サームファンケーン
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サームファンケーン พญาสามฝั่งแกน | |
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戴冠 | 1401年(チエンマイ年代記) 1401年(ジナカーラマーリー) |
退位 | 1442年(チエンマイ年代記) 1441年(ジナカーラマーリー) |
首相 | 1442年(チエンマイ年代記) 1441年(ジナカーラマーリー) |
全名 | サームファンケーン |
出生 | 1388年〜90年の間[1] |
サームファンケーン王はラーンナー王朝8代目の王である。サームプラヤーファンケーン、サームプラヤーなどとも表記される。
伝記
[編集]『チエンマイ年代記』によればサームファンケーンの母は正室ではなく王太后の宮女で、貴族の出であった。サームファンケーンはこの宮女が王とチエンマイの郊外に出かけている途中、パンナー・ファンケーン(現在のチエンマイ県メーテーン郡)で産み落とされた。サームファンケーンは即位の後このパンナー・ファンケーンという場所にワット・プーン(現・ワット・ムンムアン)という寺院を建てている。
即位の後、チエンラーイを治めていた兄のイークムカームがスコータイのサイルータイ王と通じチエンマイの王位を狙ってクーデターを企て、サームファンケーンとの間に戦争が起こしたが、結局イークムカームが敗北。彼はスコータイに逃げ込んだ。
その後、1404年と1405年の二回にわたりホー族(雲南のイスラーム化した中国人)によるラーンナー侵攻が行われチエンセーンが包囲された。そのためサームファンケーンはラーンナーの各地から3万人の兵を募りホー族を攻撃、景洪まで追い返した。こうしてサームファンケーン王の時代にラーンナーは名実ともに中国の朝貢国ではなくなった。
サームファンケーンは長男を副王にしたが、前王までの様にチエンラーイを治めさせることをやめ、副王は首都に置かれることとなった。
また、サームファンケーン王の時代、エメラルド仏がチエンラーイで見つかった。サームファンケーン王これを三度チエンマイに運ぼうとしたが、仏像を運んだ象が3度ともラムパーンに引き返すということが起こった。このため王は、仏像をラムパーンに安置することにした[2]。
サームファンケーンは突如第6男のクーデターにより王位を追われることとなる。王位を追われた後はコック川上流にあるムアンサート(現ミャンマー・ムーンサート)に隠遁した。
参考文献
[編集]- ตำนานพื้นเมืองเชืยงใหม่ ฉบับปรับปรุงใหม่, อรุณรัตน์ วิเชียรเขียว และ เดวิด เค. วัยอาจ, เชืยงใหม่ :Silkworm Books, 2543 ISBN 9749575512
- Ongsakul, Sarassawadee, History of Lan Na, trans. Chitraporn Tanratanakul, Chian Mai: Silkworm Books, Thai text 2001, English text 2005, ISBN 9789749575840
- Wyatt, David. K.: Thailand: A Short History 2nd ED., USA: Yale University Press / Chiang Mai: Silkwormbooks, 2003, ISBN 9780300084757 ISBN 974957544X
脚注
[編集]- ^ ตำนานพื้นเมืองเชืยงใหม่ ฉบับปรับปรุงใหม่, อรุณรัตน์ วิเชียรเขียว และ เดวิด เค. วัยอาจ, เชืยงใหม่ :Silkworm Books, 2543, p.70 ISBN 9789749575512 および注釈74参照。
- ^ MCスパトラディット・ディスクン 『エメラルド仏寺院の歴史』 ブィー文子・村本理子訳、バンコク、Amarin Printing Group、p.18, 1987年
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