内藤弌信
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 万治元年10月28日(1658年11月13日) |
死没 | 享保15年11月11日(1730年12月30日) |
改名 | 市之助(幼名)、信勝 |
戒名 | 徳林院檀誉超岳 |
墓所 | 新潟県村上市羽黒口の光徳寺 |
官位 | 従五位下・紀伊守、従四位下・豊前守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱、綱吉、家宣、家継、吉宗 |
藩 | 陸奥棚倉藩主 |
氏族 | 内藤家 (信成系) |
父母 | 内藤信光、内藤信良 |
兄弟 | 牧野成房室、主税、弌信、信清、タケ、 ルリ、信之 |
妻 | 太田資次娘、毛利綱広娘品 |
子 | 信盛、中坊秀孝、京極高長、女子、豊松、女子、某、内藤信輝養女、信庸、信輝 |
内藤 弌信(ないとう かずのぶ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。越後国村上藩初代藩主。官位は従四位下・豊前守。
生涯
[編集]万治元年(1658年)、内藤信光(家祖内藤信成の次男・内藤信広(旗本5000石、一時は大名だった)の子)の子として江戸にて誕生した。生母は前川氏と記すものがあるが(『村上郷土史』77頁)「寛政重修諸家譜」は「某氏」、国立公文書館蔵「内藤家譜」は「家女」とする他に所見がない。
寛文7年(1667年)に徳川家綱に初めて御目見し、のち延宝元年(1673年)に棚倉藩主・内藤信良の養子となる。同年従五位下・紀伊守となり、翌2年(1674年)11月16日に家督を継いだ。
宝永2年(1705年)、所領を駿河国・遠江国内に移されて田中城を居所としたが、正徳2年(1712年)5月15日に大坂城代となり、従四位下に叙せられ豊前守に改めた。享保5年(1720年)9月19日、越後国岩船・蒲原・三島3郡に移されて村上城に住した。
享保10年(1725年)2月18日に養父・信良が晩年に儲けた信輝に家督を譲った。しかし同年に信輝が死去したため、その子の信興が跡を継いだ。享保15年(1730年)に江戸で死去した。享年73。
葬地は小石川無量院(廃寺)とされている(「寛政重修諸家譜」)。墓所は新潟県村上市の天徳寺に移されている。
系譜
[編集]子女は「寛政重修諸家譜」が掲げるのは養子「信輝」を除いた6男3女である[1]
父母
正室、継室
子女
- 内藤信盛(長男)早世につき絶家[2]
- 中坊秀孝(次男)[3]
- 京極高長(三男)[4]
- 内藤信庸(六男)旗本家を継承[5]
- 豊松、生母は品(継室)
- 男子、生母は品(継室)
- 娘
- 娘
- 内藤信輝の養女後に相馬徳胤の正室[6]
養子
系図
[編集]太線は実子、細線は養子。
内藤信成 ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 信正 内藤信広(旗本) ┃ ┃ 信照(棚倉藩) 信光 ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ ┏━━━━╋━━━━┓ 信良 内藤信全(旗本)弌信 信清 信之 ┝━━━━━━━━┓ | (棚倉藩へ) | 弌信(村上藩) 信輝(弌信養子) 信有 信之 | ┃ | ┝━━━━━┳━━━┳━━━┓ 信朋 信盛(絶家) 信輝 ┃ ┃ ┃ | ┃ 信盛 ┃ 信庸 信庸 信興 ┃ ┣━━━━┓ ┃ 信旭 信凭 京極高長
脚注
[編集]出典
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