くちなしの花

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くちなしの花
渡哲也シングル
B面

通りゃんせ仁義

ほおずき(1981年盤)
リリース
規格 7インチレコード
DR-1790
ジャンル 演歌
時間
レーベル ポリドール
作詞・作曲 水木かおる遠藤実
プロデュース 山口光昭
チャート最高順位
  • 週間4位(オリコン[1]
  • 登場回数78回(オリコン)
  • 1974年度年間7位(オリコン)[1]
渡哲也 シングル 年表
男の別れ歌
(1973年)
くちなしの花
(1973年)
わかれ花(男の別れ歌)
(1974年)
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くちなしの花」(くちなしのはな)は、渡哲也1973年8月21日に、ポリドール・レコードから発表したシングル曲。発売した1年後にあたる1974年にヒットしたことでも知られる[2]

解説[編集]

  • プロデューサーの山口光昭が、クラウンレコードにいた昭和45年か46年頃に「海軍特別攻撃隊 遺書」という戦没学徒の遺書を著名人の朗読で収録するアルバムを企画した(1972年4月に、規格品番GWX-35~36の2枚組LPでレコード化)。その際に、江田島の旧海軍兵学校の資料館や防衛庁で集めた遺書の中に、作家の曽野綾子に紹介された宅島徳光海軍飛行予備中尉の遺稿集「くちなしの花」があり[3]、愛する女性に対する想いをつづった遺書があった。宅島中尉は訓練中の事故で亡くなっていたため、レコードには収録されなかったが、山口は二十四歳の命を空に散らせた若きパイロットの詩から受けた感動を忘れられなかった[3]。その後、昭和47年にポリドール・レコードに移り渡哲也の担当プロデューサーになり、前作の「男の別れ歌」が全国的にキャンペーンを展開するも不発に終わり、次作にこの「くちなしの花」が思い出され、花の歌に得意な水木かおるに作詞を依頼、企画を練った[4]
  • 遠藤実の元に水木の詞が届いた際には、第1稿から20回ほど手直しが入っていたが、「今では指輪もまわるほど~」の部分が2コーラス目の真ん中に入っていたのを、「いちばんおいしいところがここではもったいない」と遠藤がさらに注文をつけ、1コーラス目の頭に変更になった[4]
  • 遠藤はこの曲を作るにあたって、歌手としては素人の渡の立場を深く考え、「できるだけこねくり回さず、曲想をシンプルにして、音域を増やさないように心がけた」。「できあがった曲をピアノで弾いていたら涙が出た」と渡に言うと「この歌で先生お泣きになったのですか」と驚かれ、一瞬拍子抜けしたが、その要因の一つに編曲があると考え、遠藤が編曲料を持ち、再度編曲を斉藤恒夫に依頼した[4]

概要[編集]

  • 前作「男の別れ歌」が7千枚ほどの売れ行きだったため、初回プレスは3千枚だったが[4]、翌1974年に入ってから有線放送などでじわじわヒット、週間オリコンチャート最高で4位を記録、90万枚を売り上げる渡自身最大のヒット曲となった[1]
  • 1974年10月藤圭子 がLP「命火」に収録。
  • 同曲で1974年末の『第25回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たす。それから19年後の1993年末の『第44回NHK紅白歌合戦』で2回目の披露となった。
  • 渡が主演した1976年10月上映の東映映画やくざの墓場 くちなしの花』では、同曲が所々に使用されている。
  • 1982年末の『第33回NHK紅白歌合戦』では、当時ポリドールの後輩歌手でかつて渡の持ち歌だった「みちづれ」をロング・ヒットさせた牧村三枝子が、当曲を歌唱した。
  • 渡や石原裕次郎がこの曲を始めてみたとき流行るとは全く考えておらず、石原裕次郎も「この曲が流行ったら銀座を逆立ちしてやる」と言っていた[5][4]

収録曲[編集]

両曲共、作詞:水木かおる、作曲:遠藤実、編曲:斉藤恒夫

  1. くちなしの花 -(3分30秒)
  2. 通りゃんせ仁義 -(3分53秒)

脚注[編集]

  1. ^ a b c オリコンランキング情報サービス「you大樹」
  2. ^ 【あの日あの紙面】昭和49年という時代【名連載復刻】渡哲也「くちなしの花」”. 日刊スポーツ (2022年8月10日). 2023年9月27日閲覧。
  3. ^ a b くちなしの花:二木紘三のうた物語2020年10月23日閲覧。
  4. ^ a b c d e 「昭和のヒット歌謡物語」塩澤実信著、展望社、2014年2月28日、79-106ページ。
  5. ^ “誰もわからないヒットの条件”. (2011年9月4日) 

関連項目[編集]