長岡護美
時代 | 江戸時代末期(幕末) - 明治時代 |
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生誕 | 天保13年9月19日(1842年10月22日) |
死没 | 明治39年(1906年)4月8日[1] |
改名 | 良之助(幼名)→喜連川金王丸→喜連川紀氏→長岡護美 |
別名 | 左兵衛督、子徽(字)、雲海(号) |
墓所 | 東京都品川区北品川の東海寺 |
官位 | 従二位 |
主君 | 細川護久 |
藩 | 下野喜連川藩世嗣→肥後熊本藩大参事 |
氏族 | 細川氏→喜連川家→長岡家(細川氏庶流) |
父母 | 父:細川斉護、母:長(飯銅氏) 養父:喜連川煕氏 |
兄弟 | 細川慶前、細川韶邦、細川護久、津軽承昭、護美 |
妻 | 正室:知久子(大村純熙の三女) |
子 | 養子:護全、護孝 |
長岡 護美(ながおか もりよし、天保13年9月19日〈1842年10月22日〉 - 1906年〈明治39年〉4月8日)は、最後の熊本藩主細川護久の異母弟。明治期の外交官、華族(子爵)、貴族院議員。麝香間祗候。
生涯
[編集]10代熊本藩主細川斉護の六男として熊本に生まれる。旧暦・嘉永3年5月(1850年)、下野国喜連川藩主喜連川煕氏の養子となり金王丸と称した。安政元年12月(1855年1月)、将軍徳川家定に拝謁する。安政3年4月(1856年)に元服し、喜連川紀氏と名乗った。官位は左兵衛督。しかし、安政5年4月28日(1858年)、喜連川家を離籍し、実家の熊本に戻った[2][3]。以後、細川氏の旧姓により長岡護美と名乗る。
文久2年12月(1863年)、異母兄の11代藩主細川韶邦の名代として上洛、京都警衛を勅せられた。滞京中に学習院に召され孝明天皇に拝謁する一方、諸藩有志と尊攘の事を謀ったという[4]。文久3年2月(1863年)、藩の海防のため帰藩し、京都への御親兵派遣に尽力。慶応元年(1865年)の長州征討時には小倉へ出張[5]。
慶応4年2月(1868年)、命に依り上洛。3月に明治新政府の参与職軍防事務局輔に補された(従五位下・左京亮)。閏4月に東山道第二軍副総督(従四位下・侍従。総督は西園寺公望)、次いで軍務官副知事に任ぜられた(明治2年5月迄)。この間大阪行幸に供奉し、海陸軍天覧御用掛も務めた。5月、議定職同様心得(同年10月迄)を以て関東出張の命を受け、7月に鎮将府(駿河以東13国を管轄)へ出向、8月に下総常陸鎮撫を任された。11月、東北戦争の終結にともない一時帰藩。明治2年5月(1869年)、細川護久(翌年に12代藩主)の名代として上洛、6月より留守となった桂宮(仮皇居)の警衛を命じられた(8月帰藩)。
版籍奉還後の明治3年6月(1870年)、熊本藩大参事に就任。実学党の藩士らを起用し、藩の諸式・法律の改変、藩士及び俸禄の削減、領民に対する免税や封建制度の撤廃、新たな洋学所(翌年より熊本洋学校)設置など、当時としては進歩的な藩政改革を行なった。明治4年7月(1871年8月)、廃藩置県により廃官。
1872年(明治5年)2月、アメリカへの私費留学[6]のため横浜を出航、次いで英国ロンドンへ渡り、1876年(明治9年)1月、ミドル・テンプル The Honourable Society of the Middle Temple(4大法曹院の一つ)へ入学、1878年(明治11年)7月には英国法廷弁護士 Barrister の資格を得た(福原芳山・星亨に続き日本人として3番目)[7]。
1879年(明治12年)1月の帰国後、細川護久所有財産の分与、別戸願の許可を得ると、特旨を以て華族に列せられた(麝香間祗候)。同年8月に外務省の勅任御用掛に任ぜられ、1880年(明治13年)3月、特命全権公使としてオランダ在勤公使、ベルギー及びデンマーク公使兼務を命じられた(7月にオランダ赴任)。
命により1882年(明治15年)5月に帰国、翌6月に元老院議官に任ぜられた。1883年(明治16年)1月、高等法院陪席裁判官に任命され、7月より治罪法に基づく初の高等法院裁判として福島事件の国事犯審理に臨んだ(河野弘中被告の弁護人は星亨)[8]。1884年(明治17年)7月、男爵位を叙爵。
1889年(明治22年)6月、東京市名誉職参事会員に当選(満期4年後に再当選、1891年の大津事件に際しては参事会員総代として京都出張)。12月、東京市麹町区会議員に当選。1890年(明治23年)3月、第三回内国勧業博覧会事務委員に就任。7月には貴族院男爵議員に選出された[1](翌年10月昇爵により辞職[9])。10月20日、元老院廃院により非職となるとともに錦鶏間祗候に任じられた[10]。1891年(明治24年)4月には子爵に陞爵。1897年7月[11]から1906年4月に死去するまで貴族院子爵議員[1][12]を務めた。
1895年(明治28年)2月から5月、日清戦争の軍人慰労のため、華族総代として徳川篤敬侯爵とともに遼東半島から朝鮮へ出張。1901年(明治34年)5月から7月、東亜同文会副会長として清国南部諸州を巡歴し、各省総督巡撫らと満州開放について議論。以後、日清生徒の教育に尽力。1906年(明治39年)1月24日、再び麝香間祗候に列せられた[13]。
養子に、長岡護全(1881-1904:細川護久の次男、陸軍騎兵少尉、日露戦争にて戦死)、長岡護孝(もりたか、1896-1975:旧名利功、陸軍中佐、実父は細川利文、夫人は細川護成の長女英子)がおり、護孝が後嗣となり改名し襲爵した。
長岡子爵邸
[編集]日本橋区浜町二丁目に大正時代まで存在した長岡子爵邸の跡地は現在、浜町公園(現・中央区日本橋浜町二丁目)となっている。もとは熊本藩主細川越中守の屋敷があった土地で、嘉永年間の浦賀・本牧等の海岸防護の勲功により、安政5年に幕府より水野河内守中屋敷の内6千坪を賞賜され、さらに後年隣接地を買取り別邸に、明治以降は本邸として定め、1903年(明治36年)以降に長岡が居住した。関東大震災後の帝都復興事業(帝都復興公園) により、現公園が新設整備された[14]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1880年(明治13年)6月7日 - 勲三等
- 1884年(明治17年)7月8日 - 男爵
- 1886年(明治19年)5月29日 - 勲二等旭日重光章
- 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[18]
- 1891年(明治24年)4月23日 - 子爵[19]
- 1906年(明治39年)4月8日 - 勲一等瑞宝章[17]
- 外国勲章佩用允許
- 1882年(明治15年)8月15日 - ベルギー王国第一等レオポルド勲章及びデンマーク王国第一等ダンネブロ勲章
- 1883年(明治16年)8月13日 - オランダ王国第一等獅子勲章(nl:Orde van de Nederlandse Leeuw)[20]
- 1904年(明治37年)1月28日 - 大清帝国第二等第一双龍宝星
著作
[編集]- 『雲海詩鈔』1900年(上・下)
脚注
[編集]- ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』50頁。
- ^ 紀氏(のちの長岡護美)は細川家家臣吉田権左衛門に宛てた書状に、家臣団が「文武怠敖」で、自分の稽古の役に立たないこと、そして年上の許嫁からのいじめに耐えられなくなったことを理由に出奔したと吐露している(『喜連川町史 第6巻 通史編1 原始・古代 中世 近世』さくら市、2008年、705頁:泉正人執筆)。一方、茨城大学准教授磯田道史によれば、武者修行の若者を装って喜連川家から逃亡したがすぐに発覚、細川家に送還されたという。逃亡の理由は「足利家が南朝に背いた存在であることを苦に思っていたことと、函館から密航して海外留学を企てていたから」だという(『朝日新聞』連載「この人、その言葉」2010年8月21日朝刊)。なお、実家の肥後細川家は足利氏の支流であり、細川家の先祖である細川頼有も足利尊氏の家臣として北朝方に属して南朝方と戦った。
- ^ 司馬遼太郎によれば、「世の中の騒乱を見て矢も盾もたまらなくなり、絶縁状を置いて一人で草鞋がけで江戸へ出た。上野かどこかで空腹にたまりかね、そこらの家に上がりこんで一番よさそうな部屋の正面にドカッと座った。その家の連中も、変な奴が入ってきたが、これだけ堂々としたふるまいならよほど身分のいい人間に違いないと思い名を尋ねると喜連川の殿様。みな平伏して飯を食わせた」海音寺潮五郎・司馬遼太郎 『新装版 日本歴史を点検する』 講談社文庫 ISBN 978-4062759168、189頁。
- ^ 国立公文書館所蔵・叙勲裁可書「正三位勲二等子爵長岡護美」明治39年4月8日の添付履歴書より。なお、断わりがない限り、以下の記述は添付履歴書に依る。
- ^ 「慶応元年小倉エ出張中越前副総督ト五卿引取ノ件ニ付協議尽力シ薩藩福岡藩尾州藩等の諸有志ト五卿ヲ宰府ニ引取ノ手続ヲ約シ帰国」(国立公文書館所蔵・前掲添付履歴書より)。
- ^ 北垣宗治氏が発見した史料によれば、長岡は1872年4月から74年4月までにコネチカット州ニューブリテン、マサチューセッツ州ボストン、ワシントンD.C.へと転居している(北垣宗治「BOSTON PUBLIC LIBRARY 所蔵の日本人名簿(1871-1876)」『英学史研究』1999巻31号、日本英学史学会、1998年)。
- ^ 前掲履歴書では「英国法学状師」と邦訳されている。長岡のミドル・テンプル入学及び資格取得年に関しては以下の書籍参照。Foster, Joseph (1885) . Men-at-the-bar: A Biographical Hand-list of the Members of the Various Inns of Court, Including Her Majesty's Judges, Etc. (2nd ed.), London: Printed for the author. 長岡についての記載(誤記含む)は以下の通り:"Nagaoka, Mori Yoshi, went the North-eastern circuit, a student of the Middle Temple 22 Jan., 1876, called to the bar 3 July, 1878 (youngest son of Hosokawa Nagaoka, of Yeddo, Japan); born, 1846."(North-eastern circuit 北東巡回裁判所は研修先)。また、同時期の英国への留学生については、井上琢智「幕末・明治・大正期イギリス日本人留学生資料(2)」『経済学論究』第57巻、関西学院大学経済学部(2003年4月)、林真貴子 Hayashi, Makiko (2016) Constructing the Legal Profession in Modern Japan. PhD thesis. SOAS University of London など参照。
- ^ 福島事件及び高等法院裁判の概要については、手塚豊「自由黨福島事件と高等法院」『法學研究:法律・政治・社会』Vo1.32、No.11、慶応義塾大学法学研究会(1959年)など参照。
- ^ 『官報』第2493号、明治24年10月20日。
- ^ 『官報』第2195号「告示」、明治23年10月22日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、7頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、15頁。
- ^ 『官報』第6769号「叙任及辞令」、明治39年1月25日。
- ^ 安藤菊二「切絵図考証 五」『郷土室だより』第18号、東京都中央区立京橋図書館(1977年)、及び「江戸・東京 下町めぐり 日本橋浜町」『えど友』第111号、江戸東京博物友の会(2019年)など参照。
- ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
- ^ 『官報』第3266号「叙任及辞令」1894年5月22日。
- ^ a b 『官報』第6830号「叙任及辞令」1906年4月10日。
- ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
- ^ 『官報』第2342号、明治24年4月24日。
- ^ 『官報』第38号「賞勲叙任」1883年8月14日。
参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 国立公文書館所蔵・叙勲裁可書「正三位勲二等子爵長岡護美」明治39年4月8日(添付履歴書)。
- 国立公文書館所蔵・勅奏任官履歴原書「長岡護美」(明治元年から同23年までの官歴記載)。
関連文献
[編集]- 長岡護孝編刊『長岡雲海公傳』1914年。
関連項目
[編集]公職 | ||
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先代 (新設) | 軍務官副知事 1868年 - 1869年 (1868年途中から大村益次郎と、1869年途中から有馬頼咸と共同) | 次代 大村益次郎 |
日本の爵位 | ||
先代 陞爵 | 子爵 長岡家初代 1891年 - 1906年 | 次代 長岡護孝 |
先代 叙爵 | 男爵 長岡家初代 1884年 - 1891年 | 次代 陞爵 |