内藤信照
時代 | 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 文禄元年(1592年) |
死没 | 寛文5年1月19日(1665年3月5日) |
別名 | 弥七郎(通称) |
戒名 | 清浄院長誉良栄哲春 |
墓所 | 新潟県村上市の光徳寺 |
官位 | 従五位下・豊前守 |
幕府 | 江戸幕府 大坂城代 |
主君 | 徳川家光、家綱 |
藩 | 陸奥棚倉藩主 |
氏族 | 内藤家 (信成系) |
父母 | 父:内藤信正、母:石川康通の娘 |
兄弟 | 信照、信武、信之、金森重次正室、水無瀬氏信室、内藤信義室、堀親昌継室、信直、植村泰朝正室、左近 |
妻 | 阿部正次の娘 |
子 | 信良、鳥居和俊室、主膳、信全、亀松 養女:堀利長正室 |
内藤 信照(ないとう のぶてる)は、江戸時代前期の譜代大名。陸奥国棚倉藩の初代藩主。官位は従五位下・豊前守。
生涯
[編集]文禄元年(1592年)内藤信正の子として伊豆国韮山にて誕生した。多病のため弟・信武が嗣子となっていたが、元和5年(1619年)に信武が夭折、再び嗣子となった。元和7年(1621年)、従五位下・豊前守となる。寛永3年(1626年)に家督を継ぎ、寛永4年采地を陸奥国白川・菊多および常陸国多賀の3郡に移されて、棚倉城を居所とした。寛文4年の「内藤信照宛領地朱印状」(『寛文朱印留』上巻152から153頁)では5万90石となっている。
棚倉においては正保4年(1647年)8月からの大規模な検地を行なって、藩政の基礎を固めた。また寛永6年(1629年)紫衣事件で配流となった玉室宗珀の身柄を預かっている。慶安2年(1649年)から承応元年(1652年)まで大坂城代も務めた。
寛文5年(1665年)1月19日に死去した。享年74。跡を長男の信良が継いだ。
葬地は福島県棚倉町の光徳寺、のち小石川無量院(廃寺)に改葬されたと伝えられる(「寛政譜」新訂13巻200頁)。現在は新潟県村上市の光徳寺に墓所がある。
系譜
[編集]子女は「寛政譜」記載の子女は養女1名を含む4男2女である(201頁)。
父母
正室
- 阿部正次の娘
子女
養女
出典および参考文献
[編集]- 『新訂寛政重修諸家譜』13巻 続群書類従完成会、1984年 200より201頁
- 史料館叢書1『寛文朱印留』上巻 東京大学出版会、1980年 152から153頁
- 『棚倉町史 1』福島県棚倉町、1982年 338から340頁および344から345頁(正保検地に関して)
- 辻善之助『日本仏教史』8巻 岩波書店、1961年 226より260頁(紫衣事件と宗伯の配流に関して)
|
|