ノート:禁教令

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バテレン追放令の取り消しについて[編集]

 2021年12月13日 (月) 14:14‎ EULE 会話 投稿記録‎  28,375バイト −7,093‎  Sobaudon氏の版へ取り消し。この内容は本記事ではなく、バテレン追放令に記述するべき。 そして実際にほぼバテレン追放令に記載しているものなのだから無意味に重複している。(記載者は同一人物だと思うが別人だとしたら履歴継承の問題も生じる) 

wikipediaの方針では『名誉毀損、無意味な記述、荒らし、著作権侵害は完全に除去されるべきです。』とされていますが、記載者は同一人物であるため、そのどれにもあたりません。文言の追加は以下の方針に沿っており無意味な追加ではありませんし、冗長な部分は排除したつもりです。

たとえ個人的な観点でなくても、特定の地域・国家に限定された観点のみを採用しない。
中立的な観点から記述されていないのならば、記事のバランスを取るために有用だと思える記述を加筆する。
「存命人物の伝記」の執筆時には特段の注意を払わなければなりません。記事は「正確な」ものでなければいけません。特に、その人物の生涯の細部については、信頼性の高い参考資料だけを用いるべきです。存命中の人物に関する否定的な情報で参考文献や出典のない、あるいは貧弱な情報源しかないものは、項目本文およびノートから即刻除去するべきです[1] — Wikipedia:存命人物の伝記

元の記事によると、奴隷売買とありますが、それが誰が(排外主義の観点からは追放された宣教師が人身売買をして利益を得ていたとミスリードしかねない)どのような法的条件で行ったかさえの言及もなく、神社仏閣への迫害(現存する一次史料の大半は迫害が始まった江戸時代以降、こうした主張をする論文は明治期以降の史料を使っているものもあり、いまだに説が定まってないと思います)についても寺院側のキリスト教施設の破壊にも言及がなく欠席裁判をしてるかのような、一方的な視点の印象を持ちました。典型的な日本人の海外に対する被害者意識からくる視座からの記述として一方的な列挙であるため、ポルトガル人やバテレン側の視点がかけており、修正すべきと考えます。

Wikipedia:存命人物の伝記に限らず、現存する団体(イエズス会)の記事は厳しく監視されており、特に奴隷売買等の記述を査読論文などの信頼性の高い情報を使わず、一方的な記述をするのは現存する宗教団体であるイエズス会を誹謗中傷、侮辱することになりかねません。重複箇所は信頼性の高い情報源を使っているため、それを除去して信頼性のない記述を残せば、Wikipediaが誹謗中傷、侮辱に加担していると見なされかねず、法的リスクは上がると思います。

秀吉が禁教令を発令した目的には諸説あり、「外交権、貿易権を自身に集中させ国家としての統制を図るため」「九州で日本人の奴隷売買が行われていると知り、それを禁止させるため」「キリスト教徒による神社仏閣への迫害」などがある。

バテレン追放令の原因を列挙していますが、寺社仏閣破壊はイエズス会の観点からは、仏教勢力の破壊があったからでしょうし、ポルトガル商人の人身売買説は、神国思想皇国史観の援用されているものの、ポルトガル人や宣教師の観点からは日本側が違法に商人に対して同国民を奴隷として売り込んできたに過ぎず、さらに豊臣秀吉は人身売買の温床となる遊郭(遊郭からは後にからゆきさんの語源ともなる唐人屋敷に出入りする唐人行の遊女が誕生)を設置するなど、豊臣秀吉や以降の日本人は人身売買性的奴隷には(近代まで)寛容であり、それに対して宗教や国民も体制に抗議せず犠牲を容認したといっても差し支えないでしょう。日本側だけの視点では中立性が保たれておらず、何らかの加筆が必要だと考えます。

即削除、取り消しは余程の時にやるものだと思いますが、該当文を読み返しても削除箇所は信頼性の高い情報源の出典があり、バテレン追放令に関して中立的な観点を維持するために必要なもので問題はないと考えますので、即削除や取り消しがなされるべきとは思いません。むしろ EULE さんにお聞きしたいのですが、毎回このように議論もせずに取り消しをなされるのでしょうか?それとも今回は特別ということでしょうか? --2400:2410:C1A3:5300:D690:67E4:3B5B:ED7C 2021年12月13日 (月) 16:30 (UTC)[返信]

wikipediaのガイドラインに従った編集をしてください[編集]

2022年8月25日 (木) 22:18‎ 118.110.163.86 会話‎ 55,573バイト +16‎ →‎1596年の禁教令

2022年8月25日の118.110.163.86さんの編集ですが、出典のある文章を妥当な理由なく白紙化、コメントアウトするのは荒らし行為です。また以下の文章には、現存する宗教団体に対する侮辱と見られる内容や、適切な専門家の2次資料の出典が必要と見られる特殊な主張が含まれています。

秀吉が主にフランシスコ会ドミニコ会宣教師を企図して禁教令を発令した原因は、「傲慢不遜で無礼、淫乱、貪汚な宣教師の横暴が武家、百姓を問わず非難を受けていた為」 — 利用者118.110.163.86
抑々イエズス会は禁教令の対象とされていない — 利用者118.110.163.86
主に悪徳の限りを尽くしたフランシスコ会ドミニコ会の宣教師を中心としたポルトガル人への処罰を目的とした — 利用者118.110.163.86
た上に日本人を侮蔑する事甚だしい振舞いを重ねた — 利用者118.110.163.86

Wikipediaのガイドライン、方針を良く読んでから編集をしてください。--2400:2410:C1A3:5300:251F:C055:5E7E:2311 2022年10月5日 (水) 01:38 (UTC)[返信]

118.110.163.86さんがコメントアウトした内容には以下のようなものがあります。
秀吉ポルトガルとの貿易関係を中断させることを恐れて勅令を施行せず、1590年代にはキリスト教を復権させるようになった[2]。勅令のとおり宣教師を強制的に追放することができず、
「神社仏閣への迫害」説については、仏教徒の領主が十字架を倒す等の宗教施設の破壊行為を行いキリスト教徒に対して仏教に強制改宗するように命じたり[3]、1563年十一月七日頃[4]には横瀬浦港にある修道院が焼き討ちをうけ、次いですぐにキリシタンの農民たちの家が焼かれる[5]等、双方の信者間での対立関係が激化したが、イエズス会の責任者であるヴァリニャーノは寺社仏閣の破壊を禁じていた[6]
出典のある節、項目の大半をコメントアウトすることで、文の大量削除が見えなくなり、単純な白紙化よりも悪質かもしれません。--2400:2410:C1A3:5300:251F:C055:5E7E:2311 2022年10月5日 (水) 01:56 (UTC)[返信]
ゴリラ捜索隊さんというアカウントについては、記事の白紙化・大量削除をするだけでなく特定箇所、また特定の観点において、当事者的な表現に歪曲する傾向が見られ、書き込み方法が118.110.163.86さんに似ています。
2022年4月18日 (月) 00:17時点における版 (編集) (取り消し) ゴリラ捜索隊
デ・サンデ天正遣欧使節記では、同国民を売ろうとする日本文化宗教の道徳的退廃に対して批判が行われている — 原文
デ・サンデ天正遣欧使節記では、同国民を売ろうとする日本文化宗教の道徳的退廃に対して批判が行われており、またポルトガル国王による奴隷売買禁止の勅令後も人目を忍んで奴隷の強引な売り込みが日本人の奴隷商人から行われた、奴隷もポルトガルのほうが日本より良い環境であるとする正当化が見られる — ゴリラ捜索隊
ここでは批判から正当化という表現に変更をしています。文脈上、文のニュアンスが敵(ポルトガル人)と味方(日本人)という二項対立に変わりかねない表現変更かと思います。ポルトガル商人の日本人奴隷購入については期間奴隷(年季奉公人)のみが許されており、時代的にも日本では下人が慣習的に売買され年季奉公(年季奉公にも人身売買的な性質は一部継承されています)に変わるのは江戸期以降であるため、これをポルトガル人のプロパガンダと断定し糾弾するには適切な史料批判を行っている査読された2次資料が必要となるでしょう。
2022年4月18日 (月) 00:22‎ ゴリラ捜索隊 会話 投稿記録‎ 50,942バイト −2,258‎ →‎追放令の原因
2022年4月18日 (月) 00:16時点における版 (編集) (取り消し) ゴリラ捜索隊 (→‎1587年の禁教令(バテレン追放令))
デ・サンデ天正遣欧使節記では、同国民を売ろうとする日本文化宗教の道徳的退廃に対して批判が行われている — 原文
デ・サンデ天正遣欧使節記では、同国民を売ろうとする日本文化宗教の道徳的退廃に対して責任転嫁が行われている — ゴリラ捜索隊
これらの類似点が偶然の一致というのは考えづらいです。--2400:2410:C1A3:5300:C8B4:F154:9F9C:A87C 2022年10月5日 (水) 12:59 (UTC)[返信]
  1. ^ "WikiEN-l Zero information is preferred to misleading or false information" - 題意:誤解を招く情報や虚偽情報はないほうが望ましい。WikiENメーリングリストへのジミー・ウェールズの2006年5月16日の投稿より。
  2. ^ de Bary, Wm. Theodore (2005). “Part IV: The Tokugawa Peace”. Sources of Japanese Tradition: 1600 to 2000. Columbia University Press. pp. 149. ISBN 9780231518123 
  3. ^ Cartas que os Padres e Irmaos da Companhia da Iesus, que andao nos Reynos de lapao escreverao aos da mesma Companhia da India, e Europa, desde anno de 1549 ate 1580. Primeiro Tomo, Evora 1598. f. 155.
  4. ^ バチェコ・ディエゴ著・佐久間正訳『長崎を開いた人―コスメ・デ・トルレスの生涯』(中央出版社 1969)
  5. ^ アルメイダ、1564年10月14日付豊後発信書(Cartas que os Padres e Irmaos da Companhia da Iesus, que andao nos Reynos de lapao escreverao aos da mesma Companhia da India, e Europa, desde anno de 1549 ate 1580. Primeiro Tomo, Evora 1598.f.151v.)
  6. ^ H・チースリク 「高山右近領の山間部におけるキリシタン――布教・司牧上の一考察」(キリシタン文化研究会『キリシタン研究第十六輯』一九七六年)