タニノハローモア

ウィキペディアから無料の百科事典

タニノハローモア
品種 サラブレッド
性別
毛色 黒鹿毛
生誕 1965年4月23日
死没 1985年10月15日
ハロウェー
ジヨオー
母の父 Borealis
生国 日本北海道静内町
生産者 カントリー牧場
馬主 谷水信夫
調教師 戸山為夫栗東
競走成績
生涯成績 30戦9勝
獲得賞金 7025万8400円
勝ち鞍
八大競走 東京優駿 1968年
テンプレートを表示

タニノハローモアとは日本競走馬。第35回日本ダービーを、3強と称されたマーチスタケシバオーアサカオーを出し抜き優勝した事で知られている。馬主は谷水信夫

略歴[編集]

誕生[編集]

1965年4月23日カントリー牧場で生を受けたタニノハローモアは、『鍛えて最強馬を生み出す』と言う思想を実践すべく同牧場を設立した谷水信夫の影響により、同期の半数がデビュー前に競争能力喪失と言うスパルタ教育を受ける事となった。このスパルタ教育にマーチスと共に耐え抜いたタニノハローモアは、当時は無名だった戸山為夫調教師の元でデビューする事となった。

現役時代[編集]

3歳時の8月にデビューしたが、初勝利までに4戦を要し、その後もひと月に1、2走を重ね、東京優駿(日本ダービー)に出走するまで17戦も出走した。これは現在でも、日本ダービー歴代優勝馬の中でデビューから日本ダービーまでの最多出走数となっている。この17戦の戦績で重賞は勝てなかったものの、11月18日のオープンではレコード勝ちを記録し、合計5勝した。

皐月賞マーチスの6着、NHK杯でもマーチスの3着となって東京優駿に出走する。このとき8連敗中であり、当日は単勝9番人気の低評価だった。東京競馬場はマーチス・タケシバオー・アサカオーの3強対決に沸いていたが、3強はお互いに牽制しあいタニノハローモアの逃げ切りを許した。レース前夜、タニノハローモア陣営は「1枠1番を生かして、思い切って逃げてみよう。3強は互いに牽制し合うはずだから、ひょっとするかもしれない」と逃げる作戦を立てていた[1]

その後もタニノハローモアは日本ダービーの1か月後の札幌競馬場スタンド増築記念に出走するなど休みなく走り続けた。菊花賞は6着に終わったが、朝日チャレンジカップ京都盃中京記念などの重賞を勝っている。

オーナーと調教師の思想のもと、徹底的に鍛え抜かれて作り上げられた馬で、戸山にとっては鍛えて名馬を作り上げる厩舎の運営理念を体現してみせた最初の馬となった。2年に満たない競走馬生活のなかで30戦走ったが、逃げ馬にもかかわらず大崩れしたレースは少なく、掲示板(5着以内)を外したのは皐月賞と菊花賞の2戦だけであった。

引退後[編集]

5歳の春に引退し種牡馬入りしたが、代表勝ち鞍である東京優駿優勝が展開の綾に助けられたと思われたこともあり種牡馬としての評価は低く、目立った産駒を出す事なく1985年10月15日にこの世を去った。

種付け自体は死亡する年まで行っており、ラストクロップとなる1986年生まれの産駒の1頭であるミチノクモアー(大井で1勝)が1991年に競走馬を引退するまで産駒が現役競走馬として走っていた。

血統表[編集]

タニノハローモア血統フェアウェイ系 / Fairway(Pharos)2×5=28.13%) (血統表の出典)

*ハロウェー
Harroway
1940 黒鹿毛
父の父
Fairway
1925 鹿毛
Phalaris Polymelus
Bromus
Scapa Flow Chaucer
Anchora
父の母
Rosy Legend
1931 黒鹿毛
Dark Legend Dark Ronald
Golden Ledend
Rosy Cheeks St.Just
Purity

ジヨオー
1954 栗毛
Borealis
1941 栗毛
Brumeux Teddy
La Brume
Aurora Hyperion
Rose Red
母の母
*ダーバリー
Darbari
1946 鹿毛
Scottish Union Cameronian
Trustful
Chaser Foxhunter
Blanquette F-No.12-f


脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ 遠山 1993, p. 164.

参考文献[編集]

  • 遠山彰『日本ダービー物語』丸善、1993年。ISBN 978-4-621-05097-2 

外部リンク[編集]