阿部正敏

ウィキペディアから無料の百科事典

 
阿部正敏
時代 江戸時代中期
生誕 享保15年(1730年
※享保17年4月28日1732年5月22日)とも
死没 天明7年4月2日1787年5月18日
別名 般之進、満之進、織部
墓所 多磨霊園
官位 従五位下能登守従四位下
幕府 江戸幕府 奏者番大坂城代
武蔵忍藩
氏族 阿部氏
父母 父:阿部正喬、母:草本氏(正喬の側室)
養父:阿部正允
兄弟 正秋正乗正直正敏
正室:水野忠辰の養女(水野忠輝の娘)
正識正良(次男)、
娘(戸田光悌正室)、娘(森俊韶正室)、
娘(内藤正興正室)、娘(阿部正識養女、阿部正由正室)
養子:正陳
テンプレートを表示

阿部 正敏(あべ まさとし)は、江戸時代中期の譜代大名大坂城代忠秋系阿部家6代。

人物[編集]

忍藩4代藩主・阿部正喬の五男として生まれる。正喬が隠居した際、まだ若年だったため、従兄の正允が家督を継いだ。寛保2年(1742年)に嫡子となったが、正允が長命を保ったため、家督を継いだのは安永9年(1780年)、51歳のときである。翌天明元年(1781年)に奏者番となる。正敏は江戸屋敷がたまたま当時の実力者田沼意次邸の隣で、意次が屋敷地の拡張を希望していると聞くや、自分の屋敷地を幕府に返上、幕府は意次に下賜する形で譲渡している。一方、藩内では、天明3年(1783年)の浅間山大噴火や、天明6年(1786年)におこった大洪水で被害をうけ、藩財政が逼迫した。

天明4年(1784年)、奏者番から大坂城代に昇格したが、在任中の天明7年(1787年)に死去した。 先代藩主・正允の次男・正陳を養子としたが、父に先立って死去。このため、実子の長男・正識が家督を継いだ。

年譜[編集]

  • 1730年(享保15年)誕生。(享保17年(1732年4月28日生まれとする説もある)
  • 1742年(寛保2年)8月9日、兄正允の養嗣子となる。
  • 1780年(安永9年)12月27日、正允死去、忍藩相続。
  • 1781年(天明元年)4月21日、奏者番。
  • 1784年(天明4年)5月11日、大坂城代。
  • 1787年(天明7年)4月2日、大坂にて死去、享年58歳。

官位位階[編集]

系譜[編集]

父母

正室

側室

  • 河合氏

子女

養子

参考文献[編集]

  • 工藤寛正編『江戸時代全大名家事典』東京堂出版、2008年。
  • 続群書類従完成会『新訂寛政重修諸家譜』第十、八木書店、1969年。