1世紀

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千年紀: 1千年紀
世紀: 紀元前1世紀 - 1世紀 - 2世紀
十年紀: 0年代 10年代 20年代 30年代 40年代
50年代 60年代 70年代 80年代 90年代
キリスト教の誕生。イエス十字架での死とともにその教えは世界に大きな影響を与えた。画像は12世紀に制作されたイスタンブールハギア・ソフィア大聖堂モザイク壁画「全能者キリスト(ハリストス)」。
ローマ大火。64年に起きたこの大火でローマ皇帝ネロはその原因をキリスト教徒によるものだとして厳しい迫害を加え、殉教者を出した。画像はこの迫害を描いたヘンリク・シェミラツキ英語版の歴史画。

1世紀(いっせいき、いちせいき)は、西暦元年1年)から西暦100年までの100年間を指す世紀1千年紀における最初の世紀でもある。

天文学以外では通常、西暦0年は存在せず、また0世紀もない。これは、ヨーロッパで西暦ができた6世紀の時点では、まだヨーロッパ人はの概念を知らなかったためであると言われることもあるが、元年以前を表すために紀元前が導入されたのは零の概念が普及した後の17世紀のことである。

なお、天文学ISO 8601では、紀元1年の前年、すなわち紀元前1年を西暦0年と定めている(詳細は「紀元前1年#西暦0年」または「0年#西暦0年」を参照のこと)。

できごと[編集]

後漢光武帝王莽によって断絶した漢王朝を復興し賢君と讃えられている。画像は唐の画家閻立本「歴代帝王図巻」の十三皇帝図の光武帝像(ボストン美術館蔵)。
揺銭樹中国語版。貨幣経済の流通が促進された後漢初期には副葬品の明器として「揺銭樹(貨幣が実る樹木)」が出現し、特に四川で大いに発展した。画像は杭州にある中国財税博物館中国語版蔵の揺銭樹の部分。
漢委奴国王印」。江戸時代九州志賀島で発見されたもので、後漢の光武帝により下賜されたものとされる。現在は福岡市博物館が所蔵。
徴姉妹(チュン姉妹)の反乱。長らく漢民族の支配下にあったベトナムでは。徴側・徴弐の二人の姉妹による反乱が起きた。交趾郡から各地に拡がったものの、後漢の光武帝が派遣した馬援将軍に鎮圧された。しかし彼女たちは今でもベトナムの国民的な英雄である。画像は象に乗って戦う徴姉妹を描いたドンホー版画
インド・スキタイ王国。ギリシア系王国が衰退した後にスキタイサカ族の王国がインド各地に成立した。画像はこの時代に作られた「マトゥラーの獅子柱頭英語版」(大英博物館蔵)。
ローマのコロッセウム(コロッセオ)。ウェスパシアヌス帝の時代に着工され、その息子ティトゥス帝の時代に完成した円形闘技場(アンフィテアトルム)。
埋没した都市ポンペイ。紀元79年8月24日に大爆発を起こしたヴェスヴィオ火山によってポンペイ市は埋没した。画像はポンペイ遺跡で発掘された「秘儀荘(ヴィラ・デイ・ミステリ)英語版」の壁画で、ディオニュソス神の密儀宗教を示しているとされる。
ポートランドの壺」。ローマ帝国では繊細な芸術作品が数多く作られたが、ガラスを削って浮き彫りを施すカメオガラスの技術は巧緻極まるものとなった。紀元25年ごろ作られたこの壺はその代表であり、現在は大英博物館に所蔵されている。
詩人オウィディウスの追放英語版。皇帝アウグトゥス治世の終わりに皇帝一家にまつわる醜聞が発覚し、その巻き添えでこの詩人は黒海のほとりトミス(現在のルーマニアコンスタンツァ)に流罪となった。トミスはローマから遠く離れた僻陬の地であり、詩人は哀しみを切々と詠み上げてこの地に没した。画像はローマ時代のトミスの遺構。
トイトブルクの森の戦い。無敗を誇ったローマ軍団も紀元9年のこの地での戦いではアルミニウス率いるゲルマン軍に大敗北を喫し、以後ローマ側はライン川を挟んで守勢に回った。画像はトイトブルクの古戦場跡から出土したローマ軍騎兵の鉄仮面(ドイツ・ニーダーザクセン州カルクリーゼ博物館ドイツ語版蔵)。
ブーディカの反乱。属州ブリタンニアでのローマ支配に対し立ち上がったのがケルトイケニ族の女性指導者ブーディカである。この反乱は鎮圧されたが歴史家タキトゥスらの記録により、その事績は詳しく伝えられている。画像はロンドンウェストミンスター橋西詰にあるブーディカと娘たちの記念像。
ユダヤ戦争。ローマ皇帝ティトゥスによりユダヤ人の反乱は鎮圧されエルサレム第二神殿も破壊された。画像はティトゥスの凱旋門に刻まれた神殿の宝物(七枝の燭台のメノーラーほか)を運ぶローマ兵士たち。
バールベック。この地は属州シリアの聖地で、元来はフェニキア系の神バアル(ハダド)が祀られていた。ローマの支配に服してからはユピテル神と習合して祀られるようになり繁栄した。画像はネロ帝時代に完成したユピテル神殿の6本大列柱。
ペトラエル・カズネナバテア王アレタス4世フィロパトリスの最盛期に建造されたもので、「エル・カズネ」は「宝物殿」を意味する。

0年代[編集]

10年代[編集]

20年代[編集]

30年代[編集]

40年代[編集]

50年代[編集]

  • 50年 - コロニア・アグリピネンシス(現ケルン)がローマ植民市に格上げされる。
  • 52年
    • パウロの第3回伝道旅行。
    • 伝承では使徒トマスがインドのケララ地方に上陸してキリスト教を伝えたとされる(トマス派)。
  • 54年 - ローマでクラウディウス帝が死去し、ネロ帝が即位。
  • 57年 - 倭の奴国王が後漢に朝献して、倭奴国王印(金印紫綬)を授けられる(後漢・建武中元2、丁巳;『後漢書』光武帝紀、同東夷伝)。
  • 59年 - ネロ帝が母の小アグリッピナを殺害する。

60年代[編集]

70年代[編集]

80年代[編集]

90年代[編集]

伝説・架空のできごと[編集]

  • 26年 - ローマ人司令官メッサーラは属州ユダヤに派遣され旧友のベン・ハーと邂逅するが、やがて二人は反目し合う。無実の罪を着せられたベン・ハーは家族から引き離され、メッサーラへの復讐を誓う(ルー・ウォーレスの小説『ベン・ハー』及びこれを基にした映画作品)。
  • 30年頃 - 刑吏に鞭打たれつつゴルゴダの丘に向かい十字架を担いでいたイエスが休息を求めていたにもかかわらず、靴屋のアハシェロスはそれを手荒くあしらい罵ったため主の呪いを受け、死ぬこともできない身の上となって永遠にさまよい続けることになった(「さまよえるユダヤ人」伝説)。
  • 54年 - 68年 - 享楽と頽廃のローマ帝国で皇帝ネロの悪政が続いていく中、キリスト教の信仰が徐々に広がりを見せていた。スラブ系のキリスト教徒の娘リギアと、ローマの軍人マルクス・ウィニキウスの二人の恋もこの時代の波に翻弄されていく(ヘンリク・シェンキェヴィチによる小説『クォ・ヴァディス』)。

発明[編集]

人物[編集]

地中海世界[編集]

キリスト教関係[編集]

西アジア[編集]

インド[編集]

東アジア[編集]

  • 揚雄前53年 - 18年) - 前漢末から新の文人。『太玄経』『法言』『方言』の著作を残し「甘泉賦」などの詩文でも有名。
  • 呂母(? - 22年頃) - 前漢末から新の女性。冤罪で県役人に殺された息子の仇討ちで呂母の乱を起こし、動乱時代の幕開けとなる。
  • 劉歆(? - 23年) - 前漢末から新の儒学者。『七略』などを編纂。王莽の王朝簒奪に協力し、国師となるが、やがて反目する。
  • 王莽前45年 - 23年) - 新の皇帝(在位8年 - 23年)。前漢を簒奪して新王朝を立てるが、更始帝の軍に殺害される。
  • 王匡(? - 25年) - 新末後漢初に蜂起した緑林軍の創始者の一人。更始帝を担いで王莽の新王朝を攻め滅ぼす。
  • 更始帝(? - 25年) - 新末後漢初の漢王室の皇族。緑林軍の支持で皇帝となる(在位23年 - 25年)。
  • 樊崇(? - 27年) - 新末後漢初に蜂起した赤眉軍の指導者。長安の更始帝政権を攻め滅ぼす(赤眉の乱)。
  • 劉盆子10年 - ?) - 新末後漢初の漢王室の皇族。赤眉軍の支持で皇帝となる(在位25年 - 27年)。光武帝に降伏。
  • 隗囂(? - 33年) - 新末後漢初の武将・政治家。王莽から光武帝まで独自の勢力を保持、後漢に背き困窮の中で死す。
  • 馬援前14年 - 49年) - 新末後漢初の武将。隗囂に仕えた後に光武帝に臣従し、統一に協力・ベトナム制圧でも功があった。
  • 徴姉妹(徴側(? - 33年)、徴弐(? - 33年)) - 後漢の支配下にあったベトナム(南越)の反乱指導者。馬援に制圧される。
  • 光武帝前6年 - 57年) - 後漢の初代皇帝(在位25年 - 57年)。王莽没後の混乱から漢王朝を復興。長安から洛陽に遷都。
  • 鄧禹2年 - 58年) - 後漢の武将。赤眉軍と戦った建国の功臣であり「雲台二十八将」の筆頭に位置づけられる。
  • 費長房(生没年不明) - 後漢の方士・汝南の官吏であったが仙術を体得したと伝わる・「壺中天」の故事で有名。
  • 王充27年 - ?) - 後漢の文人・思想家。儒教に対する厳しい批判者。非合理を排し合理的な思考を追求した『論衡』を著す。
  • 明帝28年 - 75年) - 後漢の皇帝(在位57年 - 75年)。王朝の安定を背景に西域に勢力を拡大。この時期に仏教が伝来。
  • 蔡愔(生没年不詳) - 後漢の使者・明帝により西域に派遣され大月氏国の僧侶迦葉摩騰と竺法蘭を連れ帰る
  • 迦葉摩騰(生没年不明) - インド(中天竺)出身の仏教の僧侶。竺法蘭とともに渡来し、明帝時代に洛陽白馬寺を建立したか。
  • 竇憲(? - 92年) - 後漢の政治家・軍人・外戚。匈奴の征伐以後は権力をほしいままにするが、和帝により自殺を命じられる。
  • 班固32年 - 92年) - 後漢の歴史家で『漢書』を編纂。文学者としては「両都賦」を作る。竇憲派とみなされ獄死。
  • 鄭衆(? - 114年) - 後漢の宦官(大長秋)・和帝と協力して外戚の竇憲を誅殺し宦官として最初の侯となる。
  • 班超32年 - 102年) - 後漢の軍人。班固の弟で班昭の兄。西域都護として西域での後漢の勢力を広げた。
  • 甘英(生没年不詳) - 後漢の使者。班超の命で大秦国(ローマ)に派遣されたが、途中の條支国(シリア)で断念する。
  • 班昭45年? - 117年?) - 後漢の女性作家。兄の班固が獄死した後に未完成だった『漢書』を完成させる。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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