駒崎幸一

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駒崎 幸一
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 埼玉県川口市
生年月日 (1959-08-30) 1959年8月30日(64歳)
身長
体重
180 cm
84 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1980年 ドラフト外
初出場 1981年5月9日
最終出場 1991年7月19日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

駒崎 幸一(こまざき ゆきいち、1959年8月30日 - )は、埼玉県川口市[1]出身の元プロ野球選手外野手)。

来歴・人物[編集]

川口工業高では、左翼手で中心打者として活躍。強打の選手として注目され、1977年夏の甲子園埼玉県予選決勝で熊谷商高を降し、チームを甲子園初出場に導く原動力となった。甲子園では、2回戦(初戦)で智辯学園高のエース山口哲治に抑えられ敗退[2]

その年のプロ野球ドラフト会議でも指名候補としても注目されていたが指名はなく、社会人野球日本通運に進んだ。高校卒業でプロ入りしなかった理由としては、甲子園の初戦でチームが大敗(0-12)し自分も活躍できなかった(山口から1安打を放つも最終打席は併殺打となり試合終了)ことから、プロ入りに対する自信がなくなったことが一因だった。

日本通運では1978年都市対抗に出場。2回戦に進み本田技研鈴鹿に延長11回サヨナラ負けを喫するが、この試合で本塁打を放つなど活躍[3]

1979年の第4回インターコンチネンタルカップ日本代表に選出され、4番打者として日本の準優勝に貢献した[1]

強打の外野手として期待され、1980年オフにドラフト外西武ライオンズに入団[1]。入団1年目から二軍ではレギュラーとなる。

1985年にはイースタン・リーグで23本塁打を放ち本塁打王1986年は51打点を記録して打点王のタイトルを獲得するなどした[1]が、アマチュア時代から守備に不安があったことが一軍昇格の障害となった。1983年はアメリカの1Aサンノゼ・ビーズに野球留学をしている。野球留学から帰国後の翌1984年には、5月から左翼手、中堅手として起用され、27試合に先発出場。7月28日の阪急戦で佐藤義則からプロ初本塁打を放つなど活躍した。一方、8月12日のロッテ戦では、5回に外野手として最多の1イニング3失策を記録する。まず山本功児の打球を後逸し、山本を刺そうとした三塁送球を暴投。次々打者の袴田英利の打球を札幌市円山球場のグランド整備の悪さも相まってトンネルした。このように守備力が劣ることもあってレギュラーには届かず、翌年からは主に代打として起用され、結局この年を超える成績は挙げられなかった。また、1984年5月29日の対南海ホークス戦ではプロ初安打を放った後、三塁へ進塁した際に三塁手の立石充男による隠し球に引っ掛かってアウトになった場面は、プロ野球珍プレー・好プレー大賞で繰り返し流された。

1990年開幕直前に村岡耕一河野誉彦との交換トレードで、秋元宏作青山道雄とともに横浜大洋ホエールズに移籍[1]。しかし出場機会は少なく、1991年限りで引退[1]

引退後は浦和のスポーツ用品店に勤務し、後に独立して地元川口で店を開業した[1]2011年3月に三浦洋河野博文とともに、群馬県高崎市に株式会社ドリームチームを設立し、農林業およびスポーツ支援活動をしている。また現在は埼玉の野球塾ヒーローズベースボールアカデミーのコーチである。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1981 西武 6 7 7 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .000 .000 .000 .000
1984 60 127 117 14 33 6 1 3 50 12 2 1 0 1 6 0 3 18 3 .282 .331 .427 .758
1985 16 20 19 2 2 1 0 0 3 0 0 0 0 0 1 0 0 6 0 .105 .150 .158 .308
1988 50 56 55 1 13 2 0 0 15 3 0 0 0 0 1 0 0 9 1 .236 .250 .273 .523
1990 大洋 24 25 24 1 5 0 0 0 5 2 0 0 0 0 0 0 1 6 1 .208 .240 .208 .448
1991 18 17 16 1 5 1 0 0 6 2 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .313 .313 .375 .688
通算:6年 174 252 238 19 58 10 1 3 79 19 2 1 0 1 8 0 4 44 5 .244 .279 .332 .611

記録[編集]

背番号[編集]

  • 29 (1981年 - 1987年途中)
  • 20 (1987年途中 - 1989年)
  • 30 (1990年)
  • 45 (1990年 - 1991年)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、229ページ
  2. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  3. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]