エレオノーレ・フォン・ポルトゥガル

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エレオノーレ・フォン・ポルトゥガル
Eleonore von Portugal
神聖ローマ皇后
在位 1452年3月19日 - 1467年9月3日
戴冠式 1452年3月19日

出生 1434年9月18日
ポルトガル王国、トレシュ・ベドラシュ
死去 (1467-09-03) 1467年9月3日(32歳没)
オーストリアの旗 オーストリア大公国ウィーナー・ノイシュタット
埋葬 オーストリアの旗 オーストリア大公国ウィーナー・ノイシュタット、聖ゲオルク教会
結婚 1452年3月16日 ローマ
配偶者 神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世
子女 クリストフ
マクシミリアン1世
ヘレナ
クニグンデ
ヨハン
家名 アヴィス家
父親 ポルトガルドゥアルテ1世
母親 レオノール・デ・アラゴン
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フリードリヒ3世との結婚

エレオノーレ・ヘレナ・フォン・ポルトゥガル(Eleonore Helena von Portugal, 1434年9月18日 - 1467年9月3日)は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世皇后ポルトガルドゥアルテ1世と王妃レオノールの娘。ポルトガル名はレオノール(Leonor)。兄にアフォンソ5世、妹にカスティーリャエンリケ4世の王妃フアナ(ジョアナ)がいる。

生涯[編集]

皇后となることを切望し、15歳の1452年3月16日にローマでフリードリヒ3世との結婚式を行い[1]、3日後の3月19日に夫の戴冠式に臨んで正式に皇后となった。当時のポルトガルは海洋王国として栄えていたが、一方のハプスブルク家はまだ弱小の領邦君主に過ぎず、またフリードリヒ3世は大変な倹約家であった[2]。結婚後にこのことを知ったエレオノーレは愕然としたが、エレオノーレの持参金によってフリードリヒ3世の経済状況は好転した。

息子マクシミリアン(のちの皇帝マクシミリアン1世)は陰気なフリードリヒに似なかったこともあり、当時皇帝の子ではないとも言われたが[3]、最終的に夫婦の間には5子が生まれており、その可能性は低いとされる。エレオノーレはこの息子に大いに期待を寄せたが、言語の発達が遅く、5歳まで言葉を喋れなかったため、大変心配した。

1467年にウィーナー・ノイシュタットで胃腸感染症で崩御し[4]、同地の聖ゲオルク教会に葬られた。後にマクシミリアン1世が崩御した際、遺言によってエレオノーレとともに埋葬された。

子女[編集]

エレオノーレはフリードリヒ3世との間に5人の子をもうけた。うち成人したのは2人だけである。

系譜[編集]

エレオノーレ 父:
ドゥアルテ1世 (ポルトガル王)
祖父:
ジョアン1世 (ポルトガル王)
曽祖父:
ペドロ1世 (ポルトガル王)
曽祖母:
テレサ・ロレンソ英語版
祖母:
フィリパ
曽祖父:
ランカスター公ジョン・オブ・ゴーント
曽祖母:
ランカスター公女ブランシュ
母:
レオノール
祖父:
フェルナンド1世 (アラゴン王)
曽祖父:
フアン1世 (カスティーリャ王)
曽祖母:
アラゴン王女レオノール[1]
祖母:
レオノール・デ・アルブルケルケ
曽祖父:
サンチョ・デ・アルブルケルケ[2]
曽祖母:
ベアトリス・デ・ポルトゥガル[3]
  1. アラゴン王ペドロ4世の娘。
  2. カスティーリャ王アルフォンソ11世の庶子。
  3. ポルトガル王ペドロ1世の庶子。

脚注[編集]

  1. ^ 瀬原、p. 316
  2. ^ 瀬原、p. 410
  3. ^ グレーシング、p. 11
  4. ^ ライトナー、p. 27

参考文献[編集]

  • 瀬原義生 『ドイツ中世後期の歴史像』 文理閣、2011年
  • ジクリト=マリア・グレーシング 『ハプスブルク愛の物語 王冠に勝る恋』 東洋書林、1999年
  • テア・ライトナー 『ハプルブルクの女たち』 新書館、1996年

関連項目[編集]