セバスティアン・ビスカイノ
ウィキペディアから無料の百科事典
セバスティアン・ビスカイノ(Sebastián Vizcaíno, 1548年 - 1624年)は、スペインの探検家。
前歴
[編集]1548年スペインのウエルバに生まれる。1580年から1583年にはポルトガル鎮定戦争に参加し、のちヌエバ・エスパーニャに渡る。1586年から1589年まではマニラ・ガレオンの貿易商人としてフィリピンとヌエバ・エスパーニャの間を往復した。
カリフォルニア探検
[編集]1593年、カリフォルニア湾西岸での真珠採取の権利がビスカイノに譲渡された。ビスカイノは3隻の船でバハ・カリフォルニアのラパスまで航行することに成功した。現代のラパスという名前もビスカイノが与えたものである(エルナン・コルテスはサンタクルスと呼んでいた)。ビスカイノはラパスに植民しようとしたが、補給の問題、モラルの低下、火災の発生によって、すぐに撤退することになった。
1601年、ヌエバ・エスパーニャ副王のモンテレイ伯爵ガスパール・デ・スニガ・イ・アセベードは、ビスカイノを第二の探検の長に任命した。今回の探検の目的は、マニラからアカプルコへ帰るスペインのマニラガレオン船のために、アルタ・カリフォルニアの地に安全な港を探すことにあった。また、60年前にフアン・ロドリゲス・カブリリョが探索したカリフォルニアの海岸線を詳細な地図に描くことも要求されていた。1602年5月5日、ビスカイノは3隻の船でアカプルコを出発した。旗艦の名はサンディエゴであり、ほかの2隻の名はサントマスとトレスレイェスであった。
11月10日、ビスカイノはサンディエゴ湾に入り、その地を命名した。チャンネル諸島のサンタバーバラ島やポイント・コンセプション、サンタ・ルシア山脈、ポイント・ロボス、カーメル川、そしてモントレー湾などの重要な地名はビスカイノの命名に由来する。このため、1542年にカブリリョがつけた名称のいくつかは消え去ることになった。
トレスレイェスの船長であったマルティン・デ・アギラルはビスカイノと別れてさらに北上し、現在のオレゴン州のブランコ岬か、あるいはクーズ湾まで到達した可能性がある[1][2][3]。
ビスカイノの航行の結果、モントレーにスペイン人を植民させようという騒ぎがおきたが、間もなくモンテレイ伯爵がペルー副王に転任し、後任者がモントレーに興味をもたなかったため、植民地化にはさらに167年間待たなければならなかった。植民地化のための探検を1607年に行う計画が1606年に許可されたが、延期の後、1608年に放棄された[4]。
日本との関係
[編集]2年前にフィリピン前総督ドン・ロドリゴ一行(サン・フランシスコ号)が、帰還のためアカプルコへ向けての航海中台風に遭い上総国岩和田村(現御宿町)田尻の浜で難破し救助された事への答礼使として、1611年(慶長16年)、ヌエバ・エスパーニャ副王ルイス・デ・ベラスコにより派遣され、二代目「サン・フランシスコ号」で来日した。なおこの人選は、ヨーロッパの鉱山技術[5]に興味があった徳川家康の要請に沿ったもので、同時にヌエバ・エスパーニャ側にも日本の金や銀に興味があったことによるとされ、日本近海にあると言われていた「金銀島」の調査も兼ねていた。
3月22日にヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)のアカプルコを発ち、6月10日浦賀に入港[6]、6月22日に江戸城で徳川秀忠に謁見し[7]、8月27日に駿府城で家康に謁見する[8]。この時ビスカイノ一行はスペイン王家の紋章を掲げ、トランペットとマスケット銃を打ち鳴らし、スペイン流の行進をしながら駿府城に向かったという。しかし第一に通商を望んでいた日本側に対し、ヌエバ・エスパーニャ側の前提条件はキリスト教の布教[9]であり、友好については合意したものの、具体的な合意は得られなかった。
家康から日本沿岸の測量についての許可の朱印状は得られ、11月8日に仙台に着き、11月10日に伊達政宗に謁見、11月27日から仙台藩の北部沿岸の測量を始める。12月2日、気仙郡越喜来村(現大船渡市)沖を航海中に慶長三陸地震の大津波に遭遇したが、海上にいたため被害はなかった。測量を終えて12月8日に仙台へ戻り、次いで南下し九州沿岸まで測量を行った。
日本沿岸の測量を終え、1612年(慶長17年)9月16日に家康、秀忠の返書を受け取り、ヌエバ・エスパーニャへの帰途につく。帰途金銀島を探すが発見できず、11月14日暴風雨に遭遇二代目「サン・フランシスコ号」が大破損し浦賀に戻る。
乗船を失ったため、ヌエバ・エスパーニャへ帰るための船の建造費の用立てを幕府に申し入れたが、日本側の外交政策の変更もあって断わられ[10]、1613年(慶長18年)にルイス・ソテロや支倉常長ら慶長遣欧使節団のサン・ファン・バウティスタ号に同乗し帰国した。
仙台城のことを以下のように評した。
「城は日本の最も勝れ、最も堅固なるものの一にして、水深き川に囲まれ断崖百身長を越えたる厳山に築かれ、入口は唯一つにして、大きさ江戸と同じくして、家屋の構造は之に勝りたる町を見下し、また2レグワを距てて数レグワの海岸を望むべし」
著書
[編集]『金銀島探検報告』
[編集]ビスカイノが1614年にヌエバ・エスパーニャ副王に提出した金銀島探検航海の報告書で、1867年に初めて公刊された。正確にはビスカイノ本人の著作ではなく、スペインの歴史学者フアン・ヒルは、大部分は書記アロンソ・ガスコン・デ・カルドナ、末尾の部分は書記フランシスコ・ゴルディーリョの執筆と推定している[11]。以下の日本語訳がある。
- ドン・ロドリゴ; ビスカイノ; 村上直次郎訳註『ドン・ロドリゴ日本見聞録 ビスカイノ金銀島探検報告』駿南社〈異国叢書〉、1929年。 - 『ドン・ロドリゴ日本見聞録』との合本。のち奥川書房(1941年)、雄松堂書店(1966年)、雄松堂出版(2005年、ISBN 4-8419-3022-1)から再刊。
- フアン・ヒル 著、平山篤子 訳『イダルゴとサムライ――16・17世紀のイスパニアと日本』法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス〉、2000年12月。ISBN 4-588-00693-2。 - フアン・ヒルによる校訂版「セバスティアン・ビスカイノ旅行航海報告書」全文を収録。
脚注
[編集]- ^ Cogswell, Jr., Philip (1977). Capitol Names: Individuals Woven Into Oregon's History. Portland, OR: Oregon Historical Society. pp. 9–10
- ^ LaLande, Jeff. “Cape Blanco”. The Oregon Encyclopedia. April 28, 2014閲覧。
- ^ McArthur, Lewis A. [in 英語]; McArthur, Lewis L. [in 英語] (2003) [1928]. Oregon Geographic Names (7th ed.). Portland, Oregon: Oregon Historical Society Press. pp. 159–160. ISBN 978-0875952772。
- ^ Cutter, Donald C. (Winter 1978). “Plans for the Occupation of Upper California A New Look at the "Dark Age" from 1602 to 1769”. The Journal of San Diego History (San Diego Historical Society) 24 (1) April 28, 2014閲覧。.
- ^ 銀のアマルガム精錬法が開発され、徳川家康はその情報を入手していたといわれている。
- ^ 当時の通常のルートのマニラ経由ではなく、アカプルコから直接浦賀を訪れた。また、ドン・ロドリゴの帰郷に同行した田中勝介等の使節団も同乗し帰朝した。
- ^ この時、江戸の路上で偶然伊達政宗に出会い挨拶を交わす(政宗との初めての出会い)。
- ^ ドン・ロドリゴへの貸し出しを弁済し、スペイン国王フェリペ3世の親書と献上品を提出した。献上品の中には、フェリペ2世のお抱え時計師ハンス・デ・エロバが製作した南蛮時計があり、この時計は家康に愛用され、現在は久能山東照宮が所蔵している(重要文化財)。ハンス・デ・エバロの製作で久能山東照宮の他に現存している時計は、スペインのエル・エスコリアル宮殿にある1583年製のもの他1個のみといわれている。
- ^ 宣教師(カトリック)の保護に加えて、オランダ(プロテスタント)の追放も条件であり、ウィリアム・アダムスやヤン・ヨーステンを重用していた家康は、ウィリアム・アダムスの「測量は日本を植民地とするための事前調査である」との進言を退け、日本沿岸の測量については許可したものの、キリスト教の布教については合意しなかった。
- ^ 申し入れが家康の元に届かなかったともいわれている。
- ^ フアン・ヒル 2000, pp. 293–294.