兵頭正懿
兵頭 正懿(ひょうどう まさし、1847年11月15日(弘化4年10月8日)[1][2] - 1910年(明治43年)8月13日[3])は、幕末の新谷藩士、明治期の内務・大蔵官僚、検察官。官選千葉県知事。
経歴
[編集]伊予国で新谷藩士・兵頭正行の長男[2]として生まれる[1]。幕末の江戸で国事に奔走し、明治元年(1868年)、三条実美の参謀を務めた[1]。
明治2年(1869年)明治政府に出仕し少史に任官。以後、記録権頭、秋田県参事、島根県参事、長崎県参事などを歴任[1][4]。
1875年、少検事となり、函館控訴院検事長、高等法院予審掛検事を歴任。福島事件、高田事件を担当した[1][4]。
1884年、大蔵省に転じ、主税官、酒税課長、参事官、預金局長などを歴任。1893年3月20日、千葉県知事に就任。産業振興に尽力[1][4]。1896年8月12日、知事を依願免本官となり退官[5]。
その後、朝日鉱山(株)社長などを務めた[4]。1910年(明治43年)8月13日、心臓病により死去した[6]。墓所は青山霊園。
家族
[編集]- 父・兵頭正行 ‐ 新谷藩士。[7]
- 長男・兵頭正道 (1875-) ‐ 鉱業、資産家。岳父に伊達宗敬。[8]
- 二男・兵藤懿輝 (1880-) ‐東京電気書記。岳父に片倉景光。
- 三男・兵藤懿彰 (1882-1908) ‐ 海軍機関少尉[9]
- 娘・はま (1877-) ‐ 東京の資産家・小堀干の弟・陸作の妻。干の三男の前妻に佐多稲子。[7][10]
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1888年(明治21年)12月26日 - 勲五等瑞宝章[14]
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[15]
- 1893年(明治26年)12月28日 - 勲四等瑞宝章[16]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 『愛媛県史 人物』513頁。
- ^ a b 『人事興信録』初版、1096頁。
- ^ 『東京朝日新聞』1910年8月16日、朝刊7頁「死亡広告」。
- ^ a b c d 『新編日本の歴代知事』333頁。
- ^ 『官報』第3938号、明治29年8月13日。
- ^ 大植 1935, 1177頁.
- ^ a b 兵頭正懿『人事興信録』初版 [明治36(1903)年4月]
- ^ 兵頭正道『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 兵藤懿彰国民過去帳 明治之巻 大植四郎 尚古房 1935
- ^ 美しい人佐多稲子の昭和 第2回「彼女の東京地図」①佐久間文子、ART ACCESS、芸術新聞社
- ^ 『官報』第2538号「叙任及辞令」1891年12月14日。
- ^ 『官報』第2932号「叙任及辞令」1893年4月12日。
- ^ 『官報』第3972号「叙任及辞令」1896年9月23日。
- ^ 『官報』第1650号「授爵叙任及辞令」1888年12月27日。
- ^ 『官報』第1935号「叙任及辞令」1889年12月9日。
- ^ 『官報』第3152号「叙任及辞令」1893年12月29日。
参考文献
[編集]- 大植四郎 編『国民過去帳 明治之巻』尚古房、1935年 。
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 人物』愛媛県、1989年。
- 人事興信所編『人事興信録』初版、1903年。
公職 | ||
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先代 (新設) | 函館控訴裁判所検事長 1881年 - 1882年 | 次代 中村修 |