都市牛利

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都市牛利(つしごり)
または牛利(ごり)
別号 率善校尉(そつぜんこうい)

出生 不明
死去 不明
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都市牛利(つしごり、生没年不詳)または牛利(ごり)とは、3世紀中ごろ、日本)の弥生時代において実在したとされる人物及び官吏である。

概説[編集]

都市牛利は、『三国志』魏書巻三十・東夷伝・倭人の条(魏志倭人伝)中に卑弥呼の使いとして登場する。吉田孝のように「都市」を市場を監督する官名と見て「牛利」のみを人名とする論者もある。

景初2年(西暦238年)6月、卑弥呼は帯方郡 [1]大夫難升米と次使の都市牛利(または都市の牛利)を遣わし、太守の劉夏皇帝への拝謁を願い出た。劉夏はこれを許し、役人と兵士をつけて彼らを都まで送った。次席使者として洛陽へ向かった都市牛利は、難升米とともに生口や班布などを献上したとされる[2]。12月に皇帝は詔書を発し、遠い土地から海を越えて倭人が朝貢に来た事を悦び、卑弥呼を親魏倭王と為し、金印紫綬を仮授した。皇帝は難升米と牛利の旅の労苦をねぎらい、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉と為して銀印と青綬を授けた。皇帝は献上物の代償として絳地交龍(コウジコウリュウ)の錦5匹、コウジスウゾクのケイ(けおりもの)10張、センコウ50匹、紺青50匹、紺地句文の錦3匹、細班華の(けおりもの)5張、白絹50匹・金8両・五尺の刀を2ふり・銅鏡100枚、真珠、鉛丹を各50斤の莫大な下賜品を与えたとされる。朝貢は形式的な臣従の代償に、莫大な利益をもたらすものであった。

出典[編集]

  1. ^ 朝鮮半島にあった公孫淵の領土。景初2年に魏の明帝(=曹叡景初2年(238年)12月8日から病床につき(ウィキソース出典 陳壽 (中国語), 三國志/卷03, ウィキソースより閲覧。 魏書·明帝紀)景初3年正月初一丁亥日に死去)の命により帯方太守に任命された劉昕により海から攻められ占領される。
  2. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus「都市牛利」の解説 コトバンクより”. 2022年12月17日閲覧。

参考文献[編集]