糸魚川藩
糸魚川藩(いといがわはん)は、越後国(現在の新潟県糸魚川市)に存在した藩。はじめ清崎城のち糸魚川陣屋に藩庁が置かれた。別称として清崎藩(きよさきはん)。
藩史
[編集]糸魚川は北陸道と千国街道(塩の道)の結節点で、軍事と交通の要衝であった。このため、糸魚川は松平忠輝(長沢松平家)の時には家老の松平信直、松平忠昌の時には家老の稲葉正成、松平光長の時には家老の荻田氏(荻田長繁、荻田長磐、荻田本繁の3代)がそれぞれ清崎城(糸魚川城)に入っている。延宝9年(1681年)に光長が越後騒動で改易された後の元禄4年(1691年)、日向延岡藩から有馬清純(肥前有馬家)が5万石で入る。しかし清純は元禄8年(1695年)5月に越前丸岡藩へ移封され、糸魚川藩は廃藩となり、その所領は天領となる。
元禄12年(1699年)、本多助芳が出羽村山藩より1万石で入り糸魚川陣屋を置く。だが、享保2年(1717年)に助芳は信濃飯山藩へ移封。
代わって清崎松平家の松平直之が1万石で入った。この清崎松平家は、福井藩主松平光通の子直堅を祖とする系統である。松平直堅は光通の唯一の男子であるにもかかわらず側室の子であったために家中の反対があり福井藩を継げず、これを哀れんだ幕府によって賄料1万俵が与えられ、以降代々定府で日向守を名乗っていたが、ここにおいて所領を与えられることになったのである。
糸魚川藩は享保末期から財政悪化が始まる。しかもそれに連鎖するように天災が相次いで財政は火の車となった。このため、藩は新税の設置や増税を行なったが、それが原因でさらなる領民の憤激を買う。
この事態打開のために文化11年(1814年)に重臣による改革が行なわれたが、この改革は農民からの搾取が主という根本的な解決策が無かったために失敗。そして文政2年(1819年)、遂に郡代・黒川九郎治の苛酷な御用金徴収に対して領民の怒りが爆発し、黒川騒動が起こった。おまけにペリー来航による海防問題によってさらに支出が増大し、財政難はいよいよ深刻なものとなった。
第7代藩主・松平直廉は安政の大獄で家督を追われた松平慶永に代わって福井松平家を継ぐこととなる。このため、播磨明石藩から松平直静が第6代藩主・松平直春の養嗣子となって糸魚川藩の家督を継いだ。明治2年(1869年)の版籍奉還で直静は清崎藩知事となる。同年8月、糸魚川藩は正式に清崎藩と改められたが、同年は巳年の困窮とまで言われて林騒動や二歩金騒動が起こった。明治4年(1871年)の廃藩置県で、清崎藩は清崎県となった。
歴代藩主
[編集]有馬家
[編集]外様 5万石
本多家
[編集]譜代 1万石
清崎松平家
[編集]親藩 1万石
幕末の領地
[編集]脚注
[編集]
関連項目
[編集]外部リンク
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