L'Arc〜en〜Ciel

L'Arc〜en〜Ciel
基本情報
出身地 日本の旗 日本 大阪府大阪市
ジャンル
活動期間 1991年 -
レーベル
事務所 MAVERICK(1992年 - )
共同作業者 岡野ハジメ共同プロデューサー、1996年 - )
公式サイト L'Arc-en-Ciel Official Web Site
メンバー
旧メンバー
  • hiro(ギター)
  • pero(ドラムス)
  • sakura(ドラムス)
YouTube
チャンネル
活動期間 2019年12月3日[注釈 2] -
ジャンル 音楽
登録者数 60.0万人
総再生回数 3億5370万1698回
チャンネル登録者数・総再生回数は
2025年1月31日時点。

L'ArcenCiel[注釈 3]ラルク アン シエル[注釈 4])は、日本の4人組ロックバンド。通称・略称は、主に「ラルク」が用いられている。

概略

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1991年にtetsuya(Ba.)を中心に結成[4]。現在バンドに在籍するメンバーはtetsuyaを含め、hyde(Vo.)、ken(Gt.)、yukihiro(Dr.)の4名。過去にはhiro(Gt.)、pero(Dr.)、sakura(Dr.)がメンバーとして参加していた。バンド名はフランス語で""を表しており、tetsuyaにより名付けられている。

1993年に発表した1stアルバム『DUNE』がインディーズチャートで首位を獲得するなど、インディーズシーンで絶大な人気を得て[4]、1994年7月にビデオシングル「眠りによせて」でメジャーデビューを果たす[4]。1990年代は「flower」「」「winter fall」「HONEY」「花葬」「Driver's High」などの楽曲でヒットを記録し[3]、2000年代・2010年代には「NEO UNIVERSE」「READY STEADY GO」「叙情詩」「MY HEART DRAWS A DREAM」「DAYBREAK'S BELL」「DRINK IT DOWN」「X X X」などでチャート首位を獲得している。そして現在までに、計12作品のスタジオ・アルバムを発表している。

楽曲は、バンド活動の最初期の頃、メンバーがルーツとする1980年代のニューウェイヴポストパンクからの影響を感じるものが多く発表されている[3]。ただ、活動が進むにつれ、グランジオルタナティヴ・ロックなど[3]、その時代の刺激的なサウンドを吸収し[3]、多彩なアレンジを施した独創的なポップ・ミュージックを手掛けるようになっている。また、メンバー4人全員がメインコンポーザーとして作曲を手掛け、多様な方向性のアプローチにつなげている点も、バンドの大きな特徴のひとつとなっている[3]

1990年代後半以降の活動では、スタジアムクラスの会場で頻繁にライブを行うようになっている。1999年には野外特設会場をまわる全12公演のツアーで65万人を動員、2000年には4大ドームツアーを敢行している。さらに2014年には、国立競技場(現:旧国立競技場)の最多収容人数記録となる8万人(2日間計16万人)を集めた公演を開催。そして近年は、各メンバーのソロ活動もしくは別バンドでの活動と並行しつつ、日本国外でもライブを行っており[4]、これまでにソウル台北上海香港シンガポールバンコクジャカルタパリロンドンホノルルボルチモアニューヨークといった都市で公演を行っている。なお、2012年にはニューヨークのマディソン・スクウェア・ガーデンで、日本人アーティストとして初めて同所での単独公演を開催している[5]

マネジメントはMAVERICKが担当。レコード会社はソニー・ミュージックレーベルズの社内レーベル、Ki/oon Musicに所属している。

公式ファンクラブ名はフランス語で""を意味する「LE-CIEL」[注釈 5](1995年設立、デジタル版は2021年設立)。公式モバイルサイト名は「L'mobile」[注釈 6](2009年設立)。

メンバー

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現メンバー

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メンバープロフィール ソロプロジェクト・バンド遍歴 パート[注釈 7]
hyde
(読み:ハイド)
(本名:寶井 秀人[6])

(1969-01-29) 1969年1月29日
和歌山県和歌山市出身
ken
(読み:ケン)
(本名:北村 健)

(1968-11-28) 1968年11月28日
滋賀県米原市出身
  • DOBERMAN (活動期間不明)
  • Byston-Well (活動期間不明)
  • THE CLARE (活動期間不明)
  • L'Arc〜en〜Ciel (1992 - )
  • SONS OF ALL PUSSYS (2002 - 2006)
  • Ken (2006 - )
tetsuya
(読み:テツヤ)
(本名:"非公表")

(1969-10-03) 1969年10月3日
滋賀県米原市出身
リーダー
  • Byston-Well (活動期間不明)
  • L'Arc〜en〜Ciel (1991 - )
  • TETSUYA (2001 - )
  • Like〜an〜Angel (2023 - )
yukihiro
(読み:ユキヒロ)
(本名:淡路 幸宏)

(1968-11-24) 1968年11月24日
千葉県市川市出身

過去に在籍したメンバー

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メンバープロフィール パート 在籍期間 備考
hiro
(読み:ヒロ)
1991年2月 - 1992年6月12日
pero
(読み:ペロ)
1991年2月 - 1992年12月30日
sakura
(読み:サクラ)
(本名:桜澤 泰徳)

(1969-11-20) 1969年11月20日
東京都練馬区出身
1993年1月16日 - 1997年11月4日

時系列

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活動概要

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1991年:L'Arc〜en〜Ciel結成

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バンド結成の経緯

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1990年前後に、大阪の有名レコード店(ワルツ堂)でアルバイトをしていたtetsuya[10]、バンドを組むべくメンバー探しを行っていたという[11][12]。そのような中でtetsuyaは、アルバイト先で当時大阪のシーンで有名だったバンド、BILLY & THE SLUTSのボーカルを務めるSAMMYと知り合っている[11][12]。そして、SAMMYから「いいギターがいる」と、L'Arc〜en〜Ciel結成メンバーとなるhiroを紹介されたという[11][12]。その後tetsuyaは、hiroと2人でバンドを結成する方向で動いていたが、形にならず終わってしまう[12]。このあともメンバーを探すため、ライブハウスに頻繁に訪れていたtetsuyaは、とあるギタリストに「今度スタジオで音を出そうと思ってる、ちょうどベースがいないから合わせてみる?[11]」と誘われ[11][12]、そのセッションに参加することにする[11][12]。そこで、L'Arc〜en〜Cielの結成メンバーとなるhydeとperoに出会ったという[11][12]。また、余談だが、この当時tetsuyaはバンドメンバーを探すため、多くのミュージシャン志望の人とセッションしていたといい、その中には当時Luis-Maryのボーカリストとして高い知名度を持ち、後にT.M.Revolutionとしても活動を始める、西川貴教(当時は"灰猫"名義で主に活動)もいたという[12]

一方、hydeもtetsuyaと同様に、バンドを組むべく、大阪でメンバー探しを行っていたという[11][13]。そして、Kiddy Bombsというバンドと知り合い、同バンドのドラマー、peroと交流を持つようになる[13][14]。その後、Kiddy Bombsがボーカル脱退に伴い解散状態となり、peroはhydeに「一緒にバンドやろう」と声をかける[13]。こうしてhydeとpero、さらにKiddy Bombsのギタリストとベーシストを加えた4人は、新たなバンド、Jelsarem's Rodを結成する[13][14]。そして結成してすぐに、ベーシスト以外の3人は、tetsuyaも参加した前述のセッションに赴いたという[13][14]

上記のセッションを振り返り、tetsuyaは2010年に発表された書籍のインタビューで「課題曲を決めておいて、セッションで何曲か合わせて…お互いに様子見ですよね、お見合いみたいな。peroとhydeは一緒にバンドをやってて、僕は僕で、別のところで、hiroとふたりでメンバーを探してたんですよ[12]」と述懐している。また、hydeは2012年に発表した自叙伝で「当時はJelsarem's Rodを作ったばかりだったから、他のバンドには興味が持てなくて。peroが"行こうよ"って言うから行ったけど、ひと通り演奏して帰ったっていう感じだったね。まあ、"上手だな〜""うちのバンドとは全然違うな〜"とは思ったけど[14]」と述懐している。そして、このセッションでhydeとperoと出会ったtetsuyaは、L'Arc〜en〜Ciel結成に向け、大きな一歩を踏み出すことにする。

というのも、tetsuyaはhydeとperoと出会った際に、"hyde、pero、hiro、自分で全部がつながった"、"すごいバンドになる"と直感的に感じたという[12]。そのため、tetsuyaは「自分とバンドを組まないか」とhyde、peroの2人に打診したという[12]。ただ、前述の通り、「Jelsarem's Rodを結成したばかりだから」という理由で、hydeに断られてしまう[12]。それでも諦め切れなかったtetsuyaは、Jelsarem's Rodのライブに足繁く通い、hydeとperoを口説き続けたという[12][14]。この当時のtetsuyaの熱烈な勧誘を振り返り、hydeは「その時(セッションの時)にtetsuyaは俺らに目をつけてたみたいで。それから、毎回、俺らのバンドのライブに来てくれるようになって、打ち上げにも来たし電話もあったんだけど、"どう?バンド、調子ええ?"って聞くから"うん、調子ええよ"って言うと、"そっか"って残念そうにしてたな(笑)[14][15]」と述べている。また、後年tetsuyaは、このときの自身の行動について「ちょっと今では考えられない(笑)。当時はもっとおしゃべり、おしゃべりじゃないな、積極的な少年やって[13]」と振り返っている。なお、peroはtetsuyaの誘いに乗り気だったようで、tetsuya曰く「"hydeがOKしたら俺はいつでも行くよ"的なことを言ってた[13]」という。

止めどないラヴ・コールを受け続けたhydeは、Jelsarem's Rodの先行きが見えなかったこともあり、tetsuyaと一度セッションすることを決意する[13]。そして、1991年2月頃、hyde、tetsuya、peroに、tetsuyaと共にバンドメンバーを探していたhiroを加えた4人で、兵庫県西宮北口駅のスタジオでセッションを行う[13][16][15]。このセッションでhydeは「やっぱり自分たちのバンドとは全然クオリティーが違う[15]」と感じ、tetsuyaからの誘いに「一緒にやろう」と返答し[15]、Jelsarem's Rodを解散させ[15]、新たなるバンド、L'Arc〜en〜Cielを結成することを決断する。なお、後年hydeは、Jelsarem's Rodの解散を決めたときを振り返り、2012年に発表した自叙伝で「そうこうしてるうちに、俺らのバンド(Jelsarem's Rod)もすごく行き詰ってきて。毎回、ギターソロは、スケールが外れてるし(笑)。友達としては大好きだったんだけど、バンドとしてこれでは無理だと気がついて来たんだ。その後、Jelsarem's Rodの解散を切り出す事になるんだけど、とてもつらかったのを覚えてる[15]」と綴っている。

こういった紆余曲折があり、hyde(結成当時のアーティスト名義は"hide")(ボーカル)、hiro (ギター)、tetsuya(結成当時のアーティスト名義は"tetsu")(ベース)、pero (ドラムス)の4名から成るロックバンド、L'Arc〜en〜Cielが結成された。

余談だが、L'Arc〜en〜Cielは結成後、3回にわたりメンバーの脱退・加入が繰り返されているが、新加入したメンバーはいずれも、バンドの発起人であるtetsuyaの知り合い、もしくは直接知り合っていないながら、奇しくもバンド結成の流れの中に居合わせていた人物となっている。例えば、hiroと入れ替わるかたちで1992年に加入したギタリストのkenは、tetsuyaとバンドを組んでいたことがあった幼馴染で、客としてL'Arc〜en〜Cielを観たこともあった[17]。そして、peroと入れ替わるかたちで1993年に加入したsakuraは、tetsuyaがアルバイトしていたレコード店に訪れたロックバンド、DEAD ENDでドラムを担当していた湊雅史のローディーを務めており、tetsuyaと直接知り合っていないものの、アルバイト先に赴いていたことがあった[12]。そして、sakura脱退後の1998年に加入したyukihiroは、当時ZI:KILLのドラマーを務めており、tetsuyaが、hydeとperoの2人も赴いた最初のセッションに招待したギタリストとライブハウスで接触した当日に、奇しくもそこでライブをしていたという[12]

以上のように、L'Arc〜en〜Cielは結成メンバー4人、そしてのちに加入するメンバー3人、合わせて計7人によって歴史が紡がれていくことになる。なお、L'Arc〜en〜Cielというバンド名は、後述の"バンド名の由来"の項目にあるように、大気光学現象のひとつである「」を意味している。そして、虹の色数は、日本では一般的に「7色」とされており、これは奇しくも「L'Arc〜en〜Cielに在籍したメンバーの数」と一致する。この偶然の一致について、tetsuyaは、2006年に受けた音楽雑誌のインタビューにて「今までのラルクのメンバーって7人(hyde, hiro, tetsuya, pero, ken, sakura, yukihiro)いるんですよ。なんかそれも運命かなぁって。誰ひとり欠けても今のラルクはない[18]」と述べている。ちなみにアーティストが自身のメモリアルイヤーを定める際、メジャーデビュー年を起点に算出するミュージシャンと、結成年・活動開始年を起点に算出するミュージシャンの2パターンに分かれることが多いが、L'Arc〜en〜Cielは後者の"結成年"を基準にしていることが多い。L'Arc〜en〜Cielの場合、結成年を基準にすることにより、結成メンバー4人でアマチュアバンドとして活動していた時期も年数に含めることができるが、このことが"結成年"を基準にしている理由かどうかは定かでない。

バンド名の由来

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バンド名は、結成時にオリジナルメンバー4人が各々で、様々な案を考えたという[19]。結果的にtetsuyaが提案した、フランス語で「(=空に架かる橋)」を意味する『arc-en-ciel[注釈 48]』を由来とした「L'Arc〜en〜Ciel(カナ表記ではラルク アン シエル)」フランス語発音: [laʀkɑ̃sjɛl] ラルコンスィエル、ラフコンスィエル[注釈 49]という言葉がバンド名に採用されている[19]。ちなみにバンド名は、そのときのデザインによって「L'Arc-en-Ciel」という表記で記載している場合もある。

L'Arc〜en〜Cielというワードは、tetsuya曰く、当時本屋などをまわり、様々な資料をもとにバンド名に適した言葉を探していたときに、たまたま見つけた言葉だったという[19]。この言葉を見つけた経緯について、tetsuyaは2011年に受けた音楽雑誌のインタビューで「当時はインターネットとかなかったので、本屋さんとかでいろんな資料を見たんですが、その中にこのフランス語の言葉があった。意味は虹ですけど、分割すると、天空にかかる橋。見た目もいいし、響きもいい。音楽でいろんな色を表現するというところでも合うなと。長くて、覚えにくいものではあるけれど、ローマ字で表記したときにインパクトがあると思ったんです[19]」「(この言葉には)洋服のブランドみたいな雰囲気もあって、いいかなって[19]」と語っている。

なお、2012年に受けたアメリカの経済雑誌『フォーブス』のインタビューで、バンド名の由来を聞かれた際に、hydeは「名前を付けようと思ったときに、英語の単語はもう全部他のバンドに使われていたから新鮮だったフランス語にした[20]」「特に最初意味はなかったんだけど、今のバンドの音楽性が多彩なので、それを上手く表している名前だな、と僕たちも思う[20]」と述べている。ちなみに、結成当初に作られたL'Arc〜en〜Cielのバンドロゴやチラシは、hydeの手で制作されている。なお、hydeはミュージシャンを志す前に、画家漫画家デザイナーといった職業に憧れ、「絵の道に進もう」と考えていたことから、かつてデザイナー学校に通っていた[21]。後年hydeは、結成当初にバンドロゴや、ライブのチラシを作っていた頃を振り返り「俺が出来る事と言えば、バイト先のカラーコピー機を無断使用してライブのチラシを作る事だった。ベルトと手袋の会社で梱包のバイトをしてたんだけど、俺の経歴のデザイナー学院卒を見てくれて、企画を手伝うことになったんだ。ファッションデザイナーが描いてくるベルトの絵を、商品化しやすいような絵に変えるような仕事がメインだったかな。ほとんどは一人で作業してたから、当時は1枚100円くらいしたカラーコピーを何十枚も刷ってたね(笑)。見つかったら怒られるだろうからヒヤヒヤしながらやってたよ(笑)。CDをリリースしてた訳じゃないからバンドのアートセンスはチラシで決まる所もあって、結構時間をかけた。それこそまさにアナログでカラーコピーを駆使した「self portrait」(音楽雑誌『R&R NewsMaker』で連載していたhydeによるアート企画)の原型だね。L'Arc〜en〜Cielの質を上げるのに貢献したと思うよ。そこのデスクで初代のロゴも作った。カッターとのりで切り貼りしたヤツを何度もコピーしたから少し歪んでるけどね(笑)[21]」と述懐している。

余談だが、バンド名の由来に関し、"当時tetsuya阪急梅田三番街にあった喫茶店の名前を気に入り、そこから取った"という根も葉もない噂が世間で流布されたことがあったが、この説は、バンドの名付け親であるtetsuya本人の口から何度も明確に否定されている[19][22]。このデマについて、tetsuyaは音楽雑誌『WHAT's IN?』2011年2月号でのインタビューで「梅田に同じ表記の喫茶店があって、そこからとったという説がずーっとWikipediaに書かれてたんですよ。でもまったく関係ないです。冷静に考えてみてくださいよ、喫茶店の名前からバンド名をとるわけないじゃないですか!?[19]」と述べている。

ちなみに、1995年2月1日付けでバンドの公式ファンクラブ「Ciel」が設立されている。それから約5年後の2000年4月21日には、公式ファンクラブの名称が「LE-CIEL」に変更されている。なお、公式ファンクラブの名称は、フランス語で「」という意味を持つ『ciel』が由来となっており、この名称には「ファンとバンドが"空"と"虹"のような関係でいれたら」というL'Arc〜en〜Cielの想いが込められている。

バンド結成直後の活動方針、当時のアマチュアバンドの逆を行くブランディング戦略

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1991年2月頃のセッションを経て、新たに結成されたバンド、L'Arc〜en〜Cielは、同年5月30日に難波ロケッツで記念すべきファーストライブを開催する[23]。このライブはいわゆる対バン形式だったが、100人以上の動員を記録。そして、1991年9月27日に同所でL'Arc〜en〜Cielとして初のワンマンライブを行い、300人以上の観客を集めている[23]。こうしてL'Arc〜en〜Cielは、結成して間もなくバンドが軌道に乗り始め、大阪を中心に様々な活動を展開していくことになる。なお、L'Arc〜en〜Cielが結成当初から一定の人気を獲得できていたのは、hyde曰く、hiroが以前組んでいたバンドで名を知られていたことや[21]tetsuyaの考えたプロモーション・イメージ戦略によるところが大きいという[21]

結成当時のL'Arc〜en〜Cielの活動を振り返り、後年hydeは2012年に発表した自叙伝で「面白かったのは、L'Arc〜en〜Cielって最初から戦略的だった事。俺なんかは、いいライブさえやっていれば、いつかそれが人目に付いて、動員が増えてプロになれるんじゃないかな?くらいに考えてたんだけど、L'Arc〜en〜Cielはとても戦略的で、tetsuyaはもう既に大勢の人の名簿を持っていて、それを元にダイレクトメールを送ったり、ギターのhiroは、元々ちょっと名前の知れた子だったから、その子が復活するってだけでも話題になったり、最初のライブは150人だったかな?ちょっと普通ではありえないような動員があったね[15][21]」と綴っている。また、後年tetsuyaは「今だと個人情報保護とかでダメだと思うんですけど、当時僕がアルバイトしていたレコード店にあるお客さんのリストを使って、ライブ開催のダイレクトメールを送ったりしてましたね[24]」と当時を振り返っている。

その後L'Arc〜en〜Cielは、この当時のアマチュアバンドが行っていたありがちな活動とは逆の戦略を展開し始める。この当時のアマチュアバンドの多くは、手作りのデモテープを販売することで活動資金を集め、それをもとに様々な地域でツアーと称し、長期的なライブ活動を行うことが定番になっていた[22][24]。こういったバンドが溢れる中、活動最初期の頃のL'Arc〜en〜Cielはデモテープの販売を避け、あえて大阪からあまり動かず、先々のライブ予定も発表しないスタンスをとっていた[22]。この当時の活動方針について、tetsuyaは「当時ね、周りの同じようなバンドはライブをいっぱいやってたんですよ。数をこなす、みたいな。月に2〜3回はライブやって、それこそツアーで全国を回るとか。でも僕らは月1回に絞って、それ以上はやらない、ツアーもやらない。で、大阪に観に来てもらう、東京からでも来てもらう…ぐらいの気持ちでやってました。ライブの本数をあえて絞りましたね[22]」「あと、他のバンドは先々のスケジュールまで発表しちゃうんですけど、そうじゃなくて、次のライブは観に来た人に伝える。ライブに来て初めて、次のライブをいつどこでやるのかわかる。逆に、来ないとわからない。次はいつ観られるかわからないっていう状況をあえて作りましたね[22]」と語っている。このようにライブの開催数を減らし、長期のライブスケジュールを発表しない戦略をとったことによって、口コミが喚起され、動員数が増加していったとtetsuyaは当時を述懐している[22]。なお、ライブを行った際は、メンバー主導で音楽雑誌編集者に対し、公演の模様や動員数などの情報を送り、より外に話題を広げていくためのプロモーション施策を行っていたという[24]。後年hydeは、こういったバンドを広める戦略について「バンドがたくさん居る東京に行くよりも、大阪で一番になったほうが目立つだろうっていう、tetsuyaの考え方もすごく賢いと思ったし。実際その通りになった[25]」と述懐している。

ちなみに、あえてデモテープを販売しなかった背景には、「ライブに来ないと(曲を)聴けない[22]」「自分たちが納得できるタイミングで音源を出したい」というtetsuyaなりの考えがあったという。そのため、L'Arc〜en〜Cielは結成してすぐに、レーベルからの勧誘、あるいは「デモテープを販売しないか」という催促があったにもかかわらず、それらすべてを断っていたという。tetsuyaは、2011年に公表されたインタビューで「インディーズバンドに群がる大人っていっぱいいるんですよ、今も昔も。ライブハウスでちょっと動員があると聞くと、すぐ飛んできて"うちでやらないか"って声をかけてくる、金儲けを考える大人たちがたくさんいる。俺らのとこにもいっぱい来ました。自分たち的にはタイミングとしてまだ何も出したくなかったので、メジャーから話が来ても断っていました[26]」と当時を述懐している。

他にも、この当時のアマチュアバンドの中には、観客との距離を詰め、ライブの打ち上げに客を参加させるバンドも多く存在していたが、L'Arc〜en〜Cielはこういったファンとの過度なコミュニケーションを一切行わないようにしていた[10]。また、tetsuya曰く、ブランディングの観点から、メンバーが自作したライブのチラシやフライヤーを直接配布する行為をしないようにしたり[26]、会場に出入りする観客の前でメンバーが演奏機材を運搬するといった行動を避けるため、結成当初からローディーやスタッフを雇っていたという[10]。こういったイメージ作りについて、後年tetsuyaは、2022年に公開された自身がパーソナリティを務めるインターネットラジオ番組で「ブランディングとして人気があるように見せた、最初から[10]」「ラルクとして機材を自分達で(会場に)運んだなんてことは歴史上ない[10]」「売れる前から徹底してやってたんですよ。"勘違いしてる"と言われようと[10]」と述べている。

上記のような、頭を使った戦略をとったことで、L'Arc〜en〜Cielは結成してすぐにワンマンライブで観客を埋めることができ、先輩バンドに頼み込んで前座でライブに出させてもらったり[24]、全国を行脚して対バンライブで知名度を上げていくといった施策を行わなくて済んだため、当時のバンドの滑り出しとしては、稀に見る順風満帆な始まり方となった。そのため、tetsuyaは当時について「L'Arc〜en〜Cielって、苦労してないんですよ(笑)[24]」と冗談交じりで述懐している。また、tetsuyaは当時の活動方針について「やるべきことはやったんですよ?やるべきことはやったけど、無駄な努力はあまりしてないっていうか、ムダな下積みは。努力って、的を射た努力しないと意味がないと思ってて。なんかがむしゃらに頑張っても、意味のない努力をいくら頑張っても結果出ないじゃないですか。だからちゃんと目標を決めて、どこに向かいたいのか、どうしたいのか、そのための努力は何なのか、っていうのを考えて、そのためのやるべきことをやってきた。それをやっただけですよ[24]」と語っている。さらにtetsuyaは、結成当初に対バンライブをあまり行わなかったことについて「対バンで3バンド、4バンド一緒にライブやるのとか、そういうことは本当にしたくないなって思ってたんで、僕が、個人的に。(対バンライブで他のバンドのファンがこちらに興味を持つといった)そういう戦略もあると思うんですけど、僕はそれを当時は取りたくなかったんですよ。やっぱり3バンドも4バンドも出てたら、ゴチャゴチャじゃないですか、楽屋まわり。そういうのがイヤだったんでしょうね。だからホントにワンマンがやりたかったんですよ、それこそ最初から。最初からワンマンでやれるバンドにしたくて。で、本当に最初の数回ですよ、対バンでやったの[24]」と述べている。

余談だが、L'Arc〜en〜Cielは上記にあるように、当時のアマチュアバンドの中ではあまり対バンライブを行わない珍しいバンドであったが、数少ない対バン相手としてロックバンド、黒夢がいた[24]。tetsuyaは「黒夢(との対バン)はお互いにメリットがあったというか。黒夢は黒夢で、もうある程度の立ち位置にいて、固定のファンもある程度いて。黒夢にとってもラルクにとっても…お互いがハッピーになるような感じだったから、"対バンしよう"って言う話になったんです[24]」と述べている。ちなみにtetsuyaは、2022年に自身がパーソナリティを務めるラジオ番組で[27]、「L'Arc〜en〜Cielのライバルバンドは?」と聞かれ、「我々の一番のライバルは黒夢[27]」と答えている。なお、黒夢の中でも、特にボーカルの清春は、L'Arc〜en〜Cielの現メンバーのほとんどと現在でも交流があり、お互いがメジャーデビューした後もライブイベントや楽曲制作の場で共演している。

1992年 - 1997年:『DUNE』『Tierra』『heavenly』『True』

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幻のアルバムレコーディング、hiroとperoの脱退、kenとsakuraの加入

1992年に入り、3月にはオリジナルのビデオ『L'Arc-en-Ciel』のプレゼントライブを大阪の他に東京でも行い、関東地方にも活動拠点を広げるが[28]、6月12日の難波ロケッツで行われたライブ終了をもってギタリストのhiroが脱退することとなった。後釜にはtetsuyaと学生時代に親交のあったkenが加入。kenは同年6月25日の新宿ロフトで行われたライブでL'Arc〜en〜Cielとして初めてステージに立つこととなった。

ken加入直後からアルバム制作のためレコーディングを行い、1992年10月1日に発売されたオムニバスアルバム『Gimmick』にバンド初の音源となる「VOICE」を提供した。しかし、アルバム自体は、メンバー曰く「出来映えが気に入らなかった」ため、完成直前まで漕ぎ着けていたが全曲をボツにし発売しない意向を取った[29]。また、これに関しては脱退したhiro側から「自分の曲を使わないでほしい」と言われたことも理由の一つになっている。この一件で当時所属していた事務所との間に軋轢が生まれ、レコーディングに掛かった経費などの支払いを命じられることとなる。これとほぼ同時期に、デンジャークルー・レコード (現:マーヴェリック・ディー・シー・グループ) 社長の大石征裕から「うちの事務所に来て欲しい」と誘いがあり、そのままデンジャークルー・レコードへ移籍。この時の金銭問題は、事務所間での話し合いで全て白紙となった[29]。ちなみに、インディーズ時代に唯一リリースされた生産限定シングルFloods of tears/夜想花」は、前述の金銭問題を処理する為にリリースされたものである[29]。また、この移籍の話が出たころにtetsuyaがバンドのリーダーとなっている。tetsuyaをバンドのリーダーにしようと提案したのはhydeで、後年にhydeは「先導が誰かに決める必要があったんだと思う。本人が"リーダーになる"って言えないだろうから、"tetsuyaがリーダーに相応しいと思う"って言ったんだよ。tetsuyaは当時からしっかり者だったからね[30]」と振り返っている。しかし、前述のシングルリリース直後の1992年12月30日に、大阪ミューズホールで行われたオールナイトライブをもってドラマーのperoが脱退することとなり、後任のドラマーを探すこととなった。

1993年1月16日、前年脱退したperoに代わりsakuraが加入。加入後に約1ヶ月間のレコーディングに入り[31]、1stアルバム『DUNE』をデンジャークルー・レコードより発売した。1993年5月10日付のオリコンインディーズアルバム週間チャートでは首位を獲得し、インディーズでの人気を不動のものとする。

1993年夏、当時レコード店でアルバイトをしていたtetsuyaが「店に来た担当の人間を気に入った」という理由から[32]、1992年にソニー・ミュージックエンタテインメント内で新規レーベルとして設立されたばかりのキューンソニーレコードと契約を結ぶ。所属事務所の社長である大石征裕は、「当時のソニーはメジャー志向のアーティストを続々とヒットさせていて、当時はサブカルチャー寄りだったラルクに興味を持ってくれるか最初は不安だった[33]」と述べている。

メジャーデビュー、地道な活動、自身初の日本武道館公演開催

1994年7月1日、ビデオシングル「眠りによせて」を発売しメジャーデビューする。同年7月14日には2ndアルバム『Tierra』、同年10月21日にはシングル「Blurry Eyes」を発売し、メジャーレーベルでの本格的な活動を開始した。この当時に制作された楽曲は、メンバーが好んで聴いていたニュー・ウェイヴゴシック・ロックからの影響を受けたものが多い。なお、L'Arc〜en〜Cielの所属事務所の代表の大石征裕は「4人ともザ・キュアーのようなUKロックをよく聞いていたと記憶しています[34]」と述懐している。ちなみに、メジャーデビューの発表は当時メンバーの口から一切行われていない。このことに関し、tetsuyaは「ライブや広告でメジャーデビューを発表するトレンドが嫌だった[35]」と述べている。

メジャーデビュー直後はインディーズ時代からのファンも多かったが、デビュー後初めて行った全国コンサートツアー「Tour Sense of time '94」の東京ベイNKホール公演などでチケットがソールドアウトしないという事態が発生した。以後は「スタッフに全て任せきり」だったコンサートの会場決め、プロモーションなどをインディーズ時代のようにメンバー主導で行うようになった[36]。当時を振り返り、hydeは「自らが主導権を握って活動していなければ、多分(バンドは)終わっていたと思う。そこからは変わってないと思うんですよね、それぞれがいろいろ経験して大人にはなったけど[37]」、tetsuyaは「メジャーに来たらある程度はスタッフにお任せして、自分達は音楽に専念できる環境が整ったんですけど、ふたを開けてみたら”あれ?”と思うことが多くて。メジャーデビューして1年ぐらいしてからやっぱり自分たちのやり方に戻した方がいいなと思った[37]」と述べている。

1995年1月からは公式ファンクラブ『Ciel(現・LE-CIEL)』の発足記念ライブツアー「Ciel/winter '95」を開催。同年5月21日からはライブツアー「in CLUB '95」を開催。ツアー初日に合わせ、ビデオシングル『and She Said』を発売。さらに、同ツアーでは同年9月にリリースされる3rdアルバム『heavenly』の収録曲を先行披露して廻るなど、ライブを積極的に行う活動にシフトしていった。また、アルバムを引っ提げて行われたライブツアー「TOUR heavenly '95」では初の日本武道館公演を開催し、徐々に人気を広げ動員規模を拡大していった。

自身初のミリオンセラー、自身初のアリーナツアー開催、sakura逮捕に伴う活動休止

1996年5月には、ライブ「Kiss me heavenly deadly '96 REVENGE」を開催し、2年前のリベンジとなる東京ベイNKホールでのソールドアウトを達成。また、同年7月からシングル3作品を立て続けにリリースした。中でも10月17日に発売したシングル「flower」は累計30万枚以上を売り上げるヒット作となった。さらに、同年12月には4thアルバム『True』を発売。過去のアルバム3作と異なり、富樫春生岡野ハジメ、秦野猛行、小西貴雄西平彰佐久間正英の計6人の共同プロデューサーを迎えて制作された。本作以前のアルバムは、ほとんどの楽曲がセルフプロデュースで制作されていたが、思っていたほどセールスが伸びていなかったことから、バラエティに富んだポップ色の強いアルバムとして本作が制作された。本作について、hydeは「僕らにやりたいことが山ほどあったから、ここでポップな曲での攻撃を覚え始めた[38]」、kenは「(L'Arc〜en〜Cielが)売れねえって声が聞こえた時、当時自分が一番曲を書いていたから、"曲が悪いんだろう"、"俺が悪いんだろう"、"そりゃ売れねえの作ってるよ、俺は"と思っていた。だから"じゃあ売れるの作りましょうか"っていう気分で『True』の制作にあたった[39]」と述べている。その結果、本作は発売6週目でメジャーデビュー後では自身初となるオリコン週間アルバムチャート首位を獲得。その後、チャートに自己最長となる110週ランクインし続け、シングル・アルバム通じて初のミリオンセラーを記録し、「L'Arc〜en〜Cielの前期の集大成[40]」と呼べる作品となった。

また、この頃から作品リリースに合わせ、プロモーションのため、テレビ朝日系番組『ミュージックステーション』などの音楽番組に頻繁に出演するようになる。hydeはテレビ出演に関し、「正直言うと、僕はそんなに売れっ子アーティストになりたかったわけでもなく。まさかテレビで歌うとかそこまで思ってなかった。でも、いざこの世界に入ってきて自分の芸術を表現したいときって、売れてないと出来ないことが多くて。そこでやっぱどんどん拍車がかかったんだと思う[41]」と述べている。

前年から1997年初頭にかけ、初のアリーナ公演を含むコンサートツアー「CONCERT TOUR '96〜'97 Carnival of True」を開催するなど人気は過熱しはじめ、ヒット街道を驀進するものと思われたが、同年2月にドラマーのsakuraが覚醒剤取締法違反で逮捕される。これにより、活動予定を全て白紙化することとなった。それに留まらず、これまでにリリースした全てのシングル・アルバム・映像作品の出荷を一時停止し、バンドは活動休止状態となった。

1997年 - 2002年:『HEART』『ark』『ray』『REAL』

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sakuraの脱退、変名バンドとしてのライブ開催、復活ライブとなる自身初の東京ドーム公演開催

sakuraの逮捕後、「曲作りとリフレッシュ」の名目で渡英する。シングルの制作やプロモーションのため一旦日本に戻るも、ミュージックビデオの撮影も兼ねて再度渡英、さらにドイツを巡るなど数ヶ月の間ヨーロッパに滞在することとなる。この間にサポートドラムとして元ZI:KILLDIE IN CRIESのドラマー、yukihiroが参加したセッションなどが行われ、1997年10月に長い休止から復活。直後発売したシングル「」は初動30万枚、累計70万枚以上を売上げ、当時の自己最高初動・最高売上を記録した。同年11月4日には、sakuraがバンドから正式に脱退することが発表された。

同年12月には、L'Arc〜en〜Cielのコピーバンド"the Zombies"を期間限定で結成。同月16日から18日の3日間限定で、変名バンド名義でライブ「Live Tour NIGHTMARE BEFORE CHRISTMAS EVE」を東京・大阪のライブハウスにおいて開催した。さらに12月23日には、L'Arc〜en〜Cielとして初となる東京ドーム公演となる復活ライブ「L'Arc〜en〜Ciel 1997 REINCARNATION」を開催。当時の東京ドームの愛称であった「ビッグエッグ」にちなみ、<おおきなあたたかいたまごから僕たちはもう一度生まれた>というコンセプトのもと再始動を予告した。本公演のチケットは当時の最速記録である4分で完売し、当時絶頂にあったバンドブームと重なり休止前までには無かったほどの爆発的人気を得ることになった。また、後年tetsuyaはこの公演を振り返り、「賭けだった」と述べており、「同じような会場で同じようなことをやっても、ラルクはもうダメになっちゃったと思われるんじゃないかって、だから絶対に良くなったって思わせたかった[42]」と語っている。

yukihiro加入による新体制での活動再開、自己最長となるホールツアー開催

1998年1月1日にはサポートドラマーとして参加していたyukihiroが正式に加入。加入直後にシングル「winter fall」を発売し、自身初となるオリコン週間シングルチャート首位を獲得。シングルリリースの翌月には5thアルバム『HEART』を発売。前作の制作に参加した岡野ハジメ(ex.PINK)が本格的に共同プロデューサーとして携わる最初のアルバムとなった。ドラマーが手数の多いyukihiroに変わりドラムがタイトかつシャープなスタイルになったことや、kenのギターの音色がグランジ寄りに変化し始めたことから、以前と比べグランジ、オルタナ色の強い音楽性に変化していくこととなった[43]。また、本作はアジア各国でアルバムの海賊盤が多数出回り始めたことや、海外からの要望が高まったことから、日本の他、台湾香港タイマレーシアシンガポールのアジア6ヶ国においてリリースされ[44]、結果的にこれがL'Arc〜en〜Cielとして海外進出する第一歩となった。

yukihiroが正式加入して初めてのツアーとして、1998年5月より自己最長となる全国45都市56公演にも及ぶホールツアー「Tour'98 ハートに火をつけろ!」を敢行。tetsuyaは後年この長期ツアーを振り返り、「yukihiroが加入した後だったので、この4人がL'Arc〜en〜Cielなんだというイメージを植え付けたいという意識がどこかにあった[45]」「そのためにはそれまでにやった以上に数多くのライブをやることだな、たくさんリリースすることだなって思ってた[45]」と述べている。

シングル3作同時発売、アルバム2作同時発売、2度のシングルチャート1位・2位の独占

前述のアルバム発売以降も連続かつ集中的なリリースパターンを取り、1998年7月には「HONEY」「花葬」「浸食 〜lose control〜」のシングル3作を同時発売した。この同時発売により、発売2週目にはオリコン週間シングルチャート1位と2位を独占し、「HONEY」「花葬」の2作がシングルとしては初のミリオンセラーを記録。中でも自身のシングル最高売上を記録した「HONEY」は、全日本有線放送大賞を獲得する他、初出場となったNHK紅白歌合戦において披露された。さらに、10月には「snow drop」「forbidden lover」のシングル2作を2週連続発売し、オリコンチャート史上初の2度目のシングルチャート1位と2位の独占を達成し大きな注目を浴びた。なお、この年リリースしたシングル7作全てがオリコン年間シングルランキングTOP30入りを果たした。

そして翌1999年1月、当時B'zGLAYといったJ-POPアーティストのベストアルバムが市場を席巻していたことから、巷で「ラルクもベストアルバムを出すのでは?」と噂されていたが、こういった世間の予想や思惑を外すように「本年もよろしくお願いします。L'Arc~en~Cielは、1999年ベストアルバムは出しません。オリジナルアルバムをお楽しみに」という年初の挨拶広告を新聞紙面に大々的に打ち出している[46]。その予告通り、7月には6thアルバム『ark』と7thアルバム『ray』のアルバム2作を同時発売。2作合わせ初動300万枚以上、トータルセールス600万枚以上を売り上げ[47]、2作ともオリコン歴代アルバムランキングTOP100にランクインするほどの大ヒット作となった。また、本作は日本を含め、台湾、香港、タイ、マレーシア、シンガポール、フィリピンのアジア7ヶ国においてリリースされた[48]

また、同時期からフリーの映像ディレクター・箭内道彦が主な広告ディレクションを担当するようになり[49]藤原喜明風間杜夫ユースケ・サンタマリア[注釈 50]の起用を始めとするバラエティに富んだ広告展開を行うようになる。テレビCMでは「グループ名『L'Arc〜en〜Ciel(ラルク・アン・シエル)』の正しい読み方を広く認知させる」もの[注釈 51] や「記者会見風の『活動予定告知』告知」を流し、新聞広告では「新曲の着信メロディの作成方法」や、コンピュータグラフィックスで作成した「坊主頭のメンバーの写真」などのような、それまでにはない奇抜なものを掲載するなどして注目を集めていった。後年に箭内は当時のディレクションを振り返り、「アンチで人を驚かせるようなものはマイナーな場所には山ほどあるが、それをメジャーシーンでやることに意義がある[50]」として、<メジャーで、アンチで、びっくり[50]>をテーマに広告を制作していたと述べている。また、箭内は「常に世の中やファンを裏切るような、次に何が出てくるかわからないような流れを作りたかった[50]」と述懐している。こういった様々なメディアを活用した世間を手玉に取ったようなプロモーション戦略について、hydeは「俺としては、世の中をなめた感じの表現の仕方は"ロックでカッコいいな"って思ってたけど、同時に"そこに芸術性はないな"とも思ってたね。だから、"おちゃらけた話題をどんどん出したり、リリースをするのはいいけど、芸術性を高めないと次がないんじゃないかな?"っていう不安が、ずっーとあった[51]」と自叙伝にて述べている。

なお、1990年代の終わりごろは、当時交流がなかったにもかかわらず、メジャーデビューのタイミングが同時期だったという理由のみで、ロックバンドのGLAYとよく比較されていた。tetsuyaは、音楽の嗜好が異なるGLAYと比較されていたことを当時から不思議に思っていたようで、2022年に「当時も今もそうだけど、ラルクとGLAYって全然違うじゃないですか、音楽性が。だからなんでそこで比較するんだろうなって思ってました[52]」と語っている。また、tetsuyaはL'Arc〜en〜Cielと同じくザ・キュアーやザ・スミスといった洋楽の影響を受けていたスピッツの名前をあげ、「音楽性で言ったら、僕はスピッツの方が近いと思ってた[52]」とも述べている。ちなみに、この当時日本のポップシーンの中心にいた小室哲哉は、1998年に発売された雑誌『日経エンタテインメント!』の"L'Arc〜en〜Ciel、GLAY、LUNA SEAの3バンド特集企画"の中で、「演奏がうまいのはLUNA SEAですね。アルバムは3枚とも聴きました。音楽的な好みもあるんでしょうけど。でもラルクの方が売れることを気にせずに、思い切りやりたいことをやっているという印象を受けました。3バンドとも"オレたちは、媚びていない"という意味では同じなのでしょうが、中でもラルクがいちばん独創性がある。しかも"スキなことをやっている"風に見せながら、あれだけ売っているのは大したものだと思います。カリスマ性のようなものがあるのかな?と想像したりしています。(中略)GLAYはいい意味で(戦略などが)読めるんです[53]」とそれぞれの印象の違いを綴っている。

自己最大規模の野外ツアー、4大ドームツアー開催、2度目の活動休止

1999年7月からは自身初の野外ライブツアー「1999 GRAND CROSS TOUR」を全国6都市で開催。ツアータイトルの「グランドクロス」は同年8月に惑星が十字に並び、世紀末不安と重ね不吉の前兆とされた特殊な天体現象の名称からとられている。また、「誰もコンサートをやっていないところでライブをやろう[54]」という目的から、本公演では既存のスタジアムを用いず、各会場に特設ステージを設置する大掛かりなものとなり、全12公演で65万人を動員する自己最大規模のツアーとなった[55]。hydeはこのツアーをバンドの歴史の中で一番記憶に残っているコンサートとして挙げており、「このコンサートはホントに未だに夢のように思いますね。人の地平線に向かって歌えたという。この時期の集大成です[41]」と述べている。同年8月21日・22日に行われたこのツアーの東京・東京国際展示場 駐車場特設ステージ公演では、自己最多動員数となる12万5千人 (両日25万人)を動員したライブを敢行した。さらに、21日の東京公演はViewsic (現・MUSIC ON! TV)で、自身初のアジア各国におけるコンサートの同時生放送が行われた。

1999年12月31日から2000年1月1日にかけて、自身初のカウントダウンライブ「RESET>>LIVE *000」を開催。資生堂ピエヌCMソングに起用された「NEO UNIVERSE」を2000年代突入の一曲目として初披露し、同月にメジャー初の両A面シングル「NEO UNIVERSE/finale」としてリリースされた。同年7月にはシングル「STAY AWAY」をリリース。同曲のミュージック・クリップは、CGを用いたダンス表現が話題となり[56]音楽専門チャンネルスペースシャワーTV主催の音楽賞『SPACE SHOWER Music Video Awards 00』において『BEST VIDEO OF THE YEAR』を前年の「Pieces」に続き2年連続で受賞した。同年8月には8thアルバム『REAL』を発売。前作の反動からハードロックの要素の強い作品となり、これまでとセールス面では多少見劣りするものがあったが、アルバムとしては5作連続ミリオンセラーを記録した。1998年の活動再開から2000年までの3年間で、シングル13作、アルバム4作ものリリースし、その内の9作がミリオンセラーを記録した。さらに、前年の自己最大規模の野外ライブツアーとは正反対のコンセプトとなるライブハウスツアー「CLUB CIRCUIT 2000 REALIVE」を同年10月から開催。同ツアー後に立て続けに自身初の4大ドームツアー「TOUR 2000 REAL」を開催した。

翌2001年には自身初となるベストアルバムClicked Singles Best 13』を発売。本作でシングル・アルバムを通じて11作目となるミリオンセラーを記録した。また、本作制作にあたり、Yahoo! JAPANとのジョイント企画として期間限定特設ウェブサイトを開設。アジアの8つの国と地域から人気投票を募り、各国で収録内容が異なるベストアルバムを発売した。本作は同年4月下旬にアメリカ[57]、2004年に韓国でも発売された。

2001年9月発売のシングル「Spirit dreams inside -another dream-」のリリース前後から、tetsuya・yukihiro・hydeが相次いで個人活動[注釈 52] を開始。公式発表はないものの、実質的な活動休止状態に入る。前述のように1998年以降のL'Arc〜en〜Cielは活動が集中的に行われていたため、急な活動の沈静化に一部では解散説も流れ、「もうL'Arc〜en〜Cielとしての活動は無いのではないか」と思われていた。活動が止まった経緯に関して、tetsuyaは「どれが本当の理由か分からなくなるほどたくさんの理由があった」と語っている。また、当時hydeがバンドに流れる空気の重さが肌に合わず脱退を考えていたことや[58]、tetsuyaがバンドを取り巻く環境の改善に取り組もうとしていたことが[59] 、各個人名義で出版した本で綴られている。

2003年 - 2010年:『SMILE』『AWAKE』『KISS』

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2年半ぶりのライブ開催、本格的な活動再開、自身初の海外公演開催

個人活動の開始から約2年半が経った2003年6月、国立代々木競技場でバンド名に沿った7日間のライブ「Shibuya Seven days 2003」を開催。この公演が解散ライブになると当時噂されていたが、ライブ最終日の公演後において場内スクリーンに翌年の活動予定(シングル・アルバムのリリース、ライブツアーの開催)を掲載し、それまで流れていた解散説を一蹴する。

上記ライブでの発表通り、2004年2月には2年5ヶ月ぶりとなるシングル「READY STEADY GO」を発売。本作の表題曲はテレビアニメ『鋼の錬金術師』のオープニングテーマに起用され、2000年以来4年ぶりにオリコン年間シングルランキングTOP30にランクインした。そして、同年3月には3年7ヶ月ぶりとなる9thアルバム『SMILE』を発売。さらに、5月よりアリーナツアー「SMILE TOUR 2004」を開催し、L'Arc〜en〜Cielの活動を本格的に再開した。また、2004年7月31日にはアメリカ東海岸で開かれる地域最大のアニメコンベンションOTAKON 2004」の一環として「L'Arc〜en〜Ciel Live in USA」を開催。このライブはボルチモアにあるファースト・マリナー・アリーナで行われ、自身初となる海外公演は1万1100人を動員するライブとなった。

翌2005年には1999年以来6年ぶりにシングル4作品をリリース。中でも同年5月18日に発売したシングル「叙情詩」は、7作連続でオリコン週間シングルチャート首位獲得を記録し、ミュージック・クリップは第9回文化庁メディア芸術祭のエンターテインメント部門の審査委員会推薦作品に認定された。同年6月には10thアルバム『AWAKE』を発売。同年8月からはアルバムを引っ提げたアリーナツアー『AWAKE TOUR 2005』を開催。アルバムがhydeの思想を先行した反戦平和をテーマとして制作されており、コンサートもアルバムに合わせコンセプチュアルなものとなった[60]。前述のツアーを経て、同年9月から自身初のアジアツアー「ASIALIVE 2005」を行い、ソウル上海において自身初のライブを開催した。

結成15周年記念ライブ、9年ぶりとなるホールツアー開催、5ヶ月連続作品リリース

2006年には結成15周年を迎え、特別企画「L'Anniversary(読み:ラニバーサリー)」を開始。同年8月には「Blurry Eyes」から「forbidden lover」までのシングル14作の12cmCDシングル盤と、sakura逮捕に伴い当時発売中止したシングル「the Fourth Avenue Café」を発売。この再発によって、全15作がオリコン週間シングルチャートTOP30にランクインし、「同一アーティストによるオリコン週間シングルチャートTOP30入り」の記録を更新した[61]。さらにシングル再発に立て続いて、1999年に2作同時発売されたアルバム『ark』、『ray』に特典DVDを付属した15周年記念盤が発売された。

2006年11月25日・26日には、結成15周年を記念したライブ「15th L'Anniversary Live」を東京ドームにて開催。ライブ最終日には翌年のシングルリリースと9年ぶりとなるホールツアーの開催を発表した[62]。翌2007年5月にはシングル「SEVENTH HEAVEN」を発売。また、SUBARUレガシィ」のCMソングに起用された「MY HEART DRAWS A DREAM」を同年8月にシングルとして発売することを皮切りに、シングル・アルバム・映像作品を5ヶ月連続でリリースすることを発表した。さらに、前述のホールツアー「Are you ready? 2007 またハートに火をつけろ!」では、同年12月に発売される11thアルバム『KISS』の収録曲を含んだセットリストが組まれ、未音源化楽曲の先行披露をして全国32都市を廻った。

自身初の欧州公演を含むツアー開催、ライブ活動休止

2007年12月より前述のアルバムを引っ提げ、童話『不思議の国のアリス』を題材にした演出やセットが組まれたライブツアー「TOUR 2007-2008 THEATER OF KISS」を開催。ライブで新曲として披露された「DRINK IT DOWN」がゲームソフト『デビルメイクライ4』の主題歌に起用され、翌2008年4月に発売された。

また、同月からは上海、台北パリ、ソウル、香港、大阪、東京という世界7都市を廻るコンサートツアー「TOUR 2008 L'7 〜Trans ASIA via PARIS〜」が開催され、日本公演含め30万人を動員した。同年5月9日に行われたフランス・パリのルゥ・ゼニット公演は、自身初のヨーロッパでのライブとなった。また、このパリ公演は日本全国5ヶ所の映画館において、世界初となる海外コンサートの同時中継が実施された。

さらに、同年5月13日の読売新聞朝刊記事で、シングル「NEXUS 4/SHINE」の発売および上記ツアー終了を持って結成20周年となる2011年までライブ活動を休止することを発表[63]。以後2011年まで各メンバーの個人活動の期間に充てられたが、あくまでライブ活動のみの休止のため、新譜は定期的にリリースされていた。2010年には「PEPSI NEX」CMソングに起用された自身初のカバー楽曲I Love Rock'n Roll」を配信リリースした他、バンクーバーオリンピックパラリンピックNHK放送テーマソングに起用された「BLESS」がシングルとしてリリースされた。さらに、同年放送されたNHK紅白歌合戦に10年ぶり4度目の出場を果たすなど、テレビ出演含め音楽活動は途切れず継続された。

2011年 - 2020年:『BUTTERFLY』

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ライブ活動再開、結成20周年記念ライブ、約3年3ヶ月ぶりとなるライブツアー開催

前年の紅白歌合戦への出場直後となる2011年1月1日にニューイヤーライブ『20th L'Anniversary Starting Live "L'A HAPPY NEW YEAR!"』を開催。L'Arc〜en〜Cielとしては約2年半ぶりのライブ開催となった。また、同ライブでは公式Twitterと動画共有サービスUstreamの連動企画が行われ、最後のhydeのMCからライブ生配信が実施された[64]。そのMCにおいて、hydeが公演翌日から作曲期間に入ることを宣言し[65]、本格的な始動を予告。さらに、公演終了後に場内スクリーンでオールタイムベストアルバムとなる『TWENITY』シリーズ3作と記念ライブの開催を発表した。

新年の発表通り、2011年5月28日・29日に結成20周年を記念したライブ「20th L'Anniversary LIVE」を味の素スタジアムで開催。本公演のセットリストは初日公演で結成から1998年までにリリースされたアルバムの楽曲を、最終日公演では1999年発売のアルバムから当時の最新楽曲を中心に披露し、2日間で1曲も被りがないものとなった。また、本公演の収益全額を、公演2ヶ月前に発生した東日本大震災の被災地への義援金として寄付することをメンバーとスタッフの連名で発表した[66]。さらに、同年9月10日からはアリーナ、ドーム公演を含む約3年3ヶ月ぶりとなるコンサートツアー「20th L'Anniversary TOUR」を全国5都市で開催。メンバー4人以外がステージに立つことが滅多にないL'Arc〜en〜Cielとしては珍しくステージ後方にストリングス隊を携えた構成で展開され、多数の楽曲にストリングスアレンジを施し披露されるライブとなった[67]

同年には前述の記念ライブで初披露された「GOOD LUCK MY WAY」を含めシングル3作、翌2012年2月には4年3ヶ月ぶりとなる12thアルバム『BUTTERFLY』が発売された。中でも2011年10月に発売されたシングル「X X X」は、ロックバンドとして史上3組目となる1990年代・2000年代・2010年代の3つの十年代連続でのオリコン週間シングルチャート首位獲得を記録した。さらに、同年12月には前述の結成20周年ライブの模様を収録したライブビデオの発売により、DVD総売上のミリオン突破を記録した。また、VHS総売上と合わせ映像作品全体(VHS+DVD)においてダブルミリオンの達成となった[68]

世界10カ国14都市を廻るワールドツアー、日本人初のマディソン・スクエア・ガーデン単独公演、2度の国立競技場公演開催

2012年3月からは、香港、バンコク、上海、台北、ニューヨークロンドン、パリ、シンガポール、ジャカルタ、ソウル、ホノルル等、世界10カ国14都市を廻るワールドツアー「WORLD TOUR 2012」が開催され、日本公演含め45万人を動員した[55]。同年3月25日には、アメリカ・ニューヨークにあるマディソン・スクエア・ガーデンにおいて、日本人ミュージシャンとして初となる単独公演が行われた[69]。本公演について、hydeは「今までのライブの中で一番覚悟が違った。戦いの日で、日本の旗を持ってきてライブをした気分だった[70]」、「アニメ (日本のアニメーション作品)の力とか昔から聴いてくれてた人が集まったりしたことで実現した、ラルクだからできたこと[71]」と述べている。

さらに、上記ツアーの追加公演として、横浜、大阪、東京の国内3都市の野外会場でコンサートツアー「20th L'Anniversary WORLD TOUR 2012 THE FINAL」が行われ、5月26日・27日には、ミュージシャンとしては史上4組目、ロックバンドでは初となる国立霞ヶ丘競技場陸上競技場(通称・旧国立競技場)公演が開催された[72]

2014年3月には、1年10ヶ月ぶりとなる2度目の国立競技場におけるライブ「L'Arc〜en〜Ciel LIVE 2014 at 国立競技場」を開催。前回の同所での公演と異なり、フィールドに設置される花道を排除し限界まで座席を敷き詰めることにより、スタンド、フィールド含め8万人(両日16万人)を動員。国立競技場でのライブにおいて史上最多となる動員数を記録した[73]。また、同年5月には同所で行われたライブイベント「SAYONARA 国立競技場FINAL WEEK JAPAN NIGHT」に出演。この公演は全面建替工事前の国立競技場で行われる最後の音楽イベントとなり、L'Arc〜en〜Cielは最終日のトリを務め、全9曲を披露し国立競技場の長い歴史に花を添えた[74]

同年2月26日には、過去のライブビデオ18作のBlu-ray Disc化を発表。さらに、同年10月22日には過去にリリースされたアルバム12作品のハイレゾリューションオーディオが配信された。hydeは「(レコード会社が)ソニーっていうのと、(事務所の)社長がエンジニアだったからだから結構音にはうるさいんですよね。何もないころから常にいい音で録音したりとか、いい映像で撮ったりとかもう趣味なんですよね。だからその時はお金はかかるけど、いざ発表するときにその時の効果が出るんですよね[75]」と述べている。また、同年12月には前述のワールドツアーに密着したドキュメンタリー映画『Over The L'Arc-en-Ciel』を全国72ヶ所の映画館で期間限定公開した。本作が自身初のドキュメンタリー映画となり、同年公開された音楽ドキュメンタリー映画の中で、最速となる興業収入1億円突破を記録した。

4年ぶりとなるシングルリリース、結成25周年記念ライブ開催、ライブ制作体制の見直し

2015年9月には大阪・夢洲において史上初となるライブ「L'Arc〜en〜Ciel LIVE 2015 L'ArCASINO」を開催し、同ライブにて新曲「Wings Flap」を発表。限定シングルを除いて約4年ぶりとなるシングルとしてリリースされた。翌2016年12月にはシングル「Don't be Afraid」を発売。表題曲は映画『バイオハザード: ザ・ファイナル』の日本語吹替版主題歌に起用された他、同年に発売20周年を迎えたゲームシリーズともコラボし、世界初のVRミュージックビデオ「Don't be Afraid -Biohazard×L'Arc-en-Ciel on PlayStation VR-」をPlayStation VR向けで制作・配信した[76]。そして、2017年4月8日・9日には、結成25周年を記念したライブ「25th L'Anniversary LIVE」が東京ドームで行われた[77]

2012年に開催されたワールドツアー終了から2017年までの約5年間は、L'Arc〜en〜CielとしてのCDリリースはシングル3作とライブアルバム1作のみ、ライブ開催は単発ライブの6公演のみと活動ペースが急激に落ち込み、各メンバーの個人活動が活発化した。バンドの活動ペースが落ち込んだことにより、一部報道で内紛・解散説が囁かれる事態となった[78]

tetsuyaはワールドツアー終了以降の活動について、度々「知らない所でライブ開催が決まっていた」と述べており、結成25周年記念ライブの終了後に、所属事務所の社長である大石征裕とtetsuyaの間でL'Arc〜en〜Cielのライブ制作体制の見直しが話し合われることとなった。大石曰く、tetsuyaが「アーティストとの信頼関係が保てるライブ制作体制を目指したい」「全てをガラス張りにするためにも一緒に組む制作会社はコンペによって決定したい」と意思を表明したといい[79]、結果的に2018年以降のライブでは興行主体を、所属事務所のマーベリックからライブ・ネイションに変更する運びとなった[注釈 53]

自身初のクリスマスライブ開催、定額制音楽配信サービス開始、8年ぶりとなるライブツアー開催

前述の経緯で連携が決まったライブ・ネイション・ジャパンを興行主体とし、2018年に自身初のクリスマスライブ「L'Arc〜en〜Ciel LIVE 2018 L'ArChristmas」を開催。興行主体が変わったことで、数%の既存スタッフを除き、PA、照明、制作、舞台、各種システム担当に渡りほとんどのスタッフを一新した上でライブ制作が行われた[80]。動画配信サービスサイト『Paravi』で配信された同ライブのドキュメンタリー番組では、このライブから新たに制作に携わったスタッフ達の証言が収録されている[81]

翌2019年9月1日には、公式Twitterに"20190902 4:00"というメッセージを掲載[82]。Twitter上に新情報のヒントとなる文字を時間差でアップし、翌日4時に翌2020年に8年ぶりとなるライブツアーを開催することを発表した[82]。また、同年12月2日にはツアー開催に先駆け、公式YouTubeチャンネルを開設。12月11日にはYouTubeチャンネルにおいて一部楽曲のミュージック・クリップの無料公開、ライブ映像のプレミア配信を開始するとともに、サブスクリプションサービス定額制音楽配信)の解禁を発表した。同日より、これまでに発表した計428曲の全音源[注釈 54] 一斉配信し、計51作の全ミュージック・クリップ[注釈 55] も順次配信を開始した。解禁直後のSpotifyの日本の週間バイラルチャートでは、上位18位までを独占しTOP50に34曲がチャートインし、翌週も1位・2位を独占するなどファンダムが強さが浮き彫りとなった[83]

翌2020年1月からは前年9月の発表通り、8年ぶりとなるアリーナツアー「ARENA TOUR MMXX[注釈 56] を開催。このツアーでは前年に開設した公式YouTubeチャンネルや公式Instagramを新たなプラットフォームとして活用し、公演前の会場の様子やライブの一部模様、舞台裏でのメンバーの様子などを撮影した映像を公開する企画が行われた。また、前年に解禁した各種サブスクリプションサービスにおいて、開場時に流すメンバーセレクトのBGMのプレイリストや、過去のライブのセットリストのプレイリストを公開する企画が行われた。このツアーの当初の公演規模は全国5都市12公演を予定していたが、同年1月末に日本国内で初感染が確認された新型コロナウイルスの感染症拡大防止のため、同年2月26日に最終4公演の中止を決定した。

2021年 - 現在

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バンドのロゴ
結成30周年記念ライブ開催

2021年5月29日・30日に、結成30周年の幕開けとなるライブ「30th L'Anniversary Starting Live "L'APPY BIRTHDAY!"」を開催。公演初日となる5月29日の0:00より公式YouTubeアーティストチャンネルにて、新曲「ミライ」を1コーラスがサプライズでプレミア公開された。この曲は前述のライブでフルコーラスが初披露され、同年5月31日にフィジカルでのリリースに先駆け、各種音楽配信サイトにおいてダウンロードストリーミング配信された。

同年9月からは約1年7ヶ月ぶりとなるライブツアー「30th L'Anniversary TOUR」を開催。そして翌2022年5月21日・22日には、結成30周年を記念したライブ「30th L'Anniversary LIVE」を東京ドームで開催している。

来歴

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1990年代

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1991年

  • 2月、L'Arc〜en〜Cielを大阪で結成。結成当初のメンバーは、tetsuya(当時の名義は、tetsu)を中心に、hyde(当時の名義は、hide)、hiro、peroの4人[84]
  • 4月18日、YANTA鹿鳴館で上記の4人による謎のセッション・バンドとしてライブを行う[84]
  • 5月30日、難波ロケッツでL'Arc〜en〜Ciel名義でのファーストライブを行う[84]
  • 9月14日、大阪城野外音楽堂で行われたライブイベントに出演[84]
  • 9月27日、難波ロケッツでL'Arc〜en〜Cielとして大阪における初のワンマンライブを行う[84]
  • 12月25日、YANTA鹿鳴館でhyde、tetsuya、peroの3人と他2名による謎のセッション・バンドがライブを行う[84]

1992年

  • 3月10日、自主制作ライブビデオ『L'Arc-en-Cielを、難波ロケッツで実施したライブにて無料配布[84]。同年3月16日に開催した新宿ロフト公演においても同ビデオの無料配布を実施している[84]
  • 6月12日、難波ロケッツで行われたライブをもって、ギタリストのhiroが脱退。後任として、kenがギタリストでバンドへ加入する[84]
  • 8月27日、大阪アム・ホールで行われたライブイベント「1992 BEATNIK」に出演[84]
  • 10月1日、コロムビアから発売されたオムニバスアルバム『Gimmick』にL'Arc〜en〜Cielの楽曲「VOICE」が収録される。これがL'Arc〜en〜Cielとして、初めてCDに収められた音源となった。
  • 10月3日、クラブチッタ川崎で行われたWill主催のライブイベントに出演[84]
  • 10月10日、クラブチッタ川崎で行われたオムニバスアルバム『Gimmick』の発売記念ライブイベントに出演[84]
  • 10月11日、目黒鹿鳴館で行われたライブイベントに出演[84]
  • 11月7日、横浜モンスターで行われたライブイベントに出演[84]
  • 11月25日、Night Gallery RecordsからインディーズCDシングル「Floods of tears/夜想花を発売[84]。この作品は、1000枚限定で事前予約者を対象にリリースされている。なお、予約のみで完売している[84]
  • 12月30日、大阪ミューズホールで行われたオールナイトライブをもって、ドラマーのperoが脱退[84]

1993年

  • 1月16日、peroの後任として、sakura(ex.The HAREM Q)がドラマーでバンドへ加入する[84]
  • 3月11日、ライブ「SONIC GIG」を恵比寿GUILTYにて開催[84]
  • 3月14日、渋谷公会堂で行われたライブイベント「華麗なる魔性」に出演[84]
  • 4月10日、1stアルバム『DUNEのスペシャルジャケット限定盤をDanger Crue Recordsから発売[84]。同年4月27日には、ボーナストラック1曲を追加した通常盤を発売[84]。ちなみにこの作品は、1993年5月31日付のオリコン週間インディーズアルバムチャートで首位を獲得している。
  • 4月27日、ライブ「SONIC GIG Ⅱ」を恵比寿GUILTYにて開催[84]
  • 5月3日、渋谷公会堂で行われたロッキンf主催のライブイベント「Subliminal Vision」に出演[23][84]
  • 6月14日 - 7月3日、自身初のライブツアー「Close by DUNE」を開催[84]
  • 8月1日、ツアー「Close by DUNE」の最終公演「Close by DUNE FINAL」を日清パワーステーションで開催[84]
  • 8月23日、渋谷公会堂で行われたライブイベント「SHOCK AGE '93」に出演[23][84]
  • 10月13日、ミュージック・クリップ集『TOUCH OF DUNEをDanger Crue Recordsから1万本限定で発売[84]。この作品は、オリコン週間インディーズビデオチャートで首位を獲得している。
  • 10月19日、渋谷公会堂で行われたライブイベント「Because the Night Vol.1」に出演[23]
  • 11月9日 - 12月20日、ライブツアー「FEEL OF DUNE」を開催[84][85]
  • 12月24日、テレビにて特別番組『ノスタルジーの予感〜序章〜』が放送される。

1994年

  • 2月14日、全国6局ネットで特別番組『ノスタルジーの予感〜第一章〜』が放送される。
  • 4月3日 - 4月15日、ライブツアー「ノスタルジーの予感」を開催[85]
  • 4月8日 - 7月8日、全国3局ネットで『ノスタルジーの予感〜組曲〜』が放送される。
  • 7月1日、1stビデオシングル「眠りによせてを発売[85]。この作品は、ソニー・ミュージックの社内レーベル、Ki/oon Sony Records(現:Ki/oon Music)からリリースされており[85]、これがメジャーデビューシングルとなった。このビデオシングル以降に発表された2023年までのL'Arc〜en〜Cielの音源収録作品は、原則前記のレーベルからリリースされている。
  • 7月7日、全国10局ネットで特別番組『ノスタルジーの予感〜第二章〜』が放送される[85]
  • 7月14日、2ndアルバム『Tierraを発売。
  • 7月14日 - 8月27日、ライブツアー「Sense of time '94」を開催。
  • 8月20日、LUNA SEASOFT BALLETBUCK-TICKの3バンドによる合同ライブツアー「L.S.B.」の札幌芸術の森 野外ステージ公演にゲスト出演[85]。なお、このツアーで組まれた他会場には、THE MAD CAPSULE MARKET'SDIE IN CRIESがゲストアクトとして出演している。
  • 9月9日 - 9月20日、ミュージック・ビデオ撮影のため、モロッコへ渡航[85]
  • 10月21日、1stCDシングル「Blurry Eyesを発売。
  • 12月1日
    イメージビデオ『Siesta 〜Film of Dreams〜を発売。
    公式ファンクラブ「Ciel」(読み:シエル)の入会受付を開始[85]

1995年

  • 1月24日 - 2月4日、公式ファンクラブの発足を記念したライブツアー「Ciel/winter '95」を開催。
  • 2月1日、公式ファンクラブ「Ciel」が正式に発足[85]
  • 5月21日、2ndビデオシングル「and She Saidを発売。
  • 5月21日 - 6月27日、ライブツアー「in CLUB '95」を開催。
  • 7月6日、2ndCDシングル「Vivid Colorsを発売。
  • 7月22日、渋谷公会堂で行われたライブイベント「SHOCK AGE SPECIAL '95」に出演[23][85]
  • 7月30日、渋谷公会堂でシークレットライブ「L'Arc〜en〜Ciel DAY「Rendez-Vous」前夜祭」を開催[85]。ライブ開催は、当日に渋谷駅ハチ公前のスクリーンで発表された[85]。また、発表のあった渋谷では、Tシャツの無料配布や、1995年の年末に開催する日本武道館公演の告知も行われた[85]
  • 8月20日、秩父ミューズパークで行われたエフエムナックファイブ主催のライブイベント「彩の国秩父ミューズコンサート'95 NACK5 GO-ROCK」に出演[23][85]
  • 8月24日 - 8月31日、メンバー4人による全国キャンペーンイベント「Rendez-Vous, 1995, Summer」を開催[85][86]
  • 9月1日、3rdアルバム『heavenlyを発売。
  • 9月8日 - 10月4日、ライブツアー「TOUR heavenly '95」を開催。
  • 10月3日から、エフエムナックファイブのラジオ番組『MIDNIGHT ROCK CITY』にて火曜パーソナリティを務める(1996年3月26日まで)[86]
  • 10月21日
    3rdCDシングル「夏の憂鬱 [time to say good-bye]を発売。
    名古屋ダイヤモンドホールで行われた中京テレビ主催の公開録音ライブイベント「Kiss Miss Live」に出演[86][87]
  • 12月12日 - 12月25日、ライブツアー「The other side of heavenly '95」を開催。
  • 12月23日 - 12月25日、としまえんとのタイアップイベント「L'Arc〜en〜Ciel DAY「Noёl」」を開催[86]。このタイアップ期間中、CDシングル「夏の憂鬱 [time to say good-bye]」のジャケットを持って同所を訪れた者に、先着2万名でメモリアルカードがプレゼントされた。園内の特設シアター「ドリームドーム」にてスペシャル3Dビデオが上映された[86]
  • 12月27日、ツアー「TOUR heavenly '95」の最終公演として、自身初の日本武道館でのライブ「TOUR heavenly '95 final」を開催。

1996年

  • 3月21日、ライブビデオ『heavenly 〜films〜を発売。
  • 4月3日 - 5月29日、ライブツアー「Kiss me deadly heavenly '96」を開催。
  • 5月26日、上記ツアーの合間に、東京ベイNKホールでライブ「Kiss me deadly heavenly '96 REVENGE」を開催。この公演は、1994年に開催したライブツアー「Tour Sense of time '94」における同所でのライブが、ソールドアウトしなかったことを受けて実施されたリベンジ公演となっている。
  • 7月6日から、エフエム北海道のラジオ番組『FM ROCK KIDS』のパーソナリティを務める(1996年9月28日まで)。
  • 7月8日、4thCDシングル「風にきえないでを発売。
  • 8月26日 - 9月4日、ライブツアー「BIG CITY NIGHTS ROUND AROUND '96」を開催。
  • 10月7日から、TBSラジオ系ラジオ番組『宮川賢の誰なんだお前は?!』内で箱番組『ボンジュール! L'Arc〜en〜Ciel』を開始(1997年3月11日まで)。
  • 9月20日、アーティストブック『L'Arc〜en〜Ciel is』をシンコー・ミュージックから発売[88]
  • 10月17日、5thCDシングル「flowerを発売。
  • 11月21日、6thCDシングル「Lies and Truthを発売。
  • 12月12日、4thアルバム『Trueを発売。発売6週目にオリコン週間アルバムチャートで自身初の首位を獲得[88]。さらに、自身初のアルバムミリオンセラーを記録する[88]
  • 12月19日、ライブ「Carnival of True Eve」を日清パワーステーションにて開催。
  • 12月23日 - 1997年1月29日、ライブツアー「CONCERT TOUR '96〜'97 Carnival of True」を開催。協賛はFRESH LIGHT。sakuraが1997年2月24日に覚醒剤取締法違反で逮捕され、その後バンドを脱退したため、これがsakura在籍時のL'Arc〜en〜Cielが行った最後のツアーとなった。

1997年

  • 2月24日、sakuraが覚醒剤取締法違反の現行犯で逮捕され、バンドが事実上の活動中止状態となる(sakura逮捕の後の対応は下記参照)。
    • 2月27日、裁判所から逮捕の事実が事務所へ行き渡り、メンバーでの緊急ミーティングを行われた(sakuraは立川警察署にて身柄を拘束、接見禁止)。以後、3月11日の読売新聞朝刊で事件の報道がされるまで、数回のミーティングが行われた。
    • 3月11日、読売新聞朝刊で今回の事件が報道され、これ以降他の夕刊スポーツ新聞などでも事件の報道が行われる。
    • 3月29日、前日にsakuraが保釈されたことを受け、事件後初めて4人でのメンバーミーティングを行う。
    • 4月17日、東京地方裁判所八王子支部で、sakuraの第1回公判が行われる。
    • 4月18日、メンバーの連名で、ファンクラブ・マスコミ・スタッフなどに対し、今回の事件に関するコメントを発表する。
    • 4月27日、この日以降の各音楽雑誌に18日発表のコメントが掲載される。
    • 5月1日、sakuraに懲役2年・執行猶予3年の判決が言い渡される。
    • L'Arc〜en〜Cielはsakuraの逮捕を受け、1997年3月26日に発売予定だったCDシングル「the Fourth Avenue Café」のリリースを中止[注釈 57]、1997年4月21日まで旧譜の出荷停止、各音楽雑誌でメンバーが持っていた連載等の休止、ラジオ番組『ボンジュール! L'Arc〜en〜Ciel』を1997年3月11日で放送終了、4月に予定されていたファンクラブツアー「ハワイ アン シエル」の中止[注釈 58]といった対応を余儀なくされている。また、夏前に発売予定だったニューシングルのレコーディングが延期され、野外ライブイベントへの出演も取り止めになっている。
  • 5月8日 - 5月23日、hyde、ken、tetsuyaとスタッフ2名でイギリスロンドンへ渡航。現地でフラットを借り、共同生活を送る。
  • 8月31日 - 9月13日、hyde、ken、tetsuyaと、yukihiro(ex.DIE IN CRIES、ex.ZI:KILL)、スタッフらでドイツとイギリスを渡航。この渡航の模様は、SPACE SHOWER TV系番組『GROOVE AIRLINE』において、1997年9月の第3土曜日より週を分けて流されている
  • 10月17日、7thCDシングル「を発売。このシングルのレコーディングにはサポートドラマーとして、yukihiroが参加している。
  • 11月4日、sakuraが正式にL'Arc〜en〜Cielから脱退することを発表[注釈 59]
  • 12月16日 - 12月18日、変名バンド、the Zombies(読み:ザ・ゾンビーズ)として、シークレットライブツアー「Live Tour NIGHTMARE BEFORE CHRISTMAS EVE」を開催。the Zombiesのメンバー構成はL'Arc〜en〜Cielと変わらないが、あくまで「ラルクのコピーバンド」という位置付けになっている。なお、サポートドラマーとして、「虹」のレコーディングに招聘されたyukihiroが参加している。このライブツアーでは、L'Arc〜en〜Ciel名義の新曲や、他のアーティストのカバーなどが演奏された。
  • 12月23日、本格的な活動再開に向けた復活ライブ「1997 REINCARNATION」を東京ドームにて開催。このライブは、L'Arc〜en〜Cielにとって初の東京ドーム公演であり、5万6000席のチケットは同所公演史上最短の4分でソールドアウトしている[88]。公演当日には日本衛星放送(現:WOWOW)において、開演から終演まで完全生放送が行われた。
  • 12月27日、SPACE SHOWER Music Video Awards '97において、「虹」が“BEST GROUP CLIP”を受賞[88]

1998年

  • 1月1日、sakuraの後任として、yukihiro(ex.DIE IN CRIES、ex.ZI:KILL)が正式なドラマーでバンドへ加入する。
  • 1月28日、8thCDシングル「winter fallを発売。発売初週にオリコン週間シングルチャートで自身初の首位を獲得[89]
  • 2月25日、5thアルバム『HEARTを発売。通算2作目のオリコン週間アルバムチャート首位を獲得すると共に[89]、2度目のアルバムミリオンセラーを記録した[89]。なお、このアルバムは、日本を除くアジア各国でL'Arc〜en〜Cielの作品の海賊盤が多数出回り始めたことや、海外からのL'Arc〜en〜CielのCD販売要望が高まったことを受け、台北香港タイマレーシアシンガポールでも発売されている。
  • 3月25日、9thCDシングル「DIVE TO BLUEを発売。通算2作目のオリコン週間シングルチャート首位を獲得すると共に[89]、自身初の2週連続シングルチャート首位を獲得[89]
  • 4月22日、ミュージック・クリップ集『A PIECE OF REINCARNATIONを発売。自身初のオリコン週間ビデオチャートで首位を獲得。
  • 5月1日 - 7月21日、ライブツアー「Tour'98 ハートに火をつけろ!」の第1部を開催。第1部では、ホール規模の会場をまわっている。
  • 7月8日、10thCDシングル「HONEY11thCDシングル「花葬12thCDシングル「浸食 〜lose control〜を同時発売。シングル3枚合算で初動約157万枚を売り上げ、同一アーティストが売り上げた最多初動セールスを記録[89]。また、発売2週目に「HONEY」が通算3作目のオリコン週間シングルチャート1位を獲得し[89]、「浸食 〜lose control〜」と共にオリコン週間シングルチャート1位・2位を独占[89]。さらに、「HONEY」と「花葬」が自身初のシングルミリオンセラーを記録している。なお、「HONEY」はフィジカルシングルとしては、自身最高のセールスを記録した。
  • 8月28日、ニッポン放送深夜ラジオ番組オールナイトニッポン』のパーソナリティを1夜限りで務める。
  • 9月3日 - 10月21日、ライブツアー「Tour'98 ハートに火をつけろ!」の第2部を開催。第1部・第2部を合わせツアー全体で、全国47ヶ所計56公演を開催し、23万人を動員した。なお、このツアーで行ったライブ数は、L'Arc〜en〜Cielにとって、1つのツアーにおける最多公演数となっている。
  • 10月5日から、ニッポン放送系ラジオ番組『ゲルゲットショッキングセンター』内で『L'Arc〜en〜CielのOH! DAIBA TO BLUE』を開始。
  • 10月7日、13thCDシングル「snow dropを発売。通算4作目のオリコン週間シングルチャート首位を獲得すると共に[89]、通算3作目のシングルミリオンセラーを記録。
  • 10月14日、14thCDシングル「forbidden loverを発売。通算5作目のオリコン週間シングルチャート首位を獲得[89]。前週に発売した「snow drop」と合わせ、史上初となる2度目のオリコン週間シングルチャート1位・2位の独占を達成。
  • 11月21日、第31回全日本有線放送大賞において、「HONEY」が“大賞”、L'Arc〜en〜Cielが“最多リクエスト歌手賞”を受賞[89]
  • 12月23日、ライブビデオ『ハートに火をつけろ!を発売。通算2作目のオリコン週間ビデオチャート首位を獲得。
  • 12月31日
    第40回日本レコード大賞において、「HONEY」が“優秀作品賞”を受賞する。
    第49回NHK紅白歌合戦に初出場。披露曲は「HONEY」。

1999年

  • 1月18日付けのオリコンシングルチャート「国内盤200」(邦楽部門のシングルチャート・トップ200)に、メジャーデビュー以後に発売した14作のCDシングルがすべてランクインする[90]
  • 3月1日、第36回ゴールデン・アロー賞において“グランプリ”と“音楽賞”を受賞する[91]。受賞会場において、前年グランプリ受賞者の北野武から花束が贈呈された。
  • 3月3日、第13回日本ゴールドディスク大賞において、「HONEY」「花葬」「snow drop」が“SONG OF THE YEAR”を、『HEART』が“ROCK ALBUM OF THE YEAR”を受賞する。
  • 3月20日開幕の全日本GT選手権 (参照)、および1999年8月21日・22日開催の鈴鹿1000kmに参戦した『Castrol無限NSX』に、バンド名義でスポンサー参加[92]
  • 4月3日から、ニッポン放送系ラジオ番組『L'Arc〜en〜CielのOH! DAIBA TO BLUE』が『クールKのウルトラカウントダウン』内へ時間帯を移動(1999年6月26日まで)。
  • 4月18日 - 7月4日、テレビ朝日系番組『イナズマ!ロンドンハーツ』のエンディングで楽曲を演奏するコーナーに出演。
  • 4月21日、15thCDシングル「HEAVEN'S DRIVEを発売。通算6作目のオリコン週間シングルチャート首位を獲得すると共に[91]、2度目となる2週連続シングルチャート首位 (12cmCD部門) を記録。さらに、ノンタイアップながら通算4作目のシングルミリオンセラーを記録している[91]
  • 6月2日、16thCDシングル「Piecesを発売。通算7作目のオリコン週間シングルチャート首位を獲得[91]
  • 7月1日、6thアルバム『ark7thアルバム『rayを同時発売。アルバム2枚合算で初動約300万枚以上を売り上げ、同一アーティストが売り上げた最多初動セールスを記録[91]。また、『ark』が通算3作目のオリコン週間アルバムチャート首位を獲得し[91]、『ray』と共にオリコンアルバムチャート1位・2位の独占を2週にわたって達成[91]。さらに、両作がダブルミリオンを超える売り上げを記録[91]。最終的にこの2作で600万枚を超えるセールスを記録した[91]。また、この日から1999年8月31日までの62日間限定で、特設サイト「arkray.com」を展開している[91]。なお、この2枚のアルバムは、日本を含めたアジアの7つの国と地域(日本、台北、香港、タイ、マレーシア、シンガポール、フィリピン)で同時リリースされている。
  • 7月17日 - 8月21日、特設野外会場を中心にまわるライブツアー「1999 GRAND CROSS TOUR」を開催。東京公演では1公演につき12万5千人(2日間で延べ25万人)の観客を動員。全公演を合わせて65万人を動員しており、自身最大規模のライブツアーとなった。また、8月21日の東京公演はViewsic(現:MUSIC ON! TV)で生放送が行われている。さらに8月22日の東京公演は、スターTV・香港が立ち上げた中国およびアジアの有料テレビ音楽ネットワーク、channel V英語版で、自身初のアジア各国におけるコンサートの同時生放送が行われ、各国合計の視聴者数は約1億人を記録した[91]
  • 8月11日
    17thCDシングル「Driver's Highを発売。
    ミュージック・クリップ集『CHRONICLEを発売。通算3作目のオリコン週間ビデオチャート首位を獲得。
  • 9月10日、プロモーションの為、hydeとtetsuyaがタイへ渡航[91]
  • 9月14日、プロモーションの為、hydeとtetsuyaが香港へ渡航[91]
  • 9月16日 - 9月17日、プロモーションの為、hydeとtetsuyaが台北へ渡航[91]
  • 10月4日から、TOKYO FM系ラジオ番組『やまだひさしのラジアンリミテッド』内の箱番組『FLYING〜L'Arc〜ATTACK』を開始(2002年3月28日まで)。
  • 10月27日、18thCDシングル「LOVE FLIESを発売。通算8作目のオリコン週間シングルチャート首位を獲得[91]
  • 12月1日、ライブビデオ『1999 GRAND CROSS CONCLUSIONを発売。通算4作目のオリコン週間ビデオチャート首位を獲得。さらに、オリコン週間DVD総合チャートで自身初の首位を獲得。
  • 12月7日、1999年度ベストドレッサー賞を受賞[91]
  • 12月27日、SPACE SHOWER Music Video Awards '99において、「Pieces」が“BEST VIDEO OF THE YEAR”を受賞[91]
  • 12月31日
    第50回NHK紅白歌合戦に2度目の出場。披露曲は「HEAVEN'S DRIVE」。
    自身初のカウントダウンライブ「RESET>>LIVE *000」を東京ビッグサイト 東館展示ホール1-3にて開催。このカウントダウンライブは1999年12月31日から2000年1月1日をまたいで行われた。協賛はツーカー[93]。また、このライブでは、会場となった東京ビッグサイト 東館展示1-3ホールに隣接する4-5ホールにおいて、大型ビジョンでライブの模様を生中継するリアルタイム・ヴァーチャル・ライぶも開催された[91]。なお、リアル・ライブとヴァーチャル・ライブを合わせ、5万5千人を動員している(リアル・ライブで3万5千人、ヴァーチャル・ライブで2万人を動員)。また、1999年12月31日23時59分頃から、全国各地の街頭ビジョンにおいて、カウントダウンライブに訪れた観客によるカウントダウンと2000年代幕開けの1曲目として披露した「NEO UNIVERSE」の模様を生放映している。

2000年代

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2000年

  • 1月1日
    自身初のカウントダウンライブ「RESET>>LIVE *000」を東京ビッグサイト 東館展示ホール1-3にて開催。このカウントダウンライブは1999年12月31日から2000年1月1日をまたいで行われた。協賛はツーカー[93]。また、このライブでは、会場となった東京ビッグサイト 東館展示1-3ホールに隣接する4-5ホールにおいて、大型ビジョンでライブの模様を生中継するリアルタイム・ヴァーチャル・ライブも開催された[91]。なお、リアル・ライブとヴァーチャル・ライブを合わせ、5万5千人を動員している(リアル・ライブで3万5千人、ヴァーチャル・ライブで2万人を動員)。また、1999年12月31日23時59分頃から、全国各地の街頭ビジョンにおいて、カウントダウンライブに訪れた観客によるカウントダウンと2000年代幕開けの1曲目として披露した「NEO UNIVERSE」の模様を生放映している。
  • 1月19日、19thCDシングル「NEO UNIVERSE/finaleを発売。通算9作目のオリコン週間シングルチャート首位を獲得すると共に[91]、通算5作目のシングルミリオンセラーを記録。
  • 3月15日、第14回日本ゴールドディスク大賞において、「HEAVEN'S DRIVE」が“SONG OF THE YEAR”を、『ark』『ray』「NEO UNIVERSE」が“ROCK ALBUM OF THE YEAR”を受賞する[91]
  • 4月5日、1stアルバム『DUNE』をDanger Crue Recordsから再販。
  • 4月7日、NTTドコモiモードJ-PHONE各社のJ-Sky Webで最新情報提供が全国一斉にサービスを開始。同年5月17日には、IDO・セルラー・ツーカー各社のEZwebでもサービスを開始した。
  • 4月17日、新曲「STAY AWAY」が、各携帯電話へ着信メロディサービスを開始。全国のレコード店で限定200,000枚の着信メロディデータを掲載したフライヤーを配布した。
  • 4月21日、公式ファンクラブ「Ciel」が「LE-CIEL」(読み:ルシエル)に改称される。
  • 6月28日、リミックスアルバム『ectomorphed worksを発売。このアルバムは、yukihiro単独のプロデュース作品となっている。
  • 7月19日
    20thCDシングル「STAY AWAYを発売。
    プレイステーションゲームソフト激突トマラルク TOMARUNNER VS L'Arc〜en〜Cielを発売。
  • 8月30日、8thアルバム『REALを発売。通算4作目のオリコン週間アルバムチャート首位を獲得すると共に[91]、5度目のアルバムミリオンセラーを記録した[91]
  • 10月8日 - 10月27日、ライブツアー「CLUB CIRCUIT 2000 REALIVE」を開催。これはL'Arc〜en〜Cielとって、久々のライブハウスのみをまわるツアーとなった。
  • 11月4日 - 12月6日、自身初の4大ドームツアー「TOUR 2000 REAL」を開催。協賛はトヨタ自動車と、Yahoo! JAPAN[94]。このツアーでは40万人以上を動員する。なお、東京ドームでの4公演のうち、12月5日公演はYahoo! JAPAN内のコンテンツ「Yahoo!ブロードキャスト」で配信されている[94]。また、12月6日公演はスカパー!スカイパーフェクTVペイ・パー・ビューチャンネル、パーフェクト・チョイスで、通常形態の放送+メンバー4人のアングル別チャンネルで生放送が行われた。さらに携帯電話サービス「LE-CIEL NET」においても、12月6日公演のライブ動画中継が実施された。
  • 12月23日、SPACE SHOWER Music Video Awards '00において、「STAY AWAY」が“BEST VIDEO OF THE YEAR”と“BEST GROUP VIDEO”を受賞[95]
  • 12月31日、第51回NHK紅白歌合戦に3回目の出場。演奏曲は「STAY AWAY」。

2001年

  • 3月13日、第15回日本ゴールドディスク大賞において、『REAL』が“ROCK ALBUM OF THE YEAR”を受賞する[95]
  • 3月14日
    自身初のベストアルバム『Clicked Singles Best 13を発売。通算5作目のオリコン週間アルバムチャート首位を獲得すると共に[95]、6度目のアルバムミリオンセラーを記録した[95]。なお、このベストアルバムは、Yahoo! JAPANとのジョイント企画として開設された特設投票サイト「LArc.yahoo.co.jp」の投票結果をもとに、収録曲が決定されている。ちなみに投票対象となる楽曲は、シングル表題曲のみとなっている。また、投票は日本以外のアジア地域でも行われており、日本盤の他、中国盤、香港盤、台湾盤、タイ盤、フィリピン盤、マレーシア盤が各地域で同時リリースされている。余談だが2001年5月には米国盤、2004年には韓国盤が発売されている。
    携帯電話情報サービス「LE-CIEL NET」で着メロ配信サービスを開始。
  • 3月28日、ミュージック・クリップ集『CHRONICLE 2を発売。通算2作目のオリコン週間DVD総合チャート首位を獲得。
  • 5月1日、ベストアルバム『Clicked Singles Best 13』の16和音着メロサービス開始[95]
  • 6月20日、ライブビデオ『CLUB CIRCUIT 2000 REALIVE -NO CUT-を発売。
  • 7月4日、8thアルバム『REAL』のSuper Audio CD版を発売。
  • 8月29日、東京国際フォーラムで行われた映画『FINAL FANTASY』の試写会にシークレット出演し、「Spirit dreams inside」を披露[95]
  • 9月5日、21stCDシングル「Spirit dreams inside -another dream-を発売。通算10作目のオリコン週間シングルチャート首位を獲得[95]。このシングル発売前後から、L'Arc〜en〜Cielは実質的に活動休止状態となり、メンバー各個人がソロ活動もしくは別バンドでの活動を開始するようになる。

2002年

2003年

  • 3月19日、ベストアルバム『The Best of L'Arc〜en〜Ciel『1994-1998』『1998-2000』『c/w』の3枚に分け同時発売。
  • 6月25日、LE-CIEL会員限定ライブ「Akasaka Zero day」を赤坂BLITZにて開催。
  • 6月28日 - 7月6日、本格的な活動再開を告げるライブ「Shibuya Seven days 2003」を国立代々木競技場 第一体育館にて開催。チケットは約3分で完売し、7日間の公演で約9万人を動員した[95]。なお、最終日公演は世界初の試みとして、NTTドコモのFOMAを用いたライブ映像のストリーミング配信を実施[95]
  • 12月17日、ライブビデオ『7を発売。同日には「眠りによせて」「and She Said」『Siesta 〜Film of Dreams〜』『heavenly 〜films〜』のDVD版、『A PIECE OF REINCARNATION』・『ハートに火をつけろ!』のトールケース仕様廉価DVD版を発売。
  • 12月26日、日本武道館で行われたDanger Crue Records主催のライブイベント「天嘉 弐 -DANGER II-」にシークレットゲストとして出演[95]。未発表の新曲「READY STEADY GO」を初披露。

2004年

  • 2月4日、22ndCDシングル「READY STEADY GOを発売。通算11作目のオリコン週間シングルチャート首位を獲得[96]
  • 3月3日、23rdCDシングル「瞳の住人を発売。通算12作目のオリコン週間シングルチャート首位を獲得[96]
  • 3月31日
    9thアルバム『SMILEを発売。
    ムック本『ぴあMOOK ラルクぴあ 街に詳しくなる! 遊びに詳しくなる! ラルクに詳しくなる!』をぴあから発売
  • 4月21日、メジャーデビュー10周年を記念し、1stアルバム『DUNE』の復刻盤『DUNE 10th Anniversary EditionをDanger Crue Recordsから発売[96]
  • 5月8日、Sony Music Fes. 2004の一環で、ライブ「SMILE TOUR 2004前夜祭」を国立代々木競技場 第一体育館にて開催。
  • 5月11日 - 6月27日、約3年6ヶ月ぶりとなるライブツアー「SMILE TOUR 2004」を開催し、約25万人を動員。
  • 6月2日、24thCDシングル「自由への招待を発売。通算13作目のオリコン週間シングルチャート首位を獲得[96]。なお、L'Arc〜en〜Cielはこのシングル以降、フィジカル発売と同日もしくはそれに先駆けて、表題曲を各種音楽配信サービスサイトで発表するようになり、楽曲のリリースの形態が大きく変わっている。この当時の日本では、携帯電話で音源のフルコーラスが聴ける着うたフルなどの独自サービスが登場し、楽曲のダウンロード配信が本格的に始まった背景があり、L'Arc〜en〜Cielもこの流れに沿うように販売形態を多様化していく運びとなった。
  • 6月29日、9thアルバム『SMILE』をアメリカで発売。
  • 7月24日・25日、野外ロックフェスティバルTHE ROCK ODYSSEY 2004」に出演。7月24日に行われた大阪ドーム公演および、7月25日に行われた横浜国際総合競技場公演に出演し、それぞれの会場で12曲を披露。
  • 7月30日、アメリカ合衆国メリーランド州ボルチモアにあるファースト・マリナー・アリーナで行われたアニメコンベンション「OTAKON 2004」の一環で、自身初の海外ライブ「Live in USA」を同所にて開催。
  • 12月14日、ライブビデオ『LIVE IN U.S.A 〜at 1st Mariner Arena July 31, 2004〜を発売。
  • 12月19日・26日、大阪城ホールで行われたイベント「鋼の錬金術師FESTIVAL」にシークレットゲストとして出演。なお、同年12月26日には、国立代々木競技場・第一体育館で行われた同イベントへ出演している。
  • 12月25日、日本武道館で行われたDanger Crue Records主催のライブイベント「天嘉 参 -DANGER III-」にシークレットゲストとして出演[96]。未発表の新曲「Killing Me」を初披露。

2005年

  • 1月13日、25thCDシングル「Killing Meを発売。通算14作目のオリコン週間シングルチャート首位を獲得[96]
  • 4月6日、26thCDシングル「New Worldを発売。通算15作目のオリコン週間シングルチャート首位を獲得[96]
  • 5月18日、27thCDシングル「叙情詩を発売。通算16作目のオリコン週間シングルチャート首位を獲得[96]
  • 6月1日、ライブビデオ『SMILE TOUR 2004 〜全国編〜を発売。通算3作目のオリコン週間DVD総合チャート首位を獲得。
  • 6月22日、10thアルバム『AWAKEを発売。通算6作目のオリコン週間アルバムチャート首位を獲得[96]
  • 7月8日、ニッポン放送深夜ラジオ番組オールナイトニッポン』のパーソナリティを1夜限りで務める (録音放送)[注釈 60]
  • 7月20日、28thCDシングル「Linkを発売。
  • 7月22日、東京国際フォーラムで行われたイベント「劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者 前夜祭」にシークレットゲストとして出演[96]
  • 7月28日、LE-CIEL会員限定でライブ「AWAKE TOUR 2005前夜祭 「今夜奇跡が起きる!?」」をLIQUIDROOM Ebisuにて開催[97]
  • 7月30日、大阪城西の丸庭園で行われたイベント「MBS ANIME FES.'05」にシークレットゲストとして出演し、3曲を披露[98]
  • 8月6日 - 8月31日、ライブツアー「AWAKE TOUR 2005」を開催。このツアーでは、約13万2千人を動員する。
  • 9月3日 - 9月25日、日本を含むアジア地域3ヶ国をまわるライブツアー「ASIALIVE 2005」を開催。このツアーは、東京(日本)・ソウル韓国)・上海中華人民共和国)の3都市で行われ 、ソウル・上海公演はそれぞれ1万人、東京公演は2日間で約9万2千人を動員している。
  • 9月20日
    オフィシャルテキストブック『WORDS L'Arc〜en〜Ciel』を角川書店から発売[97]。著者は、音楽雑誌『ROCKIN'ON JAPAN』の元編集長である鹿野淳
    10thアルバム『AWAKE』をアメリカで発売。
  • 12月14日、ライブビデオ『AWAKE TOUR 2005を発売。

2006年

  • 3月17日、SPACE SHOWER Music Video Awards '06において、「叙情詩」が“ART DIRECTION VIDEO WINNERS”を受賞[97]。なお、「叙情詩」のミュージックビデオは、平成17年度文化庁メディア芸術祭のエンターテインメント部門において、審査委員会推薦作品に選ばれている。
  • 4月1日、オムニバスブック『L'Arc〜en〜Ciel Box Set of The 15th anniversary in formation CHRONICLE of TEXT & PHOTOGRAPH』をソニー・マガジンズから完全受注生産で発売。この本は、ソニー・マガジンズから発行された音楽雑誌『WHAT's IN?』や『Gb』などに掲載されていたL'Arc〜en〜Cielへのインタビュー記事や写真が抜粋されたものとなっている。
  • 6月21日、ライブビデオ『ASIALIVE 2005を発売。通算4作目のオリコン週間DVD総合チャート首位を獲得。なお、2006年にバンド結成15周年を迎えたことを踏まえ、「L'Anniversary」(読み:ラニバーサリー)企画を開始。このビデオを含めた作品・関連イベントには、"15周年"を示すマークが付与されることになった[注釈 61]
  • 7月15日 - 8月31日、J-POP CAFE SHIBUYAにてカフェイベント「L'Arcafe」(読み:ラルカフェ)を期間限定で開催[97][99]。このカフェでは、メンバー4人が考案したオリジナルメニュー販売の他、過去の未公開ライブ映像が放映された。なお、カフェで放映された映像は、のちに発売されたライブビデオボックス『FIVE LIVE ARCHIVES』へ収録された。
  • 8月30日、1stCDシングル「Blurry Eyes」から14thCDシングル「forbidden lover」のCDシングル14作の12cmCD盤を発売[100]。同日には、1997年に7thCDシングルとしてリリース予定だったが、sakuraの逮捕を受け発売中止となっていた作品を、29thCDシングル「the Fourth Avenue Caféとして発売。なお、この再発によって、2005年|前年にサザンオールスターズが記録した「同一アーティストによる最多週間シングルチャートTOP30入り」の記録を12から15へ更新した[61]
  • 9月1日、中華人民共和国にてオフィシャルファンクラブ設立[97]
  • 11月25日・26日、バンド結成15周年記念ライブ「15th L'Anniversary Live」を東京ドームにて開催。チケットは約2分で完売し、2日間で約11万人を動員している。
  • 12月13日、1999年に発売した6thアルバム『ark』、7thアルバム『ray』に特典DVDを付属した、バンド結成15周年を記念した復刻盤『ark 15th Anniversary Expanded Edition』『ray 15th Anniversary Expanded Editionを発売。

2007年

  • 2月14日、ミュージック・クリップ集『CHRONICLE 0 -ZERO-を発売。
  • 4月4日、ライブビデオボックス『FIVE LIVE ARCHIVESを発売。
  • 5月30日、30thCDシングル「SEVENTH HEAVENを発売。通算17作目のオリコン週間シングルチャート首位を獲得[97]
  • 6月8日 - 8月30日、ライブツアー「Are you ready? 2007 またハートに火をつけろ!」を開催。このツアーは、1998年以来約9年ぶりにホール規模の会場を中心にまわるツアーとなった。
  • 7月28日、韓国・仁川広域市で行われた野外ロックフェスティバル「2007 INCHEON PENTAPORT ROCK FESTIVAL」の2日目にヘッドライナーとして出演し[97]、15曲を披露。なお、このフェスへのヘッドライナー出演は、日本人アーティストとして初のこととなった[97]
  • 8月29日、31stCDシングル「MY HEART DRAWS A DREAMを発売。通算18作目のオリコン週間シングルチャート首位を獲得[97]
  • 9月12日、ライブビデオ『15th L'Anniversary Liveを発売。通算5作目のオリコン週間DVD総合チャート首位を獲得[97]
  • 10月10日、32ndCDシングル「DAYBREAK'S BELLを発売。通算19作目のオリコン週間シングルチャート首位を獲得[97]
  • 11月14日、33rdCDシングル「Hurry Xmasを発売。
  • 11月20日 - 12月25日、東京・渋谷にある商業施設、SHIBUYA109のメンズブランド「109MEN'S」(現:MAGNET by SHIBUYA109)とL'Arc〜en〜Cielがコラボした巨大広告が展示された[101]。この広告では翌週に発売されるアルバムのタイトルにちなみ、"メンバー同士がキスをしているように見える写真"が使われている[101]。なお、これはこの広告のため撮り下ろしされたものである[101]。また、この広告でメンバーは「109MEN'S」を取り入れたコーディネートで登場している[101]。さらに、同期間には「109MEN'S×L'Arc〜en〜Ciel」のコラボレーションCMがフォーラムヴィジョンにて放映されている[101]。ちなみに、「109MEN'S」がロック・アーティストとコラボレーションするのは、これが初の試みとなった[101]
  • 11月21日、11thアルバム『KISSを発売。通算7作目のオリコン週間アルバムチャート首位を獲得[97][102]
  • 12月4日、iTunes USAで11thアルバム『KISS』の配信を開始。
  • 12月5日、ミュージック・クリップ集『CHRONICLE 3を発売。
  • 12月22日 - 2008年2月17日、ライブツアー「TOUR 2007-2008 THEATER OF KISS」を開催。

2008年

  • 2月11日、iTunes Canadaで11thアルバム『KISS』の配信を開始[103]
  • 2月21日、Yahoo!ミュージックアワード2007において、L'Arc〜en〜Cielが“ベストグループ最優秀賞”を受賞[103]
  • 3月、NHK『J-MELO Awards』(2007年)において、L'Arc〜en〜Cielが“Most Requested Artist”を受賞[103]
  • 4月2日
    34thCDシングル「DRINK IT DOWNを発売。通算20作目のオリコン週間シングルチャート首位を獲得[103]。また、Billboard JAPANのTop Singles Salesチャートで自身初の首位を獲得した。
    ライブビデオ『Are you ready? 2007 またハートに火をつけろ! in OKINAWAを発売。
  • 4月12日、MySpace上で、L'Arc〜en〜Ciel Official MySpaceを開設[103]
  • 4月18日、11thアルバム『KISS』をヨーロッパで発売。
  • 4月19日 - 6月8日、日本国内外7都市をまわるライブツアー「TOUR 2008 L'7 〜Trans ASIA via PARIS〜」を開催。このツアーは、ソウル・上海・香港台北パリ・東京・大阪の7都市で行われ、約30万人を動員している[103]。ちなみにパリ公演は、自身初のヨーロッパ公演となった。なお、5月9日に行ったパリ公演の模様は、東京・大阪・福岡・広島・新潟の全国5箇所のシネマコンプレックスにおいて、世界初となる海外コンサートの同時中継が行われた[103]。ちなみに、海外コンサートの同時中継は、このパリ公演が世界初のことである[103]
  • 5月2日、11thアルバム『KISS』が台湾の音楽チャート、G-musicの2008年5月2日付総合ランキングで首位を獲得[103]
  • 5月13日、読売新聞朝刊において、2008年8月にニューシングル「NEXUS 4/SHINE」をリリースすることと、2011年にバンド結成20周年記念ライブを開催することを発表した[63]。この発表に関連し、バンド結成20周年記念公演までライブ活動を休止することも発表された。
  • 8月27日
    35thCDシングル「NEXUS 4/SHINEを発売。
    ライブビデオ『TOUR 2007-2008 THEATER OF KISSを発売。通算6作目のオリコン週間DVD総合チャート首位を獲得。
  • 11月26日、33rdCDシングル「Hurry Xmas」の2008年盤を発売。

2009年

  • 2月25日、ミュージック・クリップ集『CHRONICLE 4を発売。
  • 3月、NHK『J-MELO Awards』(2008年)において、L'Arc〜en〜Cielが“Most Requested Artist”を受賞[103]
  • 3月25日、ドキュメンタリー・ビデオ『DOCUMENTARY FILMS 〜Trans ASIA via PARIS〜を発売。
  • 5月20日、ライブビデオ『LIVE IN PARISを発売。通算7作目のオリコン週間DVD総合チャート首位を獲得。7作のDVD総合チャート首位獲得は、当時の男性アーティストの持つ記録としては歴代1位タイとなる[104]
  • 5月22日 - 5月24日、ドキュメンタリー・ビデオ『DOCUMENTARY FILMS 〜Trans ASIA via PARIS〜』と、ライブビデオ『LIVE IN PARIS』、ライブ写真集『á Paris』(カジュアル仕様)の発売記念イベントとして、赤坂サカスにおいて「L'Arc〜en〜Ciel MUSEUM」を開催。
  • 9月2日、ベストアルバム『Clicked Singles Best 13』のブルースペックCD盤を発売。
  • 12月1日、tetsuyaが自身のアーティスト名を「tetsu」から現在の「tetsuya」へ改名。
  • 12月9日、33rdCDシングル「Hurry Xmas」の2009年盤を発売。

2010年代

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2010年

2011年

  • 1月1日、バンド結成20周年の幕開けとなるニューイヤーライブ「20th L'Anniversary Starting Live "L'A HAPPY NEW YEAR!"」を幕張メッセ 国際展示場9-11ホールにて開催。ライブの模様は当日の19:00 (JST) からUstreamで生中継が行われ、直前に出演したNHK紅白歌合戦の会場、NHKホールからの移動などの様子も中継された[106]
  • 2月16日、ベストアルバム『TWENITY『1991-1996』『1997-1999』『2000-2010』の3枚に分け同時発売。同年3月9日には、前記のCD3枚とDVD、特典を付属した『TWENITY BOX』を発売。
  • 3月29日、2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震 (東日本大震災) を受け、オフィシャルHP上にメンバー・スタッフの連名コメントを掲載。併せて、同年5月開催の「20th L'Anniversary LIVE」の全収益を、震災の義援金として寄付することを発表した[107]
  • 4月6日、ライブビデオボックス『FIVE LIVE ARCHIVES 2を発売[注釈 62]
  • 5月28日・29日、バンド結成20周年記念ライブ「20th L'Anniversary LIVE」を味の素スタジアムにて開催。2日間で約11万人を動員している。この公演は、日本国内の映画館40館、およびパリ、ロンドン、ニューヨーク、台湾、香港、ソウルの海外6都市9ヶ所の映画館でライブビューイングが実施されており、2万人を超える動員数を記録している[108]
  • 6月27日 - 28日、ドワンゴが提供するニコニコ動画ライブストリーミングサービスニコニコ生放送」で24時間 (27日20:00 - 28日20:00、JST) にわたる特番企画を実施している[109]。この番組では、L'Arc〜en〜Cielがこれまでにリリースした楽曲の中から123曲、さらにミュージック・ビデオ44曲を一挙に放送している[109]。そして、番組のフィナーレとなる同年6月28日19時からの1時間には、MC古坂大魔王とL'Arc〜en〜Cielのメンバー全員が初生出演し、メンバーがユーザーからの質問に答えるといった企画が行われている[109][110]。なお、メンバーが出演したコーナーのラスト30分は、ニコニコ生放送史上初の試みとして、予告なしで東京渋谷スクランブル交差点にある109フォーラムビジョン、そして名古屋大阪の3都市の街頭ビジョンにて生中継が行われた[109]。ちなみに動画配信サイトで24時間以上配信したアーティストは過去に存在するが、国内アーティストの施策としては初の試みとなった[109]。余談だが、この特番では、同サービス内において当時の来場者数1位(90万人超[109])、コメント数1位(約300万[109])を記録している[109]
  • 6月22日、シングルトラック「GOOD LUCK MY WAYを先行配信。
  • 6月29日、37thCDシングル「GOOD LUCK MY WAYを発売。Billboard JAPANのHot Animationチャートで自身初の首位を獲得。
  • 7月21日 - 8月31日、SPACE SHOWER TV THE DINERにてカフェイベント「L'Arcafe」(読み:ラルカフェ)を約5年ぶりに期間限定で開催[105]。このカフェでは、メンバー4人が考案したオリジナルメニュー販売の他、スペシャル映像も公開された。
  • 9月10日 - 12月4日、バンド結成20周年を記念したライブツアー「20th L'Anniversary TOUR」を開催。12月4日の京セラドーム大阪公演は、日本国内の映画館54館、および香港、台北、台中、高雄、ソウルの海外5都市の映画館でライブビューイングが実施されている[111]
  • 9月23日、日本武道館で行われたライブイベント「テレビ朝日ドリームフェスティバル 2011」にヘッドライナーとして出演し[105]、10曲を披露。
  • 10月12日、38thCDシングル「X X Xを発売。通算21作目のオリコン週間シングルチャート首位を獲得。この首位獲得により、ロックバンドとして史上3組目となる1990年代・2000年代・2010年代の「3つの十年代連続」でオリコン週間シングルチャートの首位獲得を達成[112]。また、Billboard JAPANのTop Singles Salesチャートで通算2作目の首位、週間総合チャートであるHot 100においても自身初の首位を獲得。さらに、着うたフルの有料ダウンロード数を集計したRIAJ有料音楽配信チャートでも初の首位を獲得している。
  • 11月、海外の映画館20館にて、ライブ映像『20th L'Anniversary LIVE』を上映[105]
  • 12月14日、シングルトラック「CHASEを先行配信。
  • 12月21日、39thCDシングル「CHASEを発売。
  • 12月28日、ライブビデオ『20th L'Anniversary LIVE -Complete Box-』『-Day 1-』『-Day 2-を発売。男女通じてバンドグループでは史上3組目となるDVD総売上100万枚突破を記録。映像作品全体(VHS+DVD)ではダブルミリオンを突破した[68]
  • 12月31日、第62回NHK紅白歌合戦に5度目の出場。演奏曲は「CHASE」。

2012年

  • 2月1日、12thアルバム『BUTTERFLY』の収録曲「wild flower」を先行配信。
  • 2月6日から、2日後に発売されるアルバムのプロモーションとして、アルバムタイトルと同名の木村カエラの楽曲「Butterfly」を使ったテレビCMが放映された[113]。なお、CM映像は、木村カエラの楽曲「Butterfly」のミュージック・ビデオが流れる中、最後にL'Arc〜en〜Cielのアルバム発売の告知が挿入されるというもので、音声にL'Arc〜en〜Cielの楽曲が一切登場しない内容となっている。このコラボレーションはL'Arc〜en〜Ciel側からのオファーによって実現しており、テレビCMは3パターン制作されている[113]
  • 2月8日、12thアルバム『BUTTERFLYを発売。通算8作目のオリコン週間アルバムチャート首位を獲得[105]。また、Billboard JAPANのTop Albums Salesチャートで自身初の首位を獲得している。
  • 2月22日・23日、LE-CIEL会員限定ライブを横浜アリーナにて開催。
  • 3月、NHK『J-MELO Awards』(2011年)において、L'Arc〜en〜Cielが“Most Requested Artist”を受賞[105]
  • 3月3日 - 5月5日、ライブツアー「WORLD TOUR 2012」を日本国外にて開催。このツアーは、約4年ぶりとなるワールドツアーで、香港、上海、ソウル、台北、バンコク、シンガポール、ジャカルタニューヨークロンドン、パリの海外10都市で行われた。ちなみにツアーで回った上海以外の会場では、ベストアルバム『WORLD'S BEST SELECTIONが限定販売されている。なお、3月25日のマディソン・スクエア・ガーデンでのライブは、日本人ミュージシャンとして初の同所での単独公演となった[69][114]。また、この公演の模様は、日本全国29ヶ所の映画館で3月26日午前9時から生中継され、約1万5000人を動員している[115]
  • 3月5日、12thアルバム『BUTTERFLY』をヨーロッパで発売。
  • 4月20日、バンドが所属するKi/oon Musicの20周年記念イベント「キューン20 イヤーズ&デイズ」の一環として、約7年ぶりとなるライブハウス公演「一夜限りのL'Arc〜en〜Ciel Premium Night」をLIQUIDROOMにて開催[116]。なお、この公演は、12thアルバム『BUTTERFLY』に付属するIDを特設サイト上で入力し、抽選によって獲得できる「公演チケット (777人)」と「Ustream上の生中継アクセスコード (10万人)」のいずれかの当選者が観ることができる[117]
  • 5月12日 - 5月27日、ライブツアー「20th L'Anniversary WORLD TOUR 2012 THE FINAL」を日本国内にて開催。このツアーは、1999年以来約13年ぶりに野外会場のみで構成されたツアーとなっている。なお、ツアーの最後に組まれた国立競技場(現:旧国立競技場)でのライブは、ミュージシャンとしては史上4組目、ロックバンドでは初の公演となった[72]。なお、2012年3月3日から日本国外で行われたライブツアーと、同年5月31日のホノルル公演、そしてこの国内ツアーを合わせ、約45万人の動員を記録している。
  • 5月23日、配信限定シングル「X X X -English version-」「CHASE -English version-の各種音楽配信サイトでのダウンロード配信を開始。
  • 5月31日、バンド結成20周年を締めくくるライブ「20th L'Anniversary Year Live in Hawaii」をホノルルワイキキシェルにて開催。このライブでは、日の友好関係向上の架け橋になったとして、ホノルル市が"5月31日"を「L'Arc〜en〜Cielの日」(L'Arc〜en〜Ciel DAY)に制定することを発表した[105][118]
  • 6月1日、LE-CIEL会員限定ライブ「LE-CIEL Presents ハワイ アン シエル Special Live」をワイキキシェルにて開催。
  • 6月4日 - 6月10日、東京・銀座ソニービル内のOPUSにおいて、「L'Arc〜en〜Ciel PREMIERE SCREENING Supported by Sony and Ki/oon Music」を開催[119]
  • 6月9日 - 7月8日、バンド結成20周年を記念した特別展「L'Arc〜en〜Ciel 20th L'Anniversary EXHIBITION」(通称:L'展)を横須賀美術館にて開催。
  • 6月13日
    トリビュート・アルバム『L'Arc〜en〜Ciel Tributeを発売。
    ライブビデオ『LIVE TWENITYを発売。
  • 7月28日、ファンクラブ会報誌別冊『LE-CIEL Extra Number』をエムオン・エンタテインメントから発売[105]
  • 11月7日、ソニー・ミュージックエンタテインメントiTunes Storeへ参入したことに伴い、L'Arc〜en〜Cielの楽曲を同サービスで配信開始する[120]
  • 12月26日、ライブビデオ『WORLD TOUR 2012 LIVE at MADISON SQUARE GARDENを発売。

2013年

2014年

  • 2月26日、ライブビデオボックス『L'Aive Blu-ray BOX -Limited Edition-を発売。
  • 3月19日、ライブビデオ『heavenly 〜films〜』から『WORLD TOUR 2012 LIVE at MADISON SQUARE GARDEN』の全18作品のBlu-ray Disc版を発売。
  • 3月21日・22日、約1年10ヶ月ぶりにライブ「L'Arc〜en〜Ciel LIVE 2014 at 国立競技場」を国立競技場(現:旧国立競技場)にて開催[123]。このライブでは、スタンド・フィールド含め8万人(2日間で延べ16万人)を動員[124]。これは、ライブにおける国立競技場(現:旧国立競技場)の最多動員数記録となった[124]。なお、2日目公演の模様は、日本国内の映画館37館で生中継された他、イギリス、フランス、アメリカ、メキシコ、台湾、香港の海外20都市でもライブビューイングが実施された[125]
  • 5月29日、建て替え前の国立競技場(現:旧国立競技場)で行われた最後のライブイベント「SAYONARA 国立競技場FINAL WEEK JAPAN NIGHT」の2日目公演("Japan to the World")にヘッドライナーとして出演し、9曲を披露。
  • 7月23日、4K対応液晶テレビ「BRAVIA」とライブビデオ『L'Arc〜en〜Ciel LIVE 2014 at 国立競技場』のコラボレーション企画「BRAVIA 4K×L'Arc〜en〜Ciel」を開始。東京・大阪・愛知のソニービルの他、全国約1800店の家電販売店で、4K編集によるダイジェスト映像が順次上映された[126]。同年10月3日からは、JR品川駅中央改札内のソニーショーケースでも上映された。なお、同年12月5日には、このコラボ施策が国際3D先進映像協会による「グッドプラクティス・アワード2014」の4K部門本賞に選出されている[127]
  • 8月13日、完全受注生産限定作品「EVERLASTINGを発売。
  • 10月2日、音楽配信サイトのmoraおよび VICTOR STUDIO HD-Music. において、楽曲のハイレゾリューションオーディオ (ハイレゾ音源) 配信することを発表。2014年10月10日から「EVERLASTING」を、同年10月22日から『DUNE』以降のスタジオ・アルバム作品12作をFLAC形式 (96 kHz/24bit) で配信開始する[128][129]。ちなみに「EVERLASTING」より前にリリースされた作品には、全曲リマスターが施された。
  • 10月10日 - 11月2日、東京・銀座のソニービル内のOPUSにおいて、ライブビデオ発売及びハイレゾ配信を記念したイベント「4K&ハイレゾで感じる、新次元の美しいL'Arc〜en〜Ciel」を開催。
  • 11月12日、ライブビデオ『L'Arc〜en〜Ciel LIVE 2014 at 国立競技場を発売。オリコン週間BD総合チャートで初の首位を獲得。また、音楽DVDと音楽BDの週間売上枚数を合算したミュージックDVD・BDランキングにおいても初の首位獲得となった。
  • 12月5日、自身初のドキュメンタリー映画『Over The L'Arc-en-Cielを公開。公開前には、2014年12月12日までの期間限定で劇場上映されることが告知されていたが[130]、のちに上映期間が延長されている。なお、この映画は、2012年に世界10都市で開催したライブツアー「WORLD TOUR 2012」から、ハワイ・ホノルル公演「20th L'Anniversary Year Live in Hawaii」までの間、L'Arc〜en〜Cielに密着し撮影した映像が収められた作品となっている。

2015年

  • 4月15日、ドキュメンタリー・ビデオ『DOCUMENTARY FILMS 〜WORLD TOUR 2012〜「Over The L'Arc-en-Ciel」を発売。
  • 9月21日・22日、約1年半ぶりのライブ「L'Arc〜en〜Ciel LIVE 2015 L'ArCASINO」を夢洲野外特設会場にて開催。2日間で合計10万人を動員する[131]。なお、夢洲がコンサート会場として利用されるのは、このライブが初となる[132]。また、2日目公演の模様は、日本国内の映画館39館で生中継された他[131]、香港、台湾、シンガポール、タイ、インドネシア、フィリピン、アメリカ、フランス、メキシコ、ペルーチリアルゼンチンコロンビアコスタリカグアテマラの海外14ヵ国でもライブビューイングが実施された[133]
  • 11月5日、「L'Arc〜en〜Ciel LIVE 2015 L'ArCASINO」のライブ音源のハイレゾ配信を翌月開始することを受け、東京・大阪・愛知のソニービルに設置された「Hi-Res Tasting Spot」で先行試聴企画を開始。同年12月2日からは全国の家電販売店でも先行試聴が開始された。
  • 12月23日
    40thCDシングル「Wings Flapを発売。
    音楽配信サイトのmoraおよびVICTOR STUDIO HD-Music.において、「L'Arc〜en〜Ciel LIVE 2015 L'ArCASINO」で演奏された「Driver's High」「MY HEART DRAWS A DREAM」「X X X」「Wings Flap」「HONEY」「READY STEADY GO」のライブ音源のハイレゾ配信を開始[134]。ライブ音源のハイレゾ配信は自身初のこととなる。

2016年

  • 9月13日、ソニー・インタラクティブエンタテインメントによる国内プレイステーションビジネス販売戦略発表会「2016 PlayStation Press Conference in Japan」で、2016年で発売20周年を迎えたゲーム『バイオハザードシリーズ』と、L'Arc〜en〜Cielのコラボレーション企画『Don't be Afraid –Biohazard × L'Arc-en-Ciel on PlayStation VR-』が発表された[135]
  • 9月15日、東京ゲームショウ2016において、PlayStation VR向けVRミュージックビデオ『Don't be Afraid –Biohazard × L'Arc-en-Ciel on PlayStation VR- 体験版』が出展される。同年10月13日には、本映像の先行体験配信版がPlayStation Storeにてリリースされている[76]
  • 11月8日、新曲「Don't be Afraid」が上記ゲームの実写映画『バイオハザード: ザ・ファイナル』の日本語吹替版主題歌に使われることが発表された[131]
  • 11月17日、PlayStation VR向けVRミュージックビデオ『Don't be Afraid –Biohazard × L'Arc-en-Ciel on PlayStation VR-』を配信開始。
  • 11月25日、配信限定シングル「Don't be Afraid -English version-の各種音楽配信サイトでのダウンロード配信を開始。同日にはハイレゾ音源の配信も開始した。
  • 12月21日、41stCDシングル「Don't be Afraidを発売。

2017年

  • 3月1日、ライブビデオ『L'Arc〜en〜Ciel LIVE 2015 L'ArCASINOを発売。
  • 3月29日、iOS/Android向け位置情報ゲームアプリ『L'Arcollection』の配信を開始(配信は同年4月7日迄)[136]。アーティストによるオリジナル位置情報ゲームの配信は、これが世界初となる。
  • 4月8日・9日、バンド結成25周年記念ライブ「25th L'Anniversary LIVE」を東京ドームにて開催[77]。2日間で合計11万人を動員する[137]。2日目公演の模様は、日本国内の映画館50館、および香港、台湾、韓国、タイ、インドネシア、メキシコ、コロンビア、コスタリカ、ペルー、グアテマラの海外13都市16ヶ所の映画館でもライブビューイングが実施され、約3万5000人を動員した[137]

2018年

  • 3月14日、iTunesライブビデオにおいて、ライブビデオ『15th L'Anniversary Live』『20th L'Anniversary LIVE -Day1-』『20th L'Anniversary LIVE -Day2-』の配信を開始。
  • 3月28日、ライブアルバム『25th L'Anniversary LIVEを発売。キャリア初のライブ音源が単独で収録されたCD作品のリリースとなった。
  • 5月30日、ライブビデオ『25th L'Anniversary LIVEを発売。通算2作目のオリコン週間BD総合チャート首位を獲得。また、音楽DVDと音楽BDの週間売上枚数を合算したミュージックDVD・BDランキングにおいても、2度目の首位獲得となった[138]
  • 12月12日 - 12月17日、代々木公園のイベント広場野外ステージで、期間限定イベント「L'ArChristmas Park」を開催[137]。このイベントでは、東京ドームのライブ会場で販売されるグッズを一足先に購入できる特設売場や、「L'Arcafe」と題した飲食物を販売する出店が設置された[137]
  • 12月19日・20日、自身初のクリスマスライブ「L'Arc〜en〜Ciel LIVE 2018 L'ArChristmas」を東京ドームにて開催。2日間で合計11万人を動員する[137]。公演の模様は、日本国内の映画館50館、および香港、台湾、韓国でライブビューイングが開催された。

2019年

  • 1月16日から、「L'Arc〜en〜Ciel WOWOW×Paravi Special Collaboration」として、 ライブ「L'Arc〜en〜Ciel LIVE 2018 L'ArChristmas」に完全密着したドキュメンタリー番組が、動画配信サービスサイト、Paraviにて3ヶ月連続で期間限定配信された[139][140]。2019年1月には「#1 OUTSIDE OF LIVE 2018 L'ArChristmas」、同年2月には「#2 INSIDE OF LIVE 2018 L'ArChristmas」、同年3月には「#3 INTERVIEW OF LIVE 2018 L'ArChristmas」が配信された。そして同年4月には、Paraviで配信された映像の再編集版がWOWOWで放送されている。
  • 9月1日、公式Twitter(現:X)にて「20190902 4:00」というメッセージを掲載[139]。翌9月2日4時、2020年に約8年ぶりとなるライブツアーを開催することを発表した[139]
  • 12月3日、公式YouTubeアーティストチャンネル を開設。同チャンネルにて、1998年に3作同時でリリースされたシングルの表題曲「HONEY」「花葬」「浸食 〜lose control〜」のミュージック・クリップを、翌週12月10日までの期間限定で3曲同時公開した[141]
  • 12月11日
    公式Instagramアカウントを開設[142]
    各種サブスクリプションサービス(定額制音楽配信)にて、これまで発表した全楽曲、全ミュージック・クリップのストリーミング配信を全世界で一斉解禁した[142][注釈 63]。さらに、公式YouTubeアーティストチャンネルにおいて「虹」「HONEY」「花葬」「浸食 〜lose control〜」「Driver's High」「STAY AWAY」「New World」「DRINK IT DOWN」「X X X」「Don't be Afraid」の計10曲のミュージック・クリップを無料公開。また、同日より7日間連続で「YouTube Seven days 2019」と題し、ライブ映像のプレミア配信企画が開始された[142]
  • 12月18日、ライブビデオ『LIVE 2018 L'ArChristmasを発売。通算3作目のオリコン週間BD総合チャート首位を獲得。また、音楽DVDと音楽BDの週間売上枚数を合算したミュージックDVD・BDランキングにおいても、3度目の首位獲得となった。
  • 12月24日、公式ファンクラブ「LE-CIEL」の運営会社を、ソニー・ミュージックソリューションズに移行。

2020年代

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2020年

  • 1月9日 - 2月9日、約8年ぶりとなるライブツアー「ARENA TOUR MMXX」を開催。当初は同年3月5日まで開催される予定だったが、全世界で蔓延した新型コロナウイルス感染症の煽りを受け、2月28日・29日の横浜アリーナ公演、3月4日・5日の国立代々木競技場第一体育館公演が中止されている。また、日本国内および香港、台湾、韓国、タイの映画館で実施される予定だったライブビューイングも同じく中止されることになった。
  • 1月10日 - 3月5日、各種サブスクリプションサービス(定額制音楽配信)において、プレイリスト公開企画「L'Arc〜en〜Ciel LIVE SET LIST L'Archives」を実施[143]。歴代ライブ30公演分のセットリストをプレイリストとして毎週金曜日に順次公開。同年3月4日・5日には、"#エアMMXX"企画として、ライブツアー「ARENA TOUR MMXX」で披露された2パターンのセットリストが公開された。

2021年

  • 2月17日、エンタメカルチャー誌『別冊カドカワScene』において、L'Arc〜en〜Ciel結成30周年を記念した特別企画「私とラルク」がスタート。この企画はL'Arc〜en〜Cielに影響を受けたアーティストや芸能人にインタビューするもので、第1回には山中拓也(THE ORAL CIGARETTES)が登場している。なお、この企画は第6回まで行われ、ツリメ/アバンティーズYouTuber)、ユウタNCT 127)、楠木ともり声優/歌手)、EXILE TETSUYA伊東健人(声優/歌手)が登場している。
  • 5月29日・30日、バンド結成30周年の幕開けとなるライブ「30th L'Anniversary Starting Live "L'APPY BIRTHDAY!"」を幕張メッセ 国際展示場1-3ホールにて開催。なお、このライブの模様は、同年8月22日に動画配信サービス、StagecrowdおよびVeepsにて有料配信が行われている。なお、見逃し配信は翌8月23日23時59分まで実施された。
  • 5月31日、シングルトラック「ミライを各種音楽配信サイトでダウンロード・ストリーミング先行配信。同日には、ハイレゾ音源の配信も開始している。なお、L'Arc〜en〜Cielはこれ以降、フィジカル発売に先駆けて、表題曲を各種サブスクリプションサービス(定額制音楽配信)で発表するようになり、楽曲のリリースの流れが大きく変わっている。
  • 6月1日、公式デジタルファンクラブ「Digital LE-CIEL」を発足。運営会社はソニー・ミュージックソリューションズ
  • 7月25日、配信限定シングル「FOREVER (Anime Edit)の各種音楽配信サイトでのダウンロード・ストリーミング配信を開始。同日ハイレゾ音源の配信も開始した。
  • 7月30日 - 9月12日、SHIBUYUA TSUTAYAをジャックし、期間限定展示会「30th L'AMUSEMENT at SHIBUYA TSUTAYA」を開催。さらに、SHIBUYA TSUTAYAの7階にあるカフェ兼書店の「WIRED TOKYO 1999」とのコラボレーションとして、約10年ぶりのカフェイベント「L'Arcafe 2021」(読み:ラルカフェ)を期間限定で開催[144][145]。来場者にはランチョンマットとコースターが配布され、カフェではメンバー考案のオリジナルフードの販売、ライブ衣装の展示が行われ、さらにライブ映像が流された[146]
  • 8月8日、シングルトラック「FOREVERを各種音楽配信サイトでダウンロード・ストリーミング先行配信。同日には、ハイレゾ音源の配信も開始している。
  • 8月23日 - 8月29日、西武新宿駅前のユニカビジョンにおいて、2020年に行われたライブツアー「ARENA TOUR MMXX」から「Driver's High」「LOVE FLIES」「DRINK IT DOWN」「Killing Me」4曲のライブ映像と、新曲「ミライ」のミュージック・ビデオを期間限定で放映。これはスマートフォン向けアプリ『VISION α』との連動企画で、映像の放映中にスマートフォンをかざすことで、番組の音声を高音質で視聴することができる仕様となっている。
  • 8月25日
    42ndCDシングル「ミライを発売。
    iOS/Android向けVRミュージアムアプリ30th L'Anniversary VR Museum』の期間限定配信を開始[147]
  • 9月5日 - 12月26日、バンド結成30周年を記念したライブツアー「30th L'Anniversary TOUR」を開催。このツアーで組まれた国立代々木競技場 第一体育館公演の3日目および最終日の模様は、日本国内の映画館でライブビューイングが実施された。代々木3日目公演は全国75館、代々木最終日公演は全国65館の映画館で生中継されている。さらに、12月28日・29日にはディレイ放映が行われ、28日は全国47館、29日は全国53館で上映が実施された。
  • 9月29日、43rdCDシングル「FOREVERを発売。
  • 10月4日 - 10月10日、国内初の車窓モビリティサイネージサービス「THE TOKYO MOBILITY GALLERY Canvas」とのコラボレーション施策を実施[148]。このサービスは、タクシーの後方のサイドガラスに広告を映し出すもので、L'Arc〜en〜Cielのアーティスト写真に加え、「FOREVER=永遠」というテーマを回文で表現した100種ものキーアートが窓ガラスに掲出された。なお、このコラボ企画を実施したタクシーは、「L'AXI」(読み:ラクシー)という名称がつけられ、都内で100台が走行することになった。
  • 12月4日、バンド結成30周年を記念したオフィシャルクレジットカード「L'Arcard」(L'Arc〜en〜Ciel Official Credit Card)の発行を発表し、同日より募集を開始[149]。これは、決済ブランドであるVisaと連携したカードとなっている。
  • 12月22日、特別編集本『Rolling Stone Japan L'Arc-en-Ciel 30th L'Anniversary Special Collectors Edition』をCCCミュージックラボから発売[144]。音楽雑誌『Rolling Stone Japan』が日本人アーティストの特集本を出すのは、これが初となった[144]

2022年

  • 4月1日、公式YouTubeアーティストチャンネルにおいて、2019年12月よりYouTube Music Premium会員を対象に、有料会員限定で公開されていた「眠りによせて」「Blurry Eyes」「風の行方」「瞳に映るもの」「and She Said」計5曲のミュージック・クリップの無料公開を開始した。同日には、YouTube Music Premium会員限定で公開していたL'Arc〜en〜Cielのミュージック・クリップを7週連続で無料公開することも発表された[150]。4月8日以降も1週間おきに、これまでに発表したミュージック・クリップが無料公開されている。
  • 5月18日、アルバムリマスター・ボックス『L'Album Complete Box -Remastered Edition-を発売。同日には、ボックスに収録された、スタジオ・アルバムをリマスタリングした11作品(『Tierra(Remastered 2022)』〜『BUTTERFLY(Remastered 2022)』)を各種音楽配信サイトでのダウンロード、ストリーミング配信を開始した。さらに、ハイレゾ音源の配信も同日開始している。
  • 5月21日・22日、バンド結成30周年を締めくくるライブ「30th L'Anniversary LIVE」を東京ドームにて開催。2日間で合計10万人を動員する。
  • 12月23日、OTTプラットフォームAmazon Prime Videoにて、ライブドキュメンタリー番組『L'Arc〜en〜Ciel 30th L'Anniversary』を配信開始[151][152]。この番組は『30th L'Anniversary LIVE』のライブ映像(<Episode:1>)と、ライブまでのバンドの裏側に密着したドキュメンタリー(<Episode:2>)の2話構成となっている。また、この番組は217の国と地域で配信されている[151]。ちなみに、翌2023年1月18日から同年3月19日までの期間限定で、<Episode:1>でカットされていた楽曲「Singin' in the Rain」を収めたスペシャルエディションが配信されている。
  • 12月27日 - 2023年1月31日、イープラスが手掛ける渋谷最大級のカフェ、eplus LIVING ROOM CAFE&DININGにて、カフェイベント「L'Arcafe 2022-2023」(読み:ラルカフェ)を期間限定で開催。来場者にはランチョンマットなどが配布され、カフェではL'Arc〜en〜Cielのスタジオ・アルバム12作のタイトルをモチーフにしたドリンクや、オリジナルフードメニューを販売、そしてライブ衣装の展示も行われ、さらにライブ映像が流された。

2023年

  • 5月30日、1stアルバム『DUNE』発売30周年を記念し、リマスタリングアルバム『DUNE (Remastered 2023)をDanger Crue Recordsから発売。同日には、公式YouTubeアーティストチャンネルにおいて「Dune」「Floods of tears」「As if in a dream」計3曲のミュージック・クリップの無料公開を開始。
  • 8月25日、公式デジタルファンクラブ「Digital LE-CIEL」において、会員限定コンテンツ「CIEL's STORAGE BOX」をオープンすることを発表。このコンテンツは、L'Arc〜en〜Cielの貴重な資料用映像などを期間限定で公開する不定期コンテンツとなっている。
  • 12月7日、翌年2月から3月にかけてライブツアーを開催することを発表。併せて、"これまであまりライブで披露してこなかった楽曲を掘り起こし、スポットをあてる"というツアーコンセプトも発表された。

2024年

  • 2月8日 - 4月14日、ライブツアー「ARENA TOUR 2024 UNDERGROUND」を開催。
  • 3月27日、ライブビデオ『30th L'Anniversary LIVEを発売。
  • 7月1日 - SHIBUYA TSUTAYAの7階にあるカフェ兼書店とのコラボレーションとして、ファンクラブ会員限定カフェイベント「L'Arcafe 2024 at SHIBUYA」(読み:ラルカフェ)を期間限定で開催。ライブツアー「ARENA TOUR 2024 UNDERGROUND」の中からファンクラブ会員限定で行われた横浜アリーナ公演の映像上映を始め、オリジナルフードやオリジナルグッズ販売、ライブ衣装と楽器展示などが催されている。なお、SHIBUYA TSUTAYAの1階にあるフリースペースでは、ライブ写真のパネル展示が行われた。
  • 9月6日 - 12月15日、東京・大阪・福岡の丸井3店舗で、VRスペシャルイベント「L'Arc〜en〜Ciel "ARENA TOUR 2024 UNDERGROUND" -Welcome to Special Seat-」を開催。
  • 10月19日、シングルトラック「YOU GOTTA RUNを各種音楽配信サイトでダウンロード・ストリーミング先行配信。同日には、ハイレゾ音源の配信も開始している。

2025年

  • 1月4日 - 2月19日、 ツリービレッジ東名阪3店舗にて、カフェイベント「L'Arcafe 2025 at Tree Village」(読み:ラルカフェ)を期間限定で開催。カフェではオリジナルフード、ドリンクメニューが販売された。
  • 1月15日、44thCDシングル「YOU GOTTA RUNを発売。
  • 1月18日・19日、hydeの誕生月を祝うことをコンセプトにしたライブ「L'Arc〜en〜Ciel LIVE 2025 hyde BIRTHDAY CELEBRATION -hyde誕生祭-」を東京ドームにて開催。2日間で合計11万人を動員する[153]。なお、東京ドーム公演は2022年5月に開催したライブ「30th L'Anniversary LIVE」以来約2年8ヶ月ぶりのことで、今回の2日目公演がバンドにとって累計20回目の同所でのライブとなった。

音楽性

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音楽的影響・嗜好

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メンバーが共通で好きなアーティストは多くないが、ザ・キュアーデペッシュ・モードジョニー・マーザ・スミスザ・ザ)、U2といった1980年代のニュー・ウェイヴポストパンクのアーティストや、DEAD ENDが手掛ける楽曲のような耽美なゴシック・ロック要素を内包した音源に関しては全員が好んで聴いていたという。そのため、特にL'Arc〜en〜Cielが活動初期に発表した楽曲は、これらの影響を受けたものが多い。なお、kenは2004年に受けたインタビューの中で、活動初期の楽曲制作を振り返り「ザ・キュアーみたいな雰囲気でバッキングトラックを作ったらどうかとかがあった[154]」と述べている。そしてtetsuyaは「バイブルですよ、キュアーは[155]」と語っている。また、所属事務所の代表を務める大石征裕は、L'Arc〜en〜Cielと出会った頃を振り返り「(メンバー)4人ともザ・キュアーのようなUKロックをよく聞いていたと記憶しています[156]」と述懐している。余談だがhyde曰く、かつてkenから「ザ・キュアーのロバート・スミスみたいに歌ってほしい[157]」とリクエストされたこともあったという[157]

前記のジャンル以外にも各メンバーは幼少期から学生時代にかけて様々な音楽を聴いていた。hydeは自身の音楽の原体験のひとつとして、小学生のころに実家のジュークボックスに入っていたオフコース[158][159][160]ビリー・ジョエル[159][160]といったアーティストをあげているが、学年が上がるにつれ、ニュー・ウェイヴの他、ニューロマンティックハードコアに傾倒していった。また、kenは幼少の頃、父からの影響で映画音楽ニニ・ロッソ[161]、姉からの影響で松山千春ニューミュージックを聴いていたといい、中学からはエイジアなどのプログレッシブ・ロック[162]ハードロックヘヴィメタルを好んで聴いていた。そしてtetsuyaは、小学6年生頃からイエロー・マジック・オーケストラ[163]一風堂[163]、ニューロマンティックのアーティストの楽曲をよく聴くようになり、中学時代からkenを含む幼馴染の先輩からの影響でヘヴィメタルも愛聴するようになった。一方で、メンバーは学生時代に、日本のメジャーシーンでヒットを飛ばしていたロックバンドをあまり聴いておらず、hydeは2002年に受けたインタビューの中で、1980年代に日本で流行したビートロックに関して「好みではなかった」と述べていたことがある[164]。また、kenは「自分が聴いてきた音楽は全然100万枚ヒットのものじゃないし、チャートを聴いてたわけでもなかった[165]」と語っている。

1993年から1997年までドラマーとして在籍していたsakuraは、他のメンバーと同様にDEAD ENDや80年代のニュー・ウェイヴを聴いている他、兄の影響でビートルズ[166]、箱バンドでセッションドラマーとして活動していた経緯もあり[167]ジャズも好んで聴いていた。sakuraは1994年に受けた音楽誌のインタビューの中で、好きな音楽について「挙げたらキリがないですよ。70年代のハード・ロックも聴くし、ひと昔前のジャズ、今ならブルー・ノート・レーベルから出てるヤツとか…。昔のアルバムは、ミュージシャンがどこにいて、どんな表情で演奏しているのかも、聴いているだけで伝わってくるじゃないですか。そういうところがいいんですよ[168]」と述べている。一方で、1998年からバンドに加入したyukihiroは、ニュー・ウェイヴやhyde、tetsuyaと同様にニューロマンティックから影響を受けている他、ミニストリーをはじめとするインダストリアル[169]、さらにエレクトロニック・ボディ・ミュージックエレクトロ・ポップテクノハウスなどのクラブ・ミュージックに寄った音楽も好んで聴いていた。

各メンバーは他にも、ボサノヴァソフト・ロックオルタナティヴ・ロックグランジシューゲイザーフレンチ・ポップスポップ・パンクオルタナティヴ・メタルなど様々なジャンルの音楽を好んで聴いている。メンバーそれぞれで好む音楽性に違いがあること、そしてメンバー全員がコンポーザーというバンドスタイルを採っていることもあってか、L'Arc〜en〜Cielが手掛ける作品は幅広くジャンルを横断したものになっている。tetsuyaはL'Arc〜en〜Cielの特徴について「バンド名がラルク アン シエルで、虹って意味だから、最初は白と黒で始まって、いろんな色が入ってくる。白と黒だけじゃなく、七色入ってくる広がりがあるバンドという。そういうことを無意識にやってるんでしょうね[170]」と述べている。

L'Arc〜en〜Cielは、1999年から2002年にかけてパーソナリティーを務めたラジオ番組『FLYING〜L'Arc〜ATTACK』の中で、自身が好んで聴いている楽曲をレコメンドする企画をたびたび行っていた他、音楽雑誌『GiGS』や各メンバーが個人名義で発表した本などに、自身が愛聴していたアルバムを掲載していたことがある。また、2019年にSpotifyなどのストリーミングサービスで音源配信を始めて以降は、メンバーそれぞれが洋楽をメインに選曲した、ライブ開演前の会場で流すためのBGMプレイリストを同サービス上で公開するようになっている。このようにL'Arc〜en〜Cielは、メンバーそれぞれが好む音楽をリスナーとシェアすることが多い。なお、tetsuyaは2000年に受けたインタビューの中で「ラルクだけしか聴かない人なんていないでしょ。そんなことべつに求めないし、そんなのキモチ悪いじゃん(笑)。いろんな音楽聴いて、いろんなライヴ観たほうが楽しいし[171]」と語っている。

ちなみに、L'Arc〜en〜Cielのライブでは終演の際にアイルランドの歌手、エンヤの楽曲「ブック・オブ・デイズ」を会場内に流すことが定番になっている。また、活動最初期の頃はオープニングBGMとして、ミニストリーの楽曲「アイ・プリファー」をよく流していた[172]

現メンバーが影響を受けたアーティストまたは、愛聴している楽曲を手掛けたミュージシャンは下記の通り。

メンバー 影響を受けた・愛聴している代表的なアーティスト(五十音順)
hyde
hydeの音楽遍歴の詳細は『hyde#音楽ルーツ・音楽的嗜好』の頁を参照

ken
kenの音楽遍歴の詳細は『ken#音楽ルーツ・音楽的嗜好』の頁を参照

tetsuya
tetsuyaの音楽遍歴の詳細は『tetsuya#音楽ルーツ・音楽的嗜好』の頁を参照

yukihiro
yukihiroの音楽遍歴の詳細は『yukihiro#音楽ルーツ・音楽的嗜好』の頁を参照

L'Arc〜en〜Cielと『ヴィジュアル系』

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ポップジャム事件

1999年4月19日、NHKで放送された音楽番組ポップジャム』の同年5月1日放送分の収録にL'Arc〜en〜Cielが参加した。その日の収録では2曲が演奏される予定であったが、1曲が演奏終了した時点でメンバーが演奏を中止、そのままステージを去るという事態が起こったと同年4月25日発行の日刊スポーツ紙などで報じられた。

事の発端は、当時番組のMCを務めていたお笑いコンビ爆笑問題がトークの中で、メンバーに対して"ヴィジュアル系"と発言したことによるものとされた[注釈 64]。そしてL'Arc〜en〜Cielは、トークの後に「HEAVEN'S DRIVE」の演奏を行ったが、tetsuyaが本来担当するはずのコーラスパートを無視し、演奏を終了。ステージから捌けていく際には「ベースをぞんざいに扱う」など不機嫌な様子だったと報じられた。他には、「本来は2曲撮影する予定だったところを1曲で切り上げた」とも伝えられ、一連の行動に対し議論を呼ぶことになった。

事件の真相、事件後の反応

上記の報道内容について、tetsuyaは「元々2曲を別々に収録する予定であり、楽器をぞんざいに扱い、キレてそのまま帰ったというのは間違い」と否定している。実際は、番組に出る時点で要望などを事務所やレコード会社に伝えていたが、それが司会の爆笑問題まで伝わっていなかったことに起因しているとも述べている。

tetsuyaは2004年に発売したインタビュー本『哲学。』の中で「2曲続けてではなくて、1曲ずつ別々に演奏することになっていたんですよ。で、1曲演奏して、楽屋に戻ったときにそういう話をして、"気持ちよく仕事がしたいんだけど、そういう環境が整ってないんで、今日は失礼させていただきます"って、ちゃんと挨拶をして、爆笑問題さんにもちゃんとそういう話をしたうえで、帰ったんですよ[249]」「ちゃんとスタッフが打ち合わせをしているべきところなんですが、それが出来てなかった。(中略)それはこっちサイドのスタッフのミスだったと思うんですよ。NHKさんにも爆笑問題さんにも何も悪いところはないというか。俺たちは爆笑問題さんに対して、まったく怒ってないんですよ。というか、お笑いの人だから面白おかしく言うに決まってるじゃないですか。あくまでもうちのスタッフに対して、もっとちゃんとやってくれよっていう意味での行動だったんですよ[250]」と語っている。また、当時の報道に関し「怒りを感じることもありますけどね。事実じゃないことを書かれたすることが多いんで。でも面白おかしくしたほうが、視聴率を稼げたり、部数が売れたりするから、仕方ないんじゃないですかね[249][251]」と述べている。

実際、一部週刊誌やスポーツ紙で「NHKと揉めた」と報道されたが、事が起きた1999年末にはL'Arc〜en〜Cielとして『第50回NHK紅白歌合戦』に出演している。L'Arc〜en〜Cielはこの年以降も、同番組を含むNHKが放送する音楽番組にたびたび出演している他、2010年にはバンクーバーオリンピックパラリンピックNHK放送テーマソングに「BLESS」という楽曲を提供しており、特段不和は見られない。

これに対し、長年語ってこなかった爆笑問題・太田光は、事件から約20年の時が過ぎた2019年2月に、自身がレギュラーを務めるラジオ番組『爆笑問題カーボーイ』において「俺には何もキレてないし、俺たちにはむしろ"すみません"って[252][253]」「彼らの名誉のために言っておくけど、本当に真摯な態度で"申し訳ありません"って帰って行った[252][253]」「番組プロデューサーからNHK側のミスで、と伝えられた[252][253]」と当時を振り返り発言している。なお、tetsuyaは太田の発言を受け、自身のニコニコチャンネルにおいて、「太田さんの口から言っていただけると説得力があります[254]」「自分達のレコード会社とトラブルにはなったがNHKとはトラブルにはなっていない[254]」「NHKにはその後オリンピックのテーマもやらせてもらった[254]」といった発言をしている。これにより、当時週刊誌等で報道された"ラルクと爆笑問題がケンカを起こした"という出来事は無かったと双方の発言により明らかとなった。

ちなみに上記の騒動を踏まえてか、現在に至るまでヴィジュアル系バンドの特集がテレビ番組などで放送される際、L'Arc〜en〜Cielが取り上げられることは少ない[255]。なお、L'Arc〜en〜Cielはレコード会社を通じ、CD取り扱い店舗に<L'Arc〜en〜Cielの商品はヴィジュアル系のコーナーに展開せず、J-POP・ROCKのコーナーに展開して下さい>という内容の書類を送っていたこともあったという。

『ヴィジュアル系』に対するリーダーtetsuyaの見解

tetsuyaは現在まで一貫して、音楽ジャンルでない"ヴィジュアル系"というひとつのムーブメントの枠に包括されることを拒否しており、"ヴィジュアル系"という呼ばれ方を否定している。ただし、ヴィジュアル系と呼ばれるバンドやそれを自称するバンドを名指しで批判してはおらず、ヴィジュアル系が好んで着るファッションに関しても否定的な見解を述べていない。なお、tetsuyaは2004年に受けたインタビューで以下の発言を残している。

事実とはだいぶ曲げられて伝わっているんで、はっきりさせておいたほうがいいですね。もともとラルク アン シエルは自分たちから"ヴィジュアル系です"と言ったことは一度もないんですよ。実際にラルクを作ったときには"ヴィジュアル系"という言葉もなかった。[256]
音楽のジャンルで、ロックとかジャズとかポップスとかパンクとかいうものがあったとしても、ヴィジュアル系っていう音楽のジャンルはないじゃないですか?[256] — 『哲学。』(2004年) tetsuyaの発言より
好きなことやってるだけで、自分たちが周りにどう呼ばれてるのかなんて気にしてなかったし、あんまり知らなかった。それがデビューして2~3年経ったころから、雑誌とか見てるとヴィジュアル系って言葉を目にするようになって、そのなかに俺らも入ってて、それで”あ、ヴィジュアル系って俺らみたいなのを言うんだ!”って初めて知って。で、ヤだなって(笑)。偏見持つわけじゃないですか、好きな人以外は。[257]
ヴィジュアル系が好きな人からはともかく、一般的には、その肩書きだけでちょっと馬鹿にした目で見られるわけですよ。音楽的にはたいしたことやってないとか、音楽が駄目だから見た目で勝負してるとか。で、音を聴いてもらえなくなる。そういうことに対して、すごく怖いなって思って……。ただ、ステージに立つのにそれなりの服装をして、それなりにメイクを施したり髪型を整えたりするっていうのは、俺はアタリマエのマナーっていうか、人前に出るうえで当然のことだと思っているんで。それは今でもそんなに変わってないですね。自分が好きだったアーティストもみんなそういう格好をしてたし、メイクもしてたから、なんの抵抗もなかったわけですよ。[257] — 『uv Vol.102』(2004年) tetsuyaの発言より
『ヴィジュアル系』に対する他メンバーの反応
  • hyde - 1994年に出演した番組で、自身が1980年代にイギリスで流行したニューロマンティックの様式美に多大な影響を受けていることもあり、デュラン・デュランを例にあげたうえで「ルックスも好きだし、でも音楽も大好き[258]」と語り、そのうえで「そういう受け止められ方をして貰うと一番嬉しい」と発言している[258]。そして2000年に受けたインタビューでは「(ヴィジュアル系と呼ばれることは)自分としては嫌だけど、世間がそう言うからには"しょうがない"みたいな諦めがあった[259]」と諦念を含んだコメントを残している。さらに、2012年に本名名義で出版した『THE HYDE』の中で「俺達はそんな枠組みに憧れてバンドをやってた訳じゃなかった[260]」と述べている。また、hydeはこの本の中で、"かつてヴィジュアル系と呼ばれていたバンド"と"2012年当時のヴィジュアル系バンド"の違いについて、「俺達の世代のルーツってメタルとかニューウェーブあたりだと思うけど、俺たち以降は"ヴィジュアル系"がルーツだからね。だから、実は根本が違う[260]」と綴っている。なお、hydeは2023年に受けたインタビューの中で「とにかく自分が楽しいと思うことを自由にやって、ジャンルやシーンのボーダーを壊したい。"こうじゃないといけない"とかそういう固い考えって邪魔だと思ってて。いいところは全部吸収して、自分なりに昇華していったほうが面白いしエンタテインメントとして見たとき、もっとジャンルやシーンがぐちゃぐちゃになったほうがいいと思う[261]」と語っており、ジャンル分けや枠組みに固執しない音楽活動を志向していることを示唆している。
  • ken - 1994年に出演した番組で「ヴィジュアル先行で見られるのは嫌ですか[258]」という問いに対し「そうでもない、先行というか同じ歩調で行けば別に…。"この人、音楽は良いけど顔ダサい"って言われるよりは良い[258]」と発言している。また、2010年には自身のTwitter上で、「自身にどういうあだ名をつけるか」との問いに対して「ヴィジュアル界一の黒さ[262]」と答えている。
  • yukihiro - 2009年に、ヴィジュアル系バンドという呼ばれ方に関し「俺とかがヴィジュアル系って呼ばれていた時(ZI:KILL在籍時)は、"言うな"って思っていた[263]」「自分達で"ヴィジュアル系です"って言うのが出てきた時点で (ラルクはヴィジュアル系とは) 違うと思う。俺とかの頃は"ヴィジュアル系です"って言ってバンドなんかやってなかった[263]」と語っている。なお、yukihiroは自身が加入する前のL'Arc〜en〜Cielの印象について「いわゆるビジュアル系って言われてたわけじゃないですか。そういう人たちがやるような音楽じゃないよなって、それが面白かったですね。みんなにあんまりそういう血がないんだってことですね(笑)[264]」と述べていたことがある。
評論家による評価
  • 市川哲史(音楽評論家、音楽と人元編集長) - 市川はL'Arc〜en〜Cielのスタンスについて「誰がどう観ても聴いてもV系のくせに<V系であること>を頑なに拒否し続けている[265]」と指摘している。その一方で市川は、ヴィジュアル系を集めたエクスタシーレコードの設立者であるYOSHIKIX JAPAN)主催によるヴィジュアル系バンドが集うフェス「VISUAL JAPAN SUMMIT 2016」に、tetsuya以外のメンバー3人がソロ名義で出演したものの、L'Arc〜en〜Cielとしては出演しなかったことについて高く評価している[266]。市川は「今回のフェスは、『出演しなかった奴こそ主役』だったんだな実は。自らの意志で出演を拒んだ奴の勇気と正義、みたいな(苦笑)。だってBUCK-TICKにせよDEAD ENDにせよISSAYにせよ、『ルナフェス出演したけど今回は拒否』組はV系バンドじゃないもんねぇ。だから他の三人がYOSHIKIちゃん祭りの壇上に上がっても、一人だけ出演しなかったtetsuyaの頑なさは、死ぬほど面倒くさいけど立派だと思う。でも初めて感心したよ、あの男に[266]」とコメントしている[267]
  • 藤谷千明(音楽ライター) - 藤谷はヴィジュアル系の代表的なバンドであるX JAPANと比較し、「X JAPANとラルクとでは、”背景とするもの”が大違い[268]」と分析している。また、メンバーの音楽以外の趣味・嗜好を指摘し、「ラルクは明らかに文化系気質のバンド。ゆえにX JAPANを中心においたヤンキー・ヴィジュアル系とは、根本的に趣味・嗜好が異なるわけです。彼らの”主張”も故無きことではないのです[268]」とL'Arc〜en〜Cielのスタンスに一定の理解を示している。
  • 冬将軍(音楽ライター) - 冬将軍は「L'Arc〜en〜Cielはヴィジュアル系と呼ばれることを良しとしていないため、ヴィジュアル系バンドではない[269]」と踏まえたうえで、「しかしながら後発バンドに与えた影響を考えれば、同シーンを語る上では欠くことのできないバンドであることは言うまでもない[269]」と述べている。また、冬将軍はアルバム『DUNE』に関し「彼らが影響を受けたバンドとして挙げているDEAD ENDを彷彿とさせるプログレライクなハードロック要素や、当時ライブの登場SEとして使用していたアメリカのインダストリアルメタルバンド、ミニストリーの無機的なビート感は随所に感じられるものの、同作品の透明感と幻想的な世界観が差配する作風はその完成度の高さとともに、シーンに大きな衝撃を与えた[269]」と後続のバンドに対する影響力に触れたうえで評価している。

楽曲制作

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作詞

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L'Arc〜en〜Cielにおける楽曲制作では、作詞のほとんどをボーカリストのhydeが担当している。時折hyde以外のメンバーが作詞することもあるが、フィジカルシングルの表題曲に関しては「New World」と「FOREVER」を除き、hydeが全ての作詞を行っている。

  • hyde

L'Arc〜en〜Cielとして作詞作業をするようになってしばらくは、今いる世界からの逃避を望んだような歌詞や[270]、遠くを見つめた願望のような歌詞を多く綴っていた[270]。そのため、音楽評論家市川哲史は、1998年に発表されたアルバム『HEART』に関するレビューの中で、hydeが綴る歌詞について「hyde独特の逃避願望である<空に浮かんでたい>癖[271]」と表現していたことがある。なお、hyde自身は1993年に受けた音楽雑誌のインタビューの中で「俺は身の回りのことしか歌わないから、ありえないような話は全部"例え話"だと思ってもらえればいいですね[272]」と述べており、現実離れした世界について書いているつもりはなかったことを示唆している。ただ、hydeは2021年に受けたインタビューにおいて、過去に綴ったリリックについて「(架空の物語の中に)自分にとってのリアリティがあったんです[273]」「書いていたのは想像の世界だけど、自分としてはリアルを求めてそうなった[274]」「(昔の歌詞は)今にして思うと”もうちょっと現実に気が付けばいいんじゃない?”とも思うけど。当時はものすごい出来事を求めてたんでしょうね[274]」と述懐している。また、L'Arc〜en〜Cielがヒットを重ね続けた1998年から1999年頃の作詞作業について、hydeはその当時「何か解放されたい意思っていうのが強い感じ。もう歌詞書いてて"どっか行こうどっか行こう"ばっかり[275]」と述べていたことがある。

hydeは、多感な学生時代に洋楽あるいはハードコアな音楽をよく聴いていたため、バンドを始めた最初の頃は日本語の歌詞を書くことに不慣れだったと述べている。そしてL'Arc〜en〜Cielで作詞を行うにあたり、hydeが参考にしたものは、幼いころから好きだった小田和正オフコース)が綴る歌詞だったという。hydeは、2016年に受けた音楽雑誌『Rolling Stone Japan』の取材において「音楽を作り始めた頃は僕はハードコアや、ゴシックロックにハマってたから、ラルクを始めて、すごくキャッチーな曲がメンバーから出てきた時に、どういう詩を書いていいかさっぱりわからなかったんです。"何を言ってええんやろうな?"ってすごい迷って試行錯誤して詩を書いた時に、開いた引き出しがオフコースで。オフコースの曲って、実は都会的なクールな感じで、歌詞もすごく抽象的だと思います。言葉もかなり選んでいるし。そういうところで、"あ、こういう表現の仕方があるな"って。歌詞もその時の影響が出てる。例えば「Blurry Eyes」は、小田和正さんが使うような言葉がいくつかあると思います[158]」と述べている。このように、自身が尊敬する小田和正が書く歌詞の言葉選びや、抽象的な比喩表現を取り入れていき[158]、"比喩に比喩を重ねた表現"と言われるようなリリックを綴るようになった。hydeは2012年に受けた音楽雑誌のインタビューにおいて、誰にでも分かるような直接的表現を避けてきた理由について「悲しいことを"悲しい、悲しい"って言ってるのはあまり悲しくないんですよ。むしろちょっと引くんですよね。抽象的だったり間接的な表現のほうが伝わるというか[276]」と述べている。

さらにhydeはL'Arc〜en〜Cielの活動当初、視覚的に楽曲をイメージするため、歌詞を書く前に絵を描くようにしていたという。このことについて、hydeは1994年発表のアルバム『Tierra』のインタビューで「これはずっと続けてきていることなんですが、詞を書くうえでのガイドとして、カンタンな絵を1曲ごとに描いて、自分がその世界にいるという気持ちで詞を書いていくんです。そうすると、具体的なものが見えてくる[277]」と語っている。文芸評論家町口哲生は2007年に発行された『別冊宝島』にて、この頃にhydeが綴った詞世界に関し「触覚的な世界(手触り感や肌理をもっているという意味)[278]」と表現している。

2000年頃からhydeの綴る歌詞に、現実を見据えたようなフレーズが増えている。2000年に発表されたアルバム『REAL』に関するインタビューの中で、hydeは「"なんだ、2000年になっても街は何も変わらないじゃん"って。ささやかな望みはあるけど。そういうことを書いてる。『REAL』というアルバムは。諦めてるけど、"ひょっとしたらいいことあるかもね"っていう[279]」「現実的に、深い夢のような未来はあり得ないっていうのが、見えてきてるんだろうね。だから、冷めた詞が多い[280]」と心境の変化を述べている。

アルバム『REAL』をリリースした後、2001年半ばあたりから、hydeを含めたL'Arc〜en〜Cielのメンバー4人は、ソロ活動や別バンドでの活動を始動し、L'Arc〜en〜Cielとしての活動が事実上の休止状態となった。その後L'Arc〜en〜Cielは、バンドを解散させることも考えたが、2003年6月に久々のライブを行い、本格的に活動を再開することになった。そして2004年に、約3年7ヶ月ぶりのアルバム『SMILE』を発表している。このアルバムでは、hydeがこれまでに書いたリリックのテーマとは異なり、ストレートな前向きさを綴った歌詞が多くなっている。この当時に受けたインタビューの中で、hydeは「もう、普通に悲しいだけのCDじゃ、僕、心が動かされないんですよ。今の僕のテンションがそうなのかもしれないけど、悲しい詞を今僕がやると、逆にすごく嘘っぽく書いちゃうような気がするんですよね。あんまり興味がない。そういう悲しい部分を表現した曲もあると思うけど、でもどっかに、ちょっと今の気持ち的には悲しいとか、暗い部分を音源にしたくないなって気持ちがあるのは確かですね[270]」と心境の変化を述べている。また、2005年発表のアルバム『AWAKE』では反戦平和をテーマとした歌詞、2007年発表のアルバム『KISS』では人と人のミニマムな関係性を身近な表現でつづったもの[281]が多く手掛けられている。

hyde曰く、2006年・2007年頃から、"ありふれた日常"をテーマに歌詞を書くようになったという。以前にもhydeは「C'est La Vie」や「TIME SLIP」「ALL YEAR AROUND FALLING IN LOVE」など、いくつかの楽曲の制作で、身近に起きた出来事をもとに歌詞を書いたことがあったが、2007年に発表したアルバム『KISS』には、人に近い表現を用いた歌詞をのせた楽曲が数多く収められている。hydeは2012年に発表した自叙伝において、この当時の心境の変化について「普段の生活の中で、ふと愛に満たされた時、"このまま、死んでもいいや"って思った瞬間に宇宙と繋がった気がした事があったんだよ。なんか、死を迎え入れられた瞬間に"あ、なんだ、宇宙ってこんな物だったのか"って。ちなみに、俺、薬はやってないよ(笑)。そして、宇宙の摂理というか、なんか全てがスッと理解出来た気がして。それが大きかったのかもしれない。その時に、多分、生への執着がなくなったんだろうな。それからというもの、周りのいつもの風景がとても愛おしく感じられるようになってきた。その感覚は、L'Arc〜en〜Cielの「ALONE EN LA VIDA」の歌詞に書いたり、HYDEソロの「I CAN FEEL」とか、その頃の作詞の核になってるんだけど。(中略)"いつ死んでもかまわない"と共に、"いつ死んでもいいように生きよう"って思う自分が加わった感じかな[282]」と綴っている。また、この頃から、リスナーが歌詞の意味を大きく誤解しないよう、比喩だけではなく、直接的な表現を使ったフレーズも意識的に増やし始めている[283]

なお、hyde曰く、歌詞を書く際は作曲者から楽曲のイメージを聞き、それを基に作業を行うことも多いという。そして、映画やアニメーション作品に楽曲を提供する場合は、監督などの製作陣と話し合いを行ったうえで、そのタイアップ作品を意識した歌詞を書くこともある。L'Arc〜en〜Cieは2000年に映画主題歌として「finale」という楽曲を提供しているが、この時の作詞作業についてhydeは「映画と、まったく違うアプローチをしても夢からさめた感じがするし、かと言ってまったく同じだと逆に映画との相乗効果がない気がしたんです。で、自分の感性で、映画の中で流れるなら、こういう感じがいいかなと思ったんです[284]」と当時述べている。

hydeは歌詞を書く行為について、「詞を書くのってホントに面倒くさいけど、人として書いてて良かったなとは思うよ。詞とか文章を書くって、すごくいい事だと思う[285]」「頭で考えてるだけだと、なかなか一つの形にまとまらないんだよね。でも、文章にしていくと"あ、そっか、そう思ってたんだ"って文章って形で見えるからわかりやすいんだ。そうすると突き詰めやすくて、物事の本質が見える[285]」「ヴォーカリストがちゃんと詞を書いて歌を歌うっていう行為は、一番リアルだと思うんですよ。人が書いた詞を歌うっていうのは、やっぱりその人の感性を代弁してるっていう感じだから。それが悪いって意味じゃないけど[286]」と語っている。また、hydeは、音楽における歌詞について「結構ね、中途半端に理解されるべきもんだとは思うんですよ。歌詞なんて、いちいち説明してたらカッコイイわけない[287]」「ちゃんと理解してほしいからといって、いいことばかり書いてもカッコイイものができるとは思わない[287]」と語っており、インタビューなどにおいて歌詞の意図を明言することを避け、解釈をリスナーに委ねることが多い。

総合音楽家の和久井光司は、hydeが綴る歌詞について「あるストーリーの断片を散りばめたような雰囲気重視のもの[288]」と表現しており、「パンク以後の精神性としての”ロックンロール”からは遠く、文学映画演劇の要素まで取り込んで”ロック”とする表現の発展性とみれば大いにありだと思う[288]」と批評している。また、音楽ライターの小杉俊介は、2004年に発行された音楽雑誌『ROCKIN'ON JAPAN』の中で「浪花節的メンタリティーに依然支配されたままのこの国のヒットチャートの中で、<泣き>にも<共感>にも一切頼らないラルクが勝ち続けている事実は、賞賛してすぎることはないと思う[289]」と批評している。

音楽雑誌『MUSICA』の創刊者で音楽ジャーナリスト鹿野淳は、hydeが綴る歌詞の特徴について「バラッドではかなり文学的な言葉世界を展開するものの、ドライヴ・ナンバーになると途端にわかりやすい言葉しか歌わなくなる。だからこそラルクの楽曲はどんな曲でも必ず"聴きとれる"。これは実は凄いことだ[290]」と評している。さらにシンガーソングライター松任谷由実は、1999年に行われた近田春夫との対談において、"同じつぶつぶを持っている人"として、hydeの他、2人の作詞家の名前をあげている[注釈 65][291]。松任谷は、hydeを含む3人の作詞家が書く歌詞について「詞とメロディは連動してるけど、詞に心地よい空白を感じました[291]」と評している。

ちなみにhydeは、好きな日本の作詞家として、前記の小田和正の他、aiko[292]CHARA[293]の名前をあげている。余談だが、hydeは2015年に受けた音楽雑誌のインタビューの中で、aikoが綴る歌詞について「aikoさんの書く詞は素敵だなって曲が流れるたびによく思います[292]」と述べたことがある。

上記のように、L'Arc〜en〜Cielの楽曲の歌詞はhydeがほぼすべて手掛けているが、1996年発表のアルバム『True』以降のアルバムにおいて、hyde以外のメンバーも1〜2曲作詞を担当するようになった。なお、2007年発表のアルバム『KISS』には、hyde以外のメンバー3人それぞれが作詞・作曲を担当した楽曲を、1曲ずつ収録している。hyde以外のメンバーが作詞を担当したL'Arc〜en〜Cielの楽曲は、以下に記す(原曲のみ記載。パートチェンジバンド名義の音源やリアレンジバージョンなどは除く)。

作曲

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L'Arc〜en〜Cielは活動初期から、"メンバー全員がソングライター"というバンドスタイルを採っている。コンポーザーが4人いるが故に、メンバー4人それぞれの個性が、各々の作る楽曲に内包されており、これがL'Arc〜en〜Cielというバンドの最大の特徴になっている[294]。L'Arc〜en〜Cielが作る楽曲には、メンバー4人それぞれのルーツミュージックの要素や、曲を作るタイミングで各々が興味を持っていた音楽性が反映されており、ハードロック[295]ニュー・ウェイヴ[3][295]ポストパンク[3]グランジ[3]オルタナティヴ・ロック[3]インダストリアル[296]ダンス・ミュージック[295]といった多彩なジャンルが混合されている。このように多種多様のジャンルを採り入れ、そのうえで大衆性を注入することで、独自のポップ・ミュージックとして音源を仕上げている[297]

メンバー自身も、"4人全員がコンポーザー"ということをバンドの特徴の一つとして捉えており、hydeは1994年に受けたインタビューで「ラルク アン シエルはテーマを作らないで、みんなが思い思いの曲を書いていくんです。規制を作ってしまうと世界が広がらないと思いますし[277]」と述べている。また、kenは「4人の作曲者がいて、それぞれにいろんな匂いがあるっていう面白さがあると思いますね[298]」と語っている。ちなみにhydeは、L'Arc〜en〜Cielにおけるアルバム制作を「たとえて言えば、みんながキャンバスに好きな色を塗っていって、最終的に出来たものから、こういう絵が描きたかったんだって確認するような感じ[277]」と表現していたことがある。

ちなみに1995年発表の3rdアルバム『heavenly』までの楽曲制作では、作曲者はオケのみを作り、歌メロに関しては基本的にすべてボーカリストのhydeが作っていた[299]。そして1996年に4thアルバム『True』を制作するにあたり、作曲者が歌メロまで作る慣例ができ[299]、L'Arc〜en〜Cielとしてのひとつの制作スタイルが確立している。なお、デモを制作した原曲制作者以外のメンバーがメロディの一部を作りかえた場合は、作曲者クレジットに複数人を併記するかたちをとることが多い。

1998年に"即興的かつロジカルなリズム&グルーヴを生むドラムプレイ"が特徴的なsakuraから、"緻密かつタイトで、マシーン・ビートとの同期も好んだドラムプレイ"が特徴的なyukihiroへとドラマーが代わったことにより、リズムセクションを担う立場にあるtetsuyaのベースのプレイ・音量が変わっている。さらに、kenのギターアプローチの嗜好も変化したことで、この頃からグランジあるいはオルタナティヴ・ロック色の強い楽曲[43] が増えている。また、yukihiroはかつてOPTIC NERVEというユニットでインダストリアルやテクノエレクトロニック・ボディ・ミュージックを志向した作品づくりをしていたことがあり、その後加入したDIE IN CRIESというバンドにおいても、それらから影響を受けたインストゥルメンタルを制作していた経歴があった。そしてL'Arc〜en〜Cielに加入した後も、その音楽的嗜好を反映させた"打ち込みとの同期を採り入れたバンド音楽"を制作している。こういった背景もあり、L'Arc〜en〜Cielの楽曲にクラブ・ミュージックとの親和性が高い音源が増えていくことになった[296]

なお、前述のジャンル以外にも、sakuraを含めたメンバー全員が影響を受けた音楽性として、ヘヴィメタルハードコアがあげられるが、L'Arc〜en〜Cielの楽曲制作においてこれらの要素を分かりやすく採り入れることは少ない[300]。その背景について、kenは「ヘヴィメタル禁止令っぽいものがあった[300]」「あまりにもメタルみたいなのは周りが嬉しそうじゃないような感じだった[300]」と述べている。ただ、L'Arc〜en〜Cielの楽曲のリアレンジ楽曲をリリースするパートチェンジバンド、P'UNK〜EN〜CIELではスレイヤーアイアン・メイデンといった、メンバーが好きなメタルバンドをオマージュしたアレンジメントをお遊びで行っていたことがある。

また、L'Arc〜en〜Cielにおける楽曲制作は当初、各メンバーが提出した原型をもとに、幾度かのバンドセッションを経て、徐々に完成させていくスタイルを基本的に採っていた。ただ、2004年発表の9thアルバム『SMILE』あたりから、各メンバーがセルフスタジオなどでデモ音源を綿密に作るようになり、作曲者がイニシアチブを取りレコーディングを進めていくことも増えていった。バンドの共同プロデューサーを務める岡野ハジメ(ex.PINK)は、2003年以降におけるL'Arc〜en〜Cielの音源制作について「『SMILE』以降はメンバーも自分たちで打ち込んだりとか、プリプロも本ちゃんに近い形で持ってくる人が現れたりしましたね[301]」「『SMILE』(2004)からは別のラルク・ブランドみたいな感じです[302]」と述べている。

L'Arc〜en〜Cielというバンドについて、岡野ハジメは「アレンジにしても、どのジャンルも拡げていける非常に珍しいバンドだと思いますね。"じゃあなんでもいい"ってわけではないんですよ。その使い方も、それぞれこだわりはある[50]」と述べている。また、岡野は1990年代の頃の制作を振り返り「(レコーディング現場にいる)みんながそれぞれプロデューサー的だったと思うんですよ。メンバーも4人、個性的なプロデューサーだと思いますし。全員がアイディアを、"こんなのあったら面白いよね"って口々に言ってて現場に飛び交ってるという感じで。普通だったら収拾がつかないはずなのに、それが何かしらのバランスで、こう、ひとつの作品になっていくという。面白かったですね、そういうのは。プロのやり方だけでは出来ないと思うんですよ。ある種アマチュアリズム的な、それをプロのノウハウでやっていくっていう。レンジが広くないと出来ないワザだと思う[50]」と評している。草野マサムネスピッツ)は、2024年に放送されたTOKYO FM系ラジオ番組『SPITZ 草野マサムネのロック大陸漫遊記』の中で、L'Arc〜en〜Cielが1990年代に発表した楽曲「winter fall」に触れたうえで「ラルクは曲も歌唱もとても魅力的なんですけども、サウンドがねぇ、すごいタイトでカッコいいので、当時あの、レコーディングのときに参考にしていました。なんかこう、サウンドを参考にするアーティストっていうのは、ほぼ洋楽のアーティストっていうか、洋楽のバンドがほとんどだった中で、ラルクはそんな中で数少ない"音がカッコいいなぁ"って思ったバンドでしたね、邦楽のね[303]」と述べている。また、小林祐介(THE NOVEMBERSTHE SPELLBOUND)は、自身にとってのL'Arc〜en〜Cielを「美しさの故郷[304][305]」と表現しており、「激しい曲でも優しい曲でも常に美しいということ、そこが一番影響を受けているというか、心の指針になっているところがありますね[304][305]」と語っている。

さらに、音楽ライターの安藤優は音楽雑誌『ミュージック・マガジン』の中で、L'Arc〜en〜Cielについて「ネクラの代表格ともいえるゴシックやダーク・サイケ風味を大胆に盛り込みつつも、平然とお茶の間に浸透して一般大衆の耳にアピールしてしまえる点に、ラルクの醍醐味や痛快さを感じる[306]」「とかく日本のポップスやロックにありがちな借物だらけの段階での自己満足に終始することなく、イイトコ取りしつつも咀嚼してラルク的に仕立てるセンスには、バンドとプロデューサーの岡野ハジメの並々ならぬ曲者ぶりが発揮されており実に楽しい[306]」と批評している。また、ポピュラー音楽評論家のジョン・ペアレスは、ニューヨークタイムズ紙において「多くの楽曲がメタリカU2デペッシュ・モードデヴィッド・ボウイのようなギター・ロックでありながら、"X X X"のダンス・ポップのようなタッチの、アメリカのロックバンドがやらないスタイルの曲もこなしている[307]」とL'Arc〜en〜Cielの楽曲の多彩さについてコメントしている。

  • L'Arc〜en〜Cielの楽曲ではken、tetsuyaと比べると、hyde作曲のものは少ない。ただ、1995年発表の3rdアルバム『heavenly』までは、他メンバーが作曲したものであっても、歌メロに関しては基本的にすべてhydeが制作していた。また、L'Arc〜en〜Cielの活動初期にhydeが作曲した楽曲の多くは、hyde自身が「初期はカップリングを担当することが多かった[308]」と言っているように、フィジカルシングルのカップリングに収録されていた。なお、これまでに「I'm so happy」のようなポップなメロディと憂いがかったサウンドが印象的なブリットポップの雰囲気を感じる楽曲[309]であったり、「THE GHOST IN MY ROOM」のようなホワイト・ファンクテイストのダンサンブルな楽曲[310]、「Peeping Tom」のような掴みどころのないギターとアコーディオンのサウンドが印象的な楽曲がhyde作曲のカップリング曲として発表されている。
  • hydeが作曲したL'Arc〜en〜Cielの代表的な楽曲として、ミリオンセラーを記録した「HONEY」や「HEAVEN'S DRIVE」があげられる。また、自身が好むニュー・ウェイヴからの影響が反映された「In the Air[311]や、ビートルズを意識し"気怠さ"と"サイケデリック"な雰囲気で制作された「and She Said[312]、1990年代初頭に流行していたネオアコの雰囲気を内包した「flower」、フィードバック・ノイズと情緒あるピアノのイントロからアルト・サックスとバンドサウンドの絡みに展開していく「LORELEY」、クリーンギターのアルペジオからサビに向けてヘヴィなロック調に変化していく「いばらの涙」、軽快なアコースティック・ギターのサウンドが前面に押し出されたロックナンバー「Spirit dreams inside」、ラウドでメタリックなナンバー「AS ONE」も作曲している。
  • 他には、スウィング・ビートならではのハネたリズムが印象的な楽曲「Singin' in the Rain」や、美しく荘厳なサウンドスケープが印象的なバラード「Anemone」、キーボードの音色やサンプリングした音を大々的に取り入れたアダルトなロックナンバー「My Dear」、富樫春生ピアノ三宅純フリューゲルホルンをフィーチャーしたジャズテイストの楽曲「Ophelia」といったソフト・ロックの方向で作った曲を発表している。
  • hydeは自身の曲作りのスタンスについて「楽曲を制作するときは、音源を完成型を思い浮かべたうえで、それに向かって取り掛かることが多い」と述べていたことがある。hydeは2012年に発表した自叙伝の中で、自身の音源制作に関し「自分の曲を、何かと何かをくっつけて、変化させたり、最初はつまらない曲でも、自分の好きな曲にどんどんアレンジしていく。いきなりバンって良い曲が出来る事って、俺にはあまりないから、その曲をずっとアレンジしていく事によって、いい物にしていく感じ[313]」と綴っている。そのため、作った音源に納得できない場合は完成とせず、一旦寝かせ、時を見てアレンジし直してみるという作業を繰り返すことも多い。その反面、hyde曰く、自身の作曲した曲をボツにしてお蔵入りさせたことはほとんどないという。
  • また、hydeは当初「ロックバンドのL'Arc〜en〜Cielとしてどういう楽曲を作るか」に焦点を当てて作曲することが多かったが、2011年・2012年に受けたインタビューの中で「L'Arc〜en〜Cielはロックバンドというより、音楽集団。音楽を作るアーティストの集まりだと思ってる。それぞれが音楽として楽しめるかが重要であって、それがロックかどうかっていうのは全然違う。ロックの楽しいところも、ポップスの気持ちいいところも持ってる。すごくいいとこどりですよ[314]」「L'Arc〜en〜Cielは、楽しい以上のことを追求してる。エンジョイしてOKじゃなくて、もっと音楽的にレベルの高いところを挑戦しないと、やる意味がないってところにきてるバンドだと思うんです[315]」と語っており、特定の音楽観に従属しない姿勢に変化してきている。こういったバンドに対する心境の変化もあってか、2000年代後半以降は、1980年代のユーロビートを意識した「SEVENTH HEAVEN」や[316]、ポップなジャズテイストのクリスマスソングである「Hurry Xmas」、"R&Bメタルをくっつける"というコンセプトで制作された「X X X[317]エレクトリック・ヴァイオリンの音を取り込んだエレクトロでファンタジックな楽曲「ミライ」など、企画性の強い楽曲も手掛けるようになっている。


  • kenはL'Arc〜en〜Cielの楽曲の作曲を一番多く手掛けており、作曲数はリアレンジ音源などを除き50曲を超えている。そのためkenは、メンバー全員が作曲を担当するかたちを採っているL'Arc〜en〜Cielというバンドにおいて、中心的なコンポーザーに位置付けられる。ちなみにhydeは、kenが作る楽曲について「L'Arc〜en〜Cielの核」と表現したことがある。
  • ken曰く、オリジナル曲を作り始めたのは高校生の頃だったという[318]。kenは高校の頃にtetsuyaに誘われ、ギタリストの脱退したByston-Wellに参加したことがあったが、このバンドではkenが作ったオリジナル楽曲も演奏していたいう。そして、kenが学生時代に趣味の一環で制作していた楽曲は、1stアルバム『DUNE』に「Taste of love[319]Be destined[320]としていくつか収録されることになった。なお、6thアルバム『ark』に収められた「Butterfly's Sleep」の制作では、kenがByston-Wellに在籍していた頃に作った楽曲のメロディの一部が採用されているという[321]
  • 活動初期の頃に発表した1stアルバム『DUNE』から3rdアルバム『heavenly』に収められた楽曲は、ken作曲の楽曲が半数以上を占めており、「Voice」や「As if in a dream」「風の行方」「Vivid Colors」「ガラス玉」など、kenが作る曲を中心にアルバムが制作されている。ただ、メジャーで発表したアルバム2作のセールスが振るわなかったことで、レコード会社のスタッフに「ラルクは売れない」と言われるようになったという。こういった声を耳にしたkenは、1996年に開始した『True』の制作で、マスへのアプローチを意識し、ポップなメロディをつけた楽曲の制作に取り組むことにしたという。後年kenは、2004年に受けた音楽雑誌のインタビューで、アルバム『True』を制作していた頃の心境について「(L'Arc〜en〜Cielが)売れねえって声が聞こえた時、自分が一番曲を書いていたんです。で、"曲が悪いんだろう"、"俺が悪いんだろう"、"そりゃ売れねえの作ってるよ、俺は"と思ってたわけです。そこから始まったのかもしれない[322]」と述懐している。そしてkenは、このアルバムから「Lies and Truth」や「the Fourth Avenue Café」「Fare Well」といったストリングスホーンを大々的に導入した音源も手掛けるようになった。
  • その後sakuraがL'Arc〜en〜Cielから脱退することになり、活動休止期間を経て、新たなメンバーであるyukihiroと5thアルバム『HEART』を制作することになるが、その際kenは「こんな時期に(売上)枚数のこと言う人もいない[323]」ということで、前作『True』で確立したL'Arc〜en〜Cielなりのポップ・ミュージックを基本としながらも、『True』とは違うアプローチで音源制作を行うようになった。また、このアルバムに収録された「Shout at the Devil」や「fate」に表れているように、徐々にオルタナティヴ・ロックグランジに寄ったギターアプローチで制作を行うようになっていった[271]
  • L'Arc〜en〜Cielがヒットを飛ばしていた1999年頃にkenは、アップテンポの明るい楽曲を制作できなくなっていたという。その理由について、kenは当時「周りから過剰に明るい曲を求められてるような空気を感じたとたんに、もう全然書けなくなって[324]」と述べていた。ただ、L'Arc〜en〜Cielの活動が2001年から約3年ほど止まった間に心境の変化が生まれ、2004年に発表した9thアルバム『SMILE』以降は、時折明るいポップ・ミュージックを手掛けるようになっている。ちなみにken曰く、L'Arc〜en〜Cielの活動休止期間に、SONS OF ALL PUSSYSとして野外ロックフェスへ参加したり、観客としてフェスを観に行ったことが、明るい曲を書くひとつのきっかけになったという。kenは、2004年に受けたインタビューにおいて「(これまでは)明るい曲って受けつけなかったんですね。(中略)でも、(L'Arc〜en〜Cielの活動が止まった)3年の間に明るい曲が人を元気にしたり、カーステで鳴らしてイエーイっていうだけでも音楽の意味があるんじゃないかと思い始めて。そういう曲も書いてみたいなと思って書き始めた[154]」と心境の変化を述べている。なお、9thアルバム『SMILE』の制作では、1960年代・70年代の頃のフォークとロックを意識したポップスとして「Feeling Fine[154]を作曲している。
  • kenが作曲したL'Arc〜en〜Cielの代表的な楽曲として、バンド名の日本語訳でありバンドにとっての代表曲でもある「」や、ミリオンセラーを記録した「花葬」「NEO UNIVERSE」があげられる。さらにkenは、チャート首位を飾った「winter fall」や「MY HEART DRAWS A DREAM」「DAYBREAK'S BELL」も作曲している。また、kenは他に、ボサノヴァを思わせるアレンジに歪んだギターサウンドをのせた「眠りによせて」や[325][326]ピアノの弾き語りのような「瞳に映るもの」、レゲエをブレンドした「Wind of Gold[327]変拍子を多用したオカルティックな印象のある「浸食 〜lose control〜[328]、マーチング・ビートのようなドラミングと壮大な上ものが印象的な「forbidden lover」、浮遊感の強いシンセサイザーのサウンドが印象的な映画音楽のような「the silver shining」、ギターリフが印象的なハードナンバー「THE NEPENTHES」、クラシカルなイントロからモダンな16ビートに展開する「叙情詩[329]ラテンのリズムを採り入れたシンセ・ポップテイストの「Wings Flap[330]など、様々なジャンルの境界線を越えたボーダレスな楽曲を制作している[331]。さらにkenは、トラディショナルな趣のあるサウンドが印象的な「Coming Closer」や、ゴシックインダストリアルから派生したダーク・エレクトロのムードを纏った「EVERLASTING[332]も作曲している。なお、ken曰く、この2曲は「架空の異国民謡」[333][334]を意識して作ったといい、2004年に発表した「Coming Closer」に関しては「一つの転機になった[335]」と述べていたことがある。
  • kenは自身の曲作りのスタンスに関して「無理矢理、作ろうとするのではなくて、その時に自分が感じる空気をそのまま曲にするという作り方ですね。空気って、説明するのが難しいんですけど、それがあるかないかでまったく違うんですよ。そのなかに空気がなかったら、作る意味はないかなって、ちょっと思います[331]」と語っている。また、ken曰く、自身の楽曲制作には、飽き性な性格が影響しているという。kenは2010年に受けた音楽誌のインタビューで「何回もその方法でやってくうちに、自分が飽きちゃうのも知ってるから。もう1回やろうよってなった時、自然にそうなればいいけど"あの方法があったじゃん"でやるのは、後なぞりな気がして嫌なんですよ[336]」「"お、そういうことしたことないねえ"って思った時が、いちばんワクワクする[336]」と述べている。このようにkenは、その時々の気分で音源制作の方向性や手法をガラリと変えることが多い。
  • ちなみにkenは、自身の思うポップ・ミュージック像について「特殊なものが整合性を持った時にポップになると思ってる[337]」「凄く難しいことなんですけど、その時代を背負ってなきゃいけないくせに、その時代と一緒になったらダメなんですよね。と、思ってるんですよ。そこの隙間を見つけた時だと思う[338][339][340]」と述べている。また、kenは「みんなが求めているけど、今あるものじゃダメ[340]」「下世話だとダメだという気はしますね。下世話になると、何年後かに聴いてつまらなくなると想う。ライヴでも自分でやりたくないだろうし[340]」とも語っており、制作の際に安易に日本の流行に迎合しない姿勢をとっていることがうかがえる。
  • なお、kenは、ほかのメンバーが作曲した音源のレコーディングにおいても、中心的なポジションで制作に携わることが多い。hydeは、コンポーザー・アレンジャーとしてのkenについて「自分達にはわからないレベルの音楽的な部分は、彼に一任しているので。(中略)彼が作ってくるデモの時点でかなり完成されてるんで。そういう意味で、彼の曲じゃない曲をやる時にも頼りになるっていう感じです。常に上にいる人って感じかな[341]」「(バンドメンバーの)みんな、kenには一目置いてると思う。アレンジ面だったり、エンジニア的な音質の部分だったり、ダビングの構築であったり。もちろん、作曲家としても他に類を見ない存在で。自分と比べても、音楽的に優れてる[342]」と述べている。


  • tetsuyaの作曲した楽曲数は、ken作曲の楽曲より少ないが、フィジカルシングルの表題曲になった楽曲に関しては15曲以上におよぶ。そのため、シングル表題曲になった楽曲の割合は、メンバー4人の中で一番大きい。
  • tetsuyaが制作する楽曲の多くは、浸透力あるメロディーラインが特徴で[343]、L'Arc〜en〜Cielの共同プロデューサーを務める岡野ハジメは、tetsuya作曲の楽曲を「テツポップ[50]」と表現している。kenは、作曲者としてのtetsuyaについて「メジャー・キーを愛す男だなと。ある種メロディで、十代の持つ気持ちを忘れてないなという感じがしますね[154]」と評している。また、岡野ハジメはL'Arc〜en〜Cielの楽曲について、tetsuyaの作る曲に触れたうえで「特殊なバンドですよね。特にyukihiroくんの曲とかは結構マニアックですから。とかくある程度成功していったバンドはマニアック方面にズブズブといってしまう場合が多いんですけど、そのへんはちゃんとポップチューンを押さえてる。特にtetsuの曲とかは、こういう中で聴くといつも温かい気持ちになりますからね、出てきた瞬間に。イントロが出た瞬間になんか温かいというか、こう、お家