城戸則文

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城戸 則文
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県北九州市
生年月日 (1939-03-05) 1939年3月5日(85歳)
身長
体重
182 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1957年
初出場 1957年6月13日
最終出場 1974年10月14日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

城戸 則文(きど のりふみ、1939年3月5日 - )は、福岡県北九州市[1]出身の元プロ野球選手内野手)・コーチ

画家タレント城戸真亜子は姪に当たる。

経歴

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常磐高校から1957年西鉄ライオンズへ入団[1]。大型内野手として期待され、1958年にはウエスタン・リーグの本塁打王と打点王を獲得[1]。入団して2年間はあまり一軍の試合に出られなかったが、3年目の1959年には中西太の故障もあって開幕から三塁手として起用される。同年の近鉄戦で黒田勉に死球を受け、深刻なダメージを受けた影響で、後に極端に死球の少ない選手として知られる。打撃フォームも極端なクローズドスタンスから身体を開きつつ打つ独特なもので、死球を避ける工夫でもあった。中西が1960年に腱鞘炎を患い常時出場が困難になったこともあり、小淵泰輔を制して後継の三塁手に定着。1961年には初の規定打席(25位、打率.198)に達し、1963年のリーグ優勝に貢献。巨人との日本シリーズでも全7試合に8番・三塁手として先発出場、24打数9安打を記録し首位打者賞を獲得。1964年にはオールスターゲームに出場[1]し、同年はリーグ10位の打率.284・12本塁打の好記録を残す。1966年には船田和英遊撃手に入り、トニー・ロイが三塁手に回ったため、定位置を失う。1967年サンケイアトムズへ金銭トレードで移籍[1]し、同年は三塁手として徳武定之と併用された。1968年には徳武が中日に移籍するが、丸山完二が三塁手に転向したこともあり、主に遊撃手として起用される。その後も内野をどこでもこなすユーティリティープレイヤーとして長く活躍し、1974年に現役を引退[1]

引退後はヤクルトのスカウト(1975年 - 1977年)、クラウン→西武の一軍守備・走塁コーチ(1978年 - 1980年, 1988年 - 1989年)、スカウト(1981年 - 1987年)、二軍守備・走塁コーチ(1990年 - 1991年)、三軍打撃コーチ(1992年)を務めた[1]。西武コーチ時代はゴロの捕り方ひとつにしても、基本から何度も反復練習させるなど、基本からみっちりと教え込むタイプであった[2]。内野の守備陣型や連係プレーを徹底的に教え込み、ベテランや若手の区別なくノックの雨を降らせ、選手と一緒になって汗を流す兄貴肌で人望も厚かった[3]。西武退団後は少年野球の指導に携わったほか、沖データコンピュータ教育学院総合コーチ(? - 2004年, 2007年[4] - 2015年[5])も務めた。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1957 西鉄 12 19 19 1 4 0 0 0 4 0 0 1 0 0 0 0 0 6 0 .211 .211 .211 .421
1958 25 31 27 2 8 0 1 0 10 4 0 0 0 0 3 0 1 9 0 .296 .387 .370 .757
1959 117 364 339 35 87 13 9 2 124 25 6 5 1 1 22 0 1 84 6 .257 .304 .366 .670
1960 117 346 321 36 80 10 4 4 110 23 6 4 5 2 18 0 0 64 7 .249 .289 .343 .632
1961 132 443 409 40 81 7 3 5 109 33 7 1 6 1 26 4 1 95 8 .198 .248 .267 .514
1962 127 392 370 26 78 12 5 4 112 33 6 4 3 2 17 1 0 72 8 .211 .245 .303 .548
1963 134 343 313 24 82 7 2 8 117 30 8 6 8 3 19 0 0 53 10 .262 .304 .374 .678
1964 146 557 510 47 145 20 5 12 211 51 2 12 5 5 37 1 0 99 3 .284 .333 .414 .746
1965 132 462 412 36 101 13 1 11 149 38 7 1 10 2 37 8 1 75 9 .245 .309 .362 .671
1966 117 187 169 12 40 8 2 1 55 12 4 2 4 1 13 0 0 36 1 .237 .291 .325 .617
1967 サンケイ
アトムズ
ヤクルト
104 319 289 22 72 12 2 5 103 25 2 3 2 0 28 1 0 54 7 .249 .315 .356 .672
1968 128 406 377 43 97 19 5 6 144 41 9 1 7 0 22 4 0 65 13 .257 .298 .382 .680
1969 86 248 230 18 47 6 0 1 56 20 1 2 7 2 9 2 0 40 5 .204 .234 .243 .478
1970 84 190 178 9 29 2 1 1 36 9 0 1 7 0 5 0 0 34 1 .163 .186 .202 .388
1971 106 205 189 13 45 5 3 3 65 20 4 0 4 2 10 4 0 23 5 .238 .276 .344 .620
1972 71 117 105 6 22 4 0 3 35 14 0 0 2 2 8 0 0 18 3 .210 .265 .333 .599
1973 79 126 115 4 28 2 1 0 32 11 2 0 10 1 0 0 0 12 2 .243 .243 .278 .522
1974 49 123 110 7 19 4 0 0 23 4 1 1 2 1 10 3 0 17 2 .173 .242 .209 .451
通算:18年 1766 4878 4482 381 1065 144 44 66 1495 393 65 44 83 25 284 28 4 856 90 .238 .284 .334 .617
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • サンケイ(サンケイスワローズ)は、1969年にアトムズに、1970年にヤクルト(ヤクルトアトムズ)に球団名を変更

表彰

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記録

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初記録
節目の記録
その他の記録

背番号

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  • 52(1957年 - 1959年、1973年 - 1974年)
  • 9(1960年 - 1972年)
  • 73(1978年)
  • 65(1979年 - 1980年)
  • 76(1988年 - 1992年)

脚注

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  1. ^ a b c d e f g プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、186ページ
  2. ^ 1979年西武ライオンズファンブックより。
  3. ^ 1980年西武ライオンズファンブックより。
  4. ^ 沖データコンピュータ教育学院硬式野球部
  5. ^ スポニチ Sponichi Annex 「じいちゃん」こと城戸則文さんとガッツポーズをする創成館の高雄幸次郎

関連項目

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外部リンク

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