高橋里志

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高橋 里志
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福井県敦賀市
生年月日 (1948-05-17) 1948年5月17日
没年月日 (2021-01-31) 2021年1月31日(72歳没)
身長
体重
179 cm
76 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1967年 ドラフト4位
初出場 1968年4月7日
最終出場 1986年10月2日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

高橋 里志(たかはし さとし、1948年5月17日 - 2021年1月31日)は、福井県敦賀市出身のプロ野球選手投手)。

経歴[編集]

福井県立敦賀工業高等学校では、1966年夏の甲子園県予選を勝ち抜き、北陸大会準決勝に進出するが金沢高に敗退。卒業後は社会人野球電電北陸に進む。1967年都市対抗東洋レーヨンの補強選手として出場するが、登板機会はなかった。

1967年のプロ野球ドラフト会議南海ホークスから4位指名を受け入団。将来のエースとして期待されたが、なかなか一軍から声がかからなかった。

1970年5月28日阪急を相手に先発するが、1回を4失点と打ち込まれ降板。

1971年には近鉄からプロ入り初勝利を挙げるが、選手兼任監督の野村克也と確執を起こしてしまう。

1972年自由契約となる[1]

1973年は敦賀へ戻り[2]定職に付かなかった[1]

1974年に南海コーチから広島東洋カープコーチとなった古葉竹識に誘われ広島へ打撃投手として契約[1]。シーズン中に投手として復帰した[1]

1976年に一軍昇格。8月3日には先発として起用され、阪神上田二朗と投げ合う。白星はつかなかったが9回途中まで1失点と好投。7日には巨人堀内恒夫との投手戦を2-1で制し完投勝利。これで勢いに乗り同年は8勝を挙げる。

1977年には開幕第3戦から3連敗するが、その後は調子を戻し3連勝。同年は20勝をマークし、最多勝利のタイトルを獲得[3]、抜群の制球力を武器に黄金期の主力投手として活躍した[4]

1978年も10勝を記録する。

1979年には不調に陥り3勝、同年の近鉄との日本シリーズでも出番はなかった。

1981年佐伯和司との交換トレード[5]で、日本ハムファイターズへ移籍。主に中継ぎとして起用され、同年の巨人との日本シリーズでも3試合に登板する。

1982年は先発も兼ね8勝、最優秀防御率のタイトルを獲得。

1985年近鉄バファローズへ移籍。

1986年に現役引退[6]

引退後は、広島市スナックバー『メンバーズ高橋』を経営する[7][8]傍ら、1987年6月[9]から1997年まで中国放送(RCC)の野球解説者を務めた[2][7][10]ラジオ関西の解説者を務めた時期もあり)。RCC解説者引退後は、スナック経営に専念[2]。2009年11月14日には、広島ホームテレビあっぱれ!熟年ファイターズ』にゲスト出演、久々のテレビ番組出演となった。

2021年1月31日、肺がんのため広島市内の病院で死去[11](72歳没)。

人物[編集]

在籍した各球団で、首脳陣としばしばトラブルを起こしていた。

  • 南海時代、なかなか一軍に昇格させてもらえず日頃からふてくされていた。二軍でのある試合で、炎天下でもコーチから労いの言葉一つなかったことに怒り試合途中で帰ろうとしたところ、二軍の視察に偶然やってきた一軍監督の野村に見つかり、殴られ、倒れたところを蹴られたという。野村が野球人生の中で選手に手を挙げたのは3回で、そのうちの1回がこの件だったとされている[12]
  • 広島時代の1979年6月5日の対中日ドラゴンズ戦では、8回途中で江夏豊へ交代させられたことに怒り、ベンチ裏の鏡をたたき割るという暴挙に出た。このシーズンはこの日まで勝ち星がなくまたこの日も好投しておりそのイライラが爆発した形であったが、監督の古葉竹識が江夏を重用しすぎていることへの反発もあった。古葉は激怒したが、高橋へのペナルティは壊した鏡の弁償のみにとどめた。1980年シーズン終了後にトレードに出された原因はこの件があるといわれた。
  • 江夏とは同学年ながら非常に仲が悪く[8][13]、1980年オフに日本ハムへの移籍が決まり大いに喜んだものの、直後に江夏が高橋直樹とのトレードで同じく日本ハムへの移籍となり再びチームメイトになってしまった。これについて、当時日本ハムの監督だった大沢啓二[14]は、江夏と高橋が仲が悪いことを危惧する話を広島側から聞いた際に「江夏と里志は一緒に放れないんだ!(どちらも投手で同時には出場できないから、そんなことを心配する必要はないという意味)」と不仲であることを承知の上で獲得に踏み切ったことを『ベースボールマガジン』のインタビューで語っている。著書では、二人を移籍後に自宅に呼んで「よそでなら、なんぼでもケンカしろ。でもな、ふたり一緒にマウンドに上がるわけじゃねぇ。今度は俺の下で働くんだから、とにかく黙って仕事しろ」と告げたと記している[15]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1968 南海 2 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 16 3.0 4 0 2 0 1 1 0 0 4 4 12.00 2.00
1969 2 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 5 1.0 1 0 1 1 0 0 0 0 0 0 0.00 2.00
1970 4 3 0 0 0 0 1 -- -- .000 49 9.2 14 5 7 0 1 10 0 0 12 11 10.24 2.17
1971 19 2 0 0 0 1 2 -- -- .333 213 48.1 49 7 21 0 1 36 0 0 37 34 6.33 1.45
1972 2 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 19 5.0 4 0 1 0 0 0 0 0 1 1 1.80 1.00
1974 広島 8 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 46 10.2 13 4 2 0 0 7 0 0 7 7 5.91 1.41
1976 25 15 5 0 0 8 7 0 -- .533 466 110.1 111 10 35 1 6 73 0 1 49 45 3.67 1.32
1977 44 40 14 1 1 20 14 0 -- .588 1237 284.2 289 42 111 1 9 156 4 1 132 118 3.73 1.41
1978 38 33 7 0 0 10 14 0 -- .417 847 191.1 217 28 62 3 5 103 7 0 125 114 5.36 1.46
1979 27 18 0 0 0 3 5 0 -- .375 412 95.0 115 19 25 2 1 56 0 0 63 59 5.59 1.47
1980 12 3 0 0 0 0 2 0 -- .000 104 25.2 21 6 11 0 1 11 1 1 13 13 4.56 1.25
1981 日本ハム 22 6 1 0 0 1 3 2 -- .250 311 72.0 71 5 30 1 1 26 2 0 41 31 3.88 1.42
1982 29 13 2 2 0 8 5 0 -- .615 537 132.0 109 7 54 1 2 58 3 0 33 27 1.84 1.23
1983 26 14 1 1 0 5 7 0 -- .417 407 91.2 114 13 27 1 2 32 2 0 64 61 5.99 1.54
1984 13 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 138 30.0 47 6 7 0 1 11 0 1 21 20 6.00 1.80
1985 近鉄 35 1 0 0 0 5 0 2 -- 1.000 239 54.1 65 13 14 0 1 22 2 0 29 27 4.47 1.45
1986 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 11 2.0 5 1 1 0 0 1 0 0 4 4 18.00 3.00
通算:17年 309 149 30 4 1 61 61 4 -- .500 5057 1166.2 1249 166 411 11 32 603 21 4 635 576 4.44 1.42
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

記録[編集]

背番号[編集]

  • 33 (1968年 - 1972年)
  • 53 (1974年)
  • 34 (1975年 - 1980年)
  • 21 (1981年 - 1984年)
  • 37 (1985年 - 1986年)

関連情報[編集]

出演番組[編集]

※いずれも、解説者として出演したプロ野球中継

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 外部リンク(スポニチ2010年9月)参照。
  2. ^ a b c 外部リンク(なにわWEB1998年)を参照。
  3. ^ 元広島の高橋里志氏が72歳で死去 77年に最多勝”. 日刊スポーツ (2021年2月4日). 2021年2月4日閲覧。
  4. ^ 背番号「34」、20勝の重み 高橋里志さんを悼む | 中国新聞デジタル
  5. ^ 佐伯にとっては、1976年シーズン以来の古巣への復帰。
  6. ^ 高橋里志 江夏に追われ……日本ハムで“狂い咲いた”右腕/プロ野球1980年代の名選手
  7. ^ a b 外部リンク(カープ50年選手列伝)を参照。
  8. ^ a b 『週刊ベースボール』2003年12月8日号、ベースボール・マガジン社、89頁。
  9. ^ 同年開幕当初、中国放送は野球解説者だった池田英俊中日ドラゴンズのコーチに就任ことによる欠員を補充しなかったため、長谷川良平大下剛史の2人体制となったが、テレビ中継が重なるとJRNNRNの2ラインを制作していたラジオ中継では裏送りとなる側にビジター地元局(TBSラジオニッポン放送文化放送朝日放送毎日放送ラジオ大阪中部日本放送東海ラジオ)の解説者を起用したり、制作そのものを前記各局に委託するなど人的余裕がなくなったため、シーズン途中から解説者に加入した。こうした経緯から大下が広島にコーチとして復帰した際には、広島球団から、引退間もない主力選手の中国放送に対する解説者起用の斡旋もなかったこともあり、関西テレビフジテレビとの契約を満了し、阪神タイガースのコーチ就任要請が頓挫していた山本一義を間髪入れずに加入させた。
  10. ^ 『'98プロ野球12球団全選手百科名鑑』(『ホームラン』1998年3月号増刊。1998年3月31日、日本スポーツ出版社発行)P204掲載「マイクを離れた人々」(野球解説者の動向についてつづった記事)より、「RCC高橋里やRF国松が引退。」との記述あり。
  11. ^ 元プロ野球投手の高橋里志氏死去 77年に広島で20勝挙げ最多勝中国新聞
  12. ^ 朝日文庫長沼岩根 著:『野村克也物語 球界に咲いた月見草』より
  13. ^ 江夏は野村シンパだが、高橋は前述のとおり野村とは確執があった。
  14. ^ 高橋・江夏と同じく南海OBであり、野村とも同時期にプレーしている。
  15. ^ 大沢啓二『球道無頼』(集英社、1996年)P159。大沢は、「結果としてはこのトレードは成功だった」としている。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]