不破彦麿
不破 彦麿(ふわ ひこまろ、1865年11月21日(慶応元年10月4日)[1] - 1919年(大正8年)9月2日[2])は、日本の農商務・内務官僚。官選佐賀県知事、山口県下関市長[3]。族籍は福岡県士族[3][4]。
経歴
[編集]筑前国福岡(現在の福岡県福岡市)荒戸町で、福岡藩士・不破国雄の長男として生まれる。1892年7月、帝国大学法科大学を卒業[1]。同月、農商務試補に任官し参事官室に配属された[5]。
以後、農商務参事官兼農商務大臣秘書官、同省特許局審判官、佐賀県事務官、兵庫県事務官・第一部長兼第三部長[6]、東京府事務官・内務部長[7]などを歴任[1]。
1911年10月、佐賀県知事に就任[1]。1914年6月9日、知事を休職[8]。1917年10月、下関市長に就任[9]。小学校の整備、市営火葬場の建設、下関駅-唐戸間臨港線の着工、竹崎魚菜市場の開場などに尽力。また1918年8月の米価大暴騰時に、困窮者のため朝鮮米を買付けて安価で販売を行った[10]。1919年9月、在任中に死去した。
家族・親族
[編集]- 不破家
- 1846年 -
- 1846年 -
- 1879年 -
- 1904年 -
- 1900年 -
- 二女・ハナ[4]
- 1901年 -
- 1906年 -
- 1909年 -
- 1911年 -
- 四男・修平[3]
- 1915年 -
脚注
[編集]- ^ a b c d 『新編日本の歴代知事』992頁。
- ^ 「李家隆介山口県下関市長就任ノ件」
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『人事興信録 第5版』ふ1頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年2月11日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『人事興信録 第4版』ふ1頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年3月31日閲覧。
- ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』155頁。
- ^ 『官報』第6925号、明治39年7月30日。
- ^ 『官報』第8410号、明治44年7月5日。
- ^ 『官報』第557号、大正3年6月10日。
- ^ 「不破彦麿山口県下関市長ニ就任ノ件」
- ^ 『日本の歴代市長』第3巻、157頁。
参考文献
[編集]- 東京帝国大学編『東京帝国大学一覧 從大正2年 至大正3年』東京帝国大学、1913-1924年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第3巻、1985年。
- 内閣「不破彦麿山口県下関市長ニ就任ノ件」大正6年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-019-00・任B00824100
- 内閣「李家隆介山口県下関市長就任ノ件」大正8年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-019-00・任B00901100