藤原清輔
藤原清輔朝臣(小倉百人一首)「なからへは また此ころや 志のはれむ」「 憂(う)しと見し世ぞ 今は恋しき」 | |
時代 | 平安時代末期 |
生誕 | 長治元年(1104年)[1] |
死没 | 治承元年6月20日(1177年7月17日) |
改名 | 隆長(初名)→清輔 |
別名 | 六条 |
官位 | 正四位下、太皇太后宮大進 |
主君 | 崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇 |
氏族 | 藤原北家魚名流 |
父母 | 父:藤原顕輔、母:高階能遠の娘 |
兄弟 | 顕賢、清輔、頼輔、重家、季経、顕成、親輔、長覚、近衛基実室、九条兼実室 養兄弟:顕昭 |
妻 | 不詳 |
子 | 尋顕、公寛 養子:清季(藤原家基子) |
藤原 清輔(ふじわら の きよすけ)は、平安時代末期の公家・歌人。藤原北家末茂流、左京大夫・藤原顕輔の次男。官位は正四位下・太皇太后宮大進。初名は隆長。六条を号す。六条藤家3代。
経歴
[編集]天養元年(1144年)、崇徳上皇より父・顕輔が勅撰集『詞花和歌集』の撰集を命ぜられ、清輔もその補助に当たったが、顕輔と対立し、ほとんど清輔の意見は採用されなかったという[2]。その後も父に疎まれ昇進面で支援を得られなかったためか、40歳代後半まで位階は従五位下に留まった。
二条天皇に重用され『続詞花和歌集』を撰したが、奏覧前に天皇が崩御し勅撰和歌集にならなかった。久寿2年(1155年)、父から人麻呂影供(ひとまろえいぐ)を伝授され、六条藤家を継ぐ。御子左家の藤原俊成に対抗した。
保元元年(1156年)従四位下。のち太皇太后宮大進に任ぜられ、藤原多子に仕えた。共に仕えた同僚平経盛とは弟・重家と共に親密な交流を持った。
人物
[編集]多くの著作を残し六条藤家歌学を確立しただけでなく、平安時代の歌学の大成者とされる。公的な場で歌を詠むには古い歌集をみるべきだといって『万葉集』を繰り返し読んだという。歌人として認められてからは多くの歌合の判者を務め、歌壇を牽引する存在となった。『千載和歌集』(19首)以下の勅撰和歌集に89首が入集[3]。家集に『清輔朝臣集』が、歌学書には、『袋草紙』『奥義抄』『和歌一字抄』などがある。