HAPPY END (アルバム)

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HAPPY END
はっぴいえんどスタジオ・アルバム
リリース
録音
ジャンル
時間
レーベル BellwoodKING
プロデュース
はっぴいえんど アルバム 年表
  • HAPPY END
  • (1973年 (1973)
『HAPPY END』収録のシングル
  1. さよならアメリカ さよならニッポン ⁄ 無風状態
    リリース: 1973年2月25日 (1973-02-25)
細野晴臣 年表
  • HAPPY END / はっぴいえんど
  • (1973年 (1973)
大瀧詠一 年表
  • HAPPY END / はっぴいえんど
  • (1973年 (1973)
  • CITY ⁄ HAPPY END BEST ALBUM / はっぴいえんど
  • (1973年 (1973)
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HAPPY END』(ハッピィ・エンド)は、1973年2月25日 (1973-02-25)に発売されたはっぴいえんど通算3作目のスタジオ・アルバム

解説[編集]

本作について後に大瀧詠一が語るところによれば、ファースト・ソロ・アルバム『大瀧詠一[注釈 1]のレコーディングのためのリハーサルの最中にスタジオを訪れた高田渡三浦光紀からアメリカに遊びに行くことを誘われたとの旨を伝え、大瀧も同行しないかと話を持ちかけたのがそもそもの発端だったという。大瀧ははっぴいえんどの残る3人に誘いをかけた。そこへ、アメリカに行くならアルバムをレコーディングしないかという話が三浦から持ちかけられた。三浦は、すでに解散を決めていたはっぴいえんどの最後のアルバムを実現するには、アメリカでのレコーディングしかないと考えていた。アメリカの主要なレコーディング・スタジオにすでに設置されていた16トラックのレコーディング機材に接することでそのノウハウを知り、アメリカのスタジオでのレコーディングを体験することが三浦自身のみならずメンバーにも何らかの収穫をもたらすに違いないという思いも理由の一つだった。大瀧、細野晴臣鈴木茂はアメリカに赴くことに興味を示し、レコーディングすることにも同意したが、松本隆だけは解散の決まったグループのレコーディングに当初は抵抗した。結局、ドラムスに専念することと鈴木の作品以外には歌詞を提供しないという条件付きで、他の3人の意向に沿って了承した。しかし、現地に到着したところ、大瀧はソロ作の制作直後ということもあり、作品を用意出来ずにいた。その事実を打ち明けられた松本はマネージャーだった石浦信三に連絡を取り、国際電話で歌詞を聞き取らせ、大瀧に提供することになった[book 1][注釈 2]

1972年10月4日 (1972-10-04)、はっぴいえんどのメンバー4人とベルウッド・レコードの三浦ほか5名のスタッフは羽田を発ち、ハリウッドに到着。翌6日にはレコーディング・スタジオのサンセット・サウンド・レコーダーズに入った。レコーディングの途中にはビーチ・ボーイズペット・サウンズ』も同じスタジオでレコーディングされたことがわかり、さらにグループ結成の発端となったバッファロー・スプリングフィールドアゲイン』もレコーディングしたスタジオだったことも後に判明した。「ブルーバード」をきっかけにスタートしたはっぴいえんどが、同作がレコーディングされたスタジオで最後のアルバムをレコーディングするという事実に大瀧は、バッファロー・スプリングフィールドとの浅からぬ因縁を思ったという。現地に到着した時はそれなりに明るさを振りまいていたメンバーもスタジオ入りした途端、寡黙になり交わす言葉も減った。もとよりメンバーのいずれもが無表情な上にギクシャクとした雰囲気が漂うものだったという。そうした様子が、エンジニアを務めたウェイン・デイリーには異様な光景に見えたらしく、ウェインは「まず笑え、笑わなかったら俺は降りる」と、メンバーに笑うことを何度も要求したという。とは言え、自らが演奏し、耳にした楽器の鳴りや音の響きは、乾燥した空気や電圧など、土壌や生活環境の差異を強く感じさせるもので、日本での体験とは明らかに異なり、メンバーを高揚させたという。そうした要因が演奏やサウンド展開に大いに反映されることになった。「非常にもう醒めた状態でも、とにかくアメリカで楽しみたいんだっていうのが半分くらいあった」という鈴木が先導する形で、やがてレコーディングは次第に順調に進み始めた。ベーシック・トラックを録り終えるのと前後してカービー・ジョンソンを中心とするブラス・セクションと、リトル・フィートローウェル・ジョージビル・ペインが参加。さらに現地コーディネーターのキャシー・カイザーとのつながりからヴァン・ダイク・パークスが突然スタジオに現れ、はっぴいえんどと「さよならアメリカ さよならニッポン」を共作する。ダビングや歌入れの際、歌の意味を伝えるために歌詞の英訳が用意されていたが、原詞の細かなニュアンスまで十分に伝わるまでに至らず、言語の壁が立ちはだかるという現実にぶつかるといったこともあったという。すべてのレコーディングを終えた後、ミックス・ダウンはエンジニアのウェイン・デイリーに任せ、サンフランシスコに移動。当地の日系人向けテレビ局KEMOのテレビ番組に出演し、10月25日帰国した[book 1]

後に大瀧は、「さよならアメリカ さよならニッポン」のレコーディングを踏まえ、「アメリカ行って、ヴァン・ダイク・パークスはさ、僕らのレコーディングをブラッと見にきたのね。僕が2ビートのカントリーっぽい曲を弾いていたら“Oh I like it! I like this song”とか言って急に独演会が始まった。真珠湾がどうしたとか、いろんな事を言いながらさ、酔っ払って。で、ドラムのパターンを作り始めた。でもね、彼のやっていることは形は違っても、あくまでポップスなのね。だって、ヴァン・ダイク・パークスはブライアン・ウィルソンがやってる現場を見ているわけだし、ブライアンはフィル・スペクターを、スペクターはリーバー&ストーラーを見てきたんだよ。ここで、僕の聴いてきた音楽が全部つながったの、一線に。確信したんだよ。これまでの蓄積だったら、僕も負けないからね。自信を深めちゃったよ。で、帰りにハワイに寄った時に細野と同じ部屋で“今まで聞いてきたバッファローや60'sポップスやそれらが全部一線でつながったよ”って言ったら“それは大切な事だ”って言われて。だから、音楽の旅という意味では、もう来る事ないなあって思った。事実これ以降、行っていない。海外録音は必要ないと、この時に決めたんだ。帰ってきてから、スタジオ持たないといけないなと強く感じた」[book 3][book 4]と振り返っている。1972年12月に実質的活動を終えていたバンドにとってラスト・アルバムとなった本作は、メンバーそれぞれの方向性が明確になったオムニバス・アルバムの趣を持った作品となった。B-4「外はいい天気」は後年、日本生命のCMに使用された。

アートワーク[編集]

アルバムのには以下のキャッチコピーが記載されている。

  • 日本ロック界の常識を破った スーパー・グループ
  • はっぴいえんど
    栄光のアルバム遂に完成!!

アルバム・ジャケットは“WORK SHOP MU!!”が担当したが[注釈 3]、ベルウッドからシングル・ジャケットとの指定があったため、シンプルなジャケットにしようと決まったという。初めに写真はどうするかという話が出たが、この時点で既に実質的に解散していたメンバーの精神状態を考えると、全員揃っての撮影には問題があると思われることと、前作『風街ろまん[注釈 4]での撮影時に未使用のロケ写真が多くあること、さらに前回の写真のセレクトに不満があったことなどから、新たな撮影は見送られた。表ジャケットの抱き合う男女の写真は1947年のアメリカの家庭雑誌『グッド・ハウス・キーピング』掲載の広告からの引用で、40~50年代ハリウッド映画のラスト・シーンを連想させる、ラスト・アルバムを意識したもの[book 5]。レコード中袋の写真は、写真家の野上眞宏がプラスチック製のレンズがついたブローニーサイズのカメラ“フジペット”[注釈 5]で撮影したもので、メンバーの背景に写っているのは“MU!!”が借りていたハウス。後に野上は、写真には満足しているが『風街ろまん』[注釈 4]の時の撮影だったので、メンバーの髪型やファッションが3枚目の時点とは合っていないため、写真家としては無理をしてでも新たに撮影しておくべきだったと後悔したという[book 5]

収録曲[編集]

SIDE 1[編集]

  1. 風来坊  – (3:30)
    • 作詞・作曲:細野晴臣
    • この頃、細野は作曲がギターからピアノに移っていて、この曲はピアノで作った覚えがあるという。また、歌詞は細野が小さい頃から聴いてたというディズニー映画シリーズ『シリー・シンフォニー』に登場するスウィング版の「三匹の子豚」が元になっている。後に細野は「ソラミミで“風俗低俗風来坊”って聴こえるんですよ。そのニュアンスで作っちゃった、いい加減に」[book 1]と答えている。また、語呂合わせの多い歌詞については「できた当時は非難されて、言葉の遊びすぎとかって。はっぴいえんどには、松本隆という大御所になっちゃった人がいてね、彼と一緒にいるのはつらいんですよね。詞を書くと、比較されちゃうから。比較にならないような詞を書くほかなかった。責任ないやと思って。いい加減にやれという気持で、わりと気軽に作っていたんです」[book 6]と話している。1975年、細野プロデュースによる小坂忠アルバムHORO[注釈 6]にて「ふうらい坊」のタイトルでカバーされたほか、1998年には同じく細野プロデュースによる森高千里のアルバム『今年の夏はモア・ベター[注釈 7]にて、森高とのデュエットでカバーされた。
  2. 氷雨月のスケッチ  – (3:05)
  3. 明日あたりはきっと春  – (4:00)
    • 作詞:松本隆 作曲:鈴木茂
    • 鈴木によれば、スタジオでこの曲を聴いた大瀧から、出だしのメロディがバート・バカラックアルフィー」に似てないかと言い出し、盗作疑惑がかけられたという。鈴木は全くそんなつもりはなくて憤慨したが、大瀧はずいぶん食い下がってきた。すると細野が「なに言ってんだよ。ロック野郎の茂がバカラックの曲なんて知ってるわけないだろう」と間に入ったものの、大瀧はその後も「そんなメロディが自然に出来たら、天才だよ」と言っていたという[book 7]
  4. 無風状態  – (3:16)
    • 作詞・作曲:細野晴臣 ※“オウム” inspiration by 松本隆
    • 主人公が西に向かって航海する歌詞について、細野は「もう解散しようという気持が決まってて、アメリカ旅行だというんで、無理やりレコーディングしたような状態でできたレコードなんで、わりとクールだったんですね。お互いの関係もいっときほど親密じゃなくて、例えば松本の家に入りびたったりとかあんまりしなくなっている時代で、音楽がどんどんプライベートになりつつあった。『無風状態』というのは、そんなバンドのことを考えながら作った。わりと状況論的な比喩だったんです。はっぴいえんどで自分たちが何やってるのかわからなくなってきて、それで突然、船を降りちゃうんですけどね。“奴はエイハヴ 気取って 海をひとかき”という詞があって、それは自分のことだったんですよ。自分をシニカルに見ているとそういうふうに見えたんです。ところが大瀧詠一は“あれは自分のことだろう”というんです。自分って大瀧君のことです。“僕を責めているんじゃないか”と、彼は非常に傷ついて、詞を使って攻撃されていると思って、非常に落ち込んでいたんです。それを、野音の帰りか何かにいわれて、ええっ? と思ったことがある。ああ、そうか。それほど彼は繊細になっているのかと思って」「いや、違うよといっただけなんだけど。これはナゾにしといたほうがいいかなとかって」[book 6]と答えている。また、歌詞の中に出てくるオウムは松本のインスピレーションとあるが、細野は「何だったんだろうなあ。何かあったんでしょうね、忘れちゃった。たいして重要なことじゃないことを書いちゃったんだと思う」[book 6]という。

SIDE 2[編集]

  1. さよなら通り3番地  – (3:14)
  2. 相合傘  – (3:05)
    • 作詞・作曲:細野晴臣
    • この曲は本来、細野自身がソロ・アルバムのために用意していた作品。ファンキーなリズムを重視した作品であり、歌詞も日本情緒を感じさせる言葉の中からリズム感を吟味して選んだという[book 1]。その理由を細野は「意図的ですね、それは。言葉を探していたというのもありますけど。日本語は捜さないとリズム感が得られないんですよ。思いつきだけではなかなかできなくて。わりと観念的にいじくりまわさないとさまにならないとこがありますね。松本隆はリズムを無視してやっていて、そこがまた面白かったことは面白かったんですね。“ベンケイがな、ぎなたを…”みたいな世界を詞にもってきて。でも大瀧とか僕は、根っからリズム好きな人間で、言葉のリズム感を非常に気にしていた。例えば大瀧は『颱風』という、シャウトできる言葉を見つけてきたり。僕は軽やかなミニマルな言葉を捜そう捜そうとしていた時期で」と話している。歌詞に“道行き”という言葉が出てくることには「日本人なら当時は誰でも知っているような言葉だったんですよ。探し出すといってもね、そんなに苦労しないで出てくる言葉で。はっぴいえんどのときから、松本隆も『花いちもんめ』とか、『春らんまん』という曲で、わりとそういう世界をやっていたと思います。それの受け売りというか、借りちゃったという感じ。つねに音楽ばっかり考えていて、詞はその音楽を生かすための手段だと考えていたんですけど、詞をのっけると、どうしても詞が全体を支配していくということにも気がついていたというか、困っていた時代ですよね。例えば大瀧も僕も、曲を作るときは英語で、誰かの英語の詩を拝借して作る場合もあるんです。ざっとしたスケッチを作って、さて、それを日本語に置き換えていくというときに、リズムで言葉を選んだりするんですよ。何が出てくるかは、そのときのコンディションによるわけで、そのときに何に集中していたかとか、どんなことを考えていたかということでインスピレーションが出てくるわけですけど」[book 6]と答えている。
  3. 田舎道  – (2:36)
    • 作詞:松本隆 作曲:大瀧詠一
    • この曲のボーカル・レコーディングのとき、エンジニアのウェイン・デイリーから「お前の声はデイヴ・メイソンに似てるなあ」と言われたが、この時、目の前に日本製のマイクロフォンであるSONY C-38がぶら下がっていることが不思議だったという。通常、スタジオのボーカル・マイクはドイツ系のマイクロフォンで、『はっぴいえんど[注釈 9]でも『風街ろまん』[注釈 4]でも使用マイクロフォンはノイマンだった。ところが本場アメリカに出かけて出会ったのがテレビ番組『笑点』でお馴染みのソニー・マイクだった。しかし、ウェインは「サンセット・サウンド・スタジオはメジャーな会社ではないので、ドイツ系のマイクは高くて買えないんだ。この日本製、結構いい音で録音できるんだよ」と語っていたというが、このマイクが自分に合うことがわかり、大瀧にとって最高の相性なのだという。以降、『A LONG VACATION[注釈 10]も「幸せな結末[注釈 11]も、ボーカル・レコーディングにはずっとSONY C-38が使われた[book 8]
  4. 外はいい天気  – (2:17)
  5. さよならアメリカ さよならニッポン  – (4:35)
    • 作詞:はっぴいえんど 作曲:はっぴいえんど, VAN DYKE PARKS
    • 後に大瀧は「曲がなくなり、コード進行だけを決めて2拍子でやっていたところにヴァン・ダイクがやってきて、リズム・アレンジをはじめてあれよあれよという間にあの曲になった」と語る。出来上がった作品を前に待機するメンバーの前で松本は即座に表題になった歌詞を書き上げた[book 1]。松本は「ヴァン・ダイク・パークスが単純な繰り返しのワン・フレーズを考えてくれと言ったの。で、みんな卓の前にずらっと並んで待ってるから、瞬間芸で何十秒かで考えた。でもそれが深かったね。後の生き方をすごい変えた」[book 11]と話す。さらに「向こうである若いミュージシャンに君たちは日本から僕たちの仕事を取りに来るのかと言われたことがあってね。その一言で、僕はすごくアメリカに幻滅を感じた。それまで憧れてた風船がヒュンとしぼんで、それが『さよならアメリカ さよならニッポン』になった」[book 11]という。この曲はアルバムと同日、「無風状態」とのカップリングでシングル・カットされた[注釈 14]
    • 2021年11月12日 (2021-11-12)公開の細野のライブドキュメンタリー映画『SAYONARA AMERICA』のテーマ曲に使用。それに伴い、細野が新たに録り下ろし、同年11月3日に「Sayonara America, Sayonara Nippon」のタイトルでデジタル配信リリース[web 1][web 2]

クレジット[編集]

はっぴいえんど
細野晴臣E・BMandA・GPf
大瀧詠一(A・G)
松本隆DrPer
鈴木茂E・G、A・G)
 
KIRBY JOHNSON(Brass Arr)1、2、3
VAN DYKE PARKSOr、Pf)
TOM SCOTT(A・Sax、T・Sax)
BILLY PAYNE(Pf)
DAVE DUKE(F・Horn
SLYDE HYDE(T・B
CHUCK FINDLY(T・P
LOWELL GEORGESlide・G
DESIGN & LAYOUT BY WORK' SHOP MU!!
PHOTO BY MASAHIRO NOGAMI

Bellwood 40th Anniversary Collection[編集]

HAPPY END
はっぴいえんどスタジオ・アルバム
リリース
録音
ジャンル
時間
レーベル BellwoodKING
プロデュース
EANコード
  • ASIN B008D4QOFKJAN 4988003424985【紙ジャケット仕様】
  • ASIN B008D4QMRUJAN 4988003425081
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解説[編集]

2012年、ベルウッド・レコードの元プロデューサー三浦光紀総監修のもと、“Bellwood 40th Anniversary Collection”として通常のプラケース仕様(全40タイトル)にてリイシュー。併せて、“Bellwood 40th Anniversary Collection 40周年特別企画 紙ジャケコレクション”(全11タイトル)としても、HRカッティングによる完全限定プレス盤にてリリースされた。

収録曲[編集]

  1. 風来坊  – (3:34)[web 3][web 4]
  2. 氷雨月のスケッチ  – (3:08)[web 3][web 4]
  3. 明日あたりはきっと春  – (4:03)[web 3][web 4]
  4. 無風状態  – (3:20)[web 3][web 4]
  5. さよなら通り3番地  – (3:16)[web 3][web 4]
  6. 相合傘  – (3:07)[web 3][web 4]
  7. 田舎道  – (2:40)[web 3][web 4]
  8. 外はいい天気  – (2:20)[web 3][web 4]
  9. さよならアメリカ さよならニッポン  – (4:43)[web 3][web 4]

クレジット[編集]

リイシュー・スタッフ
総監修:三浦光紀 / 補監修:小倉エージ / 新規解説編集:山田順一
リマスタリング・エンジニア:田中浩路(JVC Mastering Center)
リプロダクト・デザイン:アプローチ / デザイン・コーディネーター:山下淳一
A&R:宮田克己、本田丈和
解説:小倉エージ

レコーディング・データ[編集]

日程
  • 10月4日  – 大瀧詠一、ソロ・アルバム『大瀧詠一[注釈 1]カッティング立会い。その後、ベルウッド・レコードの会員制集会“新譜を聴く会”に出席(14:00)。終了後タクシーで羽田空港に向かう。細野晴臣、大瀧、鈴木茂松本隆の他、三浦光紀、コーディネイターの山本隆士(雑誌『ヤングギター』編集長)、上村律夫(風都市スタッフ)らスタッフ5名が羽田に集合(19:00)。ロサンゼルスに出発(21:40)。大瀧はアメリカでもカッティングを行うため、完成間もないアルバムのマスター・テープとそのコピーを持参した。
  • 10月5日  – ハワイにて機内泊。
  • 10月6日  – ロサンゼルス着。滞在用に借りたハリウッドのアパートに移動。その後、サンセット・サウンド・レコーダーズにてスタッフを含む全員でミーティング。細野と鈴木は曲を用意してきたが、ソロ・アルバムで曲を出し切った大瀧はまったく曲が用意できていなかった。この時、エンジニアのウェイン・デイリーとスタジオで初めて会う。レコーディング開始、<さよなら通り3番地>、<明日あたりはきっと春>のレコーディング(サンセット・サウンド・レコーダーズ(2スタ)、10:00-18:00)。以後、レコーディング自体は朝9時起床、10時スタジオ入り。昼食をはさんで、18時終了というスケジュールで進行。
  • 10月7日  – <風来坊>、<田舎道>レコーディング(サンセット・サウンド・レコーダーズ(2スタ)、10:00-18:00)。夜、キングストン・トリオの元メンバー、ジョン・ステュアートのステージを観覧。山本隆士が同行(ジ・オージズ)。
  • 10月9日  – <氷雨月のスケッチ>レコーディング(サンセット・サウンド・レコーダーズ(2スタ)、10:00-18:00)。ブラス・アレンジのカービー・ジョンソンを紹介される。
  • 10月10日  – <さよなら通り3番地>、<明日あたりはきっと春>、<風来坊>、<田舎道>について、ブラス・セクションを中心に、現地ミュージシャンによるダビングを集中的に実施(サンセット・サウンド・レコーダーズ(2スタ)、10:00-18:00)。夜、メンバー全員で1回目のトルバドールでバドーフ&ロドニー、ジョン・プラインを観覧。
  • 10月12日  – <外はいい天気>、<田舎道>のリズム・セクションのレコーディング(サンセット・サウンド・レコーダーズ(2スタ))。
  • 10月13日  – <氷雨月のスケッチ>アコースティック・ギターのダビングなど(サンセット・サウンド・レコーダーズ(2スタ)、10:00-18:00)。
  • 10月14日  – <無風状態>、<相合傘>レコーディング。細野のボーカル・ダビングまで行う(サンセット・サウンド・レコーダーズ(2スタ)、10:00-18:00)。
  • 10月15日  – メンバー全員でアナハイムディズニーランドへ行く。山本隆士が同行。
  • 10月16日  – 主に大瀧曲のダビング(サンセット・サウンド・レコーダーズ(2スタ)、10:00-18:00)。レコーディングの合間、昼休みを利用してメンバー全員でポコの事務所を訪問。リッチー・フューレイらと会う。当初はレコーディングを見に来る予定だったポコのメンバーから電話が来て、見に行けなくなったので事務所に来てくれないかと言われたため。山本隆士が同行し、この会見の模様は後に雑誌『ヤングギター』1973年1月号に掲載された。
  • 10月17日  – <さよならアメリカ さよならニッポン>レコーディング(サンセット・サウンド・レコーダーズ(2スタ))。ヴァン・ダイク・パークスがレコーディングに参加。
  • 10月18日  – ボーカル・ダビング(サンセット・サウンド・レコーダーズ(2スタ))。夜、メンバー全員で2度目のトルバドールでジョニー・リヴァースを観覧。
  • 10月19日  – レコーディング最終日。ローウェル・ジョージのスライド・ギターとビル・ペインのピアノのダビング(サンセット・サウンド・レコーダーズ(2スタ))。ローウェル・ジョージが若い頃に京都に来ていたという話から今夜、セッションを見学しないかと誘われ、アルバム『ディキシー・チキン』収録曲<トゥー・トレインズ>と<ディキシー・チキン>をレコーディング中だったリトル・フィートを見学[注釈 15]
  • 10月20日  – サンフランシスコへ移動。
  • 10月21日  – ルーファス・トーマス、ドラマティックス、シャイライツが出演するR&Bショーを観覧(バークレー)。
  • 10月22日  – サンフランシスコの日系人向けテレビ局KEMO(チャンネル20)の番組に出演(16:00-19:30)。大滝曰く、“サンフランシスコならカントリー・ミュージックを”との理由で<田舎道>を演奏。この時の映像は三浦が1インチ・テープで保管しているという。
  • 10月23日  – ホノルルに移動。
  • 10月25日  – メンバー帰国。アルバム『HAPPY END』マスタリング(サンセット・サウンド・レコーダーズ)。マスタリング作業にはレコーディング終了後、そのまま現地に残ったスタッフが立ち会った。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b 大瀧詠一大瀧詠一』 1972年11月25日発売 BellwoodKING LP:OFL-7
  2. ^ このときの大瀧への詞提供の経緯について、後に松本は「はっぴいえんどの詞ってのは、もう、まったく松本隆の私的な詞だったんです。自分のための詞をフリーな状態で書くことを他の三人のメンバーが許容してくれてた部分があったから。そんな中で、当時はっぴいえんどのマネージャーをやっていた石浦と二人で創りあげたのが、ああいった詞の世界だった。それは『風街』で完成したのね。あのレコードで、それまでの蓄積を全部はきだした。だから『風街』作ったあと、ぼくは破綻しちゃったんです。テーマがなくなっちゃったのね、なんにも。で、3枚目のアルバムのレコーディングが決まってアメリカ行くことになったとき、言ったわけ、みんなに。今回ぼくはドラムだけ叩く、と。だから詞はそれぞれ自分たちで書いてくれって。そしたら大滝さんだけね、アメリカについてから急に詞が書けないって言いだして。あのアルバムの中で大滝さんが歌っているやつって、だから『風のくわるてっと』に入ってた、曲のついてない詞なんです。ぼくにしてみれば手抜きの極致だよね。だから『HAPPY END』ってアルバムはあまり好きじゃない。っていうか、存在してほしくないレコードですよ、ぼくにとっては」[book 2]と、インタビューで答えている。
  3. ^ 桑沢デザイン研究所を前年の1969年 (1969)に卒業した3名によって1970年 (1970)に結成されたデザイン集団。メンバーは眞鍋立彦、奥村靫正、中山泰。“MU!!”という名前は眞鍋のMと中山のあだ名だったウータン(Utan)のUの2人のイニシャルをとってつけられた。創設当時は“WORK'SHOP MU!!”と表記していたが、まもなく“WORKSHOP MU!!”に変更された。眞鍋と中山の2人で始めてすぐに、奥村が加わり3人で活動するようになった。正式メンバー3人のほか、スタッフには柳沢信二や山崎満、眞鍋の妻の美佐子(ミーコ)。野上眞宏もメンバーではなかったが、身近にカメラマンがいなかったため、次第にメンバーのような存在になっていった。“MU!!”の工房は青山の池田屋ビル7階にあったが、1971年8月に埼玉県狭山市のジョンソン基地近くの通称“アメリカ村”にメンバー全員が移住した。最初はインテリアの商社と契約していて、全国に販売するための商品の企画を手がけていたが、徐々に日本のロック・ミュージックの数々のアルバム・デザインに携わっていった。1976年 (1976)正式解散。
  4. ^ a b c 風街ろまん』 1971年11月20日発売 URC LP:URG-4009
  5. ^ 野上の妹が小学生のときに買ってもらったもので、購入から既に12〜13年経過していたのでレンズが曇っていたため、却って面白い効果が得られたことから野上は当時、様々な撮影で使ったという。
  6. ^ a b 小坂忠HORO』1975年1月25日 (1975-01-25)発売 MUSHROOM / NIPPON COLUMBIA LP:CD-7129-Z
  7. ^ 森高千里今年の夏はモア・ベター』 1998年5月21日 (1998-05-21)発売 zetima CD:EPCE 5001
  8. ^ ライブ!! はっぴいえんど』 1974年1月15日 (1974-01-15)発売 Bellwood ⁄ KING LP:OFL-20
  9. ^ はっぴいえんど』 1970年8月5日 (1970-08-05)発売 URC LP:URL-1015
  10. ^ 大滝詠一『A LONG VACATION』 1981年3月21日 (1981-03-21)発売 NIAGARACBS/SONY LP:27AH 1234, CT:27KH 959
  11. ^ 大滝詠一「幸せな結末」 1997年11月21日 (1997-11-21)発売 NIAGARA ⁄ Sony Records SCD:SRDL 4500
  12. ^ 大滝詠一『DEBUT』 1978年8月25日 (1978-08-25)発売 NIAGARA ⁄ NIPPON COLUMBIA LP:LX-7046E
  13. ^ 大滝詠一『NIAGARA CALENDAR』 1977年12月25日 (1977-12-25)発売 NIAGARA / COLUMBIA LP:LX-7032-E (NGLP-515,516-OT), CT:CAY-1059-E
  14. ^ さよならアメリカ さよならニッポン ⁄ 無風状態」 1973年2月25日 (1973-02-25)発売 Bellwood ⁄ KING 7":OF-10
  15. ^ 細野と山本隆士がサンセット・サウンド・レコーダーズ、鈴木と大瀧がクローヴァー・スタジオとそれぞれ異なる回想している。また、見学はロサンゼルス到着直後とする山本に対し、細野や鈴木は、はっぴいえんどのレコーディング後とする証言も残しているため、複数回見学している可能性が考えられる。

出典[編集]

書籍[編集]

  1. ^ a b c d e 小倉エージ『HAPPY END』(12cmCD)はっぴいえんど、Bellwood ⁄ KING、2012年、5-10頁。KICS-91803。 
  2. ^ 『はっぴいえんど伝説』シンコー・ミュージック、1992年10月23日、163-193頁。ISBN 4-401-61398-8。"“Chap.7:SNEAKER BLUES featuring Takashi Matsumoto”"。 
  3. ^ 大滝詠一「MUSICIAN FILE “大滝詠一徹底研究II”」『ミュージック・ステディ』第4巻第5号、ステディ出版、1984年5月15日、43-76頁。 
  4. ^ 『はっぴいえんど伝説』シンコー・ミュージック、1992年10月23日、133-161頁。ISBN 4-401-61398-8。"“Chap.6:FUSSA STRUT featuring Eiichi Ohtaki”"。 
  5. ^ a b 野上眞宏「はっぴいな日々」『はっぴいな日々』第19巻第10号、株式会社ミュージック・マガジン、2000年7月31日、44-48頁“11 はっぴいえんどのジャケット” ASIN B001FADJZ2
  6. ^ a b c d 『細野晴臣インタビュー THE ENDLESS TALKING』株式会社平凡社、2005年9月9日、37-73頁。ISBN 4-582-76550-5。"2 風をあつめて"。 
  7. ^ a b c 『自伝 鈴木茂のワインディング・ロード』株式会社リットーミュージック、2016年3月25日、119-138頁。ISBN 978-4-8456-2793-6。"第7章 ラスト・アルバム『HAPPY END』"。 
  8. ^ 大瀧詠一「特別再録 大瀧詠一コレクション 初期ライナーノーツ!」『文藝別冊 大瀧詠一 <増補新版>』第19巻第10号、株式会社河出書房新社、2012年8月30日、155-171頁、ISBN 978-4-309-97778-2“デイブ・メイソン『ヘッドキーパー』” 
  9. ^ 湯浅学「大滝は『あとは各自で』と暗黙の宿題を出した」『大滝詠一 Talks About Niagara Complete Edition』第33巻第7号、株式会社ミュージック・マガジン、2014年4月1日、292-323頁、JAN 4910196380441 
  10. ^ a b 湯浅学「大滝詠一 Discography はっぴいえんど時代『Happy End』」『別冊ステレオサウンド 大滝詠一読本 完全保存版 2017 EDITION』第33巻第7号、株式会社ステレオサウンド、2017年3月31日、60-63頁、ISBN 978-4-88073-399-9“渡米効果とヴァン・ダイク・パークスのアレンジは、今もきわめて効果的” 
  11. ^ a b 北中正和「01 松本隆インタヴュー」『ロック画報』第1号、株式会社ブルース・インターアクションズ、2000年6月25日、12-21頁、ISBN 978-4938339746 

オンライン[編集]

  1. ^ 細野晴臣、48年の時を経てはっぴいえんどの名曲をセルフカバー”. THE FIRST TIMES (2021年10月12日). 2021年10月17日閲覧。
  2. ^ 細野晴臣がはっぴいえんどの代表曲をセルフカバー、自身のドキュメンタリー映画のテーマ曲に”. 音楽ナタリー (2021年10月12日). 2021年10月17日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j 【CD】HAPPY END<完全限定プレス盤>” (日本語). TOWER RECORDS ONLINE. タワーレコード株式会社. 2017年10月1日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j 【CD】HAPPY END” (日本語). TOWER RECORDS ONLINE. タワーレコード株式会社. 2017年10月1日閲覧。

外部リンク[編集]

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その他