ノート:八王子千人同心

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多摩における徳川恩顧の精神?

千人同心の配置された多摩郡はとかく徳川の庇護を受けていたので、武州多摩一帯は同心だけでなく農民層にまで徳川恩顧の精神が強かったとされる。 と書かれた根拠はどの辺にあるのでしょうか。徳川の庇護、というのは具体的にはどのような恩典を指すのですか?中期までならいざ知らず、幕末になると、組合村の運営や助郷役の減免願に始まり、農兵取立てや兵賦の徴発、あるいは郡代・代官による支配一元化=旗本領の移転による全域幕領化などの幕府が試みた政策に対して、多摩地域の村々は、それぞれの村によて差はあるものの、反対・もしくは積極的協力を放棄しています(兵賦の徴用に対しては金納や代人で済ませるなど)。天狗党や武州一揆勢などの暴徒の鎮圧のように、村々の利害にかかわることであるならば協力していますが、村内の小前百姓層と名主層との間の利害対立(不正の告発などもあります)も絡んで、支配替などについては幕府要人に対して駕籠訴・張訴なども行っています。それに対して幕府側がなんとか言うことを聞かせようとしていたのが実情であるとわたしは考えます。たとえが正確かどうか自信がありませんが、現在の小泉内閣による「三位一体の改革」なる地方制度の改革にたいする地方自治体の「抵抗」を想起していただいてもよろしいかと思います(もっと激しいかも)。 ゆえに最初に引用した一文は、表現を変えるか、あるいは削除したほうがよかろうかと思いますがいかがでしょうか。 Tai_i 00:10 2004年4月29日 (UTC)