後土御門天皇

後土御門天皇
後土御門天皇像(西蓮寺蔵)

即位礼 1465年5月22日文正元年4月28日
大嘗祭 1467年1月23日(文正元年12月18日
元号 寛正
文正
応仁
文明
長享
延徳
明応
時代 室町時代戦国時代
征夷大将軍 足利義政
足利義尚
足利義稙
足利義澄
先代 後花園天皇
次代 後柏原天皇

誕生 1442年7月3日嘉吉2年5月25日
和気保成
崩御 1500年10月21日明応9年9月29日
黒戸御所
陵所 深草北陵
般舟院陵(分骨所)
追号 後土御門院
(後土御門天皇)
成仁
別称 正等観(法名)
父親 後花園天皇
母親 大炊御門信子
典侍 庭田朝子
勧修寺房子
子女 勝仁親王(後柏原天皇
尊敦親王
応善女王
仁尊法親王
今若宮
大慈光院宮
智円女王
理琇女王
皇居 康正度内裏 (京都御所)
室町第
親署 後土御門天皇の親署
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後土御門天皇(ごつちみかどてんのう、1442年7月3日嘉吉2年5月25日〉- 1500年10月21日明応9年9月28日〉)は、日本の第103代天皇(在位:1464年8月21日寛正5年7月19日〉- 1500年10月21日〈明応9年9月28日〉)。成仁(ふさひと)。

後花園天皇の第一皇子。生母は藤原孝長の女で大炊御門信宗の猶子の大炊御門信子(嘉楽門院)。

生涯

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生母である伊与局の出身身分が低く、当初は将来は出家させるつもりで父である後花園天皇の実家である伏見宮家にて育てられていたが、後花園天皇に他の男子が生まれなかったために、生母を公卿である大炊御門家の養女ということにして、皇位継承者として定められた[1]

康正元年(1455)、14才になると侍読に中原康富が付き学問を学んだ[2]。他に吉田兼倶一条兼良清原宗賢らから和漢の講義をたびたび受けた[3]

長禄元年(1457年12月19日親王宣下、寛正5年(1464年)7月19日に後花園天皇の譲位を受けて践祚(即位日は、寛正6年(1465年12月27日)。文明2年(1470年)まで後花園上皇による院政が行われた。

践祚後ほどなく応仁の乱が起き、寺社や公卿の館は焼け、朝廷の財源は枯渇して朝廷は衰微した。また、天皇自らも「赤疹(おそらく、当時の京で流行していた麻疹)」にかかるなど、災難に見舞われた[4]。乱を避けるため、足利義政室町第に10年の間避難生活を強いられた。避難生活中には、義政正室日野富子に仕える上臈の花山院兼子と密通して皇女を出産している(『親長卿記』文明5年10月22日条)。屋敷内での密通は本来であれば室町第の主人である義政や兼子の主人である富子によって厳罰に処せられる行為であったが、その当事者の身分ゆえに天皇・兼子ともに不問にされている[5]。また、その富子との密通も噂されていた[要出典]。更に応仁の乱の最中にもかかわらず義政が度々室町第で酒宴を開いていたとされているが、その酒宴には常に天皇が同席して一緒に飲酒している有様であった(『親長卿記』文明3年11月25日・同4年4月2・3日条、『実隆公記』文明4年4月2日条など)[6]

応仁二年(1468)一月一日には「四方拝」以下の朝儀一切が中止となった[7]

文明九年には足利義政広橋兼顕の要請により、伊勢国司北畠政郷以下、東大寺、興福寺、粉河寺、高野山の衆徒に北畠政長と協力し北畠義就を討つよう命じた綸旨を発給した(『高野山文書』)[8]

乱の終結後、朝廷の古来の儀式の復活に熱意を注ぐが、思うように行かなかった。それでも、元日白馬踏歌の三節会は再興され、現在は国立歴史民俗博物館に所蔵されている「節会諸役人控」は当時(後土御門天皇期)の節会に参列した公家たちの交名(名簿)である[9]

文明四年(1472)から文明七年には賢所御神楽が再興された。これには後土御門天皇の強い意向があったことが記録されている[10]。 文明七年一月一日には四方拝が再開された[11]

文明九年(1477)、応仁の乱が終結し後土御門天皇は京都平定を祝し、足利義政に剣を与えた[12]

文明十一年には内裏の修繕が終わり、避難先の室町殿から内裏へと還幸した[13]

長享二年(1488)に疫病が流行すると嵯峨、後光厳、後花園の書写した般若心経を取り寄せ礼拝し、四大寺(東大寺興福寺延暦寺園城寺)に祈祷を命じ、吉田兼倶に疫神を祭らせ疫病の終息を願った[14]。 明応元年(1489)に再び疫病が流行すると、京都の大覚寺で般若心経を取り寄せ、主上以下が頂礼し、上賀茂神社下賀茂神社に祈祷を命じ、全国でも般若心経を読誦させ疫病の終息を願った[15]

延徳三年(1491)に足利義材六角高頼の討伐を決め、後土御門天皇に綸旨の発給を要請したため、綸旨と錦の御旗が下賜された。この効果のためか六角高頼は伊勢国に逃亡し、六角虎千代が新たな近江国守護となった[16]

明応の政変に憤慨して一時は譲位を決意するが、老臣である権大納言甘露寺親長の諫奏によって取りやめる(『親長卿記』明応2年4月23日条)。その背景には、朝廷に譲位の儀式に掛かる費用がなく、政変を起こした細川政元にその費用を借りるという自己矛盾に陥る事態を危惧したとも言われている。

後土御門天皇は5回も譲位しようとしたが、政権の正統性を付与するよう望んでいた足利将軍家に拒否された[17]

明応9年9月28日、御所の黒戸にて崩御。宝算59。葬儀の費用も無く、40日も御所に遺体が置かれたままだった[18]。このことは近衛政家による『後法興院記』の明応9年11月11日条に「今夜旧主御葬送と云々。亥の刻許(ばか)り禁裏より泉湧寺に遷幸す。(中略)今日に至り崩御以降四十三日なり。かくの如き遅々、さらに先規あるべからず歟(か)。」と記されている[19]。一方で、平安時代後一条天皇の崩御を隠して後朱雀天皇への譲位を行って以来、在位中の天皇の崩御は禁忌となったため、10月に後柏原天皇への「譲位」による践祚を行った後に「旧主(上皇)」としての葬儀を行ったとする解釈もある[20]。また、江戸時代に書かれた『続本朝通鑑』には「霊柩在黒戸四十日余、玉体腐損、而蟲湧出、古来未曾有焉(霊柩黒戸にあること四十余日、玉体腐損し、虫湧出し、古来未曾有)」と記されているが、同書以外にそのことを記した記録はない。奥野高広は論文「戦国時代の皇室御経済」(1944年)の中に出征中に急死した足利義尚の遺体が水銀による防腐措置が採られていた例を挙げて否定的な評価をした。これに対して久水俊和は防腐措置があっても43日間は余りにも長く、鎌倉時代四条天皇の棺が葬儀の遅延に伴う長期の放置によって「御骨許相残」の状態(『平戸記』仁治3年2月2日条)になったのと近い状態だったのではないかと推定している。なお、後土御門天皇の葬儀に関しては東坊城和長が詳細な記録(『明応凶事記』)を残しているが、天皇の遺体の状態については記されていない[21]

和歌

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後土御門天皇宸筆の詠草(東京国立博物館

後土御門天皇は敬虔な仏教徒であり、貧窮は自分の罪障が原因と考えて、阿弥陀仏の慈悲に希望を託した。後土御門天皇は、以下の和歌を詠じた[22]

誓ありと 思ひうる身に なす罪の 重きもいかで 弥陀はもらさむ
罪びとのだれよりも重いのだ
朕の犯せる罪は。
救われると知っておかしたものだから
どうして阿弥陀さまは
仏の誓願から朕をはずされないであろうか

(別解釈)

(罪人や極悪人をも救うという弥陀の)誓願のあることを
思いながら自らの手で
作った罪が
どれ程に重く深いかを(知っていながらも)
阿弥陀如来は決して漏らす事なくお救い下さる

系譜

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後土御門天皇の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 北朝3代 崇光天皇
 
 
 
 
 
 
 
8. 伏見宮栄仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 庭田資子
 
 
 
 
 
 
 
4. 伏見宮貞成親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 三条実治
 
 
 
 
 
 
 
9. 正親町三条治子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2. 第102代 後花園天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 庭田重資
 
 
 
 
 
 
 
10. 庭田経有
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5. 庭田幸子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
22. 飛鳥井雅冬
 
 
 
 
 
 
 
11. 飛鳥井雅冬の娘
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. 103代 後土御門天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 藤原孝守
 
 
 
 
 
 
 
12. 藤原孝継
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6. 藤原孝長
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. 大炊御門信子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

系図

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102 後花園天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
103 後土御門天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
104 後柏原天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
105 後奈良天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
106 正親町天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
誠仁親王
(陽光院)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
107 後陽成天皇
 
良恕法親王
 
八条宮(桂宮)
智仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
智忠親王
 
広幡忠幸
広幡家始祖)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

后妃・皇子女

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  • 典侍庭田朝子(近衛局・三位局、1437年 - 1492年) - 庭田重賢
  • 典侍:勧修寺房子(阿茶局・新大典侍、生没年不明) - 勧修寺教秀
    • 第一皇女(大慈光院宮・岡殿、生没年不明)
    • 皇女(1485年、即日没)
    • 第四皇女:智円女王(1486年 - 1513年) - 安禅寺
    • 第五皇女:理琇女王(1489年 - 1532年) - 宝鏡寺
  • 宮人花山院兼子(上臈局、1448年 - 1513年) - 花山院持忠
    • 第二皇女(保安寺宮、1473年 - 1533年) - 和泉宝安寺
    • 第三皇女:応善女王(寿岳恵仙、1476年 - 1497年) - 安禅寺
    • 第三皇子:仁尊法親王(仁悟法親王、1482年 - 1515年) - 円満院
    • 第四皇子(法蓮院宮・下河原宮、1484年 - 1494年) - 上乗院
  • 母不詳
    • 皇女:慈勝女王(1470年 - 1509年) - 大聖寺

在位中の元号

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陵・霊廟

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深草北陵

(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方形堂。

また、遺骨の一部は、父の後花園天皇と同様に、京都市上京区般舟院陵(はんしゅういんのみささぎ)に分骨された。

皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

灰塚が京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)にある。

脚注

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  1. ^ 松薗斉『中世禁裏女房の研究』(思文閣出版、2018年) P241.
  2. ^ 渡邊大門 2012, p. 62.
  3. ^ 渡邊大門 2012, p. 63.
  4. ^ 天野忠幸 (2021年5月6日). “応仁の乱と疫病の流行”. 天理大学文学部歴史文化学科. 2022年4月23日閲覧。
  5. ^ 井原今朝男『中世の国家と天皇・儀礼』校倉書房、2012年、ISBN 978-4-7517-4430-7 p.220-222
  6. ^ 石原比位呂「義政期の将軍家と天皇家」『室町時代の将軍家と天皇家』(勉誠出版、2015年) ISBN 978-4-585-22129-6 P332-343
  7. ^ 渡邊大門 2012, p. 71.
  8. ^ 渡邊大門 2012, p. 94.
  9. ^ 井原今朝男『室町期廷臣社会論』塙書房、2014年、ISBN 978-4-8273-1266-9 p.311-312
  10. ^ 中本真人 2021, p. 118-130.
  11. ^ 渡邊大門 2012, p. 84.
  12. ^ 渡邊大門 2012, p. 88.
  13. ^ 渡邊大門 2012, p. 92.
  14. ^ 渡邊大門 2012, p. 105.
  15. ^ 渡邊大門 2012, p. 106.
  16. ^ 渡邊大門 2012, p. 120.
  17. ^ 『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』p136(第4章「非力で女性的な天皇像」、9「ソフトで柔弱な君主たち」)。
  18. ^ 『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』p137(第4章9)。さらに本書の出典として、林陸朗監修『歴代天皇100話』立風書房、1988年、p239。
  19. ^ 今谷明『戦国時代の貴族―『言継卿記』が描く京都』(講談社学術文庫、2002年、ISBN 4-06-159535-0)、p240。
  20. ^ 井原今朝男『中世の国家と天皇・儀礼』校倉書房、2012年、ISBN 978-4-7517-4430-7 p.168
  21. ^ 久水俊和「東坊城和長の『明徳凶事記』」(初出:『文化継承学論集』5号(2009年)/改題所収:「〈凶事記〉の作成とその意義」久水『室町期の朝廷公事と公武関係』(岩田書院、2011年) ISBN 978-4-87294-705-2
  22. ^ この章は『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』p135-136より。

参考文献

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関連項目

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後土御門天皇

1442年7月3日 - 1500年10月21日

日本の皇室
先代
後花園天皇
(彦仁)
皇位
第103代天皇

1464年8月21日 - 1500年10月21日
寛正5年7月19日 - 明応9年9月29日
次代
後柏原天皇
(勝仁)