四畳半フォーク

四畳半フォーク(よじょうはんフォーク)とは、フォークソングの中でも、恋人同士だけの貧しい暮らし(四畳半1室に同棲など)における純情的な内容を中心とした、主に1970年代の作品のことを指す[1][2][3]。代表例としては、あがた森魚の「赤色エレジー[4]かぐや姫の「神田川[5]や「赤ちょうちん[3]などがある。命名者はしばしば松任谷由実とされるが[1][2][5]、松任谷以前の用例が存在する。

背景

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社会への意見や体制への反抗を表現するものであった社会派フォークが、安保闘争の挫折などを経て、政治とは関係ない私的生活や個人の心情を扱うものへと流れた[5][1][3][6]。四畳半フォークは、そうした流れの中で生まれた[1][3]

初期の用例

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松任谷由実以前

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武蔵野タンポポ団の『淋しい気持ちで』という曲(1972年1月発売のアルバム『武蔵野タンポポ団の伝説』に収録[注 1])には「せまい四畳半で 足腰たたねえ[注 1](太字強調は引用者、以下同じ)という歌詞がある。音楽評論家の小川真一は、当初の「四畳半フォーク」とはこの武蔵野タンポポ団のメンバーたちを指す言葉だったのではないかと述べている[7]

週刊読売』1972年8月19日号の特集「夏、若ものたちはなぜ去勢された ロック・フォークーあの怒りの爆発はどこへ…」という記事では、1972年のヒット曲のあがた森魚の『赤色エレジー』と吉田拓郎の『旅の宿』の歌詞を取り上げて「二つとも四畳半ムードのいかにも男女のカッタるい感じの歌である」と評している[8]

南こうせつとかぐや姫の『神田川』(1973年9月シングル発売)の歌詞に出てくるのは四畳半ではなく「三畳一間[9][10]であるが、この曲は四畳半フォークの代表例とされる[5][9]。既に『週刊文春』1974年11月11日号の記事で、「四畳半フォーク”のハシリとなった『神田川』[11]と言及されている。

フリーランサーというフォークグループの『わたしたちの夢は』という曲(シングル発売1974年7月[注 2])には、「わたしたちの夢は (中略) 一発あてて 紅白に出て (中略) 外車を乗りまわし マンションに住み 四畳半フォークを 唄うことです[注 2][注 3]という皮肉を利かせた歌詞がある。この曲はかぐや姫よしだたくろう岡林信康井上陽水小室等などを揶揄していると物議をかもし[注 4]、当時の複数の週刊誌に「四畳半フォーク」という歌詞とともに紹介された[14][12][13][15][16]。フリーランサーはその後、『四畳半フォーク』という題名の曲(シングル発売1974年12月[注 5])も発表している[注 5]

松任谷由実を命名者とする説

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四畳半フォークという呼称は、1970年代の中頃に松任谷由実(当時は荒井由実)が用いたのが初出であるとも言及され[5][1][2]、松任谷自身もそう主張している[17]。ただし松任谷の「四畳半」という発言は1975年1月で[18]、上述した用例よりも新しい。以下に詳しく述べる。

松任谷自身は著書『ルージュの伝言』で次のように主張している。これは1982年7月から9月にかけて松任谷のインタビュー速記を山川健一が原稿化したものである[17]

関係ない話かもしれないけど、四畳半フォークって言葉、私が考え出したんだよ。有閑階級サウンド、中産階級サウンドっていうのも私が命名したの。それを富澤一誠とかが使い出して、そのうち浸透したわけ。
坂本龍一にそういったら、「テクノポップって言葉はぼくがつくったんだ」とかいってた。二人で自慢し合ってたんだけどさ。
インパクトのある言葉なら、すぐに浸透するんだよね。
四畳半フォークというのは、デビューしたてのころ、『話の特集』に原稿頼まれて、そのとき最初に書いたんだ。 — 松任谷由実、『ルージュの伝言』、1984年出版[17](太字強調は引用者)

速水健朗は松任谷の『ルージュの伝言』を出典として荒井(松任谷)の命名だとしている[1]中川右介も、出典は挙げていないものの、松任谷が否定的な文脈で命名したものだと述べている[2]

荒井(松任谷)は、『話の特集』誌の1975年1月号に「心の中の"オーブル街"を歩こう」というエッセイを発表していた[18]。そこで荒井は、自分の目指す音楽スタイルを「中産階級サウンド[18]ちょっと手をのばせば届くような優雅さを、歌にしたい[18]と位置付けるとともに、既存の流行歌に対しては以下のような批判を述べていた。

自分の作った歌を、自分で歌う人達は特に、心の中に一つのユートピアを持っているはずだ。それがある人にとって、四畳半裸電球に対する郷愁かもしれないし、あるいは、過ぎ去った子供の頃の記憶かもしれない。 (中略) 現状より少しでも良い生活をしたいと望んでいるはずなのになぜみんな、貧しいみじめなもの、それを題材にした歌に、強く反応するのだろう。日本人特有のナルシシズムなのだろうか。私の前途は多難だ。 — 荒井由実「心の中の"オーブル街"を歩こう」、『話の特集』1975年1月号[18](太字強調は引用者)

上記引用のようにこのエッセイでは四畳半という言葉が使われ、これは後年の松任谷の著書『ルージュの伝言』[17]での「『話の特集』に原稿頼まれて、そのとき最初に書いたんだ」という主張とも整合する。ただしこの『話の特集』のエッセイの発表年月は1975年1月であり、前節で示した武蔵野タンポポ団の1972年の楽曲『淋しい気持ちで』、『週刊読売』1972年8月19日号の記事、フリーランサーの1974年の楽曲『わたしたちの夢は』・『四畳半フォーク』、『週刊文春』1974年11月11日号の記事などの用例よりも時期として後となる。

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 『武蔵野タンポポ団の伝説』のCD化再販アルバム(FJSP-6、キングレコード、2007年)の付属ライナーノーツ参照。
  2. ^ a b フリーランサー『わたしたちの夢は』はコンピレーションアルバム『海賊キッドの冒険 SFレーベル・カルト・コレクション Vol.2』(CDSOL-1130、ビクターエンタテインメント、2006年発売)に収録。シングル発売年月と歌詞は同アルバム付属ライナーノーツ参照。
  3. ^ フリーランサー『わたしたちの夢は』の歌詞と楽譜は集英社の音楽雑誌『Guts』の第6巻第10号(1974年6月号)85頁にも掲載されている。
  4. ^ 当時の週刊誌では、『わたしたちの夢は』の「一発当てて (中略) 四畳半フォークを唄う」という歌詞の部分がかぐや姫を揶揄しているとされた[12][13]。『わたしたちの夢は』には「問題を起こして 週刊誌をにぎわせ」および「引退しまして イモほりでもやって フォークの神様と呼ばれたい」という歌詞もあり、前者はよしだたくろう(現・吉田拓郎[12][13]、後者は岡林信康をそれぞれ指すとされた[12][13]。また歌詞のどの部分かという具体的な指摘はないものの、井上陽水[14]小室等[15]も揶揄の対象になっていると報じられた。
  5. ^ a b フリーランサー『四畳半フォーク』は同グループのアルバム『さよなら青春』(VICL-62209、ビクターエンタテインメント、2006年発売)やコンピレーションアルバム『SF(ソウル・フィット) アンソロジー』(VICL-62124-6、ビクターエンタテインメント、2006年発売)に収録。シングル発売年月はVICL-62124-6の付属ライナーノーツ参照。

出典

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  1. ^ a b c d e f 速水健朗 『タイアップの歌謡史』 洋泉社新書y 167 ISBN 978-4862481047、87p
  2. ^ a b c d 中川右介 『松田聖子と中森明菜』 幻冬舎新書 064 ISBN 978-4344980631、153p・174p/『 [増補版] 松田聖子と中森明菜 一九八〇年代の革命朝日文庫 [な-36-3] ISBN 978-4022618146、147-148p・168p
  3. ^ a b c d “(あのとき・それから)昭和48年 四畳半フォークブーム 抵抗の時代去り「私」の歌”. 朝日新聞東京夕刊 夕刊be土曜1面. (2014-6-7). 
  4. ^ 鈴木琢磨 (2011年8月26日). “人生は夕方から楽しくなる:四畳半フォークから新境地へ あがた森魚さん”. 毎日新聞夕刊 (毎日新聞社): p. 3 
  5. ^ a b c d e 恵本俊文 (2002-4-6). “<金曜羅針盤 タイムカプセル>四畳半フォーク”. 北海道新聞夕刊: 全道8頁. 
  6. ^ 富澤一誠富澤一誠のライブ・カルテ! 第44回 : 「岡林信康と吉田拓郎は特別な存在!」、ライブ・セットリスト情報サービス【 LiveFans (ライブファンズ) 】、2017年1月25日、2020年8月28日閲覧。
  7. ^ 小川真一「コラム 四畳半フォーク」『フォークソングが教えてくれた』マイナビ出版〈マイナビ新書〉、2020年8月、114-115頁。ISBN 978-4-8399-7402-2 
  8. ^ 「夏、若ものたちはなぜ去勢された ロック・フォークーあの怒りの爆発はどこへ…」『週刊読売』1972年8月19日号 p.139、読売新聞社 
  9. ^ a b かぐや姫「神田川」歌詞の意味は?昭和時代を象徴するフォークソングを背景から考察”. UtaTen. 2022年11月5日閲覧。
  10. ^ 神田川 歌ネット
  11. ^ 「なんでクレパスがいけないの?」『週刊文春』第16巻45号(通巻802号)、1974年11月11日、23頁。  ※この記事の要旨は、『神田川』の歌詞に出てくる「クレパス」が商品名であるため、それをNHKが問題視してかぐや姫を紅白歌合戦に出場させないのではないか、というものである。詳しい事情はかぐや姫 (フォークグループ)#第2期かぐや姫時代神田川 (曲)#解説を参照。
  12. ^ a b c d 「熱気さめてキワモノに落ちたフォーク界」『週刊サンケイ』第23巻35号(通巻1241号)、産経新聞社、1974年8月8日、28頁。 
  13. ^ a b c d 「夏はお化けとフォークの季節」『週刊文春』第16巻34号(通巻791号)、1974年8月26日、22頁。 
  14. ^ a b 「フォーク歌手が渋い顔のパロディー・ソング」『サンデー毎日』第53巻30号(通巻2918号)、毎日新聞社、1974年7月21日、36頁。 
  15. ^ a b 「既成フォーク・スターをヤユ にくまれたい?フリーランサー」『週刊明星』第17巻33号(通巻838号)、1974年9月1日、156-157頁。 
  16. ^ 「ヤング・スパーク'74 フリーランサー」『週刊FM』第4巻40号(通巻184号)、音楽之友社、1974年10月14日、91-93頁。 
  17. ^ a b c d 松任谷由実 『ルージュの伝言』 角川文庫 [ま-3-1] ISBN 4041580013、9-10p・230-231p
  18. ^ a b c d e 荒井由実「心の中の"オーブル街"を歩こう」『話の特集』1975年1月号(通巻108号)、話の特集社、1975年1月、26-27頁。 

関連項目

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