俳優は登録制となり、製作される作品についても、脚本段階で検閲が入った。

さらにABCD包囲網による経済制裁が発動すると、アメリカからのフィルム輸入が途絶え、国産フィルムは軍需品とされ、厳しい使用制限がかけられ、映画業界にとって死活問題となった。東宝はこれらの状況を打破するため、軍部と積極的に関わる事で活路を見出したが、日活は1942年(昭和17年)に永田雅一の主導による合併に巻き込まれて大日本映画となり、日活の名は消えていった。戦前数多く存在した独立スタジオは、閉鎖、合併を繰返し、映画産業の規模は急速に縮小し、東宝、松竹、大映の3社を残すのみとなった。

当然、戦争を主題とした映画が主として製作され、田坂具隆は『五人の斥候兵』(1938年)で、戦場における信頼をテーマとした作品を撮り、ヴェネツィア国際映画祭で入賞を果たした。皇紀2600年記念の阿部豊の『燃ゆる大空』(1940年)では実写に重きを置いた航空映画として、陸軍航空本部の監修により実物の戦闘機爆撃機が撮影に使用された[注釈 1]吉村公三郎が製作した『間諜未だ死せず』(1942年)は戦意高揚を訴える映画が続く中で、スパイへの警戒を訴えた珍しい切り口の映画となった。また、山本嘉次郎の『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)では、真珠湾攻撃を再現した特撮担当の円谷英二による精巧なミニチュアが話題を呼び、軍神加藤建夫飛行第64戦隊を描いた『加藤隼戦闘隊』(1944年)では、陸軍の全面協力により実物の戦闘機や爆撃機および連合国軍鹵獲機が多数出演し、円谷の特撮と高度な合成技術とともに迫力ある作品となった。

厳しい検閲の目をかわし、反戦を訴える作品を製作した監督としては亀井文夫が挙げられる。『支那事変』(1937年)や『上海』(1938年)などでは表向きは戦意高揚映画と謡いつつも、日本軍の行軍を見つめる民衆や、疲弊した兵の表情をフィルムに収めるなど、意図的な映像を流した。続く作品『戦ふ兵隊』(1938年)は上映禁止となり、亀井は免許剥奪の上検挙されてしまう。

また、戦争を主題としない作品についても、荒唐無稽な娯楽向け作品が一律禁止され、稲垣浩の『宮本武蔵』や溝口健二の『元禄忠臣蔵』など、厳粛な叙事詩的作品が製作された。1940年代前半に登場した黒澤明は『姿三四郎』(1943年)においてその頭角を現した。1945年(昭和20年)に最終決戦を呼びかけるために製作が検討されていたジャンヌ・ダルクを原作とした『荒姫様』は、同年の日本の敗戦によりお蔵入りとなっている[注釈 2]

1937年8月、映画の巻頭に「挙国一致」「銃後を護れ」などの1枚タイトルを挿入した[14]。1944年12月7日、映配は、生フィルム欠乏のために、731の映画館(約40%)に配給休止を宣告した[14]

日本統治の外地での日本映画[編集]

外地における映画は、獲得した地を日本化するための有効な手段と捉えられ、積極的な上映が実施された。台湾朝鮮満州インドネシアなどにおける各地の映画史を簡単に以下に記す。

台湾[編集]

日清戦争により獲得した台湾で高松豊次郎により最初の映画上映が行われたのは1901年である。台湾において最初に製作がなされたのは1921年で、『預防霍乱』という食品衛生啓蒙映画であった。また、1925年には台湾人の李松峰により『誰之過』が製作された。

日本で興った「純映画劇運動」において、台湾という「辺境の地」は格好の題材となり、枝正義郎の『哀の曲』(1919年)、田坂具隆の『阿里山の侠児』(1927年)、張雲鶴の『血痕』(1929年)、千葉泰樹安藤太郎の『義人呉鳳』(1932年)など、台湾を舞台とする様々な作品が撮られている。

しかし、現地人による映画製作はそれほど活性化せず、1941年に台湾映画協会が設立され、管理統制が厳しくなると、その傾向は終戦まで続いた。

朝鮮[編集]

1910年に併合した朝鮮における映画は1919年に製作された金陶山の『義理的仇討』を嚆矢とした。日本政府は当初、尹白南による貯蓄奨励映画『月下の誓い』(1923年)など、台湾と同じく映画による教育啓蒙を試みたが、自身の手による映画製作の気運が強く、1924年以降、日本人が設立した朝鮮キネマに対抗するかの如く、独立スタジオが林立した。

1926年羅雲奎が製作した『アリラン』は、民族主義の高揚における重要な役割を果たした。『映画「アリラン」の再評価』(1997年、趙熙文)など、津守秀一が監督したという説も存在する[要出典]。その他、『金色夜叉』の翻案で、李慶孫の『長恨夢』(1926年)や李圭煥が製作した反日的内容の『主なき渡し舟』(1932年)などが話題を呼んだ。また、李明雨によって製作された最初のトーキー映画『春香伝』は1935年に登場して以降何度もリメイクされ、韓国における国民的映画のひとつに発展している。

日本が軍国主義へ傾くにつれ、厳しい検閲が敷かれるようになり朝鮮での映画生産は減少していき、1940年には日本と同じく映画法が実施されるに至った。1942年には全ての映画会社が閉鎖され、朝鮮総督府による朝映が設立された。この時代は主に日本人監督が現地のスタッフを使用して映画を製作する、というスタイルが主となり、日夏英太郎の『君と僕』(1941年)、豊田四郎の『若き姿』(1943年)、今井正の『望楼の決死隊』(1943年)などが公開された。

満州[編集]

李香蘭(山口淑子)

日本が1932年に建国した満州国では、1936年に満州映画協会(満映)が設立され、映画製作が執り行われた。満映では日本の文化啓蒙を目的とした映画と一般の劇映画が製作され、一部は日本に持ち込まれるなどした。1940年に『支那の夜』に登場した李香蘭(山口淑子)はその美貌と歌唱力、演技力などで一躍スターとなった。

1942年ごろより、自由な映画製作を求め、木村荘十二内田吐夢など日本人映画監督が次々と渡満してくる。全編がロシア語で構成された島津保次郎の『私の鶯』(1943年)など、自由闊達な映画が企画・製作された。

1945年に満州国が崩壊すると満映の施設はソビエト連邦に接収され、満映スタッフは日本や台湾、香港へと散り散りに去っていった。日本では根岸寛一マキノ光雄などによりこうした満映引揚者が迎え入れられ、後の東映の基礎を形作った。

上海[編集]

上海では1910年代より中国映画の製作地としてその名が知られており、1937年に日本による占領が始まると、日本軍はその映画管理を川喜多長政に要請した。

川喜多は1939年、上海の映画会社を併合し、中華電影を設立した。作品としては満映との合作で製作された李香蘭主演の『萬世流芳』(1943年)などがある。

1945年、日本が敗戦した後は上海で日本人と共に映画製作を行っていた中国人監督の大部分が香港へ亡命し、後の香港における映画産業発展の礎となった。

インドネシア[編集]

インドネシアでは現地人による映画撮影が禁止され、日本軍による啓蒙映画が主に製作された。また、日本軍の捕虜虐待を隠蔽する目的でいくつかの偽ドキュメンタリー映画が製作されるなどした。

有名なものとしては1944年に日夏英太郎がジャカルタで製作した『Calling Australia』があり、オーストラリア人捕虜が撮影した映像として連合国軍側へ送付された。後にオーストラリアは捕虜として出演した者を集め、『Calling Australia』の虚偽を告発するドキュメンタリーを製作している[15]

GHQ占領下時代[編集]

今井正青い山脈』(杉葉子原節子

1945年8月15日、日本が第二次世界大戦に敗北すると、以後申し合わせにより1週間の全国の映画興行が停止された[16]。その後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による日本間接統治が開始されたことに伴い、日本で製作される映画はGHQの下部組織CIE(民間情報教育局)によって管理されることとなった。この管理体制は1952年まで続き、日本映画界において、初めて外国機関による管理と制御が実施された特異な期間となった。企画と脚本段階で英語に翻訳し、CIEで許可されたもののみ製作がなされた。例えば、黒澤明の『暁の脱走』(1950年)は当初、山口淑子(満映の李香蘭)主演の朝鮮人従軍慰安婦を描いた作品としていたが、数十回に及ぶCIEの検閲により、原形を留めぬ作品となってしまっている[17]。完成したフィルムはCCD(民間検閲支隊)により二度目の検閲が行われた。また、この検閲は過去の映画作品に遡っても実施された[18]

また、占領政策の一環として戦争責任の問題は映画業界にも波及し、戦時中の映画製作において戦争協力者を追放すべしとの声が叫ばれ始めると、川喜多長政根岸寛一城戸四郎といった戦意高揚映画に携わった人物が1947年に映画界追放とされた。しかし他のジャンルにおける追及と同じく、映画業界においても戦争責任の所在は曖昧に処理され、上記の処置は1950年には解除されている。

戦後、最初に公開された映画は佐々木康による『そよかぜ』で、並木路子による主題歌リンゴの唄』が大ヒットした。

CIEのデヴィッド・コンデによって1945年に発布された製作禁止リストにおいて、国家主義や愛国主義、自殺や仇討ち、残忍な暴力映画などが禁止項目となり、時代劇の製作は事実上不可能となった。この影響で時代劇を生業としていた俳優は現代劇に出演するようになる。片岡千恵蔵の『多羅尾伴内』、阪東妻三郎の『破れ太鼓』、稲垣浩の『手をつなぐ子等』、伊藤大輔の『王将』などがそれにあたる。

また、GHQ主導で勧められた民主主義礼讃作品としてプロパガンダ映画が多数製作された。その中で黒澤明の『わが青春に悔なし』(1946年)、吉村公三郎の『安城家の舞踏会』(1947年)、今井正の『青い山脈』などに出演した原節子は西洋的な新時代の幕開けを象徴するスターとして国民的な人気を博した。佐々木康の『はたちの青春』(1946年)では日本映画最初のキスシーンが撮られた。

1945年11月16日、GHQは「非民主主義的映画排除方指令に関する覚書」を交付した。11月19日、超国家主義的・軍国主義的・封建主義的思想の映画236本の上映禁止・焼却指令を発表した[19][20]

1946年1月28日、GHQは「映画検閲に関する覚書」を出し、民間検閲課による検閲を開始。8月13日、記録映画『日本の悲劇』上映禁止を通告[19][21]

主権回復・第二黄金時代[編集]

羅生門。(1950年昭和25年))
二十四の瞳』(1954年昭和29年))

1951年サンフランシスコ講和条約が締結されると、日本国は主権を回復した。翌年にGHQによる映画検閲が廃止となる。これにより上映禁止となっていた時代劇が復活するとともに、多数の映画が製作されるようになった。国際映画祭において黒澤明や溝口健二らの日本映画作品が次々と受賞し、日本の文化的矜持の回復に務めた。また、1958年には映画人口が11億人を突破するなど[22]、映画は娯楽の殿堂として不動の存在となるとともに、映画産業における第二の黄金時代が到来することとなった[23]

GHQによって制限されていた戦争映画が製作されはじめ、関川秀雄の『きけ、わだつみの声』(1950年)、今井正の『ひめゆりの塔』(1953年)、木下恵介の『二十四の瞳』(1954年)、市川崑の『ビルマの竪琴』(1956年)など、戦争を単純悪と捉えた作品ではなく、戦争体験の悲壮さや感傷的回顧を目的とした作品が次々と登場し、社会的影響となった。その他、『戦艦大和』(1953年)や『太平洋の鷲』(1953年)といったノスタルジア映画も量産された。こうした中で嵐寛寿郎明治天皇を演じた『明治天皇と日露大戦争』(1957年)といった作品までもが登場した。神聖にして侵すべからずとされた天皇の商品化という、戦前には考えられなかった事態であった。

映画の国際的評価も上昇し、1951年に黒澤明が『羅生門』でヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞したのを皮切りに、溝口健二が1952年『西鶴一代女』、1953年『雨月物語』、1954年『山椒大夫』と、3年連続で受賞した。1954年はほかに黒澤の『七人の侍』もヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞、カンヌ国際映画祭において衣笠貞之助の『地獄門』がグランプリを受賞するなど、極東の国から届けられたフィルムに世界中が驚嘆した。

こうした映画の量産体制は東宝、松竹、日活、大映に加え、急速な発展を見せた東映が主体となって牽引した。各社の動向は以下の通り。

東映[編集]

新作2本立ての量産体制を強行するために子供向けの連続活劇形式の短編を長編に併映する。中村錦之助東千代之介出演の『新諸国物語 笛吹童子』シリーズ(1954年・三部作)、『新諸国物語 紅孔雀』シリーズ(1954年 - 1955年・五部作)が子供達に圧倒的に受ける。また、市川右太衛門片岡千恵蔵月形龍之介大友柳太朗出演の、大人向け時代劇も活性化。中村錦之助、大川橋蔵主演作とともに、東映は時代劇王国としての地位を築く。現代劇でも東映ニューフェイスから、中原ひとみ高倉健水木襄佐久間良子梅宮辰夫千葉真一などの主演スターが輩出した。今井正監督『』(1957年)、『純愛物語』(同)などの現代劇の秀作、ヒット作も残した。また1958年10月、日本初の長編カラーアニメ映画白蛇伝』を公開するなど[7]、日本アニメ映画の中興の祖としての役割、東映シネマスコープの導入で日本映画のワイド時代を招聘した役割なども特筆的である。

東宝[編集]

ゴジラ』(1954年(昭和29年))

森繁久弥出演の『三等重役』より、サラリーマンシリーズ、フランキー堺出演の社長シリーズ駅前シリーズが大ヒット。東宝の経営を支えた。今井正監督『また逢う日まで』(1950年)、ヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞した稲垣浩監督『無法松の一生』(1958年)、成瀬巳喜男監督『浮雲』(1955年)、岡本喜八監督『独立愚連隊』(1959年)、東宝争議により一時東宝を離れていた黒澤明は、『生きる』(1952年)を皮切りに、『七人の侍』(1954年)、『隠し砦の三悪人』(1958年)などが大ヒットした。黒澤は莫大な製作費をかけるため、1959年に黒澤プロダクションが発足されるが、東宝とのパートナーシップは続いた。『七人の侍』も公開されていた1954年には『ゴジラ』が大成功を収め、シリーズ化されて公開70年を経て今もなお新作が製作されるドル箱シリーズとなった。以降、小田基義監督+円谷英二特撮監督『透明人間』(1954年)、本多猪四郎監督+円谷英二特撮監督『獣人雪男』(1955年)、など特撮作品でヒットを飛ばす。東宝映画1000本の記念作品は特撮映画で、稲垣浩監督+円谷英二特撮監督による『日本誕生』(1959年)だった。

松竹[編集]

大庭秀雄監督による『君の名は』(1953年 - 1954年)、今井正監督『にごりえ』(1953年)、『キクとイサム』(1959年)をはじめ文芸作が大ヒット。小林正樹監督『人間の條件』(1959年 - 1962年)ではヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジュ賞、パシネッティ賞を受賞した。さらに福田晴一監督・伴淳三郎出演『二等兵物語』など、松竹がお得意とする喜劇作品もヒットした。木下惠介監督が『カルメン故郷に帰る』(1951年)、『日本の悲劇』(1953年)、『二十四の瞳』『女の園』(1954年)、『野菊の如き君なりき』(1955年)、『太陽とバラ』(1956年)、『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)、『楢山節考』(1958年)などや、小津安二郎監督も『麦秋』(1951年)、『早春』(1956年)、『彼岸花』(1958年)、『東京物語』(1953年)などを発表した。

日活[編集]

1953年の製作再開以降、市川崑監督『ビルマの竪琴』(1956年)などの文藝作を製作していた。五社協定により他社からスターを引き抜けないため、石原裕次郎小林旭浅丘ルリ子赤木圭一郎宍戸錠二谷英明川地民夫待田京介和田浩治などの自前のスターを作り出し、若年向けの青春映画や無国籍アクション映画を製作・配給した。なかでも古川卓己監督『太陽の季節』(1956年)、中平康監督『狂った果実』(1956年)、井上梅次監督『嵐を呼ぶ男』(1957年)、田坂具隆監督『陽のあたる坂道』、蔵原惟繕監督『風速40米』(1958年)などの石原裕次郎主演作が一世を風靡する。川島雄三監督フランキー堺主演の『幕末太陽傳』(1957年)などの歴史に残る作品も残している。

大映[編集]

1950年代から1960年代前半にかけて男優では長谷川一夫市川雷蔵、女優では京マチ子山本富士子若尾文子と、さらに他社専属やフリーの高峰秀子鶴田浩二岸惠子らも出演し、溝口健二監督『近松物語』(1954年)、吉村公三郎監督『夜の河』(1956年)などの名作を多数送り出した。中でも市川主演作が人気を呼び、森一生監督『薄桜記』(1959年)、伊藤大輔監督『弁天小僧』(1959年)などの時代劇の他、市川崑監督『炎上』などの文藝作もヒットした。

このほか、新藤兼人監督『原爆の子』(1952年)、山本薩夫監督『真空地帯』(1953年)、今井正監督『真昼の暗黒』(1956年)などの独立系映画も活発に製作・公開。1957年には勅使河原宏羽仁進などの若手映画人らがグループ「シネマ57」を結成し、実験映画の製作などを行っていた。

1960年代[編集]

日本における映画観客動員数の推移。

1960年に日本映画史上で最高製作本数となる547本を製作し、ピークを迎えた。そのほとんどは大手6社によるプログラムピクチャーで、この年以降、映画産業に翳りが見え隠れするようになった。観客動員数はこれより先、1958年の11億人強を最高に、急激に下降し、1963年には半分以下の5億人強となった[22]

この背景には1953年より登場したテレビの急速な普及がある[22][23]。テレビは1959年の皇太子結婚をきっかけに一般に広く浸透し、1964年東京オリンピックでその勢いは加速[22]。またこの時期フジテレビに在籍していた五社英雄が松竹へ出向し『三匹の侍』で映画監督としてデビュー。テレビ畑出身、映画界での下積み経験のない人材が大手映画作品に進出していく契機となる。1961年には新東宝が製作停止、日活は1969年に撮影所を売却、1971年に製作停止となった。

同時に、中平康鈴木清順増村保造蔵原惟繕石井輝男岡本喜八今村昌平松本俊夫大島渚高橋治山田洋次吉田喜重篠田正浩山下耕作五社英雄深作欣二三隅研次工藤栄一浦山桐郎熊井啓勅使河原宏若松孝二といった個性的で多種多様な若手監督が活躍した時代でもあった。

映画誌も次々廃刊に追い込まれ、芸能誌で扱われる映画記事も年々減っていった。『月刊明星』や『月刊平凡』は、大半の世代からは、歌手アイドルを扱う芸能誌というイメージかもしれないが、1960年代までは誌面のほとんどが映画スターの記事で占められた。1960年代後半からGS御三家の記事などで歌手の記事が増えていき、1970年代に入ると歌手系の10代の女性・男性アイドルで誌面が席捲され、映画は新作映画の紹介記事など数ページだけになった。

東映[編集]

観客動員No.1となった東映は、1960年に第二東映(1年後にニュー東映と改称)を設立し、製作本数を倍増して日本映画界の売上50%のシェアを目指したがうまくいかず、2年で解散。映画不況が始まった1960年代から1970年代初めは鶴田浩二高倉健藤純子らを擁して仁侠ブームを作った。このジャンルの開祖は沢島忠の『人生劇場 飛車角』(1963年)といわれ[24][25]、義理と人情の板挟みにあいながらも自己犠牲を貫く内容だった。以降、『博徒』、『日本侠客伝』、『網走番外地』、『昭和残侠伝』、『緋牡丹博徒』といった任侠シリーズは人気を博し[25]、1972年頃まで製作され、内藤誠の『不良番長シリーズ』もヒットした。一方で1969年にはオールスターキャストの『日本暗殺秘録』(主演千葉真一監督中島貞夫)を封切り公開し、東大紛争安保闘争など騒然とした当時の世相を反映させている[26]

東宝[編集]

成瀬巳喜男

東宝では社長シリーズに続き、古沢憲吾による植木等主演の無責任シリーズ日本一の男シリーズなどを開始し、陽気なミュージカル喜劇として人気を博した[22]。また、加山雄三主演の若大将シリーズでは松竹が得意としたスポーツマン大学生もののお株を奪うヒットを見せた。

他方で黒澤明や怪獣映画も人気を堅持し[22]、黒澤は引き続き黒澤プロダクションとの東宝共同製作で、『用心棒』(1961年)、『椿三十郎』(1962年)、『天国と地獄』(1963年)、『赤ひげ』(1965年)などの作品を発表した。1969年にアメリカの20世紀フォックス社の戦争映画『トラ・トラ・トラ!』の脚本と監督を依頼された黒澤は、最終編集権が監督にないハリウッドのシステムに反発。撮影が容易に進まず、激しい心労の末に解任され、自殺未遂事件を起こす。また、1970年には初のカラー映画『どですかでん』を製作している。

岡本喜八による『独立愚連隊』(1959年)で戦争モノにも進出し、多彩なジャンルをアピールした。岡本はその後の『日本のいちばん長い日』(1967年)で東宝と製作主張を巡り訣別を告げ、私費で『肉弾』(1968年)を製作している。

その他代表作としては、市川崑総監督『東京オリンピック』(1965年)、成瀬巳喜男監督の『女の中にいる他人』(1966年)、『乱れ雲』(1967年)などが挙げられる。

東宝は1961年ごろにロサンジェルスの老舗映画館「ラ・ブレア」を買い取り、自社作品の上映を開始し、同館は米国における日本映画のショーケースとして機能した[27]。60年代には同様にニューヨークのタイムズスクエアにも専門館を所持した[28]

松竹[編集]

大島渚

「大船調」といわれた松竹お得意のメロドラマ路線が、収益を呼べず、1960年に城戸四郎社長が辞任。監査役の大谷博が社長となった。松竹ヌーヴェルヴァーグと呼ばれた助監督群が相次いでデビューし、大島渚監督『青春残酷物語』(1960年)、『日本の夜と霧』(1960年)、吉田喜重監督『ろくでなし』(1960年)、『秋津温泉』(1962年)、篠田正浩監督『恋の片道切符』(1960年)、『暗殺』(1964年)などの斬新な作品群を発表するが、日米安保改定問題を扱った大島渚監督『日本の夜と霧』が封切り4日後に松竹によって興行を打ち切られる。松竹を辞めた大島渚は独立プロ創造社を起こすなど、松竹ヌーヴェルヴァーグの監督たちは後に松竹を後にした。野村芳太郎は『拝啓天皇陛下様』(1963年)などの人情喜劇、コント55号主演映画などを監督。山田洋次監督は『下町の太陽』(1963年)、『馬鹿まるだし』(1964年)、『霧の旗』(1965年)などの作品を経て、1969年より「男はつらいよシリーズ」を始める。代表作には、小津安二郎監督『秋日和』(1960年)、『秋刀魚の味』(1962年)、木下惠介監督『笛吹川』(1960年)、『永遠の人』(1961年)、『二人で歩いた幾春秋』(1962年)、『死闘の伝説』(1963年)、『香華』(1964年)、渋谷実監督『もず』(1961年)、小林正樹監督『切腹』『からみ合い』(1962年)、松山善三監督『山河あり』(1962年)、羽仁進監督『充たされた生活』(1962年)、中村登監督『古都』(1963年)、『紀ノ川』『暖春』(1966年)、『智恵子抄』『惜春』(1967年)、『わが恋わが歌』(1969年)、吉村公三郎監督の『眠れる美女』(1968年)、蔵原惟繕監督の『栄光への5000キロ』(1969年)などがある。『宇宙大怪獣ギララ』(1967年)、『吸血鬼ゴケミドロ』(1968年)などの怪獣映画も発表するがヒットには至らなかった。

日活[編集]

1960年代に引き続き、無国籍映画と云われた和製西部劇(小林旭の渡り鳥シリーズや流れ者シリーズなど)が大ヒットするが、本格的なテレビ時代の到来と日本の映画産業全体の斜陽化のあおりを受けた上に、アクション映画のマンネリ化、企画不足、石原裕次郎と小林の人気低下、社長・堀久作のワンマン体質からくる放漫経営などが次々に災いして1960年代半ばから業績は急激に悪化。その1960年代には吉永小百合浜田光夫高橋英樹渡哲也山本陽子和泉雅子松原智恵子藤竜也梶芽衣子杉良太郎らを輩出したが、退潮を食い止めることはできなかった。一方、今村昌平が『豚と軍艦』(1961年)、『にっぽん昆虫記』(1963年)、『赤い殺意』(1964年)、鈴木清順が『東京流れ者』、『けんかえれじい』(1966年)などを制作したが、『殺しの烙印』(1967年)に不満を持った堀から解雇される。このほか、監督では熊井啓浦山桐郎らを擁した。

大映[編集]

1960年代に入ると勝新太郎田宮二郎が頭角を現すが、長谷川一夫叶順子の引退(1963年)、永田雅一社長によって五社協定にかけられた山本富士子(1963年)・田宮二郎(1968年)の退社、市川雷蔵の急逝(1969年)で観客数の落ち込みが深刻になり、永田のワンマンな放漫経営もあって業績は悪化。日本初の70ミリ映画『釈迦』(1961年)や『秦・始皇帝』(1962年)など大作映画路線も数作で終わった。この年代の大映の代表作には、市川崑監督の『おとうと』『ぼんち』(1960年)、『黒い十人の女』(1961年)、『私は二歳』『破戒』(1962年)、『雪之丞変化』(1963年)、増村保造監督の『偽大学生』(1960年)、『妻は告白する』(1961年)、『清作の妻』(1965年)、『華岡青洲の妻』(1967年)、三隅研次監督の『斬る』(1962年)、『』(1964年)、『剣鬼』(1965年)、吉村公三郎監督の『その夜は忘れない』(1962年)、『越前竹人形』(1963年)、川島雄三監督の『雁の寺』(1962年)、『しとやかな獣』(1963年)、山本薩夫監督の『傷だらけの山河』(1964年)、『白い巨塔』『氷点』(1966年)、森一生監督の『ある殺し屋』(1967年)などがある。ガメラシリーズ(1965年 - 1971年)、大魔神シリーズ(全て1966年・3作)『妖怪大戦争』(1968年)などの子供向け特撮映画も発表し、中でもガメラシリーズに至っては東宝のゴジラシリーズと並ぶ怪獣映画の二枚看板にまで発展するに至るほどの人気シリーズとなった。主な人気シリーズは以下の通り。

独立系[編集]

大手企業によるブロックブッキング制の影響があったものの、文芸プロダクションにんじんくらぶが複数の作品を制作・公開しており、1966年の日本・台湾合作映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』は、主演の千葉真一と監督の深作欣二東映に籍を置きながら参加した作品である。一方映画産業の斜陽化と共に、監督が大企業を離れて独立プロで製作を行う、といったことが見られるようになり、新藤兼人の『裸の島』(1960年)、『鬼婆』(1964年)、『裸の十九才』(1970年)や、勅使河原宏安部公房による『おとし穴』(1962年)、『砂の女』(1964年)、『他人の顔』(1966年)といったブラックユーモアに満ちた作品が出現した。

ATG[編集]

1961年に、日本アート・シアター・ギルド (ATG) 設立(- 1992年)。非商業主義的な芸術作品を製作・配給した。第1回配給作品はイェジー・カヴァレロヴィチ監督『尼僧ヨアンナ』(1962年4月)。初の日本映画作品は勅使河原宏監督『おとし穴』(1962年7月)。以降、1968年には1000万映画の製作を開始し、新藤兼人羽仁進などの独立系監督のほか、三島由紀夫(作家)、実相寺昭雄(テレビ演出家)、寺山修司(演劇)、田原総一朗(ジャーナリスト)、清水邦夫(演劇)などの異業種出身監督、黒木和雄松本俊夫などの新人など、多くの出身者や作風に門戸を広げた。また1960年代後半には、ピンク映画出身の若松孝二など、そして大手五社映画を辞した大島渚今村昌平吉田喜重篠田正浩岡本喜八熊井啓増村保造斎藤耕一またはフリーの市川崑などにも製作と発表の場を与えた功績も大きい。多くの作品がキネマ旬報ベストテンに選定されるなど高い評価を受け、70年代はもちろん、80年代後半まで大きな潮流となった。

手塚治虫・虫プロダクション[編集]

1962年、手塚治虫虫プロダクションを設立。

1970年代[編集]

1970年代も日本映画の集客力の凋落は止まらず、内訳で見た場合、1971年に公開された367本のうち、大手5社の占める割合が約4割に激減した[29]。逆に、低予算で製作可能なピンク映画や独立プロによる映画の躍進も見られた。

また、スターシステムと五社協定の崩壊により俳優は製作会社への所属から作品ごとの契約へと切り替わりが進んだ。前時代に活躍した監督についても、資本を海外に求めた黒澤や大島、ドキュメンタリーへ転進した今村など、徐々に消えていくこととなった。

1950年代から1960年代にかけては、映画は10本作れば6本は黒字だったが[30]、1970年代後半はヒット作は10本中2本程度になった[30]。映画人口もピーク時の7分の1[30]。映画がこれほど衰退した国は、世界に例がないと当時いわれた[30]。あまりの衰退ぶりに映画業界から国から助成をという声が盛んに上がったが、1978年6月に日本映画製作者連盟の会長に就任した岡田茂が「金も出せば口も出すで、結局あちらの言いなりじゃ自ら首を絞めるようなものだ。地道に一本一本力を込めて、自力再生するしかない。もう東映だ、松竹だと妙な社風を振りかざして睨み合ってる時代じゃない。この斜陽対策を業界全体で考えなくてはならない」などと国からの支援を断固反対した[30]

東映[編集]

学生運動の衰退に伴い、東映の任侠モノは色あせた映画と評されるようになった。伊藤俊也の『女囚さそりシリーズ』の公開後、1973年には実録路線の『仁義なき戦い』シリーズや、格闘映画の『ボディガード牙』シリーズなどが大ヒットし、以降次々とシリーズ化され、実録・格闘路線は経営を支える二本柱となった。特に千葉真一の格闘映画は欧米東南アジアでも大ヒットした[31][32][33][34]。1975年には日本国内では初めてのパニック映画である『新幹線大爆破』を公開したが、日本ではヒットしなかったものの、海外では高い評価をされて大ヒットした。同年には松竹の『男はつらいよ』シリーズに対抗した『トラック野郎』が、『新幹線大爆破』より日本での興行収入を上回ったことからシリーズ化され、菅原文太ヤクザ映画から脱却するきっかけとなった。1978年には『柳生一族の陰謀』が大ヒットし[35]、『赤穂城断絶』など次々と時代劇復興を掲げた作品が製作された。1970年代後半からは角川映画、オフィス・アカデミーなどの独立プロを盛んに取り込んだ[36][37][38][39][40]

東宝[編集]

12代目東宝社長・石田敏彦は「松岡辰郎社長時代の1970年に20本みんなで選んだんですが、当たったのが『その人は女教師』(岩下志麻主演・出目昌伸監督)1本だけだった鮮烈な記憶があります」と述べている[29]。ゴジラシリーズは70年代に入っても継続して製作されたが、低予算化と内容の低年齢向け化が進み、1975年の『メカゴジラの逆襲』を最後に1984年まで製作が途切れることとなった。

松竹[編集]

東京柴又駅車寅次郎の銅像

松竹では1969年より開始された山田洋次による『男はつらいよ』をシリーズ化し、国民的人気を得てこのシリーズは30年近く続き48本の映画が製作され、1983年、「世界最長の映画シリーズ」としてギネス・ワールド・レコーズに登録されている。

日活[編集]

経営難に陥った日活は労働組合を中心に再建がなされ、1971年より日活ロマンポルノとしてロマンポルノ路線を断行した[41]。日活の転進はそれまで所属していた大物俳優や監督との訣別を意味した。小林旭渡哲也は東映へ、宍戸錠はテレビへと活躍の場を求めている。逆に今まで機会のなかった新人監督や俳優が次々と出現し、業界の停滞期において、唯一といっていい人材育成の場所となった。日活ロマンポルノは1988年まで週に2本というペースで製作がなされ、神代辰巳田中登小沼勝村川透池田敏春中原俊黒沢直輔金子修介といった多数の人材を輩出している。

大映[編集]

大映は倒産し[41]、後の1974年に徳間書店に買収された。

角川映画[編集]

映画苦戦の一方で1976年に角川春樹が映画製作に進出し、豊富な予算による制作とメディアミックスによる戦略化された宣伝を展開。封切り公開された作品は立て続けに大ヒットし続け、洋画とテレビに押される一方だった日本映画界の停滞を打ち破り、角川映画の勢いは1980年代半ばまで続いた[42]。アニメーションやドキュメンタリーの分野は発展し、後の礎を築いた。1977年に東映が配給した『宇宙戦艦ヤマト』では日本映画で初といわれる徹夜組が出た。1979年には『銀河鉄道999』(東映製作配給)が公開され、1979年度の邦画の邦画配収第一位となり、アニメ映画史上初の快挙となった。アニメ映画が評価されなかった[43]時代に異例の評価を得る。

1976年の『犬神家の一族』を皮切りに、出版やテレビドラマ等との複合的効果を狙ったメディアミックスマーケティングを展開し、『人間の証明』、『野性の証明』、1979年の『戦国自衛隊』など、大作を立て続けに大ヒットさせた[42]。『犬神家の一族』では製作を東宝、配給は東映など、以降の作品でも映画会社のそれぞれの強みのみを採用し、従来の映画界の枠を打ち破る独自の映画製作を進めていった[44]

1980年代[編集]

邦画配給会社別の年間配給収入(1999年平成11年)まで)

1980年になると従来のスタジオシステムは崩壊し、大手が大作映画を全国の専属劇場で同時公開するという方式が成り立たなくなった。日活は1978年に社名を「にっかつ」に、1988年に「ロッポニカ」に変更し、ロマンポルノ路線からの脱皮を図ったが、うまく立ち行くことはできなかった。

1980年の第54回キネマ旬報ベスト・テンで話題を呼んだのは、ゲリラ的に製作・配給・興行した鈴木清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』が日本映画ベスト・テン1位を取ったことと、巨匠監督の作品に交じって大森一樹ヒポクラテスたち』、橋浦方人海潮音』、石井聰亙狂い咲きサンダーロード』と、20~30歳代の若い監督作がベスト・テンに名を連ねたことだった[45]。キネマ旬報ベスト・テン選考委員の一人である松田政男は「1980年は自主製作映画の最良のエネルギーを取り込むことに成功した一年だった。80年代に於ける日本映画転換のきざしを準備したと言える。それを担ったのはシネマプラセット[46]・新生ATG・名画座チェーンの三者。この功績は大きい」と評した[45]。名画座チェーンというのは、いずれも良心的な劇場(こや)として映画ファンに知られていた東京の並木座、池袋文芸坐、上板東映の三館を指し、「80年代はもうメジャーに任せておけない!」と、若手監督の自主製作バックアップに情熱を注いだ[45]。並木座は土方鉄人監督の『戦争の犬たち』、文芸坐は山川直人監督の『アナザ・サイド』、上板東映は石井聰亙監督の『狂い咲きサンダーロード』の製作にも関わっている[45]横山博人監督の『』は、並木座、文芸坐でのヒットを見た岡田茂東映社長がスケベ心を動かして東映で配給したといわれる[45]

酒井武史は『朝日ジャーナル』1982年7月の記事で「いま日本の映画界では一見奇妙な現象が起きています。映画人口は1981年についに1億5千万人を割りました。これは最盛期の14%に当たります。にも関わらず、邦画ニューウェーブの旗手たちといわれる新進若手の監督たちが、話題作、問題作を引っさげて続々登場してきています」と論じ[47]、同誌編集部が独断で、将来の日本映画を担うと期待する若手監督20人を選び、1982年7月に二週に渡り紹介している[47]。ここで挙げられている20人は、長嶺高文井筒和幸森田芳光浅尾政行土方鉄人井上真介小栗康平石山昭信土橋亨後藤俊夫山川直人石井聰亙長崎しゅんいち大森一樹根岸吉太郎横山博人松原信吾和泉聖治保坂延彦澤井信一郎である[47]

1980年代に於いても映画をめぐる環境は急速に変化した[48]。上板東映など名画座の閉館が相次ぎ、代わって都会でもてはやされたのがミニシアターであった[48]。東京の名画座に限れば、都心に相次いでオシャレなミニシアターが1980年代に続々開館したことで、お客が地元の映画館で映画を見なくなったということがあった[48]。また1970年代後半からの大作志向もあって製作本数が激減し、興行の当たり外れも増え、多少でもヒットした作品は封切映画が打ち切りしたときの穴埋めで使われるようになり[48]、名画座にかける映画も減った[48]。さらに追い打ちをかけるようにそれまで大手(映連)とテレビ局、映連と全興連の間で一定の期間を置いて、テレビ放映、ビデオ化することが不文律で守られていたが、1980年代に入り次々これも崩され、名画座の存在理由も著しく揺らいだ。1983年に『E.T.』『南極物語』で久々に映画人口は増加したとはいえ、その数字には名画座の観客数は含まれていない[48]。1983年8月にオープンしたテアトル千住は、マニアックなピンク映画のプログラムを組み、一部の映画ファンから注目されたが[48]、お客が全然入らず半年で潰れた[48]。古い汚いイメージが定着した名画座をいざ立て直そうとすると消防法の改正で金がかかりすぎ、個人経営の資本では賄いきれない事情があった[48]。これに関連するトピックとして西武セゾングループの映画進出が挙げられる[48]。1970年代の角川映画の映画進出も大きなトピックだったが、西武グループはさらに規模が大きく、映画関係者も大いに気にした[48]。80年代のミニシアターブームで渋谷パルコSPACE PART3新所沢レッツシネパークシネヴィヴァン六本木シネセゾン渋谷銀座テアトル西友など、次々に映画館をオープンさせたのを始め、シネセゾンとして洋画邦画の配給他、関連会社が、多くの映画を製作した(セゾングループの映画事業)。同社幹部は「系列の映画館を30館程度にします」と述べていた[48]

1984年、伊丹十三(映画監督伊丹万作の息子)が51歳で『お葬式』で映画監督としてデビューし、当初は「映画の名前が良くない」などと、ほとんど映画館から上映を断られるほど知名度が低い状態であったが、最初は小さな映画館での上映から始まり徐々に高い評価をうけ上映館が拡大し、ついには日本アカデミー賞、芸術選奨新人賞を始めとして、実に30を超える映画賞を受賞する状態までになった。(翌1985年の『タンポポ』も佳作との評価する人が多いが)1987年の『マルサの女』は、同時代を取材しそれを巧みに取り込んだ作品で、社会現象化し世間はこの映画のことで話題しきりの状態となった。伊丹は日本映画に、伊丹独特のセンス、新しい切り口、(製作上の)新しい手法などを導入した[注釈 3]

80年代終盤になると有名人を映画監督に担ぎ出す動きが相次ぎ、ミュージシャンや俳優から作家、画家などあらゆるジャンルの監督が出現したが、二作目のメガホンをとったのは北野武坂東玉三郎竹中直人などごく僅かであった。

一方、1970年代に沈黙してきた巨匠の復帰作品というものも見られ、代表的なものとしては黒澤明の『影武者』(1980年)、『』(1985年)、『』(1990年)や鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)、『陽炎座』(1981年)、『夢二』(1991年)や吉田喜重の『人間の約束』(1986年)、松本俊夫の『ドグラ・マグラ』(1988年)などがある。

今日続く映画状況の起点という意味では、1980年代のテレビ局による本格的な映画参入が挙げられる[23][49][50]。当時視聴率トップを走っていたフジテレビは、1969年の『御用金』でテレビ局による映画参入の先鞭をつけたが[49][50]、その後中断し、14年の歳月を経て1983年の『南極物語』で再び映画に参入した[49][50]。1983年は前年暮れに公開されたアメリカ映画E.T.』が空前の人気を維持して配収94億円を挙げ、興行街を活性化した年でもあったが[49]、この年夏に公開された『南極物語』が当時の日本映画新記録となる配収56億円を挙げ、さらに興行街を盛り上げた[49]。『南極物語』の大ヒットは、製作・宣伝面で、映画界にいくつかの新しい血を導入した[49]。フジテレビの番組に俳優や犬が次々と出演、バラエティ番組で連日取り上げるなど大々的なキャンペーンが行われ、映画公開を一大イベント化した[49][50]フジサンケイグループを前面に押し出し、同系列資本が一丸となっての宣伝は、映画界では初めてのことであった[49]。テレビ局の本格的な映画製作の進出は、フジテレビをさらに活気づかせたのは勿論、以後も『子猫物語』(1986年)など、話題作を連打し、他局もそれにならうようになった[49]。これには自局で放映する映画番組での放映権が獲得しやすいことも理由としてあった[50]。もともとテレビ局は高い放映権を払って、映画を買って放映していたが[23]、人気映画ともなると各局の争奪戦で放映権料が高騰し、しかも版権は数年で切れるため、版権を購入し直す必要がある[50]。「それなら最初から作っちゃえ」という発想が生まれるのは当然で[23]、しかも自分のところで作れば版権を自社でずっと所有でき、人気映画なら何度でも自局で放映できる[50]。ここに至りテレビ局も映画製作会社としての一面を持つといっていい状況が生まれた[23]。また自局で放映したテレビドラマの映画化が増えていくことも大きなトピックだった[23]。それまでもNHK朝ドラの映画化等、無くはなかったが、映画→テレビが一般的で、テレビ→映画は多くはなかった。ところがフジテレビが深夜枠で放送した『NIGHT HEAD』の劇場版東宝配給)が1994年に公開されると、同時期に公開された東映が社運を賭けた勝負作『集団左遷』より成績が上回り[51]、映画関係者は大きなショックを受けた[52]。角川映画もこの1983年に『探偵物語』『時をかける少女』を大ヒットさせたが、派手な宣伝という意味では、次第にフジテレビと入れ代わるようになった[49]

1980年代末からのバブル時代にはホイチョイ三部作と呼ばれる「トレンディ」な映画をヒットさせた。

1990年代[編集]

北野武

映画業界の苦戦は続き、年間観客動員数は1996年に1億1957万人まで減少、洋画人気による洋高邦低の状況も顕著になり、1998年には年間配給収入シェアで邦画が30.2%まで落ち込んだ[50]。映画館のスクリーン数は1960年代から着実に減少しており、最盛期の1960年には7000スクリーンを数えたが、1993年には1734スクリーンと史上最低を記録した[53]。奇しくもこの1993年は日本にシネマコンプレックス第1号となるワーナー・マイカル・シネマズが出店した年でもあった[23]。1990年代後半からシネコンの普及は一気に加速していき、スクリーン数は減少から増加へ転じた[23]。これは映画観客の増加に大きく貢献し、1996年には年間入場者数が1億1957万人と最小を記録したが、5年後の2001年には1億6328万人まで回復した[54]メディアミックスの動きが活発になり、ゲーム漫画アニメなどと連動した映画作品が増加した。製作委員会方式によるリスク分散の手法が一般化し[23]、テレビ製作会社の映画事業参入が増加、2000年代以降の国内市場の邦高洋低への布石となった。また、撮影所システム崩壊後は助監督から監督へ昇格するという流れがほぼ消滅したため、この頃からテレビディレクターがそのまま映画監督を担い始めた。

1990年代の国内市場ではスタジオジブリ作品が安定したヒットメーカーとなり、1997年の『もののけ姫』は当時の日本国内歴代興行収入1位を塗り替える記録的なヒットとなった。 1984年に復活したゴジラシリーズは1991年公開の『ゴジラvsキングギドラ』以降はファミリー向け娯楽映画に作風が転換し、正月映画として毎年1本のペースで公開されスタジオジブリと邦画の年間興行トップを争う人気シリーズとなったが、1995年の『ゴジラvsデストロイア』で一旦シリーズ終了となった。

1950年代以来遠ざかっていた国際映画祭の話題もいくつか出現し、1997年、今村昌平の『うなぎ』がカンヌ映画祭のグランプリを、河瀬直美の『萌の朱雀』がカメラ・ドールを獲得した。ヴェネツィア映画祭では北野武の『HANA-BI』が金獅子賞を獲得した。興行面においても周防正行の『Shall we ダンス?』などがアメリカをはじめとする諸国で成功を収めた。

2000年代[編集]

邦画配給会社別の年間興行収入(2000年平成12年)以降)

2001年には『千と千尋の神隠し』が当時の日本歴代興行収入第1位を記録。2003年、『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』が記録的ヒット。同年に『座頭市』が第60回ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を、第28回トロント国際映画祭では観客賞を受賞。2004年には『誰も知らない』に出演した柳楽優弥が、第57回カンヌ国際映画祭にて史上最年少および日本人として初めての最優秀主演男優賞を獲得。2008年には『おくりびと』が事実上、日本映画として初の第81回アカデミー賞外国語映画賞を受賞し、快挙が続いた。ジャパニーズホラーとも呼ばれるホラー映画も海外で脚光を浴び、『呪怨』などがハリウッドでもリメイクされた。特撮映画では平成仮面ライダーシリーズの劇場版が定着した一方、1999年の『ゴジラ2000ミレニアム』で再始動となったゴジラシリーズは観客動員数の下落が止まらず、2004年のゴジラ誕生50周年を区切りとして『ゴジラ FINAL WARS』で再度シリーズ終了となった。

2002年には日本の自国映画のシェアは27%まで落ち過去最低となったが、その後2006年には21年ぶりに邦画の興行収入が洋画の興行収入を上回った。この傾向は邦高洋低と称され、2007年に一度洋画のシェアが50%を超えたのみで、2008年以降現在まで邦画のシェアが洋画を上回り続けている。邦高洋低の傾向が生まれた要因はテレビ局が出資した映画のCMを自局で大量に流し、情報番組などで宣伝したことであるが、それに比例してテレビ局の口出しが増え、映画の自主性が薄れているとされる[55]。放送法でテレビ局は番組以外の商品は、宣伝が自由にできるので製作してはならないという決まりがあるが、将来自局で流す映画のコマーシャルは放送法に違反しないため問題はないので、上記で挙げた過剰な宣伝はモラルの問題とされる[56]

2001年11月16日文化芸術振興基本法が衆議院に提出され、同月30日衆参で可決した。法律の公布・施行は同年12月7日。この法律のメディア芸術の振興の項目(第9条)で、映画を含んだメディア芸術の製作・上映支援などのために必要な施策を講じることが明記され、これと連動する形で第35条で地方公共団体によるバックアップも明記された。 このことを受け、文化庁は地域振興と結びつく映画製作について助成することを打ち出し、各地方公共団体フィルム・コミッションなどの設立・運営、および当該組織を通じての映画製作の誘致などを始めた。さらに、『眠る男』(群馬県)や『船を降りたら彼女の島』(愛媛県)などのように、地方公共団体が(「補助金」や「寄付」などではなく)映画に対して直接出資する例も見られるようになった。2000年平成12年)2月 に「フィルム・コミッション設立研究会」が設立された。2001年(平成13年)8月8日 に「全国FC連絡協議会」設立総会が開催された。パシフィコ横浜で全国FC(フィルム・コミッション)連絡協議会の設立総会が開催された。46の正会員団体のうち、フィルム・コミッションの団体数は11。同年12月7日 に 「文化芸術振興基本法」施行。この法律の対象には、メディア芸術(第九条)として、映画も含まれる。 2003年(平成15年)4月1日に 「全国FC連絡協議会」、加盟47団体へ。全国フィルム・コミッション連絡協議会への加盟FC(フィルム・コミッション)の数が47団体に達した。4月24日に公開映画の納付義務付けを提言。文化庁の懇談会は、公開された日本映画を東京国立近代美術館フィルムセンターへ納入することを義務付ける事など日本映画を振興させる12の施策提言を最終報告書にまとめた。

東京など大都市よりも地方都市でロケーション撮影をする作品も多くなった。ヒット作品の中には地方都市を舞台にした作品もあり、これをきっかけにロケ地をめぐる観光客(聖地巡礼)が増加したケースもある。地方活性化の一役を映画が担っている面もこの時代から急速に大きくなっている。そのため誘致から撮影のスケジュール調整などを担う「フィルムコミッション」が各地で設立された。

日本では、基本的に観客は静寂を保つように視聴するのが礼儀となっており、北米のように[57]拍手・声援などで応答することは珍しかったが、2000年代に入ると、「応援上映」(チアリング上映)などと呼ばれる上映会が催され、それらでは声援など観客たちが映画の進行に合わせて盛り上げることが可能になった。

2010年代[編集]

2011年には産業革新機構が「日本を元気にするコンテンツ総合戦略」として経済産業省が企画し、日本のIP(知的財産)を用いてハリウッド映画を作ることで、日本のコンテンツの海外展開を図り、その利益を日本国内に広く還流することで日本のエンタテイメント産業を再生するという目的で株式会社ALL NIPPON ENTERTAINMENT WORKS(ANEW)を設立。ANEW設立以降に7本の映画が企画されたが、実際に撮影に至った映画は0本のまま、ただ同然で身売りされることになった[58]。2015年に経産省は5年ぶりにカンヌ映画祭の「ジャパンパビリオン」事業を支援した。国内メディアは「カンヌで『くまモン』が大人気」などと報じたが[59] 、ほとんどの海外メディアは相手にしなかった。こうした官主導の動きは巨額の赤字を垂れ流しただけで大失敗に終わった[60]

2010年代に入っても日本映画の企画の傾向は2000年代から大きな変化はなく、テレビ局出資の製作委員会方式で作られる大ヒット漫画・小説が原作の作品が主流であった。2000年代にヒットメーカーであった宮崎駿は2010年代は2013年に『風立ちぬ』を公開したのみで発表後引退を宣言したが(2017年に撤回)[61]、東宝の『ドラえもん』、『クレヨンしんちゃん』、『ポケットモンスター』、『名探偵コナン』、東映の『ONE PIECE』、『ドラゴンボール』と言った長期アニメシリーズの劇場版が堅調なヒットを見せ日本の映画産業を下支えした[62]

2016年には年間興行収入が2010年以来6年ぶりに最高記録を更新した[63]。その最大の要因はアニメ映画『君の名は。』が記録的大ヒットを遂げたことであり、監督の新海誠はポスト宮崎駿と称された[64]。この年は12年ぶりに日本製作のゴジラシリーズとしてエヴァンゲリオンシリーズの庵野秀明を監督に抜擢した『シン・ゴジラ』も公開され、国内で興行・批評の両面で成功を収めた[65]。以前からゴジラシリーズは東宝での単独製作となっていたが、本作もその前例を踏襲し、昨今の日本映画では珍しく製作委員会方式を取らない形での製作となった。また、クラウドファンディングで初期制作費を集めた『この世界の片隅で』が小規模上映から出発して25億円を越えるヒットとなり、1988年度(第62回)の『となりのトトロ』以来、アニメ映画としては28年ぶりにキネマ旬報の日本映画ベスト1位に選ばれた。2017年はインディーズ映画カメラを止めるな!』が製作費300万円でありながら興行収入30億を超える異例のヒットを見せた。2018年の『万引き家族』は監督の是枝裕和第71回カンヌ国際映画祭で日本人として『うなぎ』以来21年ぶりに最高賞であるパルム・ドールを獲得した[66]。 2019年には国内の興行収入は過去最高の2611億8000万円を記録し、年間入場者数においても1971年以来48年ぶりに1億9000万人台を回復した[67]

2020年代[編集]

新型コロナウイルス感染症の流行は世界中の映画産業に深刻かつ甚大な損害を与えた。日本もその例外ではなく、感染症対策のため映画館は3カ月に及ぶ営業休止を余儀なくされ興行収入の激減が生じた[68]。 それでも日本の映画産業は諸外国よりいち早く先に立ち直ることに成功した。その立役者となったのはアニメ映画の記録的大ヒットである[69]。2020年『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』が興行収入404.3億円を記録し、2001年『千と千尋の神隠し』以来19年ぶりに日本歴代興行収入第1位記録を更新した。また、本作は2020年の年間興行収入世界第1位となり、非ハリウッド映画として初めて年間1位となった。2021年以降も『シン・エヴァンゲリオン劇場版』、『劇場版 呪術廻戦 0』、『ONE PIECE FILM RED』、『すずめの戸締まり』、『THE FIRST SLAM DUNK』、『名探偵コナン 黒鉄の魚影』などアニメ映画が国内で興行収入100億円を突破するヒットを見せている。また、こうしたアニメ映画の大ヒットは日本国内にとどまらず、北米市場では『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』が公開2週目の週末興行で1位に輝いた。日本映画としては『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』以来22年ぶりの出来事だった。中国や韓国では『THE FIRST SLAM DUNK』や『すずめの戸締まり』が異例の大ヒットを遂げている[70]

また、2020年代に入ってからは日本映画の国際映画祭での受賞も多く見られるようになった。2020年には『スパイの妻』が第77回ヴェネツィア国際映画祭で『座頭市』以来17年振りとなる銀獅子賞を受賞[71][72][73]。2021年には『ドライブ・マイ・カー』が第74回カンヌ国際映画祭にて日本映画最多となる3部門を受賞したほか、第94回アカデミー賞では作品賞を含む4部門にノミネートされ、国際長編映画賞を受賞した。第79回ゴールデングローブ賞では『』以来62年ぶりに外国語映画賞を受賞するなど、世界各国で数多くの映画賞を受賞した。2023年は日本映画の受賞が相次ぐ年になった。『怪物』が第76回カンヌ国際映画祭において、脚本賞[74]クィア・パルム賞[75]を受賞した。第80回ヴェネツィア国際映画祭においては濱口竜介監督の『悪は存在しない』が銀獅子賞(審査員大賞)を受賞し、日本人では黒澤明以来のカンヌ・ヴェネツィア・ベルリンの三大映画祭のコンペ部門と米アカデミー賞において受賞した監督となった[76]第96回アカデミー賞においては宮崎駿監督『君たちはどう生きるか』が『千と千尋の神隠し』以来21年ぶり2度目の長編アニメーション賞を、『ゴジラ-1.0』がアジア映画では初の視覚効果賞を受賞した[77]

一方アニメ映画に対して実写の伸び悩みが指摘されている。2022年は日本の興収1位の「ONE PIECE FILM RED」(8月公開=197.0億円)を筆頭に、4位までアニメ(邦アニメ)が独占した。実写で1位は5位の「キングダム2 遥かなる大地へ」(7月公開=51.6億円)の5位が最高であるが、これも原作は日本漫画「キングダム」である。映画批評家の前田有一は、「国内でも国外でも売れる邦画は、今はアニメだけ。」と語り、日本の実写邦画の低迷については「観客がお金を払ってまで映画館に足を運ぶのは、テレビでは見られない映像がそこにあるからです。アニメならそれも可能ですが、製作費をかけられない日本の実写映画では難しい。大半がドラマの延長レベルです。実写で“キラーコンテンツ”になり得るのは、ハリウッド並みとは言いませんが、2ケタ億円はかけた作品でしょう。例えばそれがNetflixのドラマだったりする。」とし、日本における洋画の低迷については「興行を下支えしていた中級ヒットが激減」「名前で観客を呼べるハリウッドスター不在」「そもそも米国に対する憧れがなくなったことも大きい」「米国を“豊かな国”としてカルチャーやライフスタイルを真似していたのは、ぎりぎり今の40代後半まででしょう。ハリウッド大作も憧れのひとつでしたが、今の20代、30代には数ある国のひとつでしかありません」と分析している。2022年でもトム・クルーズ主演のハリウッド映画「トップガン マーヴェリック」(5月公開=興収135.7億円)くらいしか話題になったと言える洋画が無くなっていた。日本映画製作者連盟の統計によると、1990年代の興行収入割合が洋画7割で邦画3割であったが、2022年の興行収入割合は邦画68.8%に対し、洋画は31.2%と逆転している[78]

コロナ禍以前より苦境が続いていたミニシアターは閉館が相次ぎ[79]、ミニシアターを救おうと、是枝裕和監督や俳優の井浦新など映画関係者が中心となって「SAVE the CINEMA」プロジェクトを立ち上げた[80]。また、深田晃司濱口竜介監督が発起人となり、クラウドファンディング「ミニシアター・エイド基金」を開始。集まった3億3千万円超の支援金を、118劇場103団体へ分配した[81]

映画業界の労働環境やハラスメントも問題視されるようになり、告発も相次いだ[82][83]。業界で働く人の現状を見ると、年収300万円未満が6割以上を占め、大部分は映画だけでは生活できない状態であり、是枝裕和監督らが発起人となり「日本版CNC設立を求める会」が立ち上がった[84]。 2023年4月には「日本映画制作適正化認定制度」がスタート、「撮影は1日11時間以内、準備や撤収、休憩を含めて13時間以内」「週1日の撮休日を設け、2週間に1度の完全休養日を設ける」など。その他、契約書に役割分担や予算を明記すること、ハラスメント防止のため研修を受けたスタッフを配置することなどが盛り込まれている[85]

映画興行[編集]

日本映画製作者連盟 調べ [86][87]
年度 興行収入
(億円)
シェア 入場者数
(億人)
合計 邦画
2000 1709 543 31.8% 1.35
2001 2002 781 39.0% 1.63
2002 1968 533 27.1% 1.61
2003 2033 671 33.0% 1.62
2004 2109 791 37.5% 1.70
2005 1982 818 41.3% 1.60
2006 2029 1079 53.2% 1.65
2007 1984 946 47.7% 1.63
2008 1948 1159 59.5% 1.61
2009 2060 1173 56.9% 1.69
2010 2207 1182 53.6% 1.74
2011 1812 995 54.9% 1.45
2012 1952 1282 65.7% 1.55
2013 1942 1177 60.6% 1.56
2014 2070 1207 58.3% 1.61
2015 2171 1204 55.4% 1.67
2016 2355 1486 63.1% 1.80
2017 2286 1255 54.9% 1.74
2018 2225 1220 54.8% 1.69
2019 2612 1422 54.4% 1.95
2020 1433 1093 76.3% 1.06
2021 1619 1283 79.3% 1.15
2022 2131 1466 68.8% 1.52
2023 2215 1482 66.9% 1.55

海外への輸出[編集]

アメリカ合衆国[編集]

戦前から戦後しばらくまで日本映画にとってアメリカ市場はハワイカリフォルニアの日本語を理解する日系人の一世および二世の観客を対象とするものに過ぎなかった。この転機となったのがヴェネツィア国際映画祭において1951年に『羅生門』が金獅子賞を受賞し、日本映画が欧米圏で注目を集めたことである。1954年のカンヌ映画祭グランプリを受賞した『地獄門』はアカデミー名誉賞衣裳デザイン賞を受賞し、ニューヨークのギルド劇場では47週間の長期興行となり成功を収めた。しかし『羅生門』にしろ『地獄門』にしろ一部のアートシアターで上映されたに過ぎず、全米規模の人気を得たとは言えなかった。一般的なアメリカ人が戦後最初に出会ったと言える日本映画は1954年の『ゴジラ』のアメリカ向け再編集版『怪獣王ゴジラ』である。本作は1956年4月27日、ニューヨークブロードウェイにあるステート劇場で公開された。同劇場は『羅生門』が公開されたアートシアターとは違い、およそ3450人もの人数を収容する大劇場であった。『怪獣王ゴジラ』は一週間に2万2000ドルの興行成績をあげ、続いて5月3日からボストンを中心とするマサチューセッツ州の136館で上映され、最終的には250万ドルの興行成績を記録した。『羅生門』の興行成績がアメリカで5万ドル、イギリス、イタリアなどの国を合わせて30万ドルであったことを考えると、その差は明らかである。アメリカの一般観客は怪獣映画などの一部の作品を除いて、日本映画に継続的な関心を抱くことはなかった[88]

中華人民共和国[編集]

1976年に文化大革命が終わった時、中国には映像エンターテインメントのストックはほとんどない状態であった。そこに徳間書店社長であり倒産していた大映の再建に乗り出していた徳間康快佐藤純彌監督『君よ憤怒の河を渉れ』(1976)や山口百恵の『赤いシリーズ』を提供した。『君よ憤怒の河を渉れ』は1979年に『追捕』というタイトルで公開され、文化大革命後に初めて公開された外国映画となった。主人公の境遇が文革後の中国人の共感を呼び、8億人を動員する記録的大ヒットとなった。徳間・大映は他にも佐藤純彌監督で1982年の日中国交正常化10周年記念として『未完の対局』、1988年に日中共同製作映画『敦煌』等を制作、日中の文化交流を促すことには成功したが、これらの企画はビジネスとしてはむしろ失敗であり、日本映画の中で他に徳間・大映に続こうとする動きも生まれなかった[89]

大韓民国[編集]

第二次大戦後、韓国は日本の映画や歌謡曲など大衆文化を制限してきたが、1998年大統領の金大中が来日時の国会演説で日本の大衆文化解禁の方針を表明。1999年に韓国で公開された日本映画岩井俊二監督の『Love Letter』は大ヒットとなったが、その後の日本映画は『ジョゼと虎と魚たち』(2003)など、わずかな作品を除きほとんど受け入れられることはなかった[90]

台湾[編集]

第二次大戦後の1950年、台湾と日本の貿易が正式に再開すると日本映画の輸入も再開された。1950年に台湾に輸入された日本映画は7本だけにもかかわらず、興行の成績と収益がともに外国映画の1位を占めた[91]。 台湾への日本映画輸出は、1969年に日本映画の輸入が台湾映画の製作に圧迫を与えるという理由で[92]、事実上輸入禁止措置がとられ[92][93][94]日本が中国と国交を回復した1972年以来、商売の道も閉ざされ[95][96][97]1973年から全面的に禁止された[93][98][99]岡田茂映連会長以下、各映画会社首脳陣の長年の努力が実り[92][93][97][100]台湾行政院新聞局から映連に、1980年金馬奨に日本映画の出品要請があり[93]、1980年、当時の映連加盟四社から各一本づつ、松竹砂の器』、東宝サンダカン八番娼館 望郷』、東映二百三高地』、日活先生のつうしんぼ』の4本が金馬奨の招待作品として上映された[95][101]。以降は日中関係も懸念され[96]、濃すぎる日本色を抑えるためか[99]、台湾の製作者や一部ジャーナリストの間で解禁に反対の声もあったが[93]1982年に岡田映連会長が訪台した際に、宋行政院新聞局局長に「(1980年の)金馬奨に出品した4作品だけでも特別に輸入を解禁してほしい」と要請[93]。台湾側の外貨事情、対日感情の好転などの背景もあり[92]、これが認められ1983年12月6日に東京会館での記者会見で岡田が「台湾が15年ぶりに日本映画輸入の門戸を開いた」と発表し[93]、1984年8月、台湾行政院新聞局から正式に日本映画輸入を解禁するとの報道された[92]。これを祝して1985年2月に新宿東映ホール1で日本で初めての台湾映画祭が開催された[102]。復活初年度の1985年は、東映だけ『二百三高地』を『魔界転生』に入れ替え[97]、他の三社は1980年の金馬奨に出品した同じ作品が台北高雄の映画館で一般公開され[92][97][103][104]、日本映画の輸出が復活した[94][95][97][98][105]。台湾の解禁で主要国で日本映画を上映禁止するのは韓国だけとなった[92]。これらは大人気となり、現地の業者が群がり大変な騒ぎになった[92][97][103][106]。翌1986年は前年の4本から6本に枠が増え[96]、増加分は映連加盟四社で抽選があり、抽選に勝った東映と松竹が2本づつになり[97]角川映画は当時映連に加盟していなかったが[97]、『里見八犬伝』はこの東映の増加枠に入れられ[97]、1986年9月25日に台湾で公開され大ヒットした[96]Record Chinaは、大ヒットした日本映画の1本として『里見八犬伝』を挙げている[107][注釈 4]。封切に合わせ、薬師丸ひろ子松坂慶子三船敏郎、岡田茂東映社長・映連会長らが訪台し[96][99]、台湾でも大人気の薬師丸が熱烈歓迎を受け、大きな騒動になった[96]。当時台湾では最新の日本とアメリカのビデオが見られる同伴喫茶が大流行しており、台湾のヤングは国際芸能によく通じていたという[99]。岡田は台湾の映画関係者と輸入に関する取り決め事項の調整を行った[96]。『海角七号 君想う、国境の南』の監督・魏徳聖ウェイ・ダーション)は「『里見八犬伝』は初めて自分で2回チケットを買って観た作品なんですよ。今でもストーリーや登場人物を鮮明に覚えています」などと話している[108]

1986年から1994年10月にかけては、行政院新聞局が6回の輸入割当本数の告示を行い、合計201本の輸入割当を許可したが、日本映画の著作権料が跳ね上がり、実際に輸入された日本映画はこの間52本であった[98]。1994年10月以降は全面的に日本映画の輸入が解禁されている[95][98][100]。日本映画輸入自由化は、岡田茂映連会長の永年の努力が大きいといわれる[100]。1986年の岡田と台湾の映画関係者との折衝の際に[96]、台湾側から「日本映画は輸出するのに、台湾の映画は日本ではやってくれないではないか」と不満が出て[96]、急遽、東映で1987年2月14日から『スケバン刑事』との併映で公開予定だった香港映画『蜀山』(『蜀山奇傅 天空の剣』)を後ろにずらし[96]、台湾側から要望があった『カンフーキッド/好小子』をこの枠に入れ、東映洋画系で公開した[96]。同作は日本のメジャー映画会社の番線に乗った初めての台湾映画である[96]。また1995年4月に台湾初のCATV党営の「博新多媒體」(PHTV)が開局の際、これらの交渉で岡田と懇意になった同社社長・廖祥雄からの要請で[94]、東映台(東映チャンネル)がディズニー台(ディズニー・チャンネル)などと共に四チャンネルの一つに選ばれた[94][109][110]。台湾はレンタルビデオCATVなどのメディアの普及が日本より早かった[94]。台湾は1960年代から1970年代に日本映画の興行を禁止していたため[94]台湾人には東映のヤクザ映画が新鮮で人気が高かったという[94]。東映台は三年の供給契約で東映の過去の映画850本とテレビドラマなど供給本数は1600本に上った[109]。台湾のCATVで最初に放映された日本映画・ドラマは東映作品であった。東映はこれを機にアジア戦略を強化し[109][110]、日本での二次利用、三次利用が一段落ついた旧作品ビジネスをアジアで広げようと1996年夏に日本で公開されたが配収が4億円と振るわなかった[110]That's カンニング! 史上最大の作戦?』の主演・安室奈美恵が1997年にアジアでコンサートを開いて人気を高めたことから香港で同作を上映したり[110]、当時アジアの衛星放送で日本のトレンディドラマが相次いで放送され[110]、『Lie lie Lie』の出演者である豊川悦司鈴木保奈美らが知名度を高めていたことから台湾と香港で日本公開に先駆け同作を先行上映するなどしている[110]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ジョン・ウェイン主演のアメリカの戦意高揚映画『フライング・タイガーFlying Tigers』(1942年)では、『燃ゆる大空』の一部フィルムが着色されたうえで流用(盗用)されている。
  2. ^ 1945年に制作され同年8月5日に封切られた『北の三人』が、戦時下の日本で最後に完成し、同年8月15日の敗戦当時に国内で唯一上映されていた劇映画であるとされる。
  3. ^ 伊丹はその後も、『マルサの女2』(1988年)、『あげまん』(1990年)、『ミンボーの女』(1992年)、『大病人』(1993年)、『静かな生活』(1995年)、『スーパーの女』(1996年)、『マルタイの女』(1997年)と、90年代後半にかけて、手堅く当たる作品を世に出し続け、計十本の映画を手掛けることになる。なお『マルサの女』の現場には周防正行もスタッフとして参加しており、その現場で知りえた伊丹独特の手法が自分で映画を撮るときに大いに役に立ったと周防正行は後に語っており、伊丹はその意味でも日本映画に貢献した。
  4. ^ 〔引用者註〕出典の先頭の「2016年4月1日、」は誤植と思われる。1980年の映画祭で出品されたのは二本ではなく四本。

出典[編集]

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参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]