石塚武生
生年月日 | 1952年5月18日 | ||||||||||||
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出身地 | 東京都 | ||||||||||||
没年月日 | 2009年8月6日(57歳没) | ||||||||||||
学校 | 國學院久我山 | ||||||||||||
大学 | 早稲田大学 | ||||||||||||
ラグビーユニオンでの経歴 | |||||||||||||
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石塚 武生(いしづか たけお、1952年5月18日 - 2009年8月6日)は、東京都出身のラグビー選手・指導者。現役時代のポジションはフランカー(FL)。
経歴
[編集]選手時代
[編集]國學院久我山高校3年でラグビーを始める。
早稲田大学ラグビー蹴球部では4年時で主将を務め、1974年の関東大学対抗戦、大学選手権の2冠に導く。同年、日本代表に初選出され、ニュージーランド遠征に参加。ニュージーランド学生代表戦で代表試合デビューを果たす。
卒業後の1975年、リコーに入社。代表では1980年以降主将を務め、1983年まで積み上げた28キャップは、1989年に林敏之に破られるまで最多記録であった。
現役時代は身長170センチ、体重75キロとフランカーとしては小柄ながら、果敢にタックルに向かう姿から「タックルマン」の愛称で親しまれた[1]。1975年9月24日のウェールズ戦は82-6で日本代表の大敗に終わったが、後半20分でJ・Jウィリアムズをタックルで止めたそのプレーは歴史的な場面として言い伝えられている[2]。
監督時代
[編集]その後は伊勢丹ラグビー部に移籍し、引退後は同チームの監督に就任。
チームを東日本リーグ昇格に導き、吉田義人らをスカウト後、全国社会人大会ベスト8を経験する。
また、母校である早大の監督を2年間(1996~1997年)務めた。
2001年から2006年まで日本協会の普及育成担当を務める間には、U19日本代表団長兼監督(2003~2005年度)も兼務した。
また、オーストラリアラグビー協会公認コーチ資格レベル1取得、オーストラリアコーチ資格レベル2を取得した。
2006年、常総学院高校ラグビー部の監督に就任。
2009年8月6日、前日まで長野県菅平高原でコーチ合宿に参加していたが、突然死症候群により死去。享年57[1]。
記念
[編集]2023年2月に開催された第19回(2022年度)SMBCカップ 全国小学生タグラグビー大会の全国大会において、「石塚賞」が設けられた[3][4]。「フレンドシップを発揮し見ている人達に勇気を与えてくれたチーム」に贈られる[3]。
脚註
[編集]- ^ a b “石塚武生氏死去 元ラグビー日本代表”. 共同通信. (2009年8月7日) 2014年11月11日閲覧。
- ^ ベースボールマガジン社『ラグビー 戦後70年史』p69
- ^ a b “三井住友銀行”. 三井住友銀行. 2023年7月13日閲覧。
- ^ “「SMBCカップ 第19回全国小学生タグラグビー大会 全国大会」グループ組合せ/結果”. tag.rugby-japan.jp. 2023年7月13日閲覧。