六条天皇
六条天皇 | |
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『歴代尊影』 | |
即位礼 | 1165年9月4日(永万元年7月27日) |
大嘗祭 | 1166年12月9日(仁安元年11月15日) |
元号 | 永万 仁安 |
時代 | 平安時代 |
先代 | 二条天皇 |
次代 | 高倉天皇 |
誕生 | 1164年12月28日(長寛2年11月14日) |
崩御 | 1176年8月23日(安元2年7月17日) 東山第 |
大喪儀 | 1176年8月28日(安元2年7月22日) |
陵所 | 清閑寺陵 |
追号 | 六条院 (六条天皇) |
諱 | 順仁 |
父親 | 二条天皇 |
母親 | 伊岐致遠女 |
中宮藤原育子(左大臣徳大寺実能、もしくは法性寺関白藤原忠通の女)を母后とする |
六条天皇(ろくじょうてんのう、旧字体:六條天皇、1164年12月28日〈長寛2年11月14日〉- 1176年8月23日〈安元2年7月17日〉[1])は、日本の第79代天皇(在位: 1165年8月3日〈永万元年6月25日〉- 1168年3月30日〈仁安3年2月19日〉)。諱は順仁(のぶひと)。
来歴
[編集]数え2歳(満7か月と11日)で親王宣下・立太子し、その日のうちに践祚した。これが歴代最年少での皇位への即位である。その1か月後の7月27日に即位式が行われるが、途中で泣き出して中断したために、参議・中山忠親が「赤ん坊には儀式よりも乳の方が大切だ」と機転を利かせ、慌てて乳母の蔵人頭藤原邦綱女・成子が授乳してやっと落ち着かせたという。政務は外伯父の摂政近衛基実と邦綱が表向きを取り仕切った。
在位2年8か月で祖父後白河上皇の意向により、叔父の憲仁親王(高倉天皇)に譲位して歴代最年少の上皇となった。その後は後白河院の庇護下に置かれたが[注釈 1]、これは六条院が反対派に擁されることを防ぎ自己の王権を安定させるための後白河院の措置だったとみられる[2]。その後元服を行うこともなく、数え13歳(満年齢11歳8ヶ月)で崩御、死因は赤痢と言われる[3]。后妃も子もなかった。
父の二条天皇は在世中に親政を行おうとして後白河院と対立した上、異母弟・憲仁親王の擁立を画策したとして、憲仁親王の叔父・平時忠を流罪、平教盛・藤原成親・坊門信隆を解官して後白河院の院政を停止させた。しかし、二条天皇を次代の治天と定めた鳥羽法皇・美福門院を喪った後、天皇の立場は極めて不安定な状況下に置かれた中で病に倒れ、母方の極めて弱い六条天皇を後継者と定めて院政を行うことも出来ないまま崩御してしまった(松薗斉は母方に力のない皇子への譲位は本意では無かったのではないかと推測する)。加えて、二条天皇派として期待された摂政・近衛基実までも喪ったことで、父院からも摂政からも支援を受けられなくなった六条天皇は名前ばかりの存在となり、政治の実権を奪われていた後白河院が平清盛と手を結んで甥から叔父へという不自然な皇位継承を実現させた。譲位後も、仮に皇子を儲けることが出来れば、その後の不安定な政情からその皇子が皇位継承の候補者として存在し得た可能性が高いものの、13歳の若さで崩御したことでその可能性も喪われてしまった[4]。
系譜
[編集]二条天皇の第二皇子(第一皇子は大僧都尊恵だが、六条天皇が第一皇子とみなされる場合もある)。母は松尾大社社家の大蔵大輔伊岐致遠女[注釈 2]。母の身分が卑しかったため、父帝の中宮藤原育子を母后と公称した[注釈 3][注釈 4]。
系図
[編集]77 後白河天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
78 二条天皇 | 以仁王 | 80 高倉天皇 | 亮子内親王 (殷富門院) | 式子内親王 | 覲子内親王 (宣陽門院) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
79 六条天皇 | 某王 (北陸宮) | 81 安徳天皇 | 守貞親王 (後高倉院) | 82 後鳥羽天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
86 後堀河天皇 | 83 土御門天皇 | 84 順徳天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
87 四条天皇 | 88 後嵯峨天皇 | 85 仲恭天皇 | 忠成王 (岩倉宮) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
在位中の元号
[編集]日付は旧暦日。
陵・霊廟
[編集]陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町にある清閑寺陵(せいかんじのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。かつては高倉天皇陵と同所とされていたが、近世になって「上ノ山神」あるいは「ホケドウ」と呼ばれていた竹やぶに治定された。
また皇居では、宮中三殿のひとつ皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『たまきはる』によると、承安3年(1173年)4月12日に発生した法住寺・萱御所の火災において、新院(六条院)が人に抱きかかえられて避難したとあり、後白河院と同居していたことが分かる。
- ^ 六条天皇生母の出自については諸書に異同がある。「大蔵大輔伊岐善盛女」[5]、「伊岐兼盛女」[6]、「伊岐吉盛女」[7]、「大蔵大輔藤原義盛女」[8]、「大蔵大輔伊岐宗遠女子」[9]。『山槐記』永暦元年11月15日条に「大蔵少輔伊岐善盛」との記載があるため、『本朝皇胤紹運録』による「伊岐善盛女」が正しいと考えられる[10]。
- ^ 藤原育子の出自について、『尊卑分脉』は左大臣徳大寺実能の娘で法性寺関白藤原忠通の養女となったとしているが、別の資料では忠通の実の娘だったともいい、育子を通して摂関家の近衛基実が外戚として六条天皇を後見したのは事実である。
- ^ 六条天皇と徳大寺家の関係については、生母の実家伊岐氏が徳大寺家の家司の家柄であることから、徳大寺家が伊岐氏に代わって事実上の外戚とみなされたとする見方があり、六条天皇即位直前に徳大寺実定が権大納言を辞任したことや六条天皇譲位の背景には清盛による徳大寺家排除の意図があったとする見方もある[11]。
出典
[編集]- ^ 『六条天皇』 - コトバンク
- ^ 佐伯智広「高倉皇統の所領伝領」『日本史研究』549号、2008年。/所収:佐伯『中世前期の政治構造と王家』東京大学出版会、2015年。ISBN 978-4-13-026238-5。
- ^ 山内益次郎「幼帝六条天皇」『今鏡の周辺』和泉書院、1993年、75頁。
- ^ 松薗斉「六条天皇」『中世の王家と宮家』臨川書店〈王朝時代の実像15〉、2023年、70-73頁。
- ^ 『本朝皇胤紹運録』
- ^ 『簾中抄』
- ^ 『平家物語』
- ^ 『百錬抄』
- ^ 『愚管抄』
- ^ 竹鼻績『今鏡(上)』講談社〈講談社学術文庫〉、1984年、524頁。
- ^ 中村文『後白河院時代歌人伝の研究』笠間書院、2005年、48-49頁。