郢曲

郢曲(えいきょく)は、平安時代から鎌倉時代にかけての日本宮廷音楽のうち「歌いもの」に属するものの総称。語源は、春秋戦国時代の首都(えい、Yǐng [注釈 1])で歌唱されたという卑俗な歌謡に由来する[1]

概要

[編集]

郢曲は、平安時代初期には朗詠催馬楽神楽歌風俗歌など宮廷歌謡の総称であったが、平安時代中期には今様(今様歌)を含むようになり、平安末期からは神歌(かみうた)、足柄、片下(かたおろし)、古柳(こやなぎ)、沙羅林(さらのはやし)などの雑芸をも包含し、歌謡一般を指す広い意味のことばとなった[1][注釈 2]。最狭義では朗詠のみを指しているが、「五節」と称される人日1月7日)、上巳3月3日)、端午5月5日)、七夕7月7日)、重陽9月9日)の節句において、宮中の清涼殿「殿上の間」に殿上人を召して催した酒宴「殿上淵酔」で歌われた朗詠、今様、雑芸などは、とくに「五節間郢曲」と称された[1]。なお、12世紀成立とみられる『郢曲抄』は今様を愛好した後白河法皇の撰とみられている[1][注釈 3]

楽書『御遊抄』(『続群書類従』所収)などによれば、10世紀後半の円融天皇から11世紀後半・12世紀白河天皇までの治世にあっては、宮廷音楽(雅楽)を担う者が、代々音楽を相承する特定の家柄(堂上楽家)によって独占的に選ばれていく傾向が強まっており、郢曲については、藤原頼宗の子孫藤原俊家宗俊宗忠らが藤原郢曲(「藤家(とうけ)」の郢曲)の家筋として固定されていった[2]。また、敦実親王源雅信を祖とする「源家(げんけ)」は郢曲および陪従を伝承する家柄としてめざましく活躍した[1][2]

鎌倉時代に、前代の今様を受けて鎌倉を中心とする東国武士たちに愛唱されたのが、早歌と呼ばれる長編歌謡であった。これは『源氏物語』や『和漢朗詠集』など日本の古典仏典漢籍を出典とする七五調を基本とする歌謡で、永仁4年(1296年)以前成立の歌謡集『宴曲集』は歌謡作者明空の編纂による。早歌は「郢曲」の範疇に含めることがあり[1]、あるいは、公家の郢曲にかわる「武家の郢曲」ともいうべき性格を有する歌謡であった[3]。その詞章には、武家ならでは思考法や美意識の反映がみられ、後代の曲舞能楽の成り立ちにも多大な影響をあたえることとなったといわれている[3][注釈 4]

郢曲を伝承する源家・藤家のうち、室町時代中期に藤家は断絶し、現在は源家の流れを汲む綾小路家がその命脈を保っている[1]

なお、現代日本で作曲された郢曲として、1973年昭和48年)の伊福部昭による「鬢多々良(びんたたら)」がある。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 現在の中華人民共和国湖北省荊州市荊州区ほか。
  2. ^ 鎌倉時代末期の卜部兼好随筆徒然草』に「梁塵秘抄の郢曲の詞」とあるのは当時の雑芸を指している。これは、『郢曲抄』が別名『梁塵秘抄巻十一』とも称されるためである。橋本(2004)
  3. ^ 郢曲抄は治承年間(1177年 - 1181年)頃成立といわれる著者未詳の音楽書。神楽や催馬楽の秘伝、また、今様や片下、足柄、田歌などの由来や歌い方が記されている。
  4. ^ 早歌を「宴曲」とも表記する場合もみられるが、宴曲は、本来は遊宴の場において歌われる曲という意味である。豊永(2010)p.48

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g 橋本(2004)
  2. ^ a b 豊永(2010)pp.43-44
  3. ^ a b 豊永(2010)p.48

参考文献

[編集]
  • 橋本曜子「郢曲」小学館編『日本大百科全書』(スーパーニッポニカProfessional Win版)小学館、2004年2月。ISBN 4099067459
  • 豊永聡美「中世における音楽:宮廷音楽を中心に」『日本史の研究230』山川出版社、2010年9月。