ノート:越後長岡藩

ウィキペディアから無料の百科事典

世襲家老を氏族の項目に分割の提案[編集]

世襲家老はそれぞれの氏族の項目に分割して解説すべきではないでしょうか。218.45.174.71 2006年6月2日 (金) 21:16 (UTC)[返信]

私もそう思います。門閥についての項目は長岡藩の説明の域を逸脱していると思います。また、支藩の説明についても然り。殊に笠間藩・田辺藩の説明は、それぞれ別記事があるにもかかわらず長々と説明しており蛇足に他なりません。Reggaeman 2006年8月15日 (火) 8:53 (UTC)
私も同意見です。愚見を申し上げますと、現在のところ、「越後長岡藩」の記事の中では「門閥」と「支藩」の項の記述に比重がたいへん偏っております。しかし、これらについては、すでに別記事として存在するものもありますし、詳述は藩の説明としてはかえって適さないようにも思えます、ですので、「長岡藩」での記述は最小限に留め、それ以外の記述はすべてそれぞれの記事にまとめたほうが良いと思います。むしろ藩の説明として必要なものは、項目で言うと「歴史」と「藩政」の部分だと思います。今後は、これら2項目の記述を拡張・深化していく方向にしたほうが良いと思います。藩の特徴、具体的には明治維新・廃藩置県までに至る藩政の流れや藩制機構、家臣団編成、各時代の藩政改革の内容やその特徴、藩内の経済・社会(文化も含め)の様相などといったものを詳述していったほうが、藩の説明としては適当であると思います。と、つらつら偉そうなことを申しましても、私は長岡藩については全く知識を持ち合わせてはおりませんので、今後の記述の方針等に関しましては、これまで詳細な記述を手がけてこられた方々にお頼みするほかございませんが、いかがでしょうか。提案までに。--61.210.16.113 2006年8月23日 (水) 03:05 (UTC)[返信]
もう一つ疑問なのは長岡藩の前身である蔵王堂藩(堀氏)が本項へのリダイレクトになっているにも関わらずほとんど触れられていないような気がするのですが(治世の短さを考慮しても歴代藩主一覧すらないのは余りにも牧野氏に偏重しているのでは?)。--水野白楓 2006年8月29日 (火) 06:27 (UTC)[返信]
Reggaemanさんが蔵王堂藩の独立記事を作成されました。本当にご苦労様です。--水野白楓 2006年8月30日 (水) 14:37 (UTC)[返信]
蔵王堂藩記事につきましては、当、長岡藩の歴史記述の一部を転載いたしましたので、ここにご報告申し上げます。また、削除依頼が出されている「門閥」からの転載である越後長岡藩の家臣団、当、長岡藩から分離したにもかかわらず凄い容量で驚きました。なお、越後長岡藩の家臣団につきましては、削除後改めて不備無きよう投稿しようと思っています。Reggaeman 2006年8月31日 (木) 11:51 (UTC)[返信]
(最初に分割提案したものです)お疲れ様です。越後長岡藩の家臣団だけでも記事量が膨大なので、稲垣氏山本氏真木氏野瀬氏疋田氏あたりは単独記事にしてもかまわないのではないでしょうか。江戸時代の譜代大名に稲垣氏が存在していましたし(Category:稲垣氏)。また、牧野氏については牧野氏三河牧野氏の記事が既に存在していますし、松井氏系の牧野氏については松井氏三河松井氏で詳しく解説すれば十分だと思います。61.213.118.248 2006年8月31日 (木) 17:04 (UTC)[返信]


これだけ上級家臣の記述が重厚長大となったのだから、記事分割は、当然かと思います。
もっとも、森を見て木を見ると申しましょうか、鳥瞰図のような説明があてもよいと思いますので、越後長岡藩の記事に家臣団の概要くらいは置いてもおかしくないと思います。 --Norichann 2006年8月31日 (木) 21:34 (UTC)[返信]

  • 分割に賛成。事実上の親記事になる越後長岡藩には、その家臣団編成の概要くらいは残したほうがよいと考える。そこから内部リンクで別ページに飛ぶことができて、一般的な利用者にも便利。完全(100%)に家臣団の記事を切り離すことには反対。これだけ家臣の記事が集積したのだから、有効に使用・閲覧に供される方策を検討すべきと考える。--鉄三郎 2006年9月1日 (金) 05:25 (UTC)[返信]


三河松井氏・三河牧野氏の投稿をしているものです。松井系牧野氏(家老牧野平左衛門)について三河松井氏への移動の提案がありますが、安易な移動は異動先での混乱を招きかねません。まず、現状の問題は長岡藩家臣団のページのいびつさにあります。内容の詳しさは必要なことですが、ページの趣意をよく勘案し、全体のバランスを考えて投稿する必要が有ります。また、投稿者は他の利用者の立場も考えて判りやすく簡潔にまとめる事が大事と存じます。今後、当家臣団ページを残すので有れば(どの様な手続きを経るにせよ)、特にこれまでの投稿者は責任を以て記事の構成を組み直し、要約する事が必要と思います。さもなければ現状の形で残すことは賛成できません。(内容の貴重さは私も感じていますが・・・)

私も家老の牧野氏(山本姓・松井姓)に投稿しているので、自分投稿分について、内容の取捨選択を改めて今後検討いたします。なお、数百家ある家臣団の全てを記述することはデータベースではないので勿論ありえませんが、家臣のどれを取り上げるかの基準が曖昧のような気がします。上級家臣だから取り上げるというのも何かはっきりしません。当藩の大組とは上級家臣を直接意味しないと思います。大組は藩の軍制上、家老が組頭となって率いるいわば大隊編成であって、それ故に百石未満の者もいると思われます。また、家老も家格としての側面と、軍制上の役職の両側面があり、家老連綿とされる家の者も家老本職に就任して初めて家老になるのです。この様に藩の機構・組織編成の内容を明らかにすることが先決であり長岡藩の本文ページでこれを明示することが利用者の理解に資すると思います(そちらが重要)。アカウント登録外者が生意気言って大変恐縮ですが、検討の足しにしていただければ幸いです。--利用者:219.107.99.98 2006年9月2日(土)12:35 (UTC)

  • Reggaeman様、小諸藩の記事の分割、ありがとうございました。延々と議論しても、越後長岡藩の結論が出ないので、とりあえず既に分割されている記事を、一度消去して(手続き違反であるため)、もう一度、記事を再生して頂くのがありがたいです。あとはそれぞれの投稿者のモラルで投稿・整理していく以外、ないのではないでしょうか。強硬に記事分割を反対しているかたは、いまのところおいでにならないようですから。また百科事典なのですから、ある程度データーベース化するのは当然なのでしょうか?--219.120.30.142 2006年9月2日 (土) 13:38 (UTC)[返信]


  • 余談ですが、家老首座連綿の稲垣氏は、7歳で家老本職・次席家老となった実績があります。このときの首座は、例外的に山本氏であったようです。勿論、一種の家老見習いであったと思います。越後長岡藩の大組は、馬上が許されているかどうか、家老に直接統率されているかどうかです。もっとも大組以上の家に属する家族で、部屋住み身分や隠居であるにもかかわらず役職に就任している場合は、微禄であっても、馬上が許され大組(または寄合組)に列することがありますが、家督を相続している当主の場合は、50石未満で、大組に所属というのは、あり得なかったようです。もしあれば不勉強なのでご教示下さいませ。その一方で、50石以上、100石未満で小組であった者もいたようです。大組は大雑把にいって広義の上級藩士ではあるが、50石以上、100石未満の石高は重畳的な部分となると思います。江戸幕臣の旗本に50石の者もいた一方で、300石で旗本の資格がない御家人が存在したが、500石の御家人はいなかったと云うのと性格が似ていると思います。また上級家臣でなくても、話題性や研究価値のある家は、投稿してよいのではないでしょうか? 上級以外は、反対とは考えていません。例えば同性愛者で、美しき小姓の柴崎氏(大胡在城期仕官)にストーカー行為をして、切腹を命じられた牛久保以来の家柄の渡辺氏などがあげられると思います。利用者:219.107.99.98氏(他のIPからの投稿もかなりあるようにお見受けしますが)におかれましては、ここ数日投稿なさっているご様子がなかったようでいらしたので、この間に越後長岡藩記事分割の話題や、松井氏の記事改編・整理がノートで話題になり、ウィキ上においでになっていないかと心配しておりました。これからもよろしくお願いします。--219.120.30.142 2006年9月2日 (土) 13:44 (UTC)[返信]
議論が熟さないまま、勝手に記事を分割してしまったのは勇み足だった(しかも分割の方法を無視して)と反省しております。しかし、どうやら皆さんのご意見が纏まったようで安心しました。また、家臣団についての主筆者様からも分割に賛同して頂いたので、管理者様には勇み足の記事(越後長岡藩の家臣団)を早々に削除して頂ければと思います。Reggaeman 2006年9月3日 (日) 00:55 (UTC)[返信]

記述者の方々の知識の深さにはただただ脱帽です。一つお伺いしたいのですが、みなさんは藩の職制などの詳細を、いかなる資料から知りえているのでしょうか。私だと、自治体史ぐらいしか思い浮かびませんが、その他にも何かあるのでしょうか。「牧野家御取締抜書」とかいうのも、自治体史に載っているのでしょうか。後学のためよろしくご教授ください。

上記はどなたのご質問でしょうか?ご署名をお願い致します。 218.227.59.174 2006年9月29日 (金) 15:12 (UTC)[返信]

ぽこ2211さんの提案[編集]

2007年1月6日(土)21:27 における Kounosu さんの「越後長岡藩」の編集は、極めて大きな変更ですので、この場での議論を提案します。

まず、上記 Kounosu さんの編集では、「単に長岡藩とも呼ばれる。」となっています。 しかし、Kounosu さんの編集の前の版までは、「本来は長岡藩であるが、越後長岡藩と呼ばれることもある。」という流れになっており、主従が逆になっています。

次に、上記 Kounosu さんの編集では、「山城長岡藩と、混同されるため、越後長岡藩と国名を冠して、標記されることが多い。」となっています。しかし、単に「長岡藩」と記載した場合は、山城の方は指さず、越後の方を指すため、混同することはありません。また、越後の方を指す場合に、「越後長岡藩」と標記されることは、「長岡藩」と標記されることより多くありません。

Kounosu さんの新説は、さておき、ここで、私(ぽこ2211)は、「高田藩」の記載を参考にすることを提案したいと思います。 単に「高田藩」と記載した場合は、豊後の方は指さず、越後の方を指します。また、「越後高田藩」と標記されることはありません。 そして、高田藩のことが記載されている他のページ(例えば、藩の一覧)を見ても、このことは徹底されているようです。

ご意見を頂ければ幸いです。--ぽこ2211 2007年1月7日 (日) 01:15 (UTC)[返信]

大騒ぎするほどのことでもないかと。織田信行など、正式名称でないただの通称が記事名になっている記事なんてゴロゴロしてますよ。長岡藩の記事を越後長岡藩に移動した経緯は不明ですが、高田藩の曖昧さ回避処理をした方とは編集方針が違っていたというだけの話でしょう。わざわざもう一つの長岡藩の記事に「山城」とつけ足した方もいるようですしね。--61.213.75.108 2007年1月7日 (日) 02:15 (UTC)[返信]

ご意見、ありがとうございます。「長岡藩でも、越後長岡藩でも、どっちでもいいんじゃないの」というように、2つの標記の差異を気にしない考え方が存在することは認識しています。ただ、この考え方によれば、越後長岡藩という標記に固執する必要はありません。

さて、考慮しなければならない事項として残っているのは、「長岡藩ではダメで、越後長岡藩という標記にすべきである!」という考え方です。この考え方をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご意見を頂けないでしょうか。 宜しくお願いします。--ぽこ2211 2007年1月7日 (日) 08:40 (UTC)[返信]

何なら高田藩越後高田藩に移動してあげてもいいですよ。そうすれば無問題でしょう。他人の迷惑って奴も考えた方がいいですよ。記事書く以外のことに時間を多く割ける人ばっかりじゃないんですからね。--61.213.75.135 2007年1月7日 (日) 09:01 (UTC)[返信]

高田藩の移動のことや時間のこと等の話は、他の場所に譲るとして。。。ここは、長岡藩のことについて議論する場所であると認識しております。 引き続き、「長岡藩ではダメで、越後長岡藩という標記にすべきである!」という考え方につきまして、ご意見をお願いします。--ぽこ2211 2007年1月7日 (日) 10:06 (UTC)[返信]

「いまさらメンドクサイ」ってことでしょうね。それよりもあなたが利用者ページで書かれたことについて説明するのが先でしょう。ちなみにGoogleで「越後長岡藩」で検索した結果、かなりのページがひっかかることをお伝えしておきますね(それに対し「山城長岡藩」ではあまりひっかかりませんでした)。--61.213.75.135 2007年1月7日 (日) 10:16 (UTC)[返信]
越後長岡藩、長岡藩、どちらかが正しくて、どちらかが絶対ダメということはないと思います。しかし遺漏なく他のページを再編集・修正するとなると膨大な作業になります。私は自分の先祖の多くが、越後長岡藩士でありますが、ぼこ211さんが利用者ページで述べている越後長岡藩と云う呼称が差別的だという話しは聞いたことがありません。越後長岡藩と云う呼称は差別的であるとする主張する出典及び、その理由をお教え下さると参考になります。賛否はそれかれでも遅くないような気がします。--鉄三郎 2007年1月7日 (日) 12:30 (UTC)[返信]
とりあえず落ち着きましょう。私も、長岡でも越後長岡でも問題ないと思います。国名+藩名で呼ぶのはごく普通のことですし、わざわざ変更する理由がないと思います。考慮すべきなのは、「越後長岡藩にすべきであるという意見」ではなく、「越後長岡藩から長岡藩に変更する理由」ではないでしょうか?納得できる理由があれば変更に賛成します

--Jinnsg 2007年1月7日 (日) 19:36 (UTC)[返信]

私は主著者の一人です。豊後地域の人々にとっては、高田藩とは、わざわざ断らなくても豊後高田藩を指し、越後地域の人々にとっては、高田藩と言えば、越後高田藩を指すのだと思います。同様に長岡藩も、越後地域の人々からすれば、わざわざ断らなくても長岡藩とは、越後長岡藩を指し、山城地域の人々にとっては、山城長岡藩を指すのでしょう。もっとも山城長岡藩は、存続した期間が比較的短いので、地元の人々にもなじみが薄く、長岡藩と言えば、やはり越後国に置かれた長岡藩でしょう。しかし、このウィキペディアは、全国版であり、そして全世界にも供されているものです。そしてなにより網羅的な百科辞典です。将来的には翻訳版の越後長岡藩のページも出来る可能性があります。この観点から、長岡藩より、越後長岡藩の標記のほうが優れていると考えます。長岡藩標記が絶対にダメであるとか、おかしいとまでは述べませんが、いまさら変更するとなると混乱を招くだけだと考えます。また越後長岡藩との呼称が差別的であるとは、私も聞いたことがありません。しかし、越後国は戊辰戦争・北越戦争のときに国内が官軍派(新政府派)と、佐幕派(旧幕府側)に真っ二つに割れて、内戦状態になった痛ましい歴史があります。明治維新期に官軍派の藩には、国名を冠さず、賊軍となった佐幕派の藩には、国名を冠して呼んだことが、越後国ではあったとする古老の伝説や、郷土史家の指摘があるようですが、それが現代の差別に当たるか否かは、はっきりしませんし、またこうした伝説・指摘が過去に本当に事実としてあったかどうか文献上・史料上も明らかではなく、私の管見では検証が不可能です。検証できるのであればご教示をお願いします。結論として越後長岡藩の標記のままで良いと思います。--219.120.30.142 2007年1月9日 (火) 00:42 (UTC)[返信]

記事名と本来の藩名[編集]

私は詳しくありませんが、ノートを読む限り、正しい名前は越後長岡藩ではなくて長岡藩と読めました。ならば、表記はどうあれ(むしろ違うのであれば)、本来は長岡藩であるが、山城長岡藩と区別するため…とか、正式には長岡藩であるが、山城長岡藩と区別するため…などと説明を入れた方がよいのではないでしょうか?また、私の考えが違う場合でも、越後長岡藩の記事名なのに標記されることもあるではおかしいと思います。その辺り、詳しい方の修正加筆をお願いします。--123.230.70.221 2011年4月6日 (水) 15:36 (UTC)[返信]

素朴な疑問なんですが、通常、曖昧回避する場合、長岡藩(新潟)とか、長岡藩(越後)とかかっこ付にすると思うんですが、なぜ越後長岡藩なんですか?越後長岡藩と呼ばれていたとか、あるんですか? --219.40.151.3 2016年10月5日 (水) 08:17 (UTC)[返信]

組頭の削除の件[編集]

軍制の番方の役職における記述について、

>組頭(士大将)

江戸時代初期にあったポスト。藩主から一定の家臣団を預けらた大将。軍制においては、家老に準ずる役職であったと考えられる。泰平の世となり、この組織は大組に吸収されたと思われる。組頭であったと想像される士(真木茂左衛門700石、牧野弥次兵衛600石など)は、家老の家柄に栄転、若しくは廃絶・失脚等により組頭のポストは、自然消滅した可能性も排除できない。組頭の廃止により新設されたものであるか否かは定かでないが、組頭消滅と相前後して、中老・年寄役が長岡藩の機構に登場した。

とありますが、牧野弥次兵衛組は後の牧野頼母組に同一であり、大組五組に相当。また、真木茂左衛門は五組のひとつの牧野平左衛門組に所属し、自身が組の組織を持っていた形跡が分限帳に見られないので組頭職ではないと判断されるので、これをもって、上記のような大組組頭でない組頭(中老職相当)が藩政時代に存在したかどうかは疑問です(なお、小姓組や徒組の組頭は別に存在するがここで言う組頭(中老職相当)のことではない)。一応、独自見解の恐れありとしてコメントアウトしました。--故城一片之月 2008年3月1日 (土) 18:28 (UTC)[返信]


長岡藩家老の役高と足高について[編集]

長岡家老牧野家(本姓牧野)700石は、当主が家老本職になるときは、宝暦の制により、差額の300石相当の米俵の支給を受けていた。当主が幼少のときは家老本職に就任せず、ほかの者が、五組ある組頭の一人になり一代家老に就任していた。河井継之助は150石であるから、本来は差額850石の支給を受けるはずであったが辞退した。慶応改革以前は中老のときは、中老相当の500石の役料を支給され合計620石であった(それとも差額の380石?)。→こうした理解でよいのか。

しかし、河井継之助は120石しか家禄の支給を受けなかったとする著作物をときどきみかけるが、何を根拠にしているのか。著者の想像・独自見解か。

役料と役高は違うと思うのですが、中老の役料は500石とある。家格と役職に差があるといに支給されるもの。その役職に就任すると、手当として支給されるもの(幕府側用人の1万石、諸藩の江戸留守居役などの役料)。中老の手当が500石では長岡では大きすぎるからやはり、家格と役職との差額支給とみるのが妥当。。→こうした理解でよいのか。


分限帳には差額分の石高は記載されていない。三間氏は宝暦の制以前に、一代家老に就任しているので、この例は参考にならないが、分限帳に記載のあるそれぞれの家臣の石高には、足高の分も含まれて記載しているのかいないのかがわからない。

稲垣平助家は別格として、ほかの家老4家は当主が幼少・若輩でも家老本職につけたのか。または叔父などの一族に就任させて、後に叔父の実子を分家・別家などとしたのか。それとも、三間氏や雨宮氏などを一代家老として起用したのか。

--今泉総一郎 2009年2月3日 (火) 08:22 (UTC)[返信]

江戸武鑑からの引用と、越後長岡藩の家臣団[編集]

主執筆者の間では、家臣の姓名は、できるだけ越後長岡藩の家臣団のページに記述して、越後長岡藩の記事には、しないという合意があったように思いますが、これは正式に越後長岡藩のノートにされたものではなく、主執筆者の間の会話で、なされたもののようです。

私は、この記述を正式な合意事項とすべく、過去に解決済みの問題を、越後長岡藩のノートで蒸し返すつもりです。

新しい執筆参加者による江戸武鑑の記事は、削除するか、越後長岡藩の家臣団の記述に移すべきだと思います。家臣団の推移を記述することを目的としているようですが、なぜ新しい執筆参加者が、この年の武鑑だけを選択して、引用したのかも不明です。また武鑑の記述は、民間版であるという性格上、アバウトであり、公文書である分限帳が数多く残る長岡藩にあって、武鑑を引用するのであれば、補充的にとどめるべきだと思います。

ここで武鑑からの大幅な引用を認めてしまうと、また家臣に関する記述の大編集を、越後長岡藩のページで抑制できないことになります。なんのために越後長岡藩と、越後長岡藩の家臣団の記事に分割したのかを、考えてみるべきです。--今泉総一郎 2009年12月18日 (金) 19:58 (UTC)[返信]

越後長岡藩の記述に対して、長岡藩家臣団の概要に占める割合が大きすぎて見にくいと思います。藩政の記述に留めるべきで、職制についても、越後長岡藩の家臣団の記事にまとめるべきだと思います。他藩のページの記述を見てみても、藩主一族や重臣の家系について記述され、藩政について家臣の名前が散見する程度だと思います。--立志堂 2009年12月19日 (土) 02:37 (UTC)[返信]

武鑑発行者の須原屋及び出雲屋のものはただの民間でなく、江戸幕府右筆と繋がり、そこから情報を得て発行したものであるために、家臣情報更新の遅れ(例えば文化7年のものを文化9年まで掲載している)や誤字はあっても嘘は書かない(藩自体が幕府に嘘ついてる場合は別)ものであるので掲載したまでで、信憑性については同じ年の分限帳で調べればいいこと(時々藩によっては奥書事態が年代を間違えていることがあるので分限帳自体も額面どおり信頼できるかは武鑑といい勝負なのだが)。『公文書である分限帳が数多く残る長岡藩にあって、武鑑を引用するのであれば、補充的にとどめるべきだと思います。』というならば、武鑑記述に分限帳情報を補足で付け足せばいいだけであろう?。とはいえ、中老の欄に用人や城使まで記載するのは書きすぎな上にあくまで、元来の常勤の中老が奉行に改名し、新しく新設された中老が幕末でいうところの非常勤の中老であることを視覚的に取りあげたかっただけなために掲載したために、問題あれば削除するだけだし、そうすることにするし、こちらとしては大した話ではなく。--42底ない 2009年12月19日 (土) 06:27 (UTC)[返信]


  • それで、ちょっと御提案をあげてみますが(下記)。
提案1:原則、「越後長岡藩」はやはり藩の沿革・藩政機構・主要藩政記事などを記述し、藩士についてはこれまで通り、「越後長岡藩の家臣団」に記述。
提案2:また、「越後長岡藩の家臣団」の記事もただ藩士を羅列するのではなくもう少しメリハリある記述を工夫(急がずそのページのノートで話し合いながら)。
提案3:しかしまた、今回の藩主各代における中老職・奉行の変遷の概要を記述するのは、藩政機構の情報としては有意味と思われ「越後長岡藩」への記述もあるべきかと(その情報源が武鑑であるか、分限帳であるかについて信頼性の優劣をここで判定すべき理由は感じられません。)。ただ、人名等詳細の掲載については、上記原則により、ページを改めて(家臣団記事を整理して記述するか、このために新規ページをたてるか)記述してはいかがかと。--故城一片之月 2009年12月19日 (土) 12:09 (UTC)[返信]
  • 追加です。立志堂さんの御意見で「越後長岡藩」の家臣団の概要が大きすぎるとの指摘に関して。
提案4:例えば項目「御小姓組・御刀番」について含まれる、小姓に関する一般的解説はページ:小姓が有り、側用人との違いにはページ:「側用人」・「用人」が有るので省くとするように、各記述項目に別に該当ページがあるなら一般的解説はなるべく省略する。長岡藩において特徴的なものを重点記述する。--故城一片之月 2009年12月19日 (土) 12:27 (UTC)[返信]
  • 思うんだが、側用人との違いや用人の記述なんかは、越後長岡藩限定の話ではなく、他藩でも共通する記述が混じっているし、個人的には結構秀逸な解説と思うので側用人に限らず他藩に共通する記述なんかは一般的な役職の項目に持っていかんともったいない気がする。--ヘイホークリボー 2009年12月19日 (土) 18:06 (UTC)[返信]
  • やはり、他藩共通項目は説明を省いていただきたいと思います。特徴的なものは列記してもよいと思います。提案4について賛成です。むしろ一般の歴史好きの方は、藩主一族の動向や藩史の流れについてのみ興味があると思います。それを掘り下げますと逆に要約した部分がわかりずらくなるように思います。--~


立志堂さん・ヘイホークリボーさん、私の提案に御意見頂きありがとうございます。お二人の御意見から、記事内容の選別・振り分け(他で活かせるものは活かす)が必要と私も考えます。越後長岡藩越後長岡藩の家臣団で、以前にはかなり大量投稿されている、利用者:Tetsusaburou氏や利用者:牧野幕府氏にもお聞きしたい点があるのですが、今は殆どアクセスが無い状態です。

(イデント戻す)そこで、もとより少数の記述者だけの問題とするよりも、この2つのページについて、記事全体のありかたについて、Wikipedia:コメント依頼Wikipedia:ウィキプロジェクト 日本史あたりでJa-Wikipediaコミュニティに広く御意見をうかがうべきかとも思います。記述者が書きたいように書く、というだけでなく、検索利用者側の視点に立った編集形態がもう少し必要なのではないかと強く感じます。--故城一片之月 2009年12月22日 (火) 19:01 (UTC)[返信]


記事整理上で省略・移動などの必要な記述[編集]

  • 冗長、重複、独自研究、要出典などの理由で本文からはずした記述はここに置いて(①移動記述内容(弱い強調付き)、②移動日付、③本文での位置、④移動理由を付記し、署名添付。⑤議論、⑥最終処置をそれぞれ記録。)、必要な議論・処置を待ち、ここに移動されても10日間以上何も議論されず、または出典付記や補筆等の処置もされないものは削除とします。--故城一片之月 2010年1月9日 (土) 03:56 (UTC)[返信]
  • 上記についてのコメント欄(以下に署名付きで願います)。


2010年1月分[編集]

支藩の節の概説において不要と思われる部分[編集]

藩主牧野氏が大胡在城期に仕官した出自、及びこの時期にはじめて与力した出自を持つ直系子孫は、本藩の長岡において、高禄の上級家臣に出世していても、支藩の家老の家柄となった例は全くない。もっとも与板藩家老・野口氏は新参であるが、野口氏は江戸時代初期に、2代で改易されているため、家老連綿の家格であったか確認できない。

② 2010年1月9日 (土) 03:15(UTC) ③節項目:越後長岡藩主牧野氏の支藩(389行目) ④支藩概説部に不適当な記述。野口氏は与板藩で記述すれば良く、削除が至当かと。--故城一片之月 2010年1月9日 (土) 03:56(UTC)

⑤議論:

削除同意。--今泉総一郎 2010年1月9日 (土) 16:52 (UTC) 牛久保以来の家柄でないと、家老には支藩であっても、家禄にかかわらず、就任することは、難しかったということを、どこかに記述を移して、残したほうが良いのではないかと思います。牧野家中には、そのような雰囲気か不文律があったのだと思います。三根山永代家老(神戸、倉地、山本) 与板初期の家老(牧野平四郎、加藤、木俣)は、いずれも牛久保譜代です。[返信]

今泉さんのコメントを原則了承し、記述に工夫を試みます。但し所感として、牧野氏家臣の「譜代」の定義は松平氏(徳川氏)よりも不明確のため、牛久保以来譜代のみを重視していたかは断言できません(倉地氏は西三河出身・木俣氏は甲斐武田家中出身の可能性あるのでは?)。
すなわち、「諸士由緒記」を見る限り、三州富永での高名・高天神城高名・大坂の陣高名・元和4年長岡御打入御供・高田城御受取御供などが特記され筋目の要素として重視されていたように思われ、この中には永禄4年牛久保城の戦いでの真木氏・稲垣氏等の勲功や永禄8~9年における徳川氏和睦での功績も含まれると考えられ、このように牧野家臣団の譜代の構造が単純では無かった可能性を指摘しておきます(2次資料による裏付けが現在無いので書きませんが)。1週間位は他の方の御意見を待ってのち処理します。--故城一片之月 2010年1月10日 (日) 03:45 (UTC)[返信]
(処置報告)①の部分の全削除。なお、本ページの支藩節の概説部に支藩老臣の各論とも言える記述を設けるのはやはり不適当です。「牛久保以来譜代」が支藩老臣の就任要件であったかどうかは、論拠となる出典の明示が可能ならば、該当する各支藩の家臣団の項目に記述することが望ましいです。--故城一片之月 2010年1月22日 (金) 14:16 (UTC)[返信]

藩主牧野氏の節の冗長部の整理について[編集]

東三河国人領主であった牧野氏真木(槙)氏岩瀬氏、野瀬氏らと共同して、徳川家康の祖父である松平清康の時代(異に高祖父・松平長親の時代からとも)から、家康に降伏して許されるまで、数度となく合戦を繰り返し、徳川氏(松平氏)の三河平定を拒むため駿河国遠江国の戦国大名、今川氏の勢力として長く抵抗をしていた。この歴史を描いた軍記物として牛窪記牛窪密談記などがあるが、いずれも江戸時代の著作である。

その後、牧野氏は、大坂夏の陣の殊功で加増されて、越後長岡藩主となったといわれるが、牧野氏は、駿河譜代であるが、安土・桃山時代の前期、徳川氏の国衆と呼ばれ、譜代の扱いを受けられない時期があった。江戸時代に作成された家譜などには、徳川氏(松平氏)との軋轢をいかに緩やかに記述するかの苦心の痕がみられる。

②2010年1月9日 (土) 09:49(UTC)、 ③節項目:藩主・牧野氏(24行目)、 ④三河牧野氏牛久保六騎または先法家の各家のページ等で既に説明されている内容を重ねて書く必要性は薄いと思われ、それぞれのページの参照で用は足りると思います。削除および該当ページへの振り分け希望。--故城一片之月 2010年1月9日 (土) 10:05 (UTC)[返信]

⑤議論:

①の前段は削除同意。①の後段は、歴史知識の乏しい人は、家康の三河以来の大名・旗本は父祖連綿と、徳川・松平に臣従して苦楽を共にしてきたと、誤解していることが、極めて多いため、前後の文章がおかしくならないように、改編して残すことを希望。そのほか、三河牧野氏牛久保六騎または先法家の各家のページ等で既に説明されている内容は削除に同意。--今泉総一郎 2010年1月9日 (土) 16:44 (UTC)[返信]

藩主牧野氏が三河時代(成定まで)に今川方として徳川氏と敵対していたことは一言入れるようにしてみます。処理は1週間位おいてのちに。--故城一片之月 2010年1月10日 (日) 04:14 (UTC)[返信]
(処置終了の報告)特に異論が無いので処置しました。なお、本文には三河牧野氏へのリンクがついており、リンク先には①の省略内容にほぼ相当する記述があるので、上記の加筆にとどめ、あとは全て省略としました。(以上)--故城一片之月 2010年1月22日 (金) 13:59 (UTC)[返信]

"与板(與板)藩→小諸藩" 節の重複記述の省略[編集]

与板(與板)藩(よいたはん)は、1634年、牧野康成が越後長岡藩の支藩として1万石をもって立藩した。与板侯初代の康成は、与板に領地をたまわってから、在所の陣屋に23年間、移らなかった。なお正確には、与板藩ではなく與板藩と書く。3代目の康重が、5代将軍の徳川綱吉と従兄弟になったため、表高15,000石(内高3万石)に加増されて城持ち大名となり信濃国小諸に転封した。

②未移動。

③節項目:与板(與板)藩→小諸藩

④、①に掲げた文頭部分(3行分程度)を残し(「詳しくはリンクの各ページを参照」と付記し)、それ以後の既述部分は省略し、記述されてない部分が有れば、与板藩小諸藩それぞれのページに補筆することの提案。以後、「越後長岡藩」には与板(與板)藩・小諸藩の記事は原則的に加筆しない(それぞれの既存ページに記述する)ことの提案。--故城一片之月 2010年1月18日 (月) 17:50 (UTC)[返信]

⑤議論: 節項目建ての都合上、下になってしまいましたが、本日まで今泉総一郎さんの賛成意見&提案以外に、意見も異論も無いようなので、支藩の"与板(與板)藩→小諸藩" 節の重複記述は、省略(記述されてない部分が有れば、与板藩小諸藩それぞれのページに一部転記による補筆)で決定とします。なお、今泉さんの意見を尊重して、項目名を残しリンク誘導文を設定します。--故城一片之月 2010年1月29日 (金) 15:11 (UTC)[返信]

三根山藩と、長岡藩の記事分割[編集]

それを言うならば、まず三根山藩と、長岡藩の記事分割が先かと思います。三根山と小諸(与板)は完全な長岡支藩ということで、同じページに解説が存在する根拠があると考えます。 なお上記の故城一片之月さんの提案に反対はしません。

与板御三家の神戸、倉地の出自は、判明しているのですが、山本の出自がわからないので、三根山藩の家臣団の記事が作れないで、欲求不満になっています。どなたかご存知ありませんか?。長岡家老の山本氏の庶子だと推察はされます。200石級なので長岡家老山本氏の庶流だとすれば、長岡山本庶流の中では、かなり上のほうですね。

三根山藩の家臣団の記事ができれば、長岡、小諸、三根山で、バランスがとれた編集ができると思います。--今泉総一郎 2010年1月19日 (火) 17:03 (UTC) →新たな提案なので、項目名を付けました。--故城一片之月 2010年1月20日 (水) 15:19 (UTC)[返信]

  • (コメント)「三根山藩」の記事分割・転記の処置は順を追って実施されるべきと存じます。与板藩・小諸藩への一部転記案件が先に提出されていますので、その処置後に。無論、「三根山藩の家臣団」ページの新規立項は内容が揃うのであれば、有ってしかるべきですが、更にその後の話でしょう。なお、本ページの支藩項目においては各支藩の存在提示程度にとどめ、各々へのリンク誘導で充分でしょう。--故城一片之月 2010年1月22日 (金) 14:34 (UTC)[返信]

2010年2月分[編集]

三根山藩と、長岡藩の記事分割の提案[編集]

  • これまで議論の経過からも、越後長岡藩の支藩の節項目である三根山藩の当ページからの分割・新規立項(リダイレクトページの転用による)を提案します。理由は1.全体の記述量の肥大化に伴い、サイズの大きい支藩の節は分割・独立が必要。2.「三根山藩」は江戸時代の藩の一つとして、分割・新規立項に足る特筆性を有する。3.現状の節項目「三根山藩」は既に充分な記述量があると推定できるから。--故城一片之月 2010年2月2日 (火) 14:31 (UTC)[返信]

議論:

軍制#番頭の節より移動の記述[編集]

  1. 移動部分:{知行200石台の家臣からの登用は少なく(例、鬼頭氏)、100石台の家臣が稀に番頭となったこともあった(例、萩原氏)}、{なお先法三家の当主の多くは、番頭職を経験しているが、槇内蔵介家は、家督相続前の部屋住み時代に、番頭職に就任したことがあった。}
  2. 本文位置:軍制#番頭の節(298行目以下)。
  3. 理由:根拠不明(独自研究の可能性・出典提示を求めます)、それに個々の家の記事は家臣団の項目で記述のほうが良い。--故城一片之月 2010年2月8日 (月) 18:22 (UTC):署名忘れたので追加--故城一片之月 2010年2月9日 (火) 14:20 (UTC)[返信]
  4. 議論:番頭職の出自の下限は、分限帳と由緒記を根拠に提示するのは、意義があると考えます。文部科学省検定済歴史教科書詳説日本史(山川出版)などの受験校向けの歴史教科書によると、江戸時代中期以降(または太平の世)となると、番方(軍事・警備)の役職は家格で、役方(行政職)の役職は能力で選ばれる傾向が強くなったという記述が存在します。つまりこれを当てはめると、番頭は無能でも家柄の高いものか、名誉職的な意味があったと考えられます。鬼頭氏については省略してもよいが、低禄の荻原氏と、家格の高い槇氏は残すべきだと考えます。--今泉総一郎 2010年2月8日 (月) 20:16 (UTC)[返信]

長岡藩では、歴史教科書にあるような傾向はなかったとお考えですか? 私は先法3家が番頭になっても奉行にならないなど特徴があらわれていると思います。話しはそれますが、長岡藩では実務能力の高い御奉行が、平時においては合議で実質的には藩政を担っていたのではないかと考えています。番頭には一定の筋目が必要は、慣行として存在したと考えます。本件について出典を求められると、直ちに出せないので、前述のような、まわりくどい説明をしているわけです。--今泉総一郎 2010年2月8日 (月) 20:32 (UTC)[返信]

  • 今泉総一郎さんの御意見に対して要点別のコメント&質問。
  1. 「文部科学省検定済歴史教科書詳説日本史(山川出版)等」の歴史教科書を基準とされていますが、教科書記述は一般論であって教科書記述を300藩以上もある諸藩の機構それぞれに当てはめるのは杓子定規になりませんか?利用者は教科書等の一般的記述に飽き足りないから、百科事典を検索するのであって、百科事典の記述が教科書を基準としなけばならないとすれば、百科事典の存在意義が薄れてしまうと私は思いますが、お考えはいかがでしょう。
  2. また、今泉さんが教科書で解説されていると言う「番方」・「役方」の説明は江戸幕府の職制そのものの解説ではないでしょうか?それとも諸藩のものでしょうか、どちらでしょう?
  3. 長岡藩において番頭は大組の各組の所属藩士と藩主の間の取次役で、『長岡の歴史 1』で今泉省三氏は「…諸務の取次ぎを行うことを任務とした。すなわち、藩主からの命を伝え、諸士から上への申達はすべて番頭を経由した。」と説明しており、これを見れば番頭は名誉な職ではあるが、有名無実の筈はないと思いませんか?世話役として番頭は無能では務まらないでしょう。
  4. 知行200石台の番頭は枚挙に暇がない程いるし、『御家中附』(1836年頃)などを見ると知行100石台の番頭も江戸後期にはボロボロ出てきますよ。移動部分の記述とは明らかに相違するので出典提示を求めています。
  5. 「先法三家が番頭になっても奉行にならない…」と今泉さんは仰られますが、たとえば『寛保分限帳』(1741年)をみると「高五百石・定府御奉行上座、能勢三郎右衛門」、「同四百五十石・御奉行、疋田水右衛門」と記述され、『文久・御家中総名順』でも同様の例が読み取れますが、何の資料によって言われているのでしょうか?「番頭の筋目」は有ったのかもしれませんが、具体的にどの様な条件か御存知なのでしょうか?何を見れば判るでしょうか、資料を教えて下されば有り難いです。
  6. 「低禄の荻原氏」について、残すべきとされますが、100石台で萩原氏は番頭に具体的に何時、御奉行役に就任したのか、私の手元資料では確認できませんので、恐縮ですが該当する分限帳・武鑑等を教えて下さい。以上よろしく、お返事・御意見を御願いします。--故城一片之月 2010年2月9日 (火) 13:17 (UTC)[返信]

了承しました。細かい点では荻原氏の記述は、私がしたものではないと思います。一般論として任命された番頭たる藩士の最下級の例は、あげておくべきだと考えますという意味でした。荻原氏は奉行になったとする記述は分限にありますね。先法三家が番頭になっても奉行にならない…は、私の誤りです。あくまで頑張るつもりもありませんが、先法3家は奉行になるより、番頭になったほうが多いようですね。江戸幕府とは異なり、長岡藩では有能な士を番方に配属していたことは当然あると思います。--今泉総一郎 2010年2月9日 (火) 17:57 (UTC)[返信]

脚注10によると、但し江戸時代後期から幕末にかけては、特に功績のあった用人・奉行なども寄会組に加えられるようになった。とあります。 特に功績のあった番頭は、いなかったか、極端に少なかったのでしょうね。--今泉総一郎 2010年2月9日 (火) 18:24 (UTC)[返信]

私の最後の質問に誤記があったので訂正します。萩原氏の奉行役就任は知っていましたが(『御家中附』)、番頭就任の資料は見当たらないのですが御存知ないでしょうか?
それから、該当の家が特定されている家老五家と先法家は例外として、越後長岡藩では藩の機構・役職の説明中に個別の家の記事を書かない方がよいと思います。各家の就任事例は越後長岡藩の家臣団の個別の家の記事に記述するように振り分けをしないと、重複によるロスや可読性の低下(記事の見通しの悪さ)が発生し、記事整理を繰り返すことになります。
萩原氏の場合はページ:越後長岡藩の家臣団には立項されていないので、「用人(御用番)」や「取次」に就任した家としての立項も一案と考えます。--故城一片之月 2010年2月10日 (水) 15:52 (UTC)[返信]

越後長岡藩では藩の機構・役職の説明中に個別の家の記事を書かない方がよいと思います。」には、私は了解しますが、新規参加者が現れた場合はまたお話合いか、採決になると思います。荻原氏については、もし私が書いたのであったとすれば、誤解であったと思います。萩原氏またはこれに近い家格の人を指して萩原氏としたのか、よく思い出してみます。--今泉総一郎 2010年2月10日 (水) 19:32 (UTC)[返信]

年男について[編集]

  • 今泉総一郎さんにより、「年男」で新規節項目が立っていますが、以下の疑問点があります。
  1. 「年男」は藩政機構の正規の役職でしょうか?
  2. そして、目次をみると「年男」が「藩風」や「職制」・「軍制」と同等の節項目になってますが適切でしょうか?
  3. 長岡藩において神戸氏の「年男」と「十二支の年男」の役割分担はどの様にされていたか御存知ですか?
  4. 「減石された以降の分限帳に神戸氏のみに年男との記述があるため、年男を連綿していたものとみられる」とありますが、長岡藩の現存する分限帳のうち、『寛文分限帳』に初めて、(山本勘右衛門組)「百五十五石・御年男・中間頭、神戸彦右衛門」と見えるが、同じ『寛文分限帳』には(同組)「百二十石・御年男・中間頭、伊東与左衛門」もあり、『諸士由緒記』には伊東道右衛門家も「此家代々年男」を仰せ付けられた旨の記述があり、ウィキペディアの記事と矛盾しています。

以上の点について、今泉さんにお尋ね致します。--故城一片之月 2010年2月10日 (水) 16:42 (UTC)[返信]

伊東氏については、私の見落としです。お詫びいたします。神戸氏のみという記述は不適切です。「年男」と「十二支の年男」の詳細な分担は知りません。正月行事を仕切るのが、神戸氏の年男という意味だと思っています。--今泉総一郎 2010年2月10日 (水) 19:20 (UTC)[返信]

年男についての記述はあったほうがよいと思いますが、藩政機構の中に述べるのが適当でないと、お考えであれば、適宜、御移動ください。--今泉総一郎 2010年2月10日 (水) 19:22 (UTC)[返信]

  • 誤記訂正もなく掲載方針も定まらないので、該当節をこちらに移動し保留とします。

== 年男 == 毎年の十二支の年男のほか、先祖の勲功により神戸氏によって正月行事が取り仕切られた。【由緒記】によると神戸氏は、代々年男とされたが、その後に不調法があり、減石されたとある。しかし、減石された以降の分限帳に神戸氏のみに年男との記述があるため、年男を連綿していたものとみられる。

②2010年2月11日 (木) 16:42 (UTC)、③261行目、④未検証かつ編集方針未定のため。--故城一片之月 2010年2月11日 (木) 17:22 (UTC)[返信]

⑤議論:上記議論より継続中。但し、「年男」について、越後長岡藩の家臣団の記述において、神戸氏は既述であり、伊東氏についても本日、私が同ページに補記しました。--故城一片之月 2010年2月11日 (木) 17:22 (UTC)[返信]

(コメント)役高等をともなう正規の役職ではないものの、家中の行事における「御役目」ではあるので掲載に当たってはそれなりの工夫が必要と思います。例えば長岡藩の年中行事や恒例儀式の記述項目は現在存在していないので、その辺での記述検討も考えられます。但し、他の項目での整理が完了していないので新たな記述は急がなくても良いのではないでしょうか(家臣団には記述がありますし)。--故城一片之月 2010年2月11日 (木) 17:22 (UTC)[返信]

了解しました。--今泉総一郎 2010年2月11日 (木) 18:15 (UTC)[返信]

安政元年(1858年)には約142,700石あった。[編集]

本文中の「安政元年(1858年)には約142,700石あった。」という記述ですが年号と西暦が一致しておりません。--182.171.173.15 2013年7月3日 (水) 03:55 (UTC)[返信]

ノートから8年以上経過しておりますが、年号の確認ができません。石高は有識者・学者の著述では「越後の雄藩 長岡の繁栄」(長岡技術科学大学・高原美規准教授)があるのみ(年号の記載はなし)です。数字のみ残し(「要検証」継続)、年号はいったん削除したら如何でしょうか(多くのブログ記事で安政元年(1858年)が孫引きされています)。