アレクサンドル・セローフ

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アレクサンドル・セローフ(ヴァレンティン・セローフ画)
アレクサンドル・ネフスキー大修道院内チーフヴィン墓地にあるセローフの墓(サンクトペテルブルク

アレクサンドル・ニコライェヴィチ・セローフАлекса́ндр Никола́евич Серо́в, 1820年1月23日 - 1871年2月1日)はロシア作曲家音楽評論家。批評活動のほかにオペラを作曲し、主な作品として『ユディト』(1863年初演)、『ログネーダ』(1865年初演)、『悪魔の力』(1871年初演)がある。画家ヴァレンティン・セローフは息子である。

サンクトペテルブルクの法律学校で学ぶ。卒業後は法務省の検事として勤務するかたわら音楽批評を始め、1851年に官職を辞して音楽の道に専念する。ロシア大公妃エレナ・パヴロヴナの支援を得て、サンクトペテルブルク音楽界の重鎮として活動した[1]。 作曲家としても、1861年から1865年にかけて二つのオペラ『ユディト』および『ログネーダ』の上演を成功させ、名声を獲得した[2]

後述するように、セローフの評論活動はロシア国内で多くの敵を作り、その結果、彼自身の作品も常に辛辣な批判にさらされることになった。モデスト・ムソルグスキー風刺歌曲ラヨーク』(1870年)において、セローフを名指しし、西欧の作曲家への盲従姿勢を揶揄している。とはいえ、ピョートル・チャイコフスキーニコライ・リムスキー=コルサコフのように、セローフの音楽的着想から多くを学んだ作曲家もいた[1]

ルビンシテイン、バラキレフらとの関係[編集]

1860年代以降、ロシア音楽界の潮流がアントン・ルビンシテインをはじめとする「西欧派」とミリイ・バラキレフら「ロシア国民楽派」に二分されるなかで、セローフは「第三の陣営」といえる立場であった[2]

セローフはルビンシテインに対して、指揮者としての経験に欠け、作曲家と見なし得ないと批判した。また、ルビンシテインが設立したロシア音楽協会(RMO)のレパートリーを「ドイツ的で、保守的で、流行遅れ」と呼び、同じくサンクトペテルブルク音楽院に対しては、音楽院は外国人のペテン師を援助しており、アカデミックな訓練からは偉大な芸術は生まれないと主張した。 こうしたセローフのルビンシテインへの敵対心には、ルビンシテインがロシア音楽のディレッタンティズム(アマチュア)の風潮を批判しており、それをセローフが自分に向けられたもののように感じていたことがある。また、ロシア音楽協会の委員会や音楽院の教授にセローフが招かれなかったことへのわだかまりや、バラキレフ同様の排外的な反ユダヤ・反ドイツ的悪意も含まれていた。 1863年にリヒャルト・ワーグナーがサンクトペテルブルクを訪れたとき、セローフがルビンシテインをあまりにも険しく攻撃するのに面食らった。このとき、セローフはワーグナーに「私は彼が嫌いで、どんな譲歩もできないのです。」と答えたという[2]

一方、バラキレフに対しては、セローフは当初熱狂的に支持していたが、バラキレフのグループを支援する評論家ウラディーミル・スターソフとの反目や、セローフ自身のワーグナーへの傾倒からバラキレフから離れていった。セローフとスターソフは法律学校で出会って以来の友人であり、親交を通じて音楽への理解を深め合った仲だったが、ミハイル・グリンカの二つのオペラ『皇帝に捧げた命』と『ルスランとリュドミラ』の優劣をめぐる意見の不一致がもとで争い始め、たもとを分かつことになったのである。 さらにセローフのオペラ『ユディト』をバラキレフ・グループが攻撃したことで、両者の不和は決定的となった。「力強い一団(ロシア5人組)」という表現を茶化し、バラキレフ・グループの蔑視的な呼称として用いて広めたのはセローフである[2]

ロシア初のワーグナー支持者[編集]

当時のロシアでは、ワーグナーは新奇な理論を振りかざす亡命者、あるいは危険な政治犯として論じられることはあっても、音楽そのものは知られておらず、帝室支配下の劇場での斬新なオペラ上演は問題外だった[3]。 セローフは1858年にドレスデンでワーグナーのオペラ『タンホイザー』の上演に接して以来、ワーグナーの擁護者となる[4]。 すでに述べたように、1863年のワーグナーのサンクトペテルブルク訪問時をはじめ、1868年にはワーグナーのオペラ『ローエングリン』を上演[5]するなど、ワーグナー作品のロシアでの普及に尽力した[1]

作品[編集]

オペラ『ユディト』
全5幕。1861年から1862年にかけて作曲、1863年にマリインスキー劇場で初演。イタリア劇作家パオロ・ジャコメッティ(en:Paolo Giacometti)の同名戯曲に基づく[6]
オペラ 『ログネーダ』
全5幕。台本はドミトリー・アヴェルキエフ。1863年から1865年にかけて作曲し、同年マリインスキー劇場で初演。
初演そのものは成功したが、西欧音楽とりわけマイアベーアの模倣を指摘する批評があり、サンクトペテルブルクの音楽界に論争を巻き起こした[7]
オペラ『悪魔の力』
全5幕。アレクサンドル・オストロフスキーの戯曲『望むほどには生きられぬ』に基づく。
スコアの主要部分は1867年から1868年にかけて作曲されたものの、未完のままセローフは1871年に没した。作曲者の死後、第5幕はセローフ夫人ヴァレンチナ・セーロヴァニコライ・ソロヴィヨフ(en:Nicolai Soloviev)によって完成され、1871年4月マリインスキー劇場でエドゥアルド・ナープラヴニーク指揮によって初演された。
ロシアの謝肉祭であるマースレニツァの風俗や世俗的な描写が豊かであり、なかでも「エリョームカの歌」はバス歌手フョードル・シャリアピンが得意とした[8]

脚注[編集]

  1. ^ a b c ロシア音楽事典 p.189
  2. ^ a b c d マース pp.70-75
  3. ^ ロシア音楽事典 p.32
  4. ^ マース p.102
  5. ^ マース p.76
  6. ^ ロシア音楽事典 p.369
  7. ^ ロシア音楽事典 p.399
  8. ^ ロシア音楽事典 p.6

参考文献[編集]

  • 日本・ロシア音楽家協会 編『ロシア音楽事典』(株)河合楽器製作所・出版部、2006年。ISBN 9784760950164 
  • フランシス・マース 著、森田稔梅津紀雄中田朱美 訳『ロシア音楽史 《カマリーンスカヤ》から《バービイ・ヤール》まで』春秋社、2006年。ISBN 4393930193